5-31 水と油
クリスさまと一緒に、僕は屋敷に戻った。
馬車の中、道中で彼女はいろいろな話をしてくれた。
街の成り立ち、ヒルマートン家の歴史。
家庭教師も教えてくれないような豆知識ばかりだった。
屋敷の門をくぐり、僕らは馬車を降りて正面口への道を進んで行く。
しばらくして、先の方でつまらなそうにして庭先を歩くご主人さまの姿が見えた。
僕は嬉しくなって、駆け出そうとしてしまう。
すると、ご主人さまがこちらに気づき、頬を膨らませて近づいてきた。
「ちょっと、あんたどこに行ってたのよ!」と大きな声をお出しになり、駆け寄ってくる。
そして、クリスさまの姿に気づいたのだった。
そういえば、僕はご主人さまに買い出しに行く旨をお伝えし忘れていたのだった。
不幸なことに、マーガレットさんにお尋ねなさらなかったのだろう。
ケーキのことばかりで頭がいっぱいだったことを反省しなくてはならない。
「買い出しに行っていたのです」
「そ、それより何よ。何でいるの?」
ご主人さまがクリスさまを見て、指をさす。
「街で偶然出会ったのさ。男に絡まれていてね、僕が助けたわけではないのだけれども」
「ふうん」とご主人さまおっしゃって、流し目で僕を見た。「まあいいわ。どういうつもりか知らないけれど、クリスティン・グローステスト! あなたもうちに上がって頂戴。紅茶を出させるわ」
「ご主人さま、とっても美味しいケーキをお作りできますよ」
「もう、あんたはそればっかりね!」
そして、僕らは別れた。
お二人は正面口から屋敷に入り、僕は台所の裏口へ進む。
まずはお湯を沸かして、買ってきた材料を食糧庫に置く。
先日、マーガレットさん選んだのと同じものを紅茶を小瓶に詰めた。
マカロンがあったので、それを皿に盛って蓋をし、台車に乗せた。
食器もちゃんと準備する。
このくらいの仕事ならば、一人でもお茶の子さいさいだ。
支度をほとんど終えたところで、丁度、マーガレットさんが入ってきた。
「あら、おかえりなさい。随分と時間がかかりましたね。グローステストのお嬢さんがいらしているようだけれど」
「途中で道に迷ってしまったんです」
「そうよね」
彼女はエプロンを外して、頭飾りを取った。
首を振ると解放された銀色の髪の毛が、さらさらとなびいた。
お湯が沸いたので、僕はそれをポットに移し、台車に乗せた。
「一人で大丈夫?」
「ええ、私ももう一人前ですから。それに、マーガレットさんと同じようにして注ぐ努力をします」
「それなら、私はしばらくお休みね。今日は浴室のお掃除当番でもないし、夕飯まで何をしようかしら」
「マカロンがたくさん残っていますよ」
「そうね。それでもいただきながら、休憩しましょ」
マーガレットさんの笑顔はいつでも優しい。
僕も笑顔を返して、小さな調理場を出た。台車の車輪は、今日も滑らかに動く。
長い廊下を進んで、ご主人さまの部屋の前に着いた。
ドアをノックしようとしたところで、声が聞こえてくる。
なにやら口論をなさっているようだった。
「ちょっと、ふざけないでよ。クリスティン・グローステスト! 自分勝手もいい加減にして」ご主人さまの声だ。「あいつは、あたしの……ヒルマートン家に仕えているんだから!」
「そんなことは知っている。ふん、仕えさせているの間違いだろう。だけどエヴァンジェリン嬢、きみはあの子の姿を否定しているんだろう? 僕にだってそうさ。そんなきみたちみたいな二人が一緒にいても、すべてが台無しになる。もちろん、今すぐ連れて帰るつもりは無いさ。心の準備も必要だろう。来週の休み、また迎えにくる。その時までに、彼の身支度を済ましておけばいい」
「そんなの絶対に認めない!」ご主人さまが声高に言う。
「どうして? 厄介払いができるじゃないか。嫌なんだろう、彼のあの格好、その仕事ぶりが。僕は素敵だと思うがね。引き止めたいだけの理由があるっていうのなら、聞こうじゃないか」
「あたしは、ちょっと気に入らないだけ……。けれど、あいつをあんたの元にやるなんて絶対にイヤ!」
「それだけか、ならば交渉決裂だね」クリスさまが歌うような声で言う。「決闘をしよう。お互いの家の力を使うなんて野暮なことはしたくないだろう? 明日の昼、舞台を用意させる。勝った者が、望みを叶える。それは僕にとって、彼を好きにできるということだ」
「あいつは物じゃないわ。でも、あなたが引かないのなら、あたしは受けて立つ。お兄さま仕込みの剣で、あなたを追い返してみせる!」
「いいだろう。あの人の剣だと思って、僕は容赦しない」
「望むところよ」
しばらくして、こつこつ足音が近づいてくることに気がついた。
とっさに柱の後ろに隠れようと思ったが、台車があってできそうにない。
ドアが開き、クリスさまが出てこられた。
「おっと、聞いていたのかい?」
「わ、私は……」ご主人さまのそばに居たいと思う。
言葉を繋げようとするとすぐに、クリスさまが言った。
「何も言わないでくれ。また明日、会おう」
「クリスさま!」
思わず呼び止めてしまった。
けれども続く言葉は、何の関係もないただの侍従としての一言だった。
「送迎の馬車をお出ししますか?」
「動揺しているのかい?」
クリスさまが笑う。
「一緒の馬車で来たじゃないか」
クリスさまは僕に背を向けて、颯爽と歩き出した。
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