第3話

二人で逃げよう 3


「夜に来れたらいいのにね」

誰ともなくそんな言葉を言い出した。家や学校がある所よりもずっと空に近い場所だったから。大空にはばたけないことは知っていた。自分の背中に羽がないことも分かっていたし、そんな一昔前に流行った歌みたいなことは思いはしなかった。だけど、空は、そこは今までどこで見たよりも近くにあって、霞んでいない真っ青な空はとても美しかったこと、今も瞼を閉じればそこにある。

春は、桜。夏は、海。冬は、白銀の世界。そして、秋は、山の中を歩いてたどり着いた開けた場所。しらびそ峠から見た青空を、連想する。人の作った摩天楼と整えられて生きる木々たちのいる今のこの世界は、色褪せて見えるほど、あの頃の世界はごく彩色に彩られている気がする。

「夜空の星は、わたし、オリオン座しか知らないんだ。でも、すぐに見つける自信はあるよ」

君は、僕の隣でそう言った。君なら見つけ出せるだろう。無数の星々の中から一つの星座を。無数の人々の中から、迷わず僕を見つけ出してくれるだろう。そんな気がした。きっと僕は願っているのだろう。そうあって欲しいと。

あの鳥の名は。

木々たちに寄り添って羽を休める鳥が、木々を離れはばたいた。名前も知らない鳥だ。僕たちの頭上を旋回し、太陽に差し掛かって光を一瞬遮った。誰もあの問いに答えるものはいなかった。僕たちは無知で、ただありのままの現実を本当だと信じて成り行きに任せた。

「ちひろちゃんこんにちは」

明るい声で走り寄って来たのは、クラスの女子たちだ。

「ちひろちゃん」

次から次へとちひろに向かって走り寄ってくる。

「ちひろさん」

後から、クラスの男子たちも歩きながら寄ってくる。その男子の中に一人、あかつきがいた。

あかつきは、一人、青白い顔をしていた。憔悴しきった顔だった。ほんの一瞬だったが、僕は見た。今にもこぼれそうな涙を、あかつきの瞳に。しかし、奴らはそのあかつきを知ってか知らずか、いたずらにあかつきの頭の赤白帽を取った。

「見てみろよ。こいつハゲだぜ」

嫌な笑顔をその顔に浮かべ、男子はあかつきの周りを踊って見せた。笑い声が起きる。クラスの男子も女子も関係なく、これ以上ない見世物を見たかのように楽しそうに群衆が湧き上がる。女子がちひろの肩に手をやりささやく。

「ちひろちゃん、見て。あの頭笑っちゃうよね」

ちひろは、あかつきを見つめながら無表情だ。

「ちひろちゃん、見てる」

ちひろは、女子の手を払いのけ、男子の前へ出た。

「最低だね」

その言葉でクラス全体が一瞬のうちに凍りついた。この言葉は、この小さな世界においてあってはいけない言葉なのだ。それは、目覚めのまじないの言葉。気づいてはいけないことに気づいてしまう秘密のキーワード。誰もがこの子とそのクラスの行く末を案じた。

ちひろは、自分の被っている赤白帽に手をかけ、躊躇うことなく続ける。

「みんな、わたしも笑っているんだね」

クラスの者たちは皆目を見張った。ちひろの頭に釘付けになった。

「あ」

声にならない声が、どこからともなく漏れてくる。

「この頭がおかしいなら、みんなの頭は何なの。髪の毛があるってだけで髪の毛がない者を笑えるなんて、何の権利があって言っているの。あかっちゃんを笑うってことは、わたしの頭も笑っているんだよね」

沈黙が辺りを包む。ちひろは、果てしない空を仰いで大きく息を吸った。

「馬鹿じゃないの。あかっちゃんはね、わたしのためにその頭にしてくれたの。わたし一人じゃ心細いだろうって、優しい気持ちで、わたしと同じ頭にしてくれたの。ちょっと考えればわかるよね。あかっちゃんは、優しい子だよ。そんな子を馬鹿にして笑えるなんて」

シン…と静まり返る場。冷たくて涼しい風がちひろとクラスの連中との間にて吹いた。そして、今まであかつきを笑っていた奴らが誰ともなく口を開く。

「ごめんなさい」

しかし、そのごめんなさいは、あかつきに向けられたものではない。奴らはちひろに向かってその言葉を言ったのだ。あかつきは、連中に紛れて一人辛辣な言葉を言いそうな表情をしている。奴らがちひろに媚びて取り込もうとしているのは明白だった。バカな連中、と言いたげにあかつきは嘲笑を浮かべた。

