閏3話 元文四年六月一九日

 暦の話をもう少し。


 先日、NHKのBS1で放映されていた「ゴンザ~世界最初の露日辞典を作った男~」(*1)を視聴していたら、番組中で千葉県鴨川市にある「ロシア人上陸の地」の碑が映されて、その中に「1739年(元文4年)の6月19日」という文字列が見えた。

 見えてしまった。

 見えてしまった以上、確かめざるを得ないのが人としての悲しい習性というやつである。


 さて、この元文四年のロシア船来航は俗に「元文の黒船」などと呼ばれ、日本側は徳川吉宗の治世であり、使用されていた暦は何度も登場している渋川春海によって編まれた貞享暦である。一方の帝政ロシアは女帝アンナ・イヴァノヴナの治世であり、使用していた暦はユリウス暦であった。

 来航したロシア人一行は〝ベーリング海峡〟に名を残すヴィトゥス・ベーリングを総隊長とし、日本隊長マルティン・ペトロヴィッチ・シュパンベルグに率いられた探検隊の船団だった。この船団は仙台藩とも接触しているが、房総半島まで南下して来たのはイングランド出身(*2)のウィリアム・ウォルトン(Вильям Вальтон / William Walton)率いる聖者ガヴリエル号であったとされる。単独行となったのは霧により船団からはぐれた果てのことであったとされるが、異説にはウォルトンの独断専行であったともされる。

 ともあれ、幕府直轄地であった安房国長狭郡天津村布入に異国人が上陸したのは、代官原新六郎から勘定所への報告によれば元文四年五月二十五日のことらしい。これをユリウス暦に変換すると、1739年6月19日という日付が得られる。石碑の日付は恐らくこれであろう。ちなみにグレゴリオ暦では同年6月30日となる。エスフィリ・ヤコヴレヴナ・ファインベルグによってまとめられたロシア側の資料でも、ウォルトンは6月18日に陸地の沖合に船を投錨させ、翌日ボートを出して上陸したとなっており、両者の日付に食い違いはないようである。

(余談だが、この時上陸した異国人が数珠(ビーズ)やら銀やらを水の対価として渡しており、これらの品が後に長崎のオランダ商館へ照会され、やって来たのがロシア人であることが判明したという次第であった)


 かくして、当該の碑の日付はユリウス暦に基づいており、参考として和暦(貞享暦)の年号を付記したものであると判断される。

 ああ、すっきりした。


 しかし解せないのは、石碑には使用している暦法について何の断わり書きも見られなかったことである。もしもこの日付がユリウス暦であると気づかずに、うっかりグレゴリオ暦だと思いこんで変換してしまったら、元文四年五月十四日という日付を得てしまうことだろう。また、歴史の教科書に見れられる西暦年併記だと勘違いした場合、グレゴリオ暦で7月の出来事だと間違ってしまったかも知れない。

 このような史跡の碑文に日付を刻む場合は、もう少し容易に暦法を特定できるよう慎重な記述が望ましいのではないかと思う次第。


*1 2018年10月29日放送。なお、番組の制作は大分県のケーブルテレビ局BTV。

http://portal.btvm.ne.jp/award?doing_wp_cron=1542444005.7426929473876953125000


*2 当時は1707年にイングランドとスコットランドが合併していたので、国としてはグレートブリテン王国になる。なお、アイルランドはまだ編入されていない。

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