四十一段目

 今までの四年間、誰に話すこともなく、ただ溜め込んでいたのだろう。自分の死までの経験や挫折を、誰に明かすこともなく死んでいったのだ。死んだ理由の詰まった身体は誰にも理解されることなく綺麗にされ、骨になったのだろう。そして、誰にも触れられない理由だけが、ここに残った。


 死んだ先に待っていたのは、天国でも地獄でも無でもなく、永遠の時間だけだった。


「秋介は、自分を犠牲にして大好きな家族の幸せを取ったんだね」


 秋介の家族は、願った通り幸せでいてくれるのだろうか。もしそうじゃないなら、秋介の孤独は、何のために存在するというのだろうか。


「僕の話には、まだ続きがある」


 そう言った秋介。顔を見ると、今度は本当に涙を流していた。


 今までの耐えているものとは違い、川のせせらぎのように静かに泣いていた。


「僕の通夜でね、一番泣いていたのは百合さん……母さんだった。まるで子供みたいにね。周りの大人が止めるのも聞かず、ずっと僕の棺桶にすがって泣いてくれた。それから、その日僕は初めて、父さんが泣いているのを見たな。それからしばらく経って、僕はここを出られなくなった」


「どういうこと。秋介を、疎んでいたんじゃなかったの」


「違ったんだ。二人は、本気で僕のことを考えて、良い大学に通わせようとしてくれていた。「今まで苦労をかけたから、せめて将来は約束してやりたかった」って、通夜の日、父さんが泣きながら言っていたよ。」


「そんな……」


それは、あまりにも、救いが無さ過ぎる。


「今でも頻繁に、僕のお墓に家族三人で行ってくれてるみたいでね。帰って来るたびに、母さんの目は真っ赤になってる」


 秋介と同じ様に、秋介の家族もまた、秋介のことが大好きだったんだ。思いすぎるが故に秋介は読み違えた。家族の表情も、あり方も、過去も未来も。


「僕と家族に足りなかったのは、会話をすることだった。怒気を孕んでいてもいい、涙を流してもいい。ただ、もっと話をしていればよかった。気持ちっていうのは、言葉にしないとほとんど伝わらないんだ」


 わたしは、お父さんと話をしただろうか。わたしの気持ちを伝えて、父さんの気持ちを聞いただろうか。


「僕らは人間だ。複雑な感情を持って生きている。「話さないでもわかってくれる」なんて、創作の中の話だ」


 いや、していない。それを理解した途端、手が湿っていくのがわかった。


「言っただろう、親の心子知らずだって。僕ほど説得力のある人間はなかなか居ないよ。もう人間じゃないけど」


 そう言って、秋介はまた変な笑顔を見せた。最後の冗談は、まったく笑えない。


「僕が言った、三つの自殺する理由、覚えているかな」


「悲しい時と、満足した時と、意味がある時」


「一つ目は、死ぬことによって逃げるのは負けだと知るべきだ。二つ目は、他の目標を見つける喜びを知るべきだ」


 そこで、秋介はぐっとお腹に力を入れて、貯めを作った。


「三つ目、そんなもんは思い込みだ。何にしても、人が自殺していい理由なんてない。孤独は、人を壊す程に辛いよ」


 涙を流しているのに、今までで一番説得力のある顔をしている。


「寂しいなら、話をしないと。それでも死にたいなら僕のところにおいで。幽霊でいるデメリットを、ファミレスのメニューくらい豊富に教えてあげるよ」


「さっきから、冗談が笑えないわよ」


「僕の笑い方、変だろう。昔はこうじゃなかったんだ。ここに縛られるようになってから、上手く笑えないんだよね」


 本人はにこりとしているつもりなのだろうけれど、眉尻が下がり、泣きそうな顔になっていた。口角だけは、辛うじて上がっている。


「笑顔を意図的に作ることは出来るんだ。けれど、笑いや、楽しいという感情が湧き上がってきた時にそれが上手く顔に出ない。まあ、一人で居ると笑うことも殆ど無いから、別にいいんだけどね」


