回顧16-01 審判の時




「さてさて、審判の時ですね」


 独りごちる繰絡さんが、突き抜けるような青空を仰いだ。私はミコトくんを引き寄せるようにしてから身構えたけれど、特に目立った変化は見られない。


「おっさん、何も起きねーけど」

「結果をそんなに急ぐものじゃないさ。若者はいつだって性急過ぎていけない」


 辺りを見渡すと、螢子さんが心配そうにこちらを窺っていた。その螢子さんに向けて、突然ミコトくんが大きな声で呼びかける。


「おケイ、お家に入ってて! 雨が来るよ! カミナリも!」


 只事ではない雰囲気に戸惑いながらも、螢子さんが家の中へと翻す。そして戸惑いを覚えたのは、私たちも同じだった。

 今さっきまでの青空が嘘のように、天高く広がった蒼穹が嘘のように、空がみるみるうちに黒く、くろく染まり出したのだ。

 見えない何かを感じ取ったであろうミコトくんが、自身の両肩を不安げに抱く。そして間も無く、身体全体が水の中に浸かってしまったのかと錯覚するほどの強烈な湿気が、この庭全体を包んでいった。いや、これはきっと庭全体なんて生易しいものじゃない。この町全体を──この烏丸町全体を、強烈な湿気が逆巻くようにして覆っているのだ。


 ごろごろと、低く唸るような音が鳴り響き、存分に肥えた雷雲かみなりぐもが湧き上がる──綿菓子でも作るかのように、あの山道の中の泥人形のように、垂れ下がった空の中にうねうねぼこぼこと生まれていく。


「先生、早くも嫌な予感しかしませんよ? 曇天どんてんどころか、暗天に暗転と言った感じです」


 繰絡さんの冗談に、内灘さんも誰も答えない。鼻先を擽る雨の匂いは、絶望の匂いにも似ていた。その絶望を噛み締める時間さえも与えず、ぽつりぽつりと大粒の雨が、次第に大地に降り注ぎはじめる。


 ──内灘家の中庭において、ツクヨミ様に味方をする要素は無い。


 そんな憶測は楽観視に過ぎなかった。つい今しがたまで『絶好の降臨日和』だなんて浮かれていた私は、この大気中に漂っている『水』の存在を、まるで失念していたのだ。侮っていたとさえ、言えるくらいに。


「リサちゃん、見て。あそこ……」


 怯えた様子のミコトくんが、何も無かったはずの──誰も居ないはずの空間を指差す。

 怖々と見やれば、それは現れていた。そこに現れたものが──唐突に顕現されたものが、一体何であるかなんて、今や説明は不要だろう。

 紫檀したんの双眸は、私たちを窺っていた。愚かな私を、憐れむかのような目線で。




 穢れを知らない純白のベール、美しくたなびく露草色つゆくさいろの蒼髪──その純潔におよそ不釣り合いな口元の紅が、妖艶に寝転んで「ふふふ」と寛ぐ。

 あの夜と何一つ違わない姿の神童は──何一つダメージの見受けられないツクヨミ様は、どこか恍惚さえも滲ませて言う。


「見ぃつけた」


 かくれんぼの子供のように、つまりはその鬼のように、嬉々とした感情が私たちへと向けられた。雨粒なのか冷や汗なのか分からない水滴が、額から垂れる事を自覚しながらも、それを拭うような心の余裕はすでに私に無かった。


「さて問題は一体、どこまでがはったりなのかってところだが──」


 さして動じるふうでもなく、内灘さんが淡々と言った。しかし台詞にそぐわない険しい表情を浮かべて、値踏みするような視線でツクヨミ様を観察している。


「僕に与えられた永い永い時間の中で、こんなに楽しいのは初めてだよ。ねぇ、確かこの遊びを、お前たち人間は『かくれんぼ』だとか『鬼ごっこ』だとか言うんだろ?」

「へへ、なんだよ神様、ご機嫌じゃねーか」


 乾いた笑い声でアラタが言った。

 寝起きの神様は機嫌が悪い──だったか。ミシャグジ様が冗談のように零していた言葉は、あながち的外れではなかったのかもしれない。少なくともツクヨミ様は、あの夜のような強烈な殺気を放ってはいなかったし、寡黙でも言葉少なでもなかった。

