4-27 酒
僕の靴は規則正しい足音を刻んでいた。
楓並木が終わり、開けた場所に出る。
市場に繋がる道とは別の路地に入った。
しばらく進んだところで、彼が立ち止まった。
ドアの横に看板がかけられており、いくつかの楽器が彫刻されている。
「昔は俺もよくここで演奏したもんだ」彼は言いながら、ドアを開けた。「この時間から開いてる店は、多分ここしかないんだ」
からんころんと音がして、ドアが閉まった。店内は暗くて無人だった。
彼は店の奥に向かって男の人の名前を叫んだ。
遠くの方から返事が聞こえてくる。
すぐに来るらしい。
「どうして、私とお酒を飲むことがお礼になるのでしょう? それに、私はお酒を飲めません」
僕が問うと、彼はにやりとする。
「酒が飲めないのは、見りゃわかるけどな、目の前にこんな可憐なお嬢さんがいて、放っておくというのもね。お礼だのなんだのっていうのは、まあ、そういうもんだと思っといてくれ」
店の奥から現れた男性が、カーテンを開けてまわった。
店内が明るくなる。
入り口から向かって右側が一段高くなっている。
そこには大きなピアノが一つ、譜面台が一つ置かれている。
店主が、僕たちに席に座るよう促した。
「随分久しぶりじゃねえか」店主はそっけなく言った。「お前さん、似合わねえ格好しやがってさ」
一瞬、僕のことを言っているのかと思ったが、そうではなく、どうやらこの男性二人は顔なじみであるらしい。
「三年で成り上がった。宣言通りだろ?」
「で、今日は逢引かなんかかね。随分若い、いや、若すぎる娘のようだが」
「いや、そういうわけではないが、他に酒の相手もいなくてね。飲めない彼女に、甘いやつを一つたのむよ。俺のおごりだから」
「あいよ」
「そんな、それはあまりにも!」僕は遠慮してしまった。
「ただそこに座っているだけのつもりかい?」彼は軽く笑い飛ばした。「いいんだ。金ならいくらでもある。足りないのは一緒に飲んでくれる相手だから」
しばらくして、薄い赤色をした液体の入ったマグカップが僕の前に置かれた。
「さて、飲もうか」
彼は目の前に提供された、茶色の液体の入ったカップを持ち上げる。
僕もそれに倣い、ちょっと持ち上げて、マグに口をつける。
香りと、舌先で味を確かめて、舐めるみたいにして飲んでみる。
「まあ、いちご水」
それは甘く、ほのかに酸っぱい。
彼は僕の口元を見ており、そして語り出した。
「俺も、ほんの三年前までは薄汚れた金のない演奏家だったんだ。今は、船の上で生活をして、香辛料を売りさばいて金を稼いでる。以前といえば、毎晩ここにきてピアノを演奏するシンプルな生活だったね。金は無かったが、というか、この親父の払いが悪いからだが、楽しかったよ」
「嘘つけ。お前が酒に使い過ぎていただけだ」
僕はただ頷き、聞いている。
「演奏家も、それを聴いている人も、演奏中はみんな友達だった。あまりきちんと聞かないような雰囲気のときは、環境音みたいな曲を奏でたりしてさ。そうじゃなきゃ、ろうそくの淡い光と、酒を飲みながら聴き入ってくれる人は体を揺らして、笑いながら恋人とひそひそ話をする」
「素敵ですのね」
「そんな中で、微動だにせず、腕を組んで目を瞑って聴いている女の子がいた。不思議なことに毎日一人で来てたね」
「女の子ですか?」
お酒を飲むところに、女性が一人でやってくるなんて、ご主人さまが聞いたらなんと答えるだろう? 冒険ね! なんて仰るだろうか。
よく考えてみると、今、僕はその女の子と同じような境遇にあるのかもしれない。
彼はお酒を飲み干し、さらにいっぱい注文すると、言葉を続けた。
「そうさ、君と同じくらいか、少し大きいくらいの子だ。きりりとして目鼻立ちのしっかりした綺麗な顔をしていて、いつも同じ場所に座っていた。どうにかして彼女も音楽に乗せて体を揺らすようにならないかと努力したよ。その時は、演奏でなんでもできると思ってたんだ。結局はできなかったがね。それが、俺の限界だったんだな。そんなわけで、俺はピアノを捨てて、海の上で偉大になることを決意したってわけさ」
「こいつは逃げ出したんだ」と店主が口を挟む。
僕は、なんとなくだが、体を揺らさなくても、しっかり演奏を聴いていたのではないかと、思ったのだった。
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