四十段目

 秋介はよく笑うな。なんてことを思った。一瞬表情が消えても、暗くなっても、そこにはすぐに笑顔が帰ってくる。 

 自分で自分のことを殺す様な人が、どうしていつも笑っていられるのだろう。


 最近のわたしといえば、心に落ち着きが無い。冷蔵庫の掃除をしたい時に作る寄せ鍋のほうが、もう少しまとまりがある。


 秋介は立ち上がると、屋上の終わりのところまで歩いて行った。少し段差がついているだけの、屋上と空中の境界線。足を目一杯あげて前に下ろせば、地面に到着するまで重力を感じていられるだろう。秋介は、その段差に腰掛けた。


「今から四年前。この屋上から、一人の少年が飛び降りた事件を知っているかい」


「知ってるわ。このマンションの十階より上に、入居者が一人も居なくなった原因の事件よ」


「その原因が、この僕さ」


 秋介がもう死んでいると聞いた時から予想はしていたから、あまり驚きはしなかった。


「改めまして、僕の名前は櫻井秋介。サクラマンション持ち主の息子であり、このマンション初めてにして唯一の怪談です」


 おどけて見せる姿が、錆びたからくり人形のようにぎこちない。わたしが、緊張しなくて良いようにという配慮だろうか。それとも、ただ純粋に恥ずかしいだけなのだろうか。


「櫻井マンションじゃなんだかゴロが悪いから、サクラマンションになったわけ。誰もそんなこと気にしないのにね」


「楽しそうなところ悪いけど、マンションの名前の由来には、あまり興味ないかな」


 にこにこ由来の話をする秋介をばさりと音が聞こえそうなほど、無慈悲に両断する。


 秋介はため息を一つついて、だらりと前に足を出して、体重を後ろにかけた。背中が肝が冷えたけれど、そもそも死んでいるから関係ないのだろうか。


「四年前、僕はこうして下に落ちた。八月の中頃のことだよ。今日よりも気温が高くてさ、こうするだけで首筋から汗が出てきてた」


 秋介の背中は、どんどん後ろに反れていく。空を仰ぎ見る秋介の声は、湿気の重さに包まれているのか水分を帯びて、少しこもって聞こえた。表情は見えない。


「湿度もすごくてね、空気に透明なモヤが掛かってる気がしたのをよく覚えてる。そのモヤで、頭の中も霞んできてね。最期くらい爽やかに逝きたいなんて思ってたら、空の水色に気がついた。「モヤのかかった世界で、最期にこの澄んだ空だけを見ていたい」って考えたら、この体制がベストだったんだ」


 空を見上げる秋介。わたしも、その場で首を上に向ける。秋介には澄んだ水色に見えるらしいけれど、太陽が真上にある空は眩しくて、わたしはそんなことを感じる前に目を閉じてしまう。


 視界が橙色に変わる。瞼を通しても太陽は攻撃的にまぶしくて、その場に縫い付けられたような気がした。


「僕の母さんは、僕が三歳の時に新しい彼氏を作って出て行った。カナダ出身の母さんの血が混ざった僕は、他の子と比べて少しだけ、純粋な日本人とは違っていたみたいでね。父さんは僕を見るたびに、母さんに対する愚痴をこぼしていたよ。「あいつはクソだ。自国にも恥ずかしくて帰れないだろう」なんて言ってね。それでもカナダは好きみたいで、何度か旅行に行ったよ。帰ってくれば、元母さんに対する愚痴が待ってたけどね。その頃から、母親という生き物は『クソ』なんだと思って生きていたよ」


 ようやく顔を前に向けたかと思うと、そのまま俯いてしまい、握った両手を見つめていた。前髪で表情は見えない。卵を握るような力の無さは、寂しさだろうか。死んだ秋介にしかわからない、新しい色の感情だろうか。


「僕が小学四年生の頃、一人の女性を紹介された。今度は日本人の女性で、百合さんって名前の柔らかい女性だった。もちろん、母親はクソだと思ってたから、心の底から嫌悪したさ。でも、百合さんは負けなかった。夫の連れ子だから親しくするんじゃなくて、家族になるために僕に優しくした。一年がかりで、百合さんは僕の母親に対するイメージを壊して、母親のいる家庭が大好きになった」


