回顧09-02 理を塗り替える(下)




「すみません、返事は保留させて下さい。あの、頭が真っ白で……そもそも、呪いって何ですか? そんな非現実的な現象、本当にあるわけが──本気で言ってるんですか?」


 動揺を塗り潰すように私は問いかけた。問いかける事でしか、間を持たせる事が出来なかったからだ。そんな私に「梨沙ちゃん」と優しく呼びかけたのは、繰絡さんだった。無意識にベッドのシーツを握り込んでいた私の手に、華奢なその手が添えられる。


「神様が存在して、呪いが存在しないだなんて事は、ありえません。非現実的な現象を、ご自身で体験された梨沙ちゃんにならば、それが理解出来ますよね。肩口の痛々しい傷は、決してオカルトから成るものではありません。神格化がこの世界に存在する限り、その裏表うらうえである呪いの力も、必ずやこの世界には存在します」


 神格化──そう言えば聞きそびれていた。目が覚めたばかりの私に、繰絡さんはそんな言葉を語っていたっけ。説明を続けようとした繰絡さんを遮って、内灘さんが口を開いた。その口調は穏やかで、先ほど垣間見せた沈痛な悲しみは鳴りを潜めている。


「梨沙ちゃん、神様ってのは、元々は人間なんだよ。あるいは、人間に近い何か、とかな。とにもかくにも、人間なくして神様は存在しない。因果性のジレンマにならって、『人間が先か、神様が先か』って話になれば──答えは当然、人間って事さ」

「……人間が、神様に?」


 私の問いかけが、間の抜けた響きを伴って病室に響いた。差し込む夕陽も、すっかり弱々しく息絶え絶えとなっている。夜が来るのだ、と唐突に思った。夜が来る事が、とてつもなく恐ろしい事のように思えて、私は繰絡さんの手を握り返した。


「元来、すべては人間だった。ツクヨミだろうがキクリヒメだろうが、元を辿ればそれらは人間だった。ミシャグジに至ってはどうかな──蛇と蛙と蜥蜴を煮詰めた、不老不死の薬膳スープ。あるいは、そのスープを煮込んでは不老不死を嘯いていた者。はたまたそのスープを口にした者──とかな。在りそうで無さそうで、しかし在っても決しておかしくはないもの。そんなものたちに、人々の信仰は募りやすい──積もりやすいのさ。お気軽で、お手頃で、祈りやすく、呪いやすい──そんな『オカルト』たちを、人々はいつの時代も崇め奉ってきた」

「梨沙ちゃん、良いですか? 深雪しんせつのように降り積もった祈りは、いつか閾値いきちを超えるんです。閾値を越えた時、『オカルト』は『現実』へと変わる。ある日突然、唐突に、何の前触れもなく──理由さえも告げられずに、祈りの対象は『神格化』されるのです。受動的に、全自動的に、神様へと姿を変えるのですよ。もしかすればそれは、とても理不尽な現象かもしれませんね。もちろんこの場合は、神様にとっても、という意味です。神格化される方も、堪ったものではない、という意味です」


 爺じの顔が一瞬だけ頭を過ぎった。本人の意志とは無関係に、受動的に全自動的に刀匠へと祀り上げられた、屶鋼宗一郎という男の訝しい顔が。


「多くの場合、信仰の対象となるものは、既にこの世には存在しないでしょう。人々の想いが閾値を超えるには、そのくらい永い時間がかかるものです。ですから──時には蘇りさえも伴って、それらは『神格化』する。神様に──成る。否応なしに、祀り上げられてしまうのです」


 ──閾値を越えた時、神様が生まれる?


 『百匹目の猿』や、『グリセリンの結晶化』のエピソードが、うわの空で頭を流れていく。それはこの現代において、小学生でも知っている都市伝説であり、とどのつまり、与太話だ。根拠の無い共時性が、世界のことわりを塗り替える──そんな子供騙しのシンクロニシティを、一体どう信じろと言うのだ。

 憤りにも似た感情が私を包む。繰絡さんには申し訳無いけれど、もしや組織的な詐欺の標的にでも選ばれたのではないか、と自嘲の笑いがこみ上げてきた。せめて、テレビで度々見かけるような、ドッキリ番組のターゲットだとかそういうものであって欲しいと願った。


 けれど、そんな心の片隅で、さめざめと理解を示す自分が居るのもまた事実だった。ツクヨミ様に穿たれたこの肩口の傷が、今も続く鈍い肩口の痛みが、疑いようもない現実を私へと告げている。戸惑う私の表情を覗き込みながら、内灘さんが言う。


「梨沙ちゃん、いかにも納得いかないってつらだな。もちろん気持ちは分からんでもないが……なぁ、『若者言葉』ってあるだろ? ほら、良いも凄いも、美味いも可愛いも格好良いも──何でもかんでも一緒くたに、『それヤバいよね』とか言っちまうアレだよ。俺くらいの年齢になると、正直ついていけない事も多々あるんだが、ああいう若者言葉ってのは、言語学に照らせば『スラング』として定義されるんだ。やや大味で広義の定義かもしれねーが、特定の地域の、特定の世代の、特定の趣向の中でのみ意味が通じる言葉──それがスラングだからな。で、肝心の話はここからさ。その若者言葉が、それこそ『ヤバい』って言葉が、この先ずっと浸透し続け、永きに渡って使われ続けると、どうなると思う?」


 饒舌に語る内灘さんへと、私は端的に答える。「誤用されていた意味が、いつか本物の意味になります」と。


「ああ、正解だ。地域を限定して定着すれば、それは『方言』として、地域を限定せずに定着すれば、それは『日本語』として、その言葉は昇華する。そしてめでたく、国語辞典なんかにも載るだろうよ。分かるかい梨沙ちