1-05 エヴァンジェリン(2)

 踵を返して出ていく様子を見送りながら、僕は冷静にタオルを絞る。

 広げて、よく引っ張って、綺麗に畳んで手のひらに乗せた。

 ちょうどいい温度だ。


「僕、いえ、私は、エヴァンジェリンご主人さまだけのものになる覚悟はできています。心を込めてお仕えし、ずっと側にいることを誓いました。大ご主人さまも、奥さまも、激励してくださいました。特に奥さまは、特別製のお仕着せまでご用意なさろうとしてくださったり……」


 込み上げてくるのは幸福だ。

 自然と頬が緩む。

 首元のチョーカーはその証なのだ。

 朝、顔を拭って差し上げるところから始まり、夜のベッドメイクまで完璧に僕がお世話をする。

 これ以上の恩返しはないだろう。


「なによ、なんなのよ……」ご主人様は不機嫌そうな顔をして、ベッドに腰掛ける。


「お父さま、人が悪いんだから」


「お顔を上げてください、ご主人さま」


「あたしが自分でやるから、いい」と彼女は言って、僕の持つタオルに手を伸ばしてくる。


 まさか、それに抗うことなんてできるはずもない。

 あっけなく、僕はタオルを奪われてしまった。


 失敗した、そう思って彼女の顔を見る。

 半年間の下積みしか無いとはいえ、本番最初の仕事で失敗するなんてことがあるものだろうか?


「もう、なんて顔するのよ」彼女はため息を吐いた。「ほら、返すから勝手にして!」


 投げて寄越されたタオルを受け取ると、すっかり先の喪失感はどこかに吹き飛んだ。

 できる仕事が一つ増えたような達成感を覚える。


「ありがとうございます」僕は冷めたタオルを温め直し、ご主人さまの斜め前にしゃがみ込んだ。


「いい? 明日は、あたしが自分でやるんだからね」


「目をつむってくださいますか」


 僕が言うと、ご主人さまは力強く目を閉じた。


 小さな額にタオルを滑らせ、柔らかな頬を通って、僕の大好きなそばかすに触れる。口元を拭った時、彼女が小さく「んく」と声を漏らした。


 鏡台に移動すると、僕は彼女の後ろに立って、髪の毛を梳かしていった。


 さらに、お召し替えをしなくてはならない。


 前に結んだ紐を解いてもらい、ネグリジェ越しに、肩に触れた。

 そっとつまんで両腕を広げれば、両肩があらわになる。

 右、左の順番に袖を脱がせて落とすと、白い背中が目に入る。

 ご主人さまは素早く腕を組み、僕は自分の心臓が暴れはじめたのを感じた。

 倒れそうだ。


 お互いに言葉を発することが無いまま、身支度は進んでいく。


 ご主人さまの嫌いなコルセットを緩めに装着、今日のガウンは桃色で、背中の紐を結ぶやつだった。

 頭の両側で、縦に巻いている金髪をリボンで結って整える。


「できました」と僕は言う。「どうでしょうか?」


「最初にしては上出来じゃない。今度はお下げにするから、練習しといて。どうせ、お世話やめないんでしょ」


「かしこまりました。ご主人さま」


 朝食を摂りに出ようとした部屋のドアの前で、彼女は振り返り、僕を見た。


「二人きりの時は、ご主人さまなんて呼ばないで。この前、お嬢さまもやめてって言ったよね? エヴァでいいから」


 万が一、誰かに見られたりしたら、こっ酷く叱られてしまうかもしれない。

 しかも、それが原因で、お仕えできなくなる可能性だってある。


 そんな不安が脳裏をよぎったが、一方の彼女はそれを望んでいるかのように平然とした態度で言う。


「それがあたしの名前ってだけよ。別に深い意味なんて無いんだから。あと、女の子の服じゃなくて、もっと別の似合う服を着て」


 彼女は低く唸って僕から顔を背け、颯爽と廊下を歩き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る