 弱々しくも握られていた拳が、花が咲くようにゆっくりと優しく開かれる。


「父さんと百合さんの間に、新しい子供も生まれてさ。その頃からか、百合さんのことを母さんって呼ぶようになった。新しくできた妹は可愛くてね、僕にはそれが悲しくて仕方がなかった。四人の中で、僕だけ明らかに顔が違うからね」


 秋介の声に、さらに水が加わる。開かれていた手は、今度は乱暴に握りこまれていて、怪我をしそうで危うい。


 わたしは慌てて、わたしの手の平で包み込んだ。顔を上げた秋介が、ふっと苦笑いをする。下がりきっていない目尻は、少しだけ光を帯びている。相変わらずの変な苦笑いは、この時だけ場面相応なのかな。なんて、思った。


「僕は高校生になった。幼い時から、勉強の成績はかなり良い方でね、学校の先生にも進学先を期待されてたんだ。けど、三年に上がる頃から、急激に成績が落ち込んでいった。その頃からかな。母さんの当たりが、少し強くなった気がしたんだ。「勉強は大丈夫なのか」なんて、初めて言われたね」


 秋介の声が震える。声だけでなく、握った手も震えてきて、それにともなって更に強く握ろうとする。その手を無理やりほどいて、わたしの手を握らせた。綺麗な人形が、壊れてしまわないように。


 震える指先は、わたしに悪意を伝えてくる。わたしはそれを外に逃がしてやることで精いっぱいだった。


「ある日の夜中に、母さんと父さんの会話が聞こえてきた。母さんが言った「このままの成績じゃ、東京の学校に進学できず、地元の大学を受験してしまう」ってね。心にヒビが入る音が聞こえたね。大好きになった家族だ。僕一人異質でも、幸せに暮らしている。そう思っているのは、僕一人だった」


 秋介から、雫が一粒落ちる。無理にでも笑おうとする秋介が、泣いていた。泣くのを堪えようと、身体を震わせながら眼に力を入れて。それでも抑えきれなかった一粒は、秋介の身体の間をうまくすり抜けて、コンクリートの地面に消えた。


 秋介を一度立ち上がらせ、元いた給水塔の影へと連れてくる。乾いた涙の蒸気に、秋介が触れないように。こぼしたものをもう一度拾ってしまわないように。


「夏に塾内でのテストがあって、僕はそこで成績を戻そうと考えた。そうすれば、また幸せな家族に戻れる。前みたいに、四人での幸せがあると思った。けど、結果は惨敗だった。僕の成績は下がって、父さんと百合さんの会議時間は伸びていった」


 腰を下ろした秋介は、涙の代わりに話を流していた。力を抜かず、震える声で流していく。わたしには、背中をさすることしか出来なかった。


「申し訳なかったよ。「母親はクソだ」と思っていたところから、父さんと母さんと妹が大好きに変えてもらったんだ。けれど、僕はやっぱり異質だったんだろうね。父さんが、僕の顔を見て難しい顔をするようになった。元母親の顔を見ている、そう感じた」


 一度、深呼吸を挟む。先を促さずに、ただじっと次の言葉を待った。わたしの無力さと幼さが、悔しい。わたしはまだ、幼さを克服できない。やっぱり、ただの餓鬼だ。


 秋介は、力を抜いてこちらを向いた。少しだけ、いつもの秋介に見えた。諦めを携えた、空気みたいに存在の稀薄ないつもの秋介。


「そこからは、紗英とだいたい同じさ。父さんの部屋にあった屋上への鍵を持って屋上に行き、ありがとうを沢山込めた遺書を置いて、水色の空を睨みつけて人生を終えた。大好きな僕の家族や、僕に母性愛と家族愛を教えてくれた百合さんに、異質な物の無い本当に幸せな家族を作って欲しかったからね」


 やっと笑った秋介は、ひどく疲れた顔をしていた。けれど、フルマラソンを走った後のような、すっきりとした顔もしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る