第35話 「【空白】」

「先生!」


 幸いにも、あの破壊の渦の中でもあの建物は無事だったようで、どこかが崩れた様子もない屋上に彼女は横たえさせられていた。


 破片が飛び散ったりもしただろうに――特にモイスヒェンとルメンシス皇帝軍との戦闘で――それでも何一つ怪我と呼べるようなものが、少なくとも礼一少年が一見した限りでは見つからなかった。神のご加護か、などと、神を本気では信じていない礼一少年すらそう思った。


 だが、服の上からでも分かるほどには表面化しないだけで実際には内臓や脳がやられていた、などということがある。


 礼一少年はここで慎重になって、彼女を不意に動かしてかえって怪我をさせたり、命を脅かすことになったりしないよう、その胸が呼吸で上下に動いていることを見た上で鼻の前に手をかざして、本当に息をしているのか確認した。


 すると、彼女は確かにその目こそ閉じていたが、しっかりと生きていた。


 礼一少年はふう、と安堵のため息を吐いた。体の疲労が一気に噴き上がるような気がした。


 戦いが終わったのだという感覚が――ただ、あの最初の巨人を倒したときのようなそれではなく、もっと大きくもっと強くどうしようもないものを乗り越えたような感覚があった。


 あのときとは違う。


 彼女がここにいる。

 彼女はここにいる。


 いてくれている。生きている。


 礼一少年にとって、それほど大事なことはなかった。


 思わず笑ってしまうと、ある一つの目玉が彼を後ろから見ているように礼一少年には感じられたが、それは非難ではなく微笑みに近いもののようにも思われた。そしてそれはすうっと透き通って消えた。


 そのとき、ヨハナの睫毛がピクリと動いたような気がした。例の幻覚をかき消したのは体の痛みや何らかの音といったものではなくむしろこれだ。


 彼女の煤に汚れた頬は一瞬苦しそうに動いたが、それが錯覚だと分かったのか、それを元に戻し、代わりに彼女の青い瞳にゆっくり青い空を見るよう促した。


 礼一少年はその開花をかぶりつくようにマジマジと見ていた。何らかの感動が彼の瞳に涙を呼び起こした。


 彼女は、錯覚でもなければ幻覚でもなく、今、本当に生きている――しかし、礼一少年はすぐに、鼻を突いた匂いに顔を上げるよう促された。


 ここだけが、無事であった。

 彼女と彼だけが、無事であった。


 立ち上る炎に崩れ落ちた建物。

 無形と化した人形たち。


 元人間の吐き出すあらゆる液体をルメンシスの伝統的な石畳が吸い取ろうとしているがあまりに力不足だ。


 泣きじゃくる子供と、物言わぬ親――いや、そうだったモノ。


 あるいはその逆。


 言い方を変えれば、あらゆるところで「だった」と「である」が重なっているようであった。


 その一方で道の端では、堪えきれず吐瀉物でそこに色を加えている人もいて、出し切ったのか色を失った顔をしている。


 礼一少年は、その近景である蒼穹にも劣らない開きかかった彼女の瞳を、そしてその背景の純白純潔の白い彼女の肌を、さらにその遠景の太陽の如く光り輝く黄金の彼女の長髪をもう一度見た。つまり、ぎゅう、と心が締め付けられたのだ。


 これは真っ白なキャンバスだ。


 そこに、赤色も黒色も黄色も茶色も灰色も似合うはずがない。


 それを無理に塗り込めば――塗り込まれてしまえば、つまりこれはくすむ。


 いや、くすむだけならまだいい。


 その無造作で無遠慮で無秩序な彩色がキャンバスそのものに何ももたらさないなら、まだいい(それでも許されざることには変わらないが)。それそのものが壊れてしまわなければ――。


 だが彼女は細い。脆い。弱い。


 礼一少年はいつかの夜の腕を思い出した。


 それは、年頃の男としては太くはない礼一少年のそれにも及ぶべくもなかった。下手すれば、孤児たちと同等かもしれない。大人でありながら、子供と同様に弱い。


 だが、その分美しい。


 美醜の概念を大きく逸脱してしまっているほど、つまり相対的評価など不可能なほど、それは美しい。


 言わば、自然が生産した一つの繊細な芸術。

 言わば、神々が創作した一つの巧妙な美学。

 言わば、宇宙が造形した一つの精密な妙技。


 それがヨハナ・フェーゲラインである。故に色は似合わず、力が加われば――簡単に崩れてしまう。


 駄目だ。

 駄目だ。

 駄目だ、駄目だ。駄目だ!


 彼女は、これを見てはいけない。

 この阿鼻叫喚を見てはいけない。


 それは、僕の役目だ。


 汚れるのも、汚すのも、汚されるのも、全部僕の使命だ。この世の全てを犠牲にしても彼女を白のままにするのが僕の職務だ。


「――レイイチさん? レイイチさん……ですか?」


 礼一少年は、彼女の瞳が彼を捉えていることにそのときようやく気がついたのだった。ザワザワと毛が逆立つような感覚があった。視界が、地面が、世界が――グラグラと揺れているような錯覚が生まれた。


「目を、閉じてください」


「レイイチさん? ……! 血だらけじゃないですか! どうしたん……ですか? あれ? ――無事だったん……ですか?」


「先生」


「……ここは、どこですか? よく覚えていません。何でこんなところに、何ですあれは?」


「――ヨハナさん!」


 身を起こしかけたヨハナに覆い被さるようにして、礼一少年はそれを制した。そして、シルクのような頬に触れた。すると、べっとりと、赤色がそこについてしまった。


「よかった、無事で――あなたが生きていてよかった。僕はそう思っています。だから、死のうとなんてしないでください。つまり何も見てはいけません。目を閉じていてください。この傷は、その、転んだだけなんです。大したことじゃないんです。何もないんです。すぐに治ります。すぐによくなります。僕が何とかします。だから何もしようとしないでください。放っておいてください。お願いします、お願いします……」


 礼一少年はどさり、と彼女の胸に倒れ込んだ。


 おかしい。


 急に、右腕が酷く重い。


 頭が回らない。


 目がチカチカする。


 いや、最早チカチカすらしない。


 血が流れすぎたのか、単に疲れすぎたのか、とにかく体がだるかった。底なし沼の中に落ちていくような感覚。


 瞼は、もう持ち上がらない。そして落ちる。


「レイイチさん」


 これは死ではないようだとヨハナは理解していた。


 外で走り回って帰ってきた子供がたまにこういう眠り方をすることがあるのをヨハナは経験から知っていた。


 要するに、彼は酷く疲れているらしいのだ。


 そして、多分、おそらくではあるけれど、自分のために自分の代わりに何かをしてくれたらしい、と彼女は思っていた。


 だからヨハナは、そっとその頭を受け入れ、しかし傷に触れないよう、優しく撫でた。


 彼の保護者として、そうするのが妥当であると考えていた。


 慈悲の心を信仰するものとして、これが当然だと思っていた。


 彼女は、その博き愛のために生きている。


「――お休みなさい」


 そう言って、彼女は目をつむったまま子守歌を歌い出した。そして、ヨハナはその内、自分も寝てしまった。

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