春雷

七日

春煙

春が訪れようとしていた。


独特に香る春先の、新芽や花の香りは、霧雨に煙消されて湿っていた。


ノートの左側で、句点に引っ掛かったようにペン先が止まっている。

目は虚ろに、意識は遠く。

紙面の点線ではなく、視界一杯に広がる波紋のような輪の重なりを、ただただ見つめていた。


もやっとした視界にはっきりと、ペンで重ね塗りしたようにくっきりと、波紋が幾重にも重なって見える。

こんなものが見えるようになって、どれくらいたったか。


あの春先の霹靂以来。

かれこれこの模様とは13年の付き合いだ。


消えては生まれ、隣の波紋と重なって、池に砂利を投げ入れ続けているかのように、終わりがない。


そして、ひときわ大きく、波紋が広がった。

周りと重なることなく、大きくなる前にふぅっと消えた。


煙が溶けるような波紋の消えかたに、おや?と、朧気な違和感を感じた。


違和感の正体にたどり着く前に、誰かが肩を叩く。


浅かった息がすうっと深く入ってきて、意識が戻ってくるのと反対に、波紋は薄くなって消えた。


「講義終わったぞ。起きろ、春田」


落ちかけていた眼鏡をかけ直すと、学生はすでにまばらだった。


「ああ。わるい士郎、ノート…」

「見せてやるから、ほら、メシ行くぞ」

「うん。いや、今日はもう帰る」

「だめだ。飯食ってきたって嘘ついて食べないだろ。めんどくさくても、食堂で食べてけ」


脇に置いてあった僕のリュックを拾って、士郎は先に教室を出ていってしまった。


慌ててしまおうとしたボールペンを取り落とし、屈んだ拍子に筆箱をぶちまけながら、意識はまた朧気になって、視界に波紋を描いていく。


この時期になってくると、頭がボーッとしてしかたがない。

またこれも、13年の付き合いだ。


転がっていった消しゴムを横から差し出されて、思わず身を引いてしまった。

今の恥態を見られていたのかと思うと、溶けかけていた意識も少しは寄せ集まってまともな形になる。


「あり…が…」


床からにょっきっと生えた手が、早く受け取れと左右に揺れた。


「あー…あげる…よ」


それだけ絞り出すのが精一杯。

散らばった数本のペンとケースをポケットに突っこんで、慌てて士郎を追いかけた。


出遅れたせいで、食堂はほぼ満席だった。

「外で食べようか」

そのままうやむやにして帰れたらありがたい。

「いや、矢田に席取ってもらってる」

用意周到な男だ。

人波を抜けていく士郎の背が、人の群れから頭一つ分飛び出しているせいで、見失うこともできない。

「よっ!こっちこっち」

スマホをいじっていた茶髪が、人好きの良い笑顔で手を上げた。

「待たせて悪い」

「気にすんな。よう春田!今日も眠そうだな」

「今すぐ帰って寝たいよ」

「ダメだ。食ってから帰れ」

「士郎は春田のお母ちゃんだな。春田は荷物番な。何食う?」

「そば。あったかいの」

「トッピングは?」

「お揚げ」

小銭入れを預けると、矢田が少しにやっとした。

残念だが、中身はそば代と少しか入っていない。


券売機の列最後尾を探しに行った二人を見送るが、背中が見えなくなる前に、目が霞んで見失ってしまった。


春も、雷雲が近づいてきたときなんかもそうだが、このボーッと意識が薄れていく感じは、どうにかならないものか。

春先の雷の時なんて、外に出られたもんじゃない。


原因はわかってる。

七回目の春。僕の七歳の誕生日のことだった。


雷に打たれたことがある。

電圧、約二百万から十億ボルト。電流、約一千から二十万、時に五十万アンペア。

雷が人に落ちる、約一千万分の一の確立を、七歳の僕は確かに受け止めた。


実家が神社なだけあって、何か祭事があると家の表が賑やかになる。

その日もお田植え祭という祭り事があって、境内は参拝客で賑わっていた。


やけにお団子を食べさせられた記憶がある。

やがてワイワイと騒がしかった境内が皆一様に拝殿の中に入って行ったことで、一帯はシンと神妙な空気に包まれた。


じっとしていられない盛りだった春田は、勝手知ったる参道脇の砂利で遊んでいて、漏れ聞こえてくる慣れ親しんだ父親の祝詞を聞いていた。


やがて、拝殿の方からパン、パン、と二度、大きな柏手が鳴り、参拝客がぞろぞろと下りて来る。


いつの間にか晴れ間は暗雲に覆われていて、春先の暖かい香りの中に湿り気が混じり始めていた。


また賑やかになった境内で、輪に戻らずに砂利を探っていた僕に、父が「雨だよ」と手招きをした。


商店街の写真屋のおじさんも、セッティングしていた立派なカメラの乗った三脚を慌てて境内の軒下に避難させる。


他の参拝客も屋根の下に避難して、玉砂利で遊んでいた僕は母親に呼ばれてやっと顔を上げた。


参道脇の、まばらに芽吹いた大きなイチョウがざわりと揺れる。


 轟が鳴った。


その轟の中に、春田を呼ぶ声が聞こえた気がした。

父親がはっと空を見た。

春田も空を振り仰いだその瞬間、暗雲が瞬いて、雷鳴と共にさっと一筋、光が空を割る。


稲妻は少しいびつに曲がって側の大イチョウに落ち、側にいた春田へ飛んだ。


膨大なエネルギーは小さな体を通って地面に抜ける。

じりじりとの耳の中で、焼ける音が聞こえた。



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