三十五段目

 ぐるぐると巡る思考に合わせて、ぐるぐると家の近くを歩き回っていた。しかし、何もまとまらず、悶々としたまま時間だけが過ぎた。


 目的地の無い散歩は、一時間を過ぎた頃に区切りをつけた。というより、確認した時計が一時間も経過していて、仕方がなく帰宅したのだ。


 無言で玄関を開ける。静かに靴を脱いで廊下に上がり、洗面所で手を洗っていると、帰宅していたお父さんが向かってきた。


「今、何時だ」


 静かに問うお父さん。面接をする時のような無感動な声を作ってはいるが、底のほうには静かな怒りが沈殿している。わたしが何も答えないでいると、お父さんは再度問う。


「聞こえているのか紗英。今何時だ」


 無言でポケットの携帯を見る。少し前に確認したからわかっていたけれど、時間を稼ぎたかった。


「十時半過ぎだけど」


「ほとんど十一時だろう。こんな時間まで、連絡も無しに何をしていた」


 予め用意していたのか、間髪入れずに質問が飛んできた。


 考え事をしていて、しかもその考えはまとまらなくて苛々しているのに。お父さんの一言ずつが、一々煩わしい。


「うちって門限あったの」


「今聞いているのは父さんだ。先に答えたら、紗英の質問にも答えてやる」


 ああ、わたしが悪い。どう見ても、一から十までわたしが悪い。


 娘の帰りが遅ければ、心配するのは当たり前だ。先ほど携帯を確認した時、お父さんからの着信が何件か入っていた。わかっていて無視した。


 けれど駄目だ。今は素直に反省できない。今のわたしは、冷静ではない。口を開けば、矢継ぎ早に嘘や屁理屈が出てくるだろう。


「杏子と、ちょっと立ち話」


「ちょっとじゃないだろう」


「わたしが答えたら、お父さん答えてくれるんでしょう」


 お父さんの眉毛の先が、ぴくりと動く。苛立ちを感じた時の、お父さんの癖だ。


「門限は、特別設けていない。紗英ならば、常識の範囲内で帰宅時間を自己管理できる

と信頼しているからだ」


 それもわかっている。けれど、苛々する。信頼しているからって、勝手な決め付けじゃない。それに、一度破ったくらいで、そんなにも怒るようなことかな。


「電話にも出ないで、心配かけて。そんなことでいいと思っているのか」


 お父さんが、少し早口になる。ああもう、うるさい。冷静に話している風の声が、耳の奥を突くような気がする。


「お母さんのことも何も教えないで、仕事無くなったこともわたしに隠しておいて、なにが信頼よ」


 ああ、ほおらやっぱり口から出た。泣き叫ぶでもなく、怒りをぶつけるでもなく、口からこぼれ出た。わたしの、初めての反抗。


 口を開けたまま硬直するお父さん。怒りを帯びた空気は霧散して、代わりに、灰色の戸惑いが充満していく。


「今日はもう疲れたから、先に寝るね」


「あ、おい!」


 まだ思考が追いつかないお父さんを置き去りにして、わたしは自分の部屋へと逃げるように入った。


 ベッドへと倒れこむ。目を閉じると、今日の出来事がぐるぐると目の前を過ぎてはまたやって来た。


「まだ話が終わってないぞ」


 ノックの音と共に、部屋の外からお父さんの声が聞こえる。先ほどよりも苛立ちが少ないのは、戸惑いが強いからだろう。


「あしたきちんと話をするから。ごめん、今日はもう寝かせて」


 お父さんが、部屋から離れて行く音がした。


 改めて、今日の出来事を思い出す。


 杏子の目標。叩いた淳斗の頬の感触。柊さんの怒声と笑顔。初めて飲んだビールの味。秋介の疑問。お父さんの初めて見る表情。


 わたしは、本当に死にたいのだろうか。今死んだとして、残る後悔はどこに行くのだろうか。残る人たちは、泣いてくれるだろうか。


 せめて、お父さんと仲直りしてから死にたいな。


 やはりまとまらない考えは、わたしの全身を駆けまわる。走り疲れた頃に、わたしの電源はぷちりと切れた。

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