首吊自殺-3

 まずは復習。この世界は死後の世界で、天国や地獄の概念はなく、神も存在せず、ただツツウラ達のような人智の及ばぬ高次元の生命体達が、魂の流れを管理している。

 彰良が見知らぬ歩道を歩きながらツツウラに聞かされたここまでは、昨日説明された通りだ。

 次に、ツツウラの仕事は基本的に、転生の為の輪廻へと死後の人間を案内することだ。

 今日一日、どれ程の人が来るかを“会社”から自分自身に送られてくる情報で確認して、常にそれを軸に行動する。迷子になっている魂が居たら連れて行くし、“職場”や“自分の部屋”と外を行き来する。

 しかし自殺者はそのデータに含まれていないから、自殺者が来る度にデータの更新及び輪廻との予定の擦り合わせを行うので、必然的に仕事の時間が延びる。例えば、昨日の“会社”からのデータと輪廻の予定では、米田彰良という成人男性の魂はここに来る筈はなかったのだ。

 これも、昨日ざっと説明を受けていたので問題はない。

 そして自分が昨日命じられた仕事は、そのデータ上のイレギュラーたる自殺者の中でもまだ蘇生が容易そうな者を現世に帰すこと。

 再三、改めて説明されてから、彰良はふと隣を歩くツツウラを見上げた。


「……自殺した人と、そうじゃない人って、どうやって見分けるんですか?」

「……ん? ああ、それ、分かりやすいよ。いや多分、彰良君には分からないんだけど」


 ぼんやりと宙を眺めていたツツウラが彰良を見て、困ったように微笑んだ。

 答えるまでに少し間があったのは、先程本人が説明していた“会社”からの情報を受信していたからだろうか、なんて事を彰良は思う。にしても本当によく笑うな、とも思った。


「自殺したニンゲンって、何て言うのかな、俺達の目には“黒く”見えるんだよ。こう……ニンゲンの形はしてるんだけど、真っ黒でよく分からない、そういう風に見える、みたいな」

「……何となく、想像出来ますね」


 不恰好な人型を空に描く手振りも交えての説明に、彰良は何となくその感覚を察する。

 自分達人間で言えば、心霊現象で考えると分かりやすいだろう。ありがちな黒い靄だとか、黒い人影だとか。そういったものに近いと思えば、ツツウラが言葉を尽くしてくれたそれが想像できた。

 彼等の視覚では自殺者はそう判別される、ということは、自分もそうだったのだろう。


「彰良君もそうだったんだよ。全身真っ黒で、正直輪郭しか分からなかったんだけど……ああでも、今はちゃんと見えてるからね!」


 案の定だ。取り繕うような励ましのような言葉に、彰良は肩を竦めた。

 彰良は歩く速度はそのままに、おもむろに自らの右手を見る。死ぬ前日、昨日を換算すれば一昨日爪を切った以外は見慣れた自分の手だ。

 今日になってようやく自身の姿を認識できたことも、ツツウラが話してくれた内容と何か関係するのだろうか。

 掌を裏返す。油跳ねで出来た火傷の痕が、手の甲、親指から人差し指に続く辺りに残っている。また裏返す。数日前、死ぬ数日前、うっかり切った指先に一本の傷が残っている。もう死んでいるから、この傷が癒えることはないのだろう。


「――あ、ほら彰良君、」


 先程とは違う声音で、ツツウラが彰良を呼んだ。

 掌から視線を外して見上げた先、ツツウラの細い手がどこかを指差していた。

 指し示しているのは、反対車線側の歩道だった。家屋とビルと何かの店にも見える建物が並ぶ景色の中に、ぽつんと立ち尽くす人影が見えた。車道に背を向けて立つ小柄な人影は、どうやらこちらに気付いていないらしい。

 あれは、と彰良が口を開くよりも早く。

 “あれ”が何かを何よりも理解している筈の高次元生命体は、呑気に笑った。


「彰良君ねぇ、あれよりもっとすごい黒……くっ、て……」


 言葉尻が、途切れて消えていく。

 ああ、彼の目にはあの人影がどう見えているのだろう。……“あれよりももっとすごい黒かった”、“全身真っ黒で輪郭しか分からなかった”自分の姿は、どう見えていたのだろう。

