第17話 裏切り

 朝の空気のにおいで目が覚める。すでに男はいなかった。


 姫は窓を開けて明るくし、櫛箱に近づいた。箱は、せいぜい小鳥が入れる程度の大きさだ。

 心臓が胸を破りそうなほど鼓動を打つ。姫は震えながら箱の蓋に手をかけた。決心がつくまで何度か息をして心を整え、一気に開ける。


 中には、小さな白蛇がいた。


 少し黄金色がかった白い鱗をきらめかせ、鎌首をもたげる。空洞のような丸い目が、じっとこちらを見ている。

 姫は息をのみ、後ずさりした。指先が冷たくなり、一気に足がすくむ。


「違う。……違う、違う!」

 姫は叫びながら扉を開け放ち、朝霧の漂う中に人の姿を探した。百襲姫ももそひめは近くにいるであろう誰かに向かって叫んだ。


「自分の夫すらわからないほど愚かな女と思うているのか! あれはただの小蛇、吾の良人ではない。巫女であった吾が、そんなことも見抜けないとでも言うのか!」

 白蛇には、貴人のもつ雰囲気がまったく感じられなかった。とすれば、あの蛇は姫をごまかすために男が入れたとしか思えない。


 涙があふれ、頬を伝った。

大田田根子おおたたねこ

 状況から考えれば、彼とあの貴人がつながっていたのは、ほぼ間違いない。

いましのたくらみであろう。大王おおきみの信頼を得て祭祀権を握り、巫女頭である吾をたぶらかし、鳥飛びの能力を失わせた」


 すべては手遅れだ。百襲姫ももそひめは霊力を失った。もう、大王おおきみ家の巫女頭として神に仕えることはできない。しかも、腹の中には子がいる。恐らくは、三輪族の末裔の子が。


天香具山あめのかぐやまの土で平瓮ひらかを作らせ、三輪山の神に供えようとしたのは、この大和の地をいましたちが支配できるようにとの呪であろう。最初から、国を乗っ取るつもりで……」


 足音がして、高床の下から人影が出てきた。大田田根子おおたたねこだ。

「姫、そのように取り乱しては、体に障ります。神妻らしく、毅然となさいませ」

「よくもそのような口を!」

 怒りでふらつく体を扉にもたせかけ、百襲姫ももそひめは髭面の男を見下ろした。


「姫、別に吾は、国を乗っ取るつもりはありませんでした。疫病えやみがはやったのは、民が水を大事にしなかったからです。我らの神をないがしろにし、山内に他の神を祀った。だから国が傾いた。当然の報いです」

 大田田根子おおたたねこが、いつもの皮肉めいた口調で言い放つ。


「我らの望みは、大物主神おおものぬしのかみの祭祀権でした。氏族にとって神を奪われるのは、魂を奪われるのと同じこと。他の氏族も、自分の神を取り戻そうと必死だったでしょう。我々しかり、大国魂神おおくにたまのかみを奉じる長尾市ながおちしかり」


 確かに、大王おおきみ家は「まつりごと」に通じる祭祀権を他氏族から取り上げた。太陽神崇拝を全国的に広め、宗教的統一を図ろうとした。

「自分たちの魂を取り戻そうとするのは、当たり前のことではないですか」

 大田田根子おおたたねこが、挑戦的な目で姫を見据える。

「だから吾は、一計を案じた。大王おおきみに夢の中で託宣を受けてもらおうと。鳥飛びの能力を持つ貴女に見破られないか心配でしたが、何とかうまくいった」


 あの神人の夢も、仕組まれたことだったのか。

「まさか。どうやって」

「三輪周辺では、神事に使う麻を栽培しています。その中に、焚くと意識を朦朧とさせる煙を出す種類がありましてね。それを使いました」

 神床かむどこで嗅いだ甘やかな香りは、大麻だったのだ。姫の足が震える。


「もしや、あのときの……」

 初めて貴人が妻問いに来たときにも、同じにおいを嗅いだ。体の自由を奪い、自分の答えが「いな」であったとしても、抱いて普通の女に貶めるつもりだったのか。

 姫はもはや立っていることができずに座り込み、吐き気を必死で抑えた。


「あの男は、誰なのですか」

 声が震える。必死で涙をこらえながらも、姫の脳裏に浮かぶのは、やさしげな貴人の姿だった。目を細めて笑う仕草、みずらに結った艶やかな髪、耳元でささやく聞き心地のいい声。抱きしめられたときの満ち足りた気持ちや、睦言の数々を思い出すと、やはり愛しいと思ってしまう自分が情けなかった


「彼は、大物主神おおものぬしのかみの子孫です。吾は傍流ですが、彼は最も濃い血を受け継いでいる。三輪族がこの地で支配を続けていれば、王となった方です」

 姫はすべてを理解した。自分は大王おおきみの叔母で、王位継承権がある。それに、昔は大王おおきみでなく巫女頭こそが最高統治者だった。倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめの子が王位につく可能性は、少なくない。


「祭祀権だけでなく、こんな形で権力を握ろうとするなんて……」

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