 一人でいるから笑わない。自虐的なその言葉は、ギャグのようでいて、でも本当は心からの悲鳴でもあるのだろう。本人にその自覚はないというのが、悲壮感を増幅させる餌になった。


「奇跡的に本を二冊拾ったけど、そもそも笑える内容のものでも無いしね」


 今まで読んでいた、二冊の本を見せる。何度も読んだのか、それとも落ちていたからか、二冊ともひどく汚れていた。


「寂しがることは、全然恥ずかしくない。笑うことと同じように、自然な感情なんだから」


 相変わらずの変な笑顔で、秋介は言った。わたしはその笑顔を、今までと同じように見ていられなかった。


「すごいね。秋介が言うと、説得力が並じゃないね」


「そうだよ。僕なんて、笑うこともままならないんだから。出来ることなら、紗英に変わって欲しいくらいだよ」


 秋介は初めから、わたしが死ぬのを止めようとしてくれていた。


「紗英は、家族と話をするべきだ。家族っていうのは、紗英だけのものじゃない。と、僕は思うからね」


 常識ではなく、秋介の考えとして助言をしてくれている。そのことに、わたしはひどく心を打たれた。


 顔も知らない一般常識という誰かではなく、わたしの友人である秋介が経験して、考えて、感じたことから出た言葉だから。


「わかった。お父さんと、もう一度話をするよ。わたしの知りたいことを聞いて、お父さんの考えもちゃんと聞く。それでもまた納得出来ないようなら、またここに来て秋介と話をする」


「それがいい。けど、紗英がここに来ることは、もう二度と無いと思うな」


「どうして?」


「どうしても」


 意味のわからない返答に疑問は残ったけれど、今のわたしは、一刻も早くお父さんと話がしたかった。次に会った時に、ゆっくりと問いただすことにしよう。


「それじゃあ、わたしはもう行くね」


 秋介の返事を待たずに、わたしは立ち上がる。秋介の返事を待っていると、先ほどの疑問がまた浮かび上がってきそうな気がしたからだ。


 お父さんと、うんと話をしよう。こんなところで死ぬわけにはいかない。わたしの人生はこれからだ。わたしの人生がこんなところで終わるはずがない。


 金網扉へ向かう。ここ数日の重みはどうしたのかと思うほど、わたしの足取りは軽かった。羽のように軽いけれど、わたしの足の裏は地面をがっしりと掴んでいる。


 身体の輪郭を感じる。世界と自分の境界線がよくわかる。わたしはまだ生きている。当たり前だ。わたしが生きると決めた以上、わたしはまだ終わらない。


 ふわふわとした気持ちは、重みを持った。どんよりとした重みではなく、小さな子供を背負っているような、これからを感じる心地よい重みだ。


 金網をよじ登る。気のせいだろうか、いつもよりも、ヒョイヒョイと登れた気がする。いつもの何倍も早く、一番上まで辿り着いた気がした。


――――とん。


 前方に落ちたわたしは、上手く着地が出来なかった。もつれる足。体制を立て直そうと、無理矢理に上を向ことする。それが、いけなかった。


 一度無理に立とうとしたものだから、腰が伸びきってしまい受け身が取れない。前に出すぎた重心は、そのまま階段の方へとわたしを引っ張っていく。


 わたしは今、誰かに背中を押された。それも、かなり強く。


 スローモーションになる視界。慌てて横にあった手すりを掴もうと手を伸ばしたけれど、惜しくも指先が触れただけだった。


 手すりに触れた爪が剥がれる。「ああ、切っておけばよかった」なんて間抜けなことを、半回転しつつ落下する身体を感じながら考える。


「生きることを、油断したね」


 逆光の眩しさに目を細める。「ああ、幽霊なんだね」足のない変な笑顔を最後に、わたしの視界は電源を無理に抜かれたように切れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る