 ツクヨミ様はその見た目通りの幼さで、興味津々と私たちに問いかける。


「ねぇこの後はどうすれば良いんだい? 僕が見つけたわけだから、今度は君たちが『鬼』になるのかな? 『神』が『鬼』だったり『人』が『鬼』だったり、なんだか愉快な遊びだね」

「お前と遊んでやりたいのは山々だがよ、俺たちも呑気に──」「──そうです。次は私たちが『鬼』で、ツクヨミ様は逃げる番ですよ」


 内灘さんの言葉を遮って、繰絡さんが持ちかけた。内灘さんに任せておいては、すぐにまた険悪な展開になるのは目に見えている。繰絡さんらしい聡明な判断だった。


「うふ、とても楽しそう。またおかしな術を使って、僕を惑わすんだろ? まぁ、それくらいのズルは認めてあげないと、僕とは楽しく遊べないからね」

「ええ、気の済むまで遊んで差し上げますよ。しかしツクヨミ様──楽しいお遊びのその前に、こちらにおられる梨沙ちゃんのお話を聞いては頂けませんか」


 繰絡さんはそう言いながら、丁寧な動作で私の方を促した。私は、私が願うべきその相手と──願うべき神様と真正面から向かい合う。


「君は、刀を持ち出した子だね。とんだ罰当たりが居たものだ」


 ツクヨミ様の言葉が、アラタの推論の正しさを裏付けた。やはりツクヨミ様は、刀が三本しか奉納されなかった事を──私が宝物庫から刀を持ち帰った事こそを、不手際として認識しているのだった。ならば私は──私がツクヨミ様へと口にすべき事は、自ずと決まっているというものだ。

 雨の雫が、私の右目に入り込む。その僅かな痛みを堪らえながら、私は切り出した。


「ツクヨミ様──この度は、本当に申し訳ありませんでした。私が刀を持ち去ったばかりに、ツクヨミ様の安眠を妨げてしまいました。無知と無関心の果てに、先代から続く屶鋼の想いを踏み躙ったのは私です。積み重なる烏丸の伝統としきたりを踏み躙ったのは、私に他なりません」


 知っていようが知らなかろうが、自分の意志だろうが他人の意志だろうが──そんな事はすべて、些末な問題に過ぎない。ただ事実として積み重なってきた想いを、この地に生きる人々が産土神様と契ってきた約束を、土足で踏み躙ったのは私だ──私が反故ほごにしたのだ。


「今なら分かる気がします。私の祖父が、屶鋼宗一郎が──どうしてずっと口を噤み、人々の信仰を一身に引き受けてきたのか。ミシャグジ様やツクヨミ様が、どうしてずっと何処にも行かず、私たちと共に生きてきたのか」


 ──知らないよそんなの。


 幼い私が、胸の奥底でそう呟いた。思えば、水主祀りに納める刀を運ぶ道中で、私はそんな台詞を胸の中で唱えていたはずだ。七面倒な習わしの数々を、そんなふうに鼻で笑い飛ばしていたはずだ。


烏滸おこがましい台詞を、どうかお許し下さい。何処にも行けない私だからこそ、何処にも行けない祖父や神様の気持ちが、少しだけ分かった気がするんです」


 ──分からないよそんなの。


 大人に成れない私が、唇を尖らせてそう吐き捨てようとする。大人に成りきれない私は、ツクヨミ様へ向けて頭を下げながら、漏れ出しそうな言葉を無理矢理に飲み下している。唇を噛み締める痛みで、すべてを飲み込もうとしている。


「うふふ。口では何とでも言えるからね」


 視界の上の方に、ツクヨミ様のにやけた口元が映る。そこでは、怪しい紅色が緩慢に蠢いていた。やがて放たれるであろう糾弾の言葉を覚悟する私──あるいは、訪れるであろう死を覚悟する私。


