2-13 クリスティン・グローステスト(1)
昼食の片付けを始めた頃、外の人混みが二つに割れ、「ごきげんよう!」と中性的な声がして、男装の美女が僕たちに向かって歩いてきた。
クリスさま、と呼ばれている彼女は、令嬢たちの群れを引き連れて僕の前に立ったのだ。
「お片付けかい? 感心だねえ。はじめまして、僕の名はクリス」と彼女は言い、片手を下げてお辞儀をした。「そして、エヴァンジェリン嬢も」
「ごきげんよう。クリスティン・グローステスト」ご主人さまはあまり関心が無さそうに言った。
「その名を言わないでおくれよ、小鳥ちゃん」男装の美女は指を振り、チッチと口を鳴らした。「僕はクリスさ。我が恋人たち……そう、彼女らにもそう呼ぶように言っているのだからね。きみも、僕の恋人の一員じゃないのかい?」
ご主人さまは、クリスさまから顔を背けた。その表情は明らかに引きつっていて、少し前に見せていた不機嫌そうなものとは明らかに異なっている。
そのような態度をご主人さまが取られたので、クリスさまの矛先は僕に向いたのだった。
「きみ、少し顔を貸してくれるかい?」彼女の人差し指が、僕の顎を持ち上げる。視線がぴたりと合い、その大人びて整った顔立ちが目に入った。
「あのう、」僕は息を飲んだ。
彼女は、どこか作り物めいた気品を漂わせ、皮肉な口元は緩やかにつり上がっている。
異様に長い睫毛が目を大きく見せて、暗めの金色をした見事な長髪が、三角帽子から滝のように流れている。
強めの香水が鼻を刺激してくる。
薔薇の香りだろう。
頭がぼうっとしてきて、雰囲気の中に咲いた色とりどりの野薔薇が飛び散って、ゆっくりと彼女の周りを漂っているように見えた。
クリスさまは僕を見つめたまま、口を開いた。
「美しい。実に美しいな、きみの瞳は。吸い込まれるような不思議な光をたくわえている。その瞳に映っている僕の姿に、僕自身が嫉妬してしまいそうだ。しかし、一度囚われれば、出てくることは、もはやできないのだろうね。恐ろしく、魅力的だよ。きみは」
彼女は芝居掛かった仕草で、首を左右に振ると、残念そうにため息を吐いた。
顎に触れている指が持ち上がる。それにつられて、僕も立ち上がった。
「あ、」声を上げたのは、エヴァンジェリンご主人さまだ。「それは……」
向かい合わせに立ってみると、僕よりもクリスさまの方がずいぶんと背が高い。
彼女の指が僕の顎から離れても、どうしていいのかわからず、彼女の目をずっと見ていた。
その眼差しにには魔性みたいな力が込められているかのようで、目を逸らすことに思い至らないのだった。
白く薄ぼけた光の中で、僕たち二人だけが取り残されている。
長い睫毛が瞬くたびに、魅了される。
潤んだ瞳は貴婦人のそれであるのに、若い男性の睨むような凛々しさがある。
不均衡なのだ。
「では、その可愛らしい唇を僕がいただこう」続く言葉は、囁くような、僕だけに聞こえるような音量だった。「寄宿舎二階の手前から三番目、今夜、僕の部屋においで。僕のために、小鳥のように歌っておくれよ」
クリスさまが優しく目を細め、笑顔を傾け、ゆっくりと近づいてくる。
僕も操られたみたいに、自然と目をつむってしまう。
成り行きが想像でき、それは仕方のないことなのだとある種の諦観に苛まれた。彼女から、逃れようがない。
こんな経験には覚えがあった。
そして、その時は、マルガが僕に耳打ちをした。
『逃げなさい』と。
瞼の先にある暗闇から、暖かな吐息を感じ、すぐそこにクリスさまの顔があることがわかった。
心臓はどきどきして、頭の中で脈拍が聞こえるくらいだ。めまいがする。
「やめて」ご主人さまの掠れ声を聞く。
途端、僕の魅了は冷めた。
僕は目を開ける。
そして、一歩引いた。
クリスさまもぴたりと動きを止め、姿勢を正す。
「歌は、あまり得意ではありませんし」僕は言って、さらに小さな声で言葉を続けた。「今夜も今夜で、ご主人さまへのご奉仕がありますので」
ご主人さまが、僕の腕を引っ張り寄せる。
「そういうことよ、クリスティン・グローステスト! あたしたちはね、あんたなんかに興味はないんだから!」
クリスさまが溜息を吐いて、肩をすくめた。「やれやれ、強敵だね」と言って、一歩下がる。
後ろで待機している令嬢たちは、興奮気味にひそひそ話をしていて、中には気絶している方と、その方を介抱している侍女もいる。
ご主人さまは、腕を僕の腕に回してきて、ぐいぐい引っ張りながら言ったのだった。「さあ、今日は天気もいいし、中庭を散歩でもしましょうか。案内もしなくちゃね。あたし、剣を嗜んでいるんだけれど、ちょっと見てくれない? へたくそな歌も歌いましょう」
彼女に引っ張られて、僕も歩き出す。
申し訳程度に、クリスさまにお辞儀をした。
ご機嫌なご主人さまの横顔を眺めながら、教室を出る。
後ろの方では、クリスさまが何かを仰っていたようだが、その声は、僕の耳には届かないのだ。
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