2-5
□
「馬野が? ……ふうん、そっか」
報告を受けて、
馬野は幹部として動けるほどの実力はなかったが、それなりに使える男ではあったのだけれど。香椎派の氷雨という男を知らない者は保科派にはいない。香椎の先代当主のもと活躍していたあの男を相手にするとは、実力を勘違いしていたのだろう。
「あの、沙霧様」
報告に来た男が、おずおずと口を開く。
「なに」
「先日新たに香椎に加入した少年の身辺調査が完了したので、資料をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
男から資料を受け取り、ざっと目を通す。ある程度予想していた内容ではあったが、やはり溜息をつきたくなるようなものだった。
「彼が香椎と通じている可能性は……」
「ない。僕はあいつを信用してるからね。でもこのことはあいつには知らせないほうがいいだろう」
「いずれは知ってしまうのでは」
「だろうね。けど……今しばらくは」
「……わかりました」
男が頭を下げてから部屋を退出して、一人になった沙霧は椅子に座って改めて資料を眺めた。
香椎の現当主は自分より二つ年下、クラスは違うが彼と同じ学校、学年だ。それでも派閥のルールを二人ともしっかりと把握しているからこれまで関わることはなかったが、まさか彼に近しい人間が香椎に入るとは。
「どうしたものかな」
資料を机にしまい、頬杖をつく。と、ドアをノックする音。「……誰?」また何かあったのだろうか、これ以上の面倒は勘弁してほしいものだと頬杖をついていた手に額を押し付ける。
「俺です」
先ほど話題に出した者の声に、沙霧は顔を上げた。資料を間違いなくしまってあることを素早く確認する。
「入っていい。どうかした?」
「いや……最近仕事が忙しかったから、様子を見に来ただけ」
「僕は大丈夫だ、お前こそ疲れてるんじゃないか。任せてばかりで悪いな」
「これくらいなんともない。夏休みに入ったらもっと働いてやるよ」
頼もしい部下を持ったものだと、沙霧は小さく笑みを浮かべる。
「ありがとう。でも、休み前にテストがあるんだろう? 赤点とって補習とかはやめてくれよ」
そう言うと、彼は
「頭のいい友人がいるから大丈夫、たぶん。じゃ、そろそろ帰るよ」
「ああ。……なあ、雅臣」
「ん?」
その頭のいい友人が香椎に入ったりしたら、どうする? そんな馬鹿げた質問を投げそうになったが、やめた。
「いや……なんでもない。もう暗くなる、帰れよ」
「ん、そうする」
雅臣が退室したあと、静寂が降った自室で誰に言うでもなく口を開いた。
「雅臣、お前は……」
裏切ったりしないよな。あの日の誓いを反故にするなんてことはないよな。
□
「これは……」
「ひでぇな」
「酷いですね」
手にした数枚の紙を見つめ、思わず苦笑いしてしまう。隣で利津がため息をついて、向かいのソファに座る十岐も今日ばかりは辛口だ。
「香椎さん、勉強苦手だったんだ……?」
達規の手にあるのは結芽のテストだ。赤点がみっつ、見事なものだった。
十岐の隣に座る結芽は、むすっとした表情で唇をとがらせた。
「……だって」
「だってじゃないだろ」
厳しい態度をとる利津を結芽がにらむ。
「しょうがないでしょ、和解にむけて動くためにはまだ情報が少ないんだもん」
「だからって追試や補習になってたら余計に時間がなくなるだろうが」
「う……」
さすがに今回は結芽をかばってやることもできない。達規はどうしようかと十岐に目配せしてみるものの、十岐は首を横に振る。保護者組は勉強に厳しいらしい。
「で、でもでも! せめて争いが始まった原因に関する資料がないと、和解なんて無理じゃない!」
「それはその通りだが、学業をないがしろにしていい理由にはならねーよ」
再び言い返すことができなくなった結芽を見て、今日は帰ったほうがいいだろうかとすら思ってしまう。
「……ん?」
今、なんだかすごいことを聞いたような気がして、達規はそろそろと手をあげた。
「あのー……」
「なんだ達規」
「派閥間が争うことになった原因って……わかってないんですか」
そう訊ねた瞬間、香椎派の三人は呆けたように目を見開いた。
「言ってなかったっけ?」
結芽が首を傾げるのを見て、達規まで脱力してしまいそうになる。
聞いてないよ、原因がわからないとかまじですか。
「両親が和解を目指すようになるまでは、互いが滅ぼそうと激しい争いを繰り広げていたものだから。たぶんそのせいで、資料が失われちゃったみたいなのよね」
原因がわからないのに争うものなのかと問いかけて、思い出す。先日、香椎派の人間がどんな気持ちで和解を目指しているのかと考えたばかりだったじゃないか。
資料が失われたところで、憎しみが消えるわけではない。憎しみ合うようになった原因がわからなくても、派閥の人間は互いに身近な人を失っている。まさに負の連鎖で現代まで続いてきたのだ。
「今の香椎派が和解を目指していても、昔の香椎派は保科派と何も変わらなかったのよ。今の香椎だって……必要があれば、保科の人間を殺してるんだし」
「そっか……じゃあ、原因を探さないとね」
「でしょ?」
結芽は微笑んで、立ち上がる。
「だから、ちょっとくらい勉強できなかったところでしょうがないのよ。私ちょっと調べ物を――」
「おいこら待て」
そのままリビングから出て行こうとした結芽の頭を、利津がわし掴みにした。そのまま顔だけをこちらへと向ける。
「達規」
「は、はい」
「お前は勉強できたよな」
「うーんまあ、それなりに……?」
「こいつに勉強を教えてやれ。とりあえず追試と……あと夏休みも、特訓のついででいいから頼む」
「構いませんけど……」
自分でいいのだろうか。
達規が教えることで結芽のやる気がさらになくなってしまわないかを心配したが、しかし頭から利津の手をはがして振り返った結芽の目は嬉しそうに輝いてた。予想外の反応に達規はたじろぐ。
「じゃあ、夏休み合宿しましょう!」
両手でこぶしを作って意気揚々とそう言い放った結芽。
「ほら、達規はこのまえうちで晩ご飯たべられなかったでしょ? みんなでごはん食べよ!」
「……遊びじゃないんだぞ」
苦々しく言った利津に、結芽が手を合わせて頼み込む。
「わかってるって。ね、お願いっ」
わずかな沈黙のなかで結芽を見つめてから、利津は大袈裟に息をはいた。
「……追試クリアしたらな。あと仕事もあるからどっか泊まりにいくのは無理、香椎家でやること」
「やったぁ、さすが利津! ありがと!」
そんな微笑ましいやりとりを眺めながら、達規の頭の中は大変なことになっていた。
合宿。つまり、結芽とひとつ屋根の下で過ごすわけだ。小中のキャンプや修学旅行以外で家族以外の異性と同じ屋根の下で寝たことのない達規にとってはとんでもないイベントである。
「達規くん」
それまで静観していた十岐が、ふいに口を開いた。見ると、どこか威圧感のある笑顔を浮かべている。
「わかっているとは思いますが、私や利津さんも泊まりますからね」
「も、もちろんわかっています……」
こっそりと浮かれていた気持ちが、一気にしぼんだ。保護者組、こわい。
resist fate-転義の刻- 岩原みお @mio_iwahara
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