「ツクヨミ様、俺からも頼むよ。この通りだ、どうか許して欲しい」


 アラタがそう言って、何の迷いもなく土下座してみせた。雨で泥濘ぬかるんだ地面へと、躊躇ちゅうちょなく額を擦り付けて、まるで地面よりも深く頭を下げるみたいにして、言った──願った。


「リサを、許してやってくれ。そして俺を、この烏丸町を──。俺たちは、もうこの町から出たいなんて思わない。この廃れた烏丸町を、今なら誇りに思える。この寂れた烏丸町で、ツクヨミ様やミシャグジ様と共に生きるから──どうか」


 気付けば私も、アラタの姿を真似ていた。ツクヨミ様に向かって、深く深く頭を下げる。地面に額を擦り付けて、神様へと跪く。土下座というその姿が、神様にとってどのような意味合いがあるのかなんて、まるで分かりはしないけれど──アラタの隣で、私は平伏する。アラタと二人で、神様に平伏する。




 降り注ぐ雨が、強さを増していく。誰の声も、沈黙を破ろうとはしない。

 時折混ざる雷鳴の音と、地面を打ち付ける雨粒の音。すり抜ける風の間を縫うようにして、微かに聞こえるのはミコトくんの啜り泣きだ。

 頭を下げ続けたままで、ただゆっくりと時間だけが過ぎた。雨に濡れ過ぎたのか、肩口の傷がじんじんと痛み出している。血が滲んでいるのか、左胸のあたりがほんのりと湿り気を帯びている気がした。


「さて、茶番はもう良いかい? そろそろ僕が逃げる番だろ?」


 ツクヨミ様の口を衝いたあまりにも意外な言葉に、私とアラタが反射的に顔を上げる。


「おいおいツクヨミよ、さすがにそれはどうなんだ。この子たちの覚悟を──」「うるさいな」


 思わず声を荒げた内灘さんを、ツクヨミ様が阻む。しかしその端的な言葉には、絶対零度の殺気が込められていた。


「覚悟なんて、おかしな結界を解いた時から見えているのさ。いつの世だって汚いのは大人で、子供は綺麗なものだからね」


 その言葉はつまり、私とアラタが子供であると──大人に成りきれていないのだと、揶揄しているようでもあった。そして同時に、私とアラタが許されたのだと──赦されたのだと言外に告げるようでもあった。

 ツクヨミ様は、内灘さんへ向けて続ける。未だかつてないほどの殺気を剥き出しにして、内灘さんへと語り掛ける。


「僕を利用しようとするのは、いつの世だって薄汚い大人だよ──そうだよねぇ? 赤い人」

「何を仰る……俺はただ、神様と遊びたいだけなんだがねぇ」


 内灘さんが、ツクヨミ様を見据えるようにして対峙する。その脇の繰絡さんが、そっと鋼線こうせんの束を指に構えて言った。


「ツクヨミ様、鬼ごっこでは物足りませんか? 私がお見受けした限り、ツクヨミ様はまだ本調子では無いように思います。人々の信仰の薄まりつつこの烏丸町──いいえ、この現代において、神様がかつてのような絶対的なお力を誇示するには、およそ回復の時間が足りないかと」

「ふははは、というわけでツクヨミよ。不毛な争いは避けて話し合いをしようや。俺たち愚民には、神様に縋りたい案件が控えてるんだよ」


 繰絡さんと内灘さんが、強気の姿勢でツクヨミ様に訴えかけた。私には判断がつかないけれど、どうやらツクヨミ様はまったくの無傷というわけでもないようだ。つまりはツクヨミ様自身も、この後の好戦的な展開を意図して避けているという事か。


「うふふふふ……まぁミシャグジの一撃が、僕の存在を未だに弱めているという事実は否定しないよ。けれども、たとえそうであったところで、ミシャグジ不在のこの場所において君たちに勝ち目が無いのは理解しているだろ? 僕の御前で無礼は控えるべきだ」

「おいおい、俺の一撃は勘定に入ってねーのかよ」


 一触即発の空気が場をひりつかせる。その光景に目を奪われたままの私の裾を引いたのは、消え入りそうな不安を顔全体に浮かべたミコトくんだった。








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