第36話 「神の国はそこにある」

 礼一少年はその後、ぼんやりとした薄明かりの中で目を覚ました。


 その前に、すう、と意識に吹き込んだ空気の香りから、既にあの地獄からは解き放たれたことをすぐに理解した。

 しかしそれは、同時に、あの聖女がすぐそこにはいないことも示唆した。


 それ故に、礼一少年はすぐに瞳を開いたのだ。


 するとそこに見えたのは見知らぬ天井――というには見覚えがあるようなそれであった。毎日ではないにしろ、朝起きたときではないにしろ、とにかく既視感があった。


 そして、その既視感はベッドのそばにいたミヤシタの顔で最高潮となり――言うまでもないが、触れ幅そのまま、不快感になった。


 ……あの男がいるということは、どこなのかは言うまでもあるまい。


 彼は、冗句と侮辱を半々で入り混ぜて、大体のことの成り立ちと成り行きを説明した。

 例えば、礼一少年がヨハナを助けに行ったと聞いて、大方の戦闘が済んだ辺りで救出に行ったが「不運にも」無事だったとか、その二人よりも機体の方が回収が大変だったとか、そのためにかかった「鼻薬」の量は想像したくないとか、とにかくそんな話である。


「一つだけ、確認してもいいですか」


 礼一少年は、しばらくは、無茶を強いてきた体があまりに痛かったので、黙ってそのいつもの嫌みに甘んじていたのだが、それらが全て済んだ最後に質問しようとした。ミヤシタは不思議そうに、何だ、と答えた。


「ヨハナさんは、ちゃんと眠っていましたか」


 ミヤシタは鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしてから、鼻で笑った。


 それからそれは、魔力液タンクに引火しそれが誘爆するように、大きな笑いへ変化した。それから、その問いに答えずに、笑いそのまま、部屋から出て行ってしまった。


 その翌日、礼一少年は行き先も告げられぬまま、チャアタイの運転する車に乗せられてミヤシタ商会を出た。


 どうせ、骨が折れたわけでもないし、そもそもミヤシタ商会が面倒を見る義理もない――とミヤシタは言うのである。となれば車に乗せてもらえただけ温情というものだろう。


 確かに、礼一少年が怪我をしているのは、頭を強く打ってその皮膚が切れてしまったのと、以前からの腕の傷ぐらいのものだった。


 そして皮膚で思い出して、これもいい機会だ、と、礼一少年はチャアタイにどうして裸なのか聞いた。


 彼は困ったような顔を少しすると、「地元の風習だ」とだけ答えた。これはこれで礼一少年は反応に困ったが、実のところ、この質問は行き先を聞きたいのを自分で誤魔化すためだった。


 だから、礼一少年は、行き先さえ知らされぬまま、されるがままその車に乗っていた。


 何となく、どこに行くのかという確信があったからこそ、彼は聞かなかったのだ。そして、そこに何があるのか――いるのか、もだ。


 車は、わざとかどうかは分からないが幾度か寄り道をして、長い閑散とした道へたどり着いた。


 これは、あの天井よりも見覚えがある光景だ。


 何ヶ月も前は、一晩だけだがここで寝泊まりした。

 何ヶ月の間は、一回と言わずここを通ったものだ。

 何ヶ月の先も、一生をかけてここにいたいものだ。


 そんな穏やかな幻想は、車がその街道にある一つの寂れた建物の前で止まったことで、すっと目の前の光景へと定着してそこに貼りついた。


 ここがどこかは、よく知っている。強く刷り込まれている。


 チャアタイが目で到着したと伝える前に礼一少年は体の痛みも省みずに車から飛び出していた。


 それを見て、チャアタイは肩をすくめると、車を走らせてミヤシタ商会へ帰って行った。


 その車の音よりも早く、礼一少年は礼拝堂だか何だか呼ばれる例の建物へ走っていた。


 そのドアは微かに開いている。

 相変わらず立て付けがよくないのだろうか。


 でもそんなことは彼にとってどうでもいい。彼は心臓を運動とは別の理由でも拍動させて、それを開けた。


 礼一少年よりも物理的には大きな背中が、礼一少年よりも心理的には小さい姿でそこにいた。


 跪いて、手を正面で――礼一少年からは背中が邪魔で見えないが――握りあわせている。そのたおやかな手を隠す黒い服の背中の上にあるのは彫刻のような金の髪。

 きっとその瞳は海よりも湖よりも蒼いのだろう。その確信が、彼にはあった。


 そして、彼女が音に気づいて振り返ることで、その確信は事実へ変わった。


 どんな芸術家だろうとそれを絵で表現することはできない均整を持った顔立ちが、どんな文学者だろうとそれを字で表現もできない均整を持った心立ちが、そこにはいた。


 そして、その人は、礼一少年を見て、泣きそうに、しかし笑いそうになっていた。


 そしてその結果、それらを全てごちゃ混ぜにした涙ぐんだ笑顔を浮かべることになった。


 そのとき、礼一少年は家に帰ってきたときの作法をようやく思い出して、そして言った。


「――ただいま、ヨハナさん」


「――お帰りなさい、レイイチさん」


 ――背後のステンドグラスが太陽光を通して光り輝いた。その逆光具合がまた程よくそれに色を与えて、それは一つの天国をも創出していた。

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転生少年機人剣闘活劇 コロシアム 柘榴亭払暁 @Futeikei

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