あかつきの高笑いで振り向いたクラスの奴らが釘付けになったのは、あかつきの行動だ。

「ウケる。何小綺麗なことほざいてるの」

あかつきは、奴らの視線を受けながらちひろの元に行き、ちひろの肩に手をおいて寄りかかる。

「私がわざわざクラスのたった一人のために髪の毛を削ぎ落とすわけないでしょう」

ちひろと視線があったあかつきは、ちひろから離れて大きく手を広げた。

「ちひろが可哀想だからなんて理由で、私は髪の毛を削ぎ落とすことなんてしないよ。そんな偽善者、あんたらじゃないのだから。私はね、笑いたかったの。あんたたちが必死で守っているつまらないものをね」

あかつきは、心のままに本心を喋っているようだった。偽りない言葉を。しかし、僕は見落としていたのかもしれない。彼女が優しさをそのまま素直にあらわす者ではないということ。強がりや嘘やワガママで自分を偽装することもあることを。それが本当なのか、否か、なんてことにあまり意味はない。大事なのは、あかつきが何かを演じて、あいつらの守るものとは別次元において、何かを守っているといういことだ。


「あかつきさん、君は、何でそんなことを言うんだ」

僕は、彼女の姿が見えなかった。ただ、激昂が身体中を駆け巡り、その感情で自分の体を動かした。

周りは、凍りついていた。あかつきの放った言葉は、小さな箱庭をツンドラ地帯へと変えている。その中で、一人、僕だけは燃えるような感情のまま彼女の手をとった。

走り出した。彼女の手をとったまま、彼女のペースなんて御構い無しに、どこへ行くでもなく走り出した。

あかつきは最初驚いた表情を見せたが、クラスの連中の姿が遠ざかるほどに無表情になった。僕は振り向きざまに、あんな酷いことを聞いたちひろが、クラスの連中に囲まれる中、女子たちの労いの言葉に頷きながら頬を赤くして戸惑う表情を見せたのを見た。きっと、あかつきの悪口で慰められているのだろう。これで、君には居場所が

なくなったのだ。どうしてくれる。君のいうつまらないものが、君を傷つけているよ。

僕は、許せない。


走っていったのは、歩いてきた道とは反対の方向だ。深い谷底が続いている断崖絶壁の上にある見晴らしの良い展望台にたどり着いた。

君と僕は二人で息を吐きながら、しばし走ってきた鼓動の余韻を鎮めていた。最初に口を開いたのは僕だ。

「何で、あんなこと言わなきゃいけなかったんだ。ちひろさんは、君をかばってくれたんだ。なのに君は、ちひろさんを傷つけたんじゃないのか。あのままちひろさんの言ったようにしていたら、君は、クラスのみんなと仲良くできたかもしれないのに」

あかつきは、クラスの連中に見せた表情を僕にも向けた。

「笑わせないでよ。あんな人たちと仲良くなんて、私はごめんだわ」

その辛辣な言葉に似合う表情をしているあかつきに僕は二の句をつげなくなった。

「明王寺君、君こそいいの。私を連れ立ってあの場所を離れたら、あんたこそあいつらの仲間にはなれなくなる。私とつるんでいると良いことないよ」

そう言われて僕は深いため息をついた。深く深いため息だ。

するとあかつきは怯えた表情を一瞬見せた。「ため息」に何か彼女を責める意味があったのだろうか。あかつきは言った。

「明王寺君はいいよ。お父さんもお母さんもいて。聞いたけどいい家なんだってね。明王寺君の家は代々代議士の家柄だって。未来があって、家族がいて、これから友達もできるでしょう。そんな恵まれた人が私と一緒にいる理由なんてないよ」

僕は、先ほどからフツフツと沸く激情のままにあかつきに反論する。

「僕の家の先祖から代々政治家が出てきたことは父さんから聞いて知っている。だけど、それが何になると言うんだ。僕は、政治家にはならない。父さんが言ってくれたんだ。父さんが政治家だからって同じ道を辿らなくてもいいって。君は自由で、無限の可能性があって、どこまでだっていけるし、何にでもなれると。僕が恵まれているのは、僕が選んできたからだ。だから君は君で選んできたんだ。独りで、悪口を言われて、髪の毛を切られて、嫌なめにあうことを。自分で行こうと思って行ったんだ。魑魅魍魎の世界へ」

