第17話 佳也子からの返信

 佳也子が屋敷に戻ってきたのは、その、三日後だった。

 祐には佳也子の退院が伝えられなかった。日課の走り込みと山中に立てた十字架への祈りを終えて屋敷に戻ってきたところ、いつの間にか戻ってきた佳也子が階段の上にいたのだ。

「佳也子」

 祐は名を呼んで佳也子を呼び止めた。

 佳也子の長い黒髪が翻り、黒い瞳が祐を捉えた。

 けれど、佳也子は何も言わなかった。すぐに視線を逸らして、奥にある自分の部屋へ向かって歩き出してしまった。

「佳也子!」

 もう一度呼び止める。佳也子の足が止まる。

 佳也子は振り返らなかった。ただそこで立ち止まっているだけだ。どんな表情をしているかも分からない。

 祐自身も、何のために呼び止めたのだろうと、佳也子が立ち止まっているのを見てから思った。

「退院、したんだな」

 佳也子は小さく「ええ」としか言わなかった。そしてまた、歩き出した。

 逃げられる。

 佳也子に伝えなければ、

「次の日曜日!」

 咄嗟に出た言葉は、それだけだった。

 佳也子の歩みが三度止まった。

 階下から、佳也子に向かって呼び掛けるように告げる。

「次の日曜日に、俺、学校の寮に戻るから」

 そうすると、佳也子はまた、この屋敷で独りになる。

「今度戻ってくるのは、年末年始、だと、思う。……待っていてくれ」

 生きて、元気でいて、とまでは、祐には言えなかった。今はまだそんなことを言う仲ではない気がした。婚約者なのにと思うとおかしかったが、自分たちは三年間もそうやって過ごしてきた。その、代償だ。

 五年後、十年後には、どうなっているのか分からない。自分はまだすべてを諦めてこの家に納まると腹を括ったわけではない。

 だが少なくとも、佳也子との繋がりを断つつもりはない。これから少しずつ太くしていこうという、確かな意志だけはある。

「そう」

 それだけを言うと、佳也子はまた歩き出してしまった。

 今度こそ、祐は止めなかった。追うこともしなかった。

 しかし、もう少し何か言えば良かったか。佳也子をもう少し安心させるような言葉を――喜ばせるような言葉を、自分は言うべきだっただろうか。

 何を言えば、佳也子は喜ぶのだろう。自分はそれも未だ知らない。

 これから知っていくしかない。

 階段を上がり、自分の部屋に入った。

 すぐに気づいた。

 机の上に、文庫本が置いてある。

 机に小走りで近づいた。几帳面にもまっすぐ置かれた文庫本を手に取った。

 今度こそ、無事に戻ってきた。

 表紙がひとりでに開いた。

 白い紙片が挟まっていた。

 自分がルーズリーフを挟んだ位置だった。けれど、ルーズリーフがそのまま帰ってきたわけではなさそうだ。

 紙片を開いて、祐は目を丸くした。

 病院の売店で購入したのだろうか、縦書きの白い便箋に神経質そうな細い文字が連ねられていた。

 ――読了致しました。私にはやはり単調な文体や次々と死体の転がる銃撃戦の様等刺激が強過ぎるように感じます。けれども最後の決戦の時、相棒が戻ってきた時には安堵致しました。二人はあの侭離れ離れになってしまうのかと思っていたものですから、男同士の絆というものはよく分かりませんが、少し羨ましく思った次第です。

 ――ところで、読書がお好きなのですか? ちっとも存じ上げませんでした。宜しかったら、私の本をお貸し致します。幾らでも有りますから、仰っていただければご用意致しますので。慎重に選ぶよう致します。このような文体がお好きであるならば、私が普段好んで読むような作家の文体は回りくどく感じるかも知れません。

 祐は口元が綻ぶのを感じつつ、机についた。そして、また、ルーズリーフを引っ張り出し、鉛筆を手に取った。

 ――この話の肝は二人の友情にあるのだと思う。無償の友愛に感動するから人気がある。派手な銃撃戦は話を盛り上げるための要素でしかなくて、最後二人が再び一緒に戦うところがいいのだと思うから、それを佳也子も気に入ってくれたなら、俺はそれでいいと思う。

 ――この屋敷にいると娯楽がないから、貸してくれると助かる。

 それだけを書いて、祐は時を待った。

 この屋敷の部屋には、鍵がない。

 祐の部屋だけではなかった。けして勝手に踏み込んではならないという暗黙の了解がある上、いつも佳也子自身が籠もっているから入りにくいだけで、佳也子の部屋も、本来は、常時勝手に出入りできるはずだ。

 佳也子も生きている。食事も入浴もする。

 佳也子が部屋を出る機会は、まったくないわけではない。

 祐はその機会を待った。




 翌日、聡一と墓参りに出掛けた。

 帰ってきて、昼食を取ってから部屋に戻ると、案の定、別の文庫本が置かれていた。

 表紙の次に、やはり、白い便箋が挟まっていた。

 ――貴方と藤曲君のことを思い出しました。

 ――慎重にお選びしたつもりです。お好みに合うと良いのですが。感想を聞かせていただければとても嬉しく存じます。

 祐は笑った。ちょうど薫から夏休みの課題が終わらないから助けてほしいというメールを受信していたところだ。自分と薫の関係とあの本の中の二人の関係を比べられるのは少し憎々しかったが、今は、いいだろう。佳也子と薫が話したことはないのだ。

 いつかそういう機会も巡ってくるかもしれない。薫なら、と思える自分もいる。

 それにしても――同じ屋敷にいながら文通から始まる交流とは、なかなか洒落ている気がした。

 ベッドに身を投げ、一頁目をめくった。そこには、自分の知らない佳也子の世界が広がっているのだろう。初めて触れる佳也子の世界が待っているのだろう。

 世界が、繋がっていく。

 繋がって、続いていく。

 それは何も、苦痛に満ち満ちたものばかりではない。

 自分たちはまだ、始まったばかりだ。

 この先に、何が待っているとしても。

 繋がっていく。

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殉環の館 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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