4-28 正体
「それは言わないお約束だぜ」と彼は言った。「けれど、俺はこうして戻って来た。もう奪われた汚い香辛料を素知らぬふりをして転売するような日々には飽き飽きだ」
僕はマグを置いて、彼の顔を見た。
「君はどうなんだい? 退屈はしていないのかい?」
「私は、エヴァンジェリンご主人さまにお仕えできてとても幸せです。今日も、ほろ苦くて少しだけ甘いケーキを作ろうと思って、買い出しに出て来たのです」
「誰かのために働くってのは、いいもんだな。俺の性には合わないがね。俺は借金をして船で商売に出て、いっぱしの悪党を気取るつもりだったけれど、どうも疲れちまった。払った以上に金は手に入ったのだが」
「無給でなら、演奏してもいいぞ」と店主が言った。「道楽でやればいいだろう。うちも経費が浮いて助かる」
「もう三年も弾いていない」
「三年がなんだっていうんだ? なあ、お嬢ちゃん」
「私も聴いてみたいと思います。これは私の勝手な推測なのですが、あなたはその女の子にもう一度演奏して聞かせるために戻ってらっしゃったのでないでしょうか?」
アイリーンさまならきっとこう考えるに違いなかった。
人間の(鳥や虫でさえも)行動には必ず恋が絡んでいるという持論の持ち主なのだ。
彼は僕を見て、席を立った。
「さあね。でも夜になったら彼女はここにくるかもしれない。三年だ、美しくなっているだろうな」
彼はピアノの席に腰掛けた。
無言で軽く鍵盤を触り始める。
何度も弾きなおし、首をかしげていたが、次第に指の動きは滑らかになっていく。
学校で見た、音楽家の先生方の姿を思い出して、重ねてしまう。
どれとも異なり、個性的であることがわかる。
良い音楽の聴き方は、分析をすることだと先生はおっしゃった。
この部分が好きになったら、なぜ好きになったのかを考える。
なぜ、これは良い演奏なのかを考える。そうして、どんどん引き込まれていく。
それが音楽だ。
彼の演奏は僕の体を左右に揺さぶる。
知らない人の知らない曲なのに不思議なことだ。
確かに、旋律が耳に入っている間は、全てが友達みたいな気分。
ペダルを使わず時折叩くみたいなある種野蛮な弾き方がこの場にふさわしく、僕は目を瞑って浮かび上がる映像に身を委ねた。
貧乏でぼろぼろの演奏家が、不器用な女の子に向かって必死に花束を捧げている。
時には棒つきの飴だったり、可愛いアクセサリーだったり。
そんな絵が浮かんだ。
ちょっと、アイリーンさまの気持ちがわかる。
だって、にやにやしちゃうでしょう?
演奏が止むと、店主が鼻をすすった。
僕は素直に拍手を贈った。
彼は一礼をして、僕の前に歩み寄って来た。
「ありがとう。まだ、俺も腐っちゃいないね」
それから彼は手を伸ばして、僕の顎に触れた。
優しくだが、持ち上げようとしている。
それにつられて、僕は立ち上がる。
「君に感謝の意を込めて」
彼は僕の目を見下ろしている。
彼の瞳は灰色だった。
この感じ、いつだか味わったことがある。
動けず、この先に起こることも判っている。
彼の顔が徐々に僕へ近づいてきた。
抵抗は不能だった。
力も弱ければ、意志も弱いということだ。
僕はなんて弱い人間なのだろう。
あの時は、ご主人さまの声が聞こえたのだった。
悲しそうな声が。
その時だった。
からんころんと音がした。
救いの音だ、と思った。
僕は音の方へ顔を向ける。
開いただドアの前には人がいた。
「いらっしゃい」と店主は言った。「ありゃ、うわさをすれば、なんとやらだ」
その新しいお客さんはクリスさまだった。
「いやあ、以前の聴き慣れた音楽が流れていたものだから、こんな時間だというのについ入ってしまったよ」
彼女は僕らを見て目を丸くしたあと、続けた。
「おや、僕はお邪魔だったかな」
「い、いえ、そんなことは決してありません!」
僕はクリスさまに駆け寄り、その後ろに隠れる。
「怯えているのかい? かわいそうに。こんなところで会うとは偶然だね。どうやらきみはすぐに口付けを迫られてしまう運命にあるようだな」
「おいおい、突然現れて、俺からお礼の機会を奪っていくってのはどういうつもりだい? 若造」
「ふむ、きみは僕のことを覚えていないのかね」とクリスさま。
真っ白なフロックコートを脱ぎながら、男は言った。
「お前みたいなやつは知らないね。俺はこれから彼女とお楽しみのところだったんだが、水を差されちゃ、どうしたもんかな」
「待ちな」と店主が口を挟む。「やるなら外でやってくれ。どうなっても知らんがね」
クリスさまといえば、そんなことは意に介しもせず、僕に対して喋り始めたのだった。
「先日、といっても随分前のことだが、あの時はすまなかったと思っている。素直に謝ろう。人前での口付けはさすがに恥ずかしいだろう。そのくらいの気遣いもできないなんて、紳士失格と言っていい。僕の想像力がいかに欠けていたか、痛感させられたよ。きみに会いに行かなかったのもそのせいだ。許してくれ」
それから彼女は僕から離れて男に近づいていくと、人差し指立てて、その顔の前に掲げた。「それと一つ」
僕は彼女の後ろ姿を見ていた。
先入観もあるけれど、美しい女の人にしか見えないのだった。
「あなたの演奏は時々聞いていて、とても楽しみにしていたよ。目を瞑って、耳に入って来る音色を楽しむ。そんな経験はここが一番だった。店主からは修行に出て行ったと聞いていたものだから、しばらくは楽しみが一つ減っていたところなんだ。でも、帰って来たのだろう。ぜひ、また演奏を聞かせてほしい。期待している。といっても、僕は学校の寮に入っているから、昔のようにそう頻繁には聴きに来れないが」
「どういうことだ? 人違いだろう」
男は腕まくりをやめ、怪訝そうな顔をした。
それから、クリスさまの顔をまじまじと眺めて、唐突に目を大きくして店主の顔を見た。
「まさか、あの時の……」
「その通り、この男装のご令嬢は、お得意様で、グローステスト家のご息女、クリスティン・グローステスト様だよ」
店主は肩を竦める。
「お前の言っていた、かつての女の子だ」
「いや、そんなはずは……?」
演奏家は少し困惑した様子だったが、やがて笑い始めた。
僕はクリスさまの横に立って、ゆっくりとお辞儀をした。
「お飲み物と、素敵な音楽をありがとうございました」
「さ、僕らも行こうか。こうして偶然出会ったんだ、馴染みのこの街を案内するよ」
僕らは彼の幸運を祈り、踵を返して、店のドアに手をかける。
あの演奏はご主人さまにもお聞かせしたい。
今は、その代わりに、ほろ苦くて少しだけ甘いケーキにうんと愛情を込めることにしよう。
からんころんと音がして、店の外に出た時、「三年のブランクを取り戻さなくちゃなあ!」と吹っ切れたみたいな声が聞こえたのだった。
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