言ってしまってからハッとした。あかつきの頬に流れる一筋の涙を見た。

沈黙が流れる。僕は初めて見るあかつきの涙に狼狽えている。この強がりな女の子でも、悲しむ気持ちに正直に涙が流れるのだと。あかつきは勢いよく腕で頬の涙を拭った。

「私が泣いたように見えるなら、このことは黙っておいて。私は人間じゃないの。涙は流さない」

何が人間じゃないのか僕にはわからなかった。だが、少し、この女の子が可愛く見えた。

あかつきにはこのことは話さない。きっと、泣いた自分が可愛いなんて不本意だろうから。

「ごめんなさい。やっぱり、君は選べなかった人なんだ。望んで傷つく人なんていないよな」

「いいの。その通りだよ。私、自分でこうしたんだよ。髪の毛も、あいつらに見せつけるために切ったの」

あかつきは、なんの前置きもなく僕の左手に触れた。僕は驚いて、一瞬自分の左手を見た。

僕の左手はあかつきの右手と繋がれた。その右手を腕から上に視線を上げていくと、あかつきの泣き出しそうな顔があった。

「あかつきさん、悲しいの」

「別に。でも、ちょっとだけこのままでいてよ。本当に悲しくなるから、もう、はなさないで」

森の木の小枝に止まっていた鳥が、枝を離れて飛び立った。深い谷底から旋回して、太陽にも届かんばかりに舞い上がった。鳥は、太陽の光を一瞬遮る。太陽と重なった翼を見て、ふと呟いた。

「あの鳥の名は」

彼女は「知らない」という代わりに首を振って見せる。山の木々に紛れ、僕たちはなんてちっぽけなんだろう。あの空に舞い上がったなら、あの小さな箱庭なんてどうでもいいくらい大きな世界が見えるだろう。枯れた葉が、谷底から吹いてくる風に乗ってからからと音をたてた。

「あれ、見て。ここって、大昔に隕石が落ちたところなんだね」

あかつきが左手で指差したのは、展望台に併設されている看板だ。

御池山隕石クレーターと書いてある。直径は 900m。2 万年から 3 万年前に小惑星が衝突してできたのだという。「隕石か。壮大な話だな」

そう呟くあかつきに、僕は首を傾げた。

「ソウダイって何」

「果てしない話だなってこと。この宇宙の何処かから旅してきた小惑星が、この地球に辿り着くのにどれほどの時間がいったのかな、とか思う。偶然なのか必然なのか、何処から来たのかもわからない流星がこの地球を辿り着く場所に選んだ。不思議だな。そして、その流星が辿り着いてから、ここは長い時間をかけて山の中になって、人間という生き物に御池山隕石クレーターと名付けられている。想像もつかない世界がそこにはある気がしたから、壮大って言ったよ」

「ふうん」

僕は、君の方が不思議だよ。ただの山の中の景色が、君の言葉で果てしない宇宙を連想させるように変わってしまう。天気や宇宙に彼女が関係すると「壮大」な話になってしまう。

髪の毛で天気を変えたり、二人で見た景色が宇宙を旅してきた孤独な流星の辿り着いた場所になる。魔法使いっているんだ、とか、その頃の僕は本気で思っていた。この星で魔法を使えるのは、ただ一人、黛あかつきだけだった。

二人の時間は終わりを告げる。

走ってきた方向から駆けてくる一人の少女。ちひろだ。

「あかっちゃん、太君」

先ほどの戸惑った表情はない、あのあかつきを知りながらも笑顔で駆けてくる。

「あかっちゃん。太君。わたしも仲間に入れてよ」

あかつきは僕と繋いだ手を振り払った。

「ちひろ、あのさあ」

辿り着いたちひろに向け、あかつきは申し訳ないというような顔をしている。可愛いことに、あかつきは顔を赤らめている。僕は、余計なことだったかもしれないが、ちひろに言った。

「あかつきさんは、本当は友達のために髪を削ぎ落としたんだって」

それを言ったらあかつきの顔が余計赤くなってしまって、僕はゲンコツの制裁を背中に受けた。あかつきは言った。

「ちひろ、あのさあ、私本当はちひろと友達がいいよ」

僕の後ろに隠れるようにして呟くあかつきに、ちひろは笑顔を見せた。

「いーいーよー。あかっちゃんとわたしは友達だよ。けっこう前からずっとね」

あかつきに向かって手のひらを見せたちひろ。この手と彼女を繋ごうというのだ。あかつきは何かを言いかけ、手を差し伸べ、繋がれる瞬間、ちひろはあかつきの体を引き寄せる。

笑っていた。屈託のない笑顔でちひろはあかつきを抱きしめた。

「大丈夫だよ。もう、独りで泣こうなんて思わないでね」

ちひろには分かっていたようだ。

あかつきが独りになろうとしていたことを。

僕は、あかつきを抱きしめたちひろが羨ましかった。何か理由がなくてもあかつきに触れられること。際限ない優しさであかつきを抱きしめられること。あかつきの心に僕も触れたい。こんなことは、大人になればただの馴れ合いや傷の舐め合いとか、綺麗事でかたづけられるものかもしれないけど、僕の望んだあかつきとの関係がちひろと彼女にはあった。

だから、誰にも彼女たちを阻んでほしくないと強く思った。余計なものが彼女たちを邪魔しようと、彼女たちはビクともしないはずだけど。

小さな箱庭にあったから、彼女たちは繋がれていたのかもしれない。

少し意地悪な勘ぐりが、僕の心の隅で蠢いた。

束の間の安息に思い出す。焼け野原に、ボロ布を身に纏い、ボロ布とは反比例するように綺麗に手入れされた銃を持って立っていた少年を。

「夜に来れたらよかったのにね」

「なんで」

「晴れている夜空は、きっと綺麗だよ。ここから街は遠いし、空が近くにあるでしょう。星がよく見えるはずだよ」

「へぇ、夜にまた来てみたいな」

「そうだね」

「夜の星は、わたし、オリオン座しか知らないんだ。でも、すぐに見つける自信はあるよ」

ふと連想した。星をカメラで撮ったら、一枚の印刷紙に、壮大な夜空をおさめてしまったら、どうなるのだろうかって。僕と彼女のあの写真のように、夜空を世界に向けて発信したら。

僕たちは僕たちだけの世界では生きていけなくなるだろう。きっと色んな邪魔が入るかもしれない。

それでもなぜ、写真におさめなければならなかったのか。あの人は何と言っただろう。


「バカなことをしましたね」

「そうですか。あなたはバカなことだと言うのですね。でも、あなたの言うバカなことでも、私たちは発信していかなければならない。彼や彼女を好奇の目に晒すことになっても、現実を伝えなければならない。なぜなら、彼や彼女が当たり前に得られたであろう安息や平和を、私たち大人は奪ってしまったのですから」

あの人のインタビュー記事の言葉。


「その写真は」

僕がズボンのポケットから取り出した新聞の切り抜き写真に見入るあかつき。僕はハッとして現実に戻った。

「この写真は、僕のだよ。僕の昔の写真」

瓦礫の中の僕。幼い僕が着ているのは、ただの体裁で着ているボロ布。着ているというよりも、纏っていると言った方が正しいかもしれない。そして、幼い僕の肋骨の浮き出た体に似合わない大きくて綺麗な機関銃。

「へぇ」

あかつきとちひろは、僕の写真に深々と見入る。

これでよかったのだろうか。僕の過去を人に見せびらかして。

「いつも持ち歩いてるの」

「うん」

「これは、外国だね」

「うん」

「見たことない場所」

「うん」

「君は貧乏だったの」

「うん。恥ずかしながら」

「この大きな銃は」

少し躊躇いの気持ちが僕を脅かしながらも、僕は答えた。

「僕の武器だよ」

あかつきとちひろは、互いに顔を見合わせた。

「使ったことあるの」

二人のその言葉に、言葉に詰まった。なぜだか緊張してしまって、冷汗が頬を流れた。

「うん」

頷く僕の緊張をよそに、二人は再び顔を見合わせた。二人は笑顔になってこう言った。

「自分の写真持ち歩いているんだ」

僕は自分の顔が一気に赤くなるのを感じた。あかつきとちひろは僕をからかって、井戸端会議のおばさん連中のような口ぶりで、寸劇をはじめた。

「あらやだ。見てくださる奥様」

「何かしら奥様」

「この方、自分の写真を四六時中持ち歩いているらしいですわよ」

「あらやだ。恥ずかしくていらっしゃるわ」

「自分の姿が好きなのですわね」

「そのようですわね。こういう方を世間ではなんと言わっしゃるのでしたっけ」

「たしかナルシストと言うらしいですわよ」

「あらやだ。ナルシストですわ」

「ナルシスト。お恥ずかしい限りですわ」

「そうですわね。ナルシストとは」

「もう、やめてくれないか」

僕は自分がいたたまれなくて、真っ赤になりながら声を振り絞った。

「父さんに持ち歩くよう言われているんだ。僕が僕自身を好きで持っているわけじゃない」

僕が誤解を解こうと慌てふためくのを見て、あかつきはふふっと笑ったあと、僕の写真を指差して言った。

「これ、ニコール・スチュワートの撮った写真でしょう」

僕は話題がかわったことに安堵して頷く。

「うん。何でニコール・スチュワートの撮った写真だって知っているの」

「ニコール・スチュワートは、こういう写真をよく撮るよね。私も持っているよ。その人の撮った写真」

「へぇ。そうなんだ」

あかつきがこの写真を撮ったカメラマンの名前を知っているのか、不思議に思ったが聞くにはきっかけがなくて聞けなかった。

ニコール・スチュワートは、戦場や人為的な惨事があった場所で子供の写真を撮り、世界的に有名な新聞にその写真を載せている。僕が写真から連想したあの人とは、ニコール・スチュワートのことだ。

写真を撮らせてくれないかと頼まれた時のこと。幼い僕は二つ返事で引き受けた。武器を手にした勇猛な僕を撮ってくれると思ったから。でも、ニコール・スチュワートが求めていたのは、カッコイイ少年ではなかった。

「はい、こっち見て」

そう言って切られたカメラのシャッター。映していたのは、戦争に利用され、マーダーマシンとなった少年兵の姿だった。

ちひろは言った。

「カッコイイね」

あかつきは言った。

「私も持ってる。ニコール・スチュワートの写真」

ちひろがすかさず突っ込みを入れる。

「それ、さっきも聞いたよ」

あかつきは虚ろな瞳で呟いた。

「私もニコールに撮られたんだよ。全部失くしてしまった私の写真」

ニコール・スチュワートは撮ったのだ。瓦礫の中、泥と煤と血で服を汚した惨劇の中の少女を。

僕は、彼女の言うことの全てが何だか信じられなくて、教師が彼女を嘘つきだと言っていたことを思い出していた。彼女は真実しか口にしないことが分かるのは、まだ先のことで。

幼い彼女の抱える胸に空いた大きな風穴を知るのは、本当に知るのは、まだ先のことだった。

僕とあかつきの写真の共通点は何か。あかつきは「全部失くしてしまった私」と言った。

幼い僕の姿もあかつきは「全部失くしてしまった」というふうに見えたのだろうか。僕は時々考える。彼女の言葉は色んなことを孕んでいて、全てを知るには、僕は幼すぎたのだ。

彼女が「行方不明の私」を探し始めるのは、これから間もない頃だった。

私のいるべき場所はこんな場所ではないのでしょう。こんな寂しい場所じゃない。


写真は、その姿を映した時から形に残る。

形に残ってしまったら、そこが彼女の居場所になってしまう。彼女の居場所になるには、この場所はあまりに歪で汚れている。それでも、彼女は選んだ。魑魅魍魎の世界をずっと彷徨うことを選んだ。彼女の探し物は、僕は持っていなかった。彼女の瞳に映る僕の姿も、彼女にとっては魑魅魍魎なのだろうか。

写真にその姿を残すことは、彼女にとって苦痛でしかないのかもしれない。嫌だとは聞かなかったが、彼女は止まる場所を避けていたような気がする。

ただ単に、髪の毛のない自分の姿を残しておくのが嫌だったのかもしれないし、彼女の友達のために一緒になって拒否していたと考えられもするが。

「そうだ。皆で LOVE&PEACE の旗を掲げて撮るって言ってた写真は」

今回の遠足の目的は、しらびそ峠でクラス全員で写真を撮ることだった。僕がふと思い出して聞くと、あかつきは困ったような顔をした。ちひろは答えた。

「もう、撮っている最中なんじゃないかな。抜け出してきちゃったから、どうなってるのか分からない」

すると、あかつきはホッとした顔をした。ちひろは続ける。

「別にそれほど写真に写りたいとは思わないから、わたしはかまわないけど。映りたかったの」

僕はあかつきに目配せし、あかつきは口を開いた。

「LOVE&PEACEなんて陳腐な写真に、私は写りたくない」

「またまた。言いますな。あかつきさんは」

ちひろは笑ってあかつきの肩をポンポンと叩いてみせた。

「確かに陳腐かもね。クラス全員とか言いながら居ない子もいるし、それを掲げて撮ったところであの子たちが変わるとは思わないし」

と、ちひろ。

「皆、影で気づいてる。それに近かったのは当の本人達で、わたし達は遠いところにいる大人の自己満足に付き合っているだけ」

ちひろの言った意味もよく分からないけど、僕は彼女たちの望んだ場所があそこではないことになんとなく気づいた。ちひろの言ったように、写真は既に撮られていた。後で小学校の掲示板に貼り出された写真を見たが、大事なものの欠けた写真だった。僕の興味がわく写真ではなかった。彼女たちが欠けていたからだ

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二人で逃げよう 久保田愉也 @yukimitaina

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