第8章 紐帯

第16話 祐からの往信

「坊ちゃま宛にお荷物が」

 祐は驚いた。郵便にせよ宅配便にせよ、自分宛に荷物が届いたことなどいまだかつて一度もなかったからだ。

 しかも、鈴木が差し出したのは、祐でも見掛けたことのあるインターネット通信販売サイトのロゴが入った大判の封筒だった。祐が実店舗以外で買い物をしたことも、今までの人生で一度たりともない。

「俺、何にも頼んだ記憶ない……」

 呟くと、鈴木が少し笑って宛名の面を祐の方へ向けた。

 受取人は祐の名前になっていたが、差出人は佳也子の名前になっていた。

「お嬢様が注文なさったのでしょう。わざと坊ちゃま名義にして」

「そんなことができるのか」

「お嬢様から坊ちゃま宛の贈り物のようです」

 ためつすがめつしてから、もう一度祐に差し出す。

「どうやら、本のようですけれど」

 「どうします?」と問われた。

「私が代わりにお開けしましょうか?」

 祐は逡巡した。佳也子がどんな意図で何を送り付けてきたのか、祐には想像がつかなかった。

 けれど、確かに、この平たさは本だろう。それも、さほど大きくはない。

「いい、受け取る」

 祐はそれを手に取ると、自分の部屋に戻った。

 机の抽斗から鋏を取り出す。封筒の端を切り、内側に貼り付けられた梱包材を掻き分けて中身を取り出す。

 中身を見て、祐は息を吐いた。

 いつか佳也子が池に投げ入れた、あの、文庫本だった。

 祐は猛省した。

 佳也子も佳也子なりに悪いと思っていたのかもしれない。これは償いのつもりで購入したのかもしれない。

 そう言えば、自分が退院した翌朝、佳也子は戸の前に座り込んで何をしていたのだろう。まさか、自分の目が覚めるのを待っていたのか。

 すべては憶測に過ぎない。けれどだからこそ、そう解釈しなかった自分自身を哀しく思った。

 佳也子は今、病院のベッドの上にいる。

 祐はルーズリーフを一枚取り出した。

 実際は、薫の家に出かけた翌日、薫とともに書店へ赴き、同じ本を購入している。薫の家にいるうちに読破し、薫に押し付けてきた。今頃まったく同じ本が薫の家にある。

 この本は、自分と佳也子のものだ。

 ――俺はもう読み終わった。入院生活がひまなら読んで、後で返してくれ。

 ルーズリーフにそれだけを綴ると、祐は立ち上がった。


 やけに明るい廊下を行く。

 自分と入れ違いに佳也子が同じ病院へ入っていったのか、と思い、祐はつい、苦笑した。自分たちは忙しない一家だ。

 佳也子は危機を乗り越えた。意識も一度は取り戻し、目を開けて看護師と会話をすることもできたと聞く。聡一と会話をしたのか――もっと言えば、あの二人で会話が成立することなどあるのか――は祐には分からなかったが、とにかく、佳也子はもう幾日かすれば帰宅できるらしいことは分かった。

 思いの外早い退院に祐は驚いたが、聡一が言うには、最近の発作はむしろ軽いものばかりらしい。祐が野秋家にやって来てからの三年間、佳也子は比較的健康だと言う。それを聞かされた祐の胸中は複雑だ。自分は佳也子に何らかの影響を与えているのだろうか。

 個室の白いドアをノックした。

 しばらく待ったが、返事はなかった。

 改めてノックする。

 やはり、返事は来ない。

 寝ているのかもしれない。それならその方が好都合だ。

 祐はおそるおそるドアを開け、中の様子を覗いた。

 自分が入院していた時とは異なる、数々の機器が並んだ内部の様子にたじろいだ。

 脈拍を刻む黒い画面に視線を奪われた。佳也子の心臓が、動いている。その脈が自分のものよりかなり早いように思われたが、そういう病なのかもしれない。そうでなかったら、佳也子は明るい太陽の下にいられたのかもしれない。

 佳也子は物心がつく前から何時間にも及ぶ大手術を複数回経験していると聞いた。小学校もろくに通えず、中学校も病院内の特殊学級で知識だけをどうにか習得し、高校には行けずじまいで今に至っているらしい。

 自分は幸福だと、祐は思った。五体満足であることを、両親と神に感謝した。中学は途中で転校せざるを得なかったが、どちらでも大勢の友人に囲まれて過ごした。今なお、自分の身を案じてくれている人々がいる。

 佳也子には、その機会はなかった。

 歩み寄り、佳也子の顔を見た。

 長い髪が二つのおさげにまとめられていて、いつもと違って顔の全体を見ることができた。まったく日に当たらない、青白い肌――落ち窪んだまぶた――痩せこけた頬――いつ呼吸を止めてもおかしくない気がした。

 ベッドの上に、複数の管が絡み合うように繋げられた腕が出ていた。

 祐は、佳也子を起こしてしまわぬよう、静かに、佳也子の左手首をつかんだ。今度こそ、繊細な硝子製品に触れる時のように、毀さぬよう――力を込め過ぎぬよう、細心の注意を払った。

 親指の腹が中指の爪に触れてしまうほど、細かった。骨の硬さだけを感じた。

「ごめんな」

 自分は、何を、していたのだろう。

 自分は、何を、見ていたのだろう。

「俺が、悪かった」

 言うと、手を解いた。

 鞄を開いた。

 ベッドサイドにあるテーブルの上へ、ルーズリーフが挟まっている文庫本を置いた。

 文庫本が天板に触れる時音が微かに響いた。今の音に反応して起きてしまわないかと慌てて佳也子の顔を見たが、佳也子は変わらずまぶたを固く閉ざしていた。ただ、脈だけが早鐘を打っていた。

 早く鎮まりますようにと、祐は祈りながらその場を後にした。ドアを開け、部屋を辞した。

 佳也子はまぶたを持ち上げると、大きく息を吐いた。

 胸を左手で押さえた。その左手首を、震える右手でつかんだ。

「……祐……」

 心電図はなおも動き続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る