 ツツウラが呆然と見つめる先の人影は、彰良の目には、黒くも何ともないただの小さな人物にしか見えなかった。

 いつしか、お互いの足取りも自然と止まっていた。足を止めたのと同様に、彰良もツツウラも口を噤んでいた。

 数秒、あるいは数分か。測りづらい時間を経て、彰良は恐る恐るツツウラの顔を見上げる。

 何の変哲もない一般人にしか思えない彼の顔は、ひどく青褪めていた。黒髪と黒いスーツの中で蒼白になった肌だけが白く浮いて、半開きの口元が震えていた。血の巡りがなく体温もないのに、こういった起伏はあるらしい。これも、人間の機微をなぞった結果だろうか。

 数回、口が動く。声はない。それが何も言えなかっただけなのか、衝撃で人間の言語をなぞれなくなったのか、彰良には判別できなかった。

 だから、ツツウラさん、と呼ぶことにした。それで彼が我に返ってくれるんじゃないか、と判断して、呼ぼうとした。

 そして案の定、彰良がそう決めて息を吸ったときには、遅かった。


「――なんっっで、死ぬんだよ!! こんな朝っぱらからあぁ!!」


 開口一番の絶叫。隣に立っている彰良の鼓膜を劈くことも気に留めないそれは、正しく絶叫だった。

 彰良とツツウラの視線の先で、小柄な人影の肩がびくりと跳ねた。そりゃあ驚くだろう、こんな場所で唐突に怒鳴られたら。彰良は、十中八九自殺者らしい人影に同情する。尤も、自分はそんな驚きも通り越して、ただ呆然としていたが。

 人影が、弾かれたようにこちらを振り返る。よりも早く、ツツウラは車道へと踏み出していた。


「ちょ、ちょっ、待っ」

「今何時だと思ってんの!? まだ“下界”なら午前六時前だろ!? 何で朝から残業確定させるの、本当そういうのやめてよ!!」

「ツツウラさん落ち着いて」

「いや本当、何で死ぬんだよ! 今日も定時で帰らせろよ!!」

「いや、その為に俺がいるじゃないですか」


 彰良は横から口を挟みながら、走るときと同じくらいの速度で車道を渡るツツウラに追い縋る。

 ツツウラの、自殺者本人にとっては見知らぬスーツ姿の男の剣幕に、人影は立ち竦んでいた。逃げられなくてよかった、と彰良は内心で思う。逃げられていたら、きっと彼はもっと激昂していただろうから。

 彰良はツツウラに続いて道路を渡り切り、既に自殺者である人影の前で足を止めている彼の隣に立つ。

 近づいたことでようやくはっきりと見ることが出来たその姿は、小柄な少女だった。どうやら自殺決行時が寝起きだったのか、薄紫の無地の寝間着を着て、裸足で立っている。

 突然訪れてしまった見知らぬ土地で突然に怒鳴られた少女は、今にも泣きそうに震えていた。ついでに、その眼前に立つツツウラも泣きそうな顔をしていた。


「死ぬ時間が早かったら俺達が残業しなくても済むとかそういうのないから! 自殺した時点で俺はもう仕事山積みになるんだよ!」

「ツツウラさん、落ち着いて――すいません、もう少しお待ちください」


 彰良はもう一度、先程も言った言葉を言う。震える少女に顔を向けて、一言。出たのは、かつての自分の定型文だったが、それを機にする余裕は今はない。


「俺だって君達ニンゲンと同じように定時で帰ってのんびりしたいんだよ! 何で死ぬの、本当何で死ぬの!?」

「落ち着けって言ってんでしょうが!」


 今度は彰良が怒鳴る番だった。ツツウラが捲し立てる文句を遮った瞬間、ツツウラと少女、二人分の肩が跳ねる。

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