三十四段目

 秋介の方を見ると、いつの間にか本の世界へと入ってしまっていた。じっとページを眺める秋介。表情の無い顔で、ただその一ページを見ている。


 よく観察すると、本当に見ているだけだった。文字を追っているはずの黒目が動いていない。それどころか、いつまでもページを捲らない。


「秋介?」


「ねえ、紗英」


 視線は本に向けたまま、わたしが呼ぶのにかぶさるように、いつもの無機質な声を投げた。


「どうしたの」


「……」


 秋介から返事はない。黒い文章を眺める瞳は、ピクリともせず、何も教えてくれない。夏の重たい風だけが、存在を主張してきた。次の言葉を探しているのだろうか。


「紗英は、本当に死にたいと思っているの」


 突拍子もない質問に、思わず呼吸が止まる。


 なぜ、そんなことを問うのだろう。共に死のうと決めた仲間だと思っていたのに。今更過ぎるその問いかけは、わたしの心を荒ませた。


「何が言いたいわけ」


「紗英の行動が、変だと思ったから」


「何が変だって言うのよ」


「僕だって「親という存在は、須く子を愛している」なんて、乱暴な綺麗事を言うつもりはないよ。でも、紗英のお父さんは、紗英が死んだら悲しむんじゃないの」


 お父さんは、とても悲しむだろう。わたしが、想像つかないほどに。そんなこと、秋介に言われなくてもわかっている。お父さんは、わたしのことが大好きだから。


「それだけお父さんのことを考えている紗英が、どうしてお父さんの悲しむようなことをするの」


「そんなの、一時的な悲しみでしょう。時間が立てば、傷は癒えるわよ」


「傷は癒えたとしても、無くした腕は生えてはこないし、喪失感はなくならないよ」


「いつか忘れて、新しい幸せを見つけられる時が来る」


「本当に、そう思ってる?」


 脊髄反射的に反論していた口がピタリと止まった。空気がのどに詰まって、うまく言葉が出ない。


 そんなこと、思っているに決まっている。わたしは、お父さん個人の幸せを求めて欲しいのだ。何にも縛られず、結婚もしていなくて、子供もいないお父さんの幸せを。


 わたしは、お父さんと一緒にいる。お母さんは、一人出て行った。わたしに縛られたお父さんと、出て行ったことで自由になったお母さん。


 あまりにも不公平過ぎる。お父さんだって、そう思ったことが一度は絶対にあるはずだ。


 わたしは、お父さんが幸せへ向かう旅路の荷物でしか無い。その証拠に、お父さんがわたしを頼ることはなく、わたしに悩みや家のことを話してくれない。


 だからこそ、わたしは死んで、お父さんにも自由になってほしい。頭のてっぺんから足の先まで、そう思っている。


「だいたい、秋介はどうなのよ。あんただって、死ぬ人間でしょう。自分のことは棚に上げるっていうの」


「僕の死が違えることはないよ。けれど僕は、紗英に自ら命を絶つことをしてほしくない」


 秋介の目に、初めて濃く色が乗った。赤黒い、思わず身がすくむ血のような色だ。秋介の怒りか、憤りか、力が入って思わず乗った秋介の深層心理か。今までにない秋介の圧に、出かけた反論が喉の奥に引っかかる。


「紗英のお父さんの幸せは、本当に紗英が死ぬことだと思ってるの」


 一度息を吐いた秋介の目は、いつものつかめないものに戻っていた。


「わたしは……」


 本当のわたしは、どう思っているのか。心の奥のわたしは、どう思っているのか。続かない言葉が、多くを語っている。


「君は、寂しいだけだ。かまってもらえず、ぴいぴいと泣く赤子同然だ」


「うるさい!」


 肺の中にあった空気が口まで上がってきて、音と共に爆発する。その爆発を推進力にしたかのように、わたしは走りだしていた。


 乱暴に金網扉をのぼると、階段を一段飛ばしで駆け下りた。


 九階についたところで階段を左折し、先にあるエレベーターの降下ボタンを押す。運よくエレベーターはそこにいて、まだ開ききらない扉をくぐると、閉まると一階のボタンを連打した。


 やっと動き出すエレベーター。その場にしゃがみ込むと、しゃがむ勢いに負けて涙がこぼれた。


 なんの涙なのかと一瞬わからなかったけれど、心にあるのは悔しさだから、きっと悔し涙なのだろう。


 エレベーターが一階に到着するまでの一分にも満たない時間、わたしは声を上げるのを唇を噛んで耐えた。


 一瞬の浮遊感の後、ちんっという短い音を鳴らしながら扉が開く。ふらふらと立ち上がり、エレベーターを出て正面玄関をくぐる。


 携帯で時間を確認すると、九時二十分と表示されていた。脂汗と、少しの吐き気。いくつかの気持ちが悪いものは、わたしが生きていることを無慈悲に突きつけてくる。


 秋介のセリフが、脳内で何度もリフレインした。


「君は、寂しいだけだ」


 わたしは、ただかまって欲しいだけなのだろうか。いや、そんなことは無い。


 お父さんは、今までずっと側にいてくれた。同じ家で寝起きして、ご飯を一緒に食べて、「おいしいよ」って言ってくれて、「ピーマン残しちゃ駄目だよ」なんて言って、嫌そうにしながらもちゃんと食べてくれて。


 そこには、二人での生活がある。寂しさなんて、入り込む隙間はない。


 友達だってたくさんいる。クラスの友達とは仲がいいし、杏子という親友と呼べる人だって居る。


 学校でもほとんど常に一緒で、放課後も部活がなければ遊んで。夜は電話で話し込んで、「世界史は全部カタカナだから、人の名前と地名が混ざる」なんて言って、「時の流れで覚えればいいんだよ」なんてアドバイスして。


 そこには、二人の友情がある。寂しさなんて、入り込む隙間はない。


 ほら、わたしはどこにも寂しさなんて感じてない。なのに、秋介の言葉は消えない。油汚れのように、頭のなかにしつこく残る。


「君は、寂しいだけだ」


 わたしは、寂しいのだろうか。

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