第18話 白鳥

 目を閉じて、腹に手を当てる。

 姫が瞼の裏に垣間見た未来は、赤子ではなく、たくさんの民が血を流しているところだった。


 この子は、国を乱すことになる。


 姫は立ち上がって棟の中へと走った。祭具が置いてある台から、箸を手にする。中央で木を折り曲げた部分が、蛇の頭のように見える。

 貴人の姿が浮かんだ。それを振り切るかのように、姫は袴をめくり、自らの陰部に箸を突き刺した。


 鈍い痛みが全身を貫き、姫は叫んだ。生温かい血が手を伝い、とめどなく流れて白い袴を汚す。この血は、愛しい人との子のものだと思うと、涙が止まらない。


「姫!」

 棟に入ってきたのは、大田田根子おおたたねこではなく、あの貴人だった。

「なんてことを。……薬師くすしを、早く!」

 男が床に倒れた姫を抱き起こし、屋外の大田田根子おおたたねこに言い放つ。


「いいのです。吾は、この子と共に参ります」

 眉根を寄せながら、百襲姫ももそひめは唇を噛んだ。こんなになってまで、男にもう一度会えたことを嬉しく思っている。


百襲姫ももそひめ。吾は、今さら王位など望んで、国を乱そうとは思っていない。……確かに、大田田根子おおたたねこの計略に乗って、姫の元に忍んで行った。しかし、それは貴女だったからだ」

 扉や窓から差し込む光で、男の顔がはっきりと見える。涙を浮かべる細面の顔の、なんと美しいことか。


「昔、この地と民に危害を加えないよう言った女童めのわらわに、吾は心を奪われた。身分を隠して村人に紛れ、死の恐怖におびえる幼い吾には、本当に光り輝いて見えたのだよ。吾は、祭祀権さえ戻れば、王位に興味はない。欲を出した大田田根子おおたたねこの案に同意したのは、……心のよすがとしてきた貴女への気持ちを抑えられなかったからだ」


 男が頬を擦り寄せてくる。熱い涙が伝わり、首筋をぬらす。

「姫、吾と共に河内国で暮らそう。普通の男と女として、子をもうけ、末永く一緒に」

 胸の中が温かくなる。しかし、下腹からの出血はひどく、果てのない闇へ意識が引きずり込まれようとしている。


 百襲姫ももそひめは、震える手で男の頬をなで、力を振り絞って言った。

「最期に……貴方の名を……」

 血にまみれた姫の手を、男が握る。魂をつなぎとめるように、強く。

大供主おおともぬし


 その名を、百襲姫ももそひめは小さくつぶやいた。大供主おおともぬしさま、吾が背の君。

 ゆっくりと息を吐いた姫の意識は、そのまま鳥になって飛んでいき、再び戻ることはなかった。



 倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめの死は、「蛇神である大物主神おおものぬしのかみの正体を見て、驚きのあまり叫んだため、神の怒りを買い、それを恥じた末の自害」とされた。

 大王おおきみは、百襲姫ももそひめのために大きな墓を作るよう命じた。箸墓と呼ばれる前方後円墳は、昼は人が作り夜は神が作ったと言われている。


 大王おおきみ御間城入彦みまきいりひこは、この後、巫女による託宣を反映させず、政治力のみでまつりごとを行った。祭祀権争いを収めて国の基盤を固めたことから、おくりなを「崇神すじん天皇」または「初国はつくにらす天皇すめらみこと」と言い、実在する初の天皇と目されている。


 大田田根子おおたたねこ大物主神おおものぬしのかみの祭祀権を守り、子孫に伝えた。三輪氏、鴨氏の祖先となり、死後は三輪山麓にある、後の若宮神社に祀られた。


 あの貴人については、歴史書は黙して何も語らない。しかし、箸墓付近の伝説に、垣間見ることができる。

 百襲姫ももそひめ殯屋もがりやに、若い男が来て墓守をするようになった。あまりに気高い姿なので、きっと神人なのだ、と民は噂をした。

 ある雨上がりの日、三輪山から殯屋もがりやに向かって虹がかかった。その虹は七色の蛇となり、一羽の白鳥を連れて天へと昇っていった。

 以来、男の姿は、見られなくなったという。


                                   了

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蛇神譚(じゃしんたん) 芦原瑞祥 @zuishou

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