6-33 出発

 翌朝、僕はいつもよりも早めに目が覚めた。

 朝日よりもすこしせっかちだ。


 とはいえ、すでに起きていて仕事を始めている仲間もいる。


 僕は寝間着姿で控え室に入った。


「おはよう」どんな時であっても、いつも通りの元気な挨拶。これはオルガナの声だ。


 僕は彼女に挨拶を返して、クローゼットからお仕着せをえらんで身に付けた。

 もちろん、彼女が手伝ってくれる。すぐ人に服を着せたがる性分だからだ。


 靴を履いて、エプロンの紐を締めた。


「マーガレットは先に朝食の用意をしているわよ」


「相変わらず早いですね」と僕は言って、少しあくびをした。涙が溜まる。


「あなた、少し眠そうよ」


「昨日、よく眠れなかったんです」


「あら大変」とオルガナは言って、僕の肩を揉み始めた。「寝不足は女の敵よ。短い時間でもとろけるように眠らなくちゃ。無理はしないようにね」


「はい、行きの馬車で少し眠ります」


 彼女は寝不足の理由を聞いてはこなかった。

 そのおかげで、随分と気が楽になった。


 控え室を出て、台所で軽い朝食を摂った。

 温かなショコラと、薄めのパン、少量のサラダ。

 小さな僕のお腹は、それで十分満たされたのだった。


 ご主人さまを起こしに行くまで、まだ少し時間がある。

 勝手口から外へ出て、赤らんだ空の下で新鮮な空気を吸った。

 冷やりとして喉元を通り抜ける。


 眼前に伸びる踏みならされた道の真ん中に、ひとつだけ、朝露を大きく溜め込んだ雑草が生えていた。

 小さくて白い花が付いている。


 僕はそれを土ごと引っこ抜き、誰にも踏まれないところへと植え替えた。


 草花は生える場所を選べない。

 けれども一所懸命だ。


 頬が綻ぶ。

 随分と汚れてしまった手のひらを払う。


 朝日はますます昇り、明るさを増していく。


 スカートを汚さないように気をつけながら、僕は浴室の蛇口で手を洗った。


 桶に湯を汲んで、ラベンダーの雫を落とす。

 タオルは少し硬くて、ざらざらしている。

 それでもしっとり潤えば、やさしい肌触りに変化する。

 不思議なものだ。

『まったく、意志というものを持ち合わせていないの?』

 ご主人さまの苦言を思い出す。

 ……そんなことはありません。

 僕は、僕の意志であなたのそばに仕えたいと、心から願っているのです。


 面と向かって言ったことがあるだろうか?

 せめて、行動で表せるなら。


 気を取り直して、湯気の立つ桶を抱えて浴室を出た。

 ご主人さまの寝室への道のりは、体がすっかり覚えてしまっている。


 廊下をゆっくり歩いているうちに、いつのまにか寝室のドアをノックしていた。


 部屋に入って「おはようございます」といつもの一言。

 テーブルに桶とタオルを置いて、カーテンを開けた。

 さらに窓を開けると、朝の風が吹き込んでくる。


 そうして、ご主人さまはお目覚めになった。

 顔を拭いて差し上げようとすると、今日も嫌がられてしまう。

 何も変わっておられないようで、僕はほっとした。


 しかし、口数は少なかった。

 淡々と学校の身支度を済ませ、朝食の作業を終える。


 馬車にはいつもの荷物と、一つ、レイピアを積み込んである。


「お兄さまの剣を借りたの」


 柄の部分には手垢が染みついている。

 手入れを欠かさなくとも、少しずつ重なっていくものなのだろう。


 ご主人さまは、今日、剣と剣を付き合わせて、決闘をするのだ。


 どうして僕ではないのだろう。

 僕の身の上のことであるのに、戦うのはご主人さまだ。

 こんな危険なことを何故、僕は止めようとしないのだ?


 馬車が進み始める前に僕は飛び降りた。

 そして、失礼を承知で、ご主人さまの手を握る。


「学校へ行くのをやめましょう」


「いきなりどうしたっていうのよ」


 ご主人さまの手はとても冷たかった。


「ご主人さまには何の得も無いことです。クリスさまの一方的な申し付けです!」


「そんなことわかってるわよ。でも、あの人はぶん殴ってやらなきゃわかんないの。損得で動いてるんじゃないんだから。それに、敵前逃亡なんて気に入らないこと、あたしにできるわけないじゃない!」ご主人さまが手を離す。「学校へ行きましょう。あなたも来るのよ」


 僕は顔を俯けて、再び馬車に乗り込んだ。


「ごめんね。ちょっと頭に血がのぼっているの。あたし、頑固だってよく言われるわ」


 馬車が進み始める。


 ご主人さまは、勝利を得た時、何を望まれるのだろうか。

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