閏4話 元禄十五年十二月十四日

 暦の話をもう少し。


 出オチ感があるが、所謂「忠臣蔵」の討入の日付について蘊蓄を傾けてみたい。

 既に第1話に書いているのだが(*1)、赤穂浪士の討入の日は、元禄十五年十二月十四日とされており、これをグレゴリオ暦に直せば1703年1月30日(火曜日)である。HuTimeの暦変換サービス(*2)を使っても、この日付が得られる。

 現在も赤穂義士祭は毎年12月14日に東京の泉岳寺で行われている(*3)が、これが1月30日ではないのは、閏1話に書いた通り(*4)、「明治五年太政官布告第三百三十七号」の「諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日ニ相当シ施行可致事」との定めに従っているものと考えられる。


 ああ良かった良かった、で終わればよかったのだが、ここからが本題。


 さて、赤穂浪士たちが討入の日に選んだ十四日、彼らは本所にある隠れ家三箇所に分散して集合し、〝七ツ過〟に吉良邸に押し入ったと記録されている。七ツというのは当時の時間の数え方で、の刻(正子しょうしごろ)とうまの刻(正午ころ)を九ツとして一刻毎に八ツ、七ツ……と減っていく時間の数え方。ということで、夜の七ツ過ぎというのであれば現在の感覚では午前4時ころということになろうか。

 一刻ばかりの戦闘を経て、赤穂浪士は見事本懐を果たし、主仇吉良上野介の首を掲げて本所から芝まで行進し、十五日五ツ過ぎ(午前8時ころ)に泉岳寺に到着したと諸々に記載されている。


 はて? 十四日に集まって午前4時に討ち入りして翌日まで行軍するとは、こは如何に……。


 そう。実は集合したのは十四日なのだが、実際に討入をしたのは日が変わって十五日の出来事だったのだ。

 江戸時代、天文学や暦学の業界では日付の変わり目は正子とされ、暦の作成などはそれで行われていたが、一方で一般社会の方では明六つ、つまり夜明けを以って日が変わると意識されていた(*5)。正確な時計が普及していたわけでもない時代、夜明けを区切りとするのは体感に整合するものだったのだろう。かくして当時の文献でも日の出前は前日として扱われたものが多々あり、現代人が当時の史料を読む場合には注意が必要になる。

 奇妙な現代的な書き方をするならば、元禄十五年十二月十四日の28時過ぎに討入をした、という書き方にでもなるだろうか。(まるで放送局のようだが)


 さて、そうなるとグレゴリオ暦との変換もまた同様に、1703年1月30日ではなく、31日になるのではないか?

 全くその通りで、現代的な暦・時間感覚を適用するのであれば1月31日と書くべきなのだろう。いや、そもそも時差は考えなくても良いのか……?と考えていくと、和暦と西暦の変換とは実に悩ましいものなのである。

 元禄十五年十二月十四日から1703年1月31日(水曜日)を導くまでの過程は以上のように複雑であり、各事情を事細かに理解してる必要があり、暦や歴史の専門知識がない人にとっては説明だけでこれだけの文章を読まされることになるわけである。


*1

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886223897/episodes/1177354054886223913


*2

http://www.hutime.jp/basicdata/calendar/form.html


*3

http://www.sengakuji.or.jp/event/akougishisai.html


*4

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886223897/episodes/1177354054887001652


*5

https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CDD7C1C72F1C6FCA4C8A4CFA1A92F1C6FCA4CEBBCFA4DEA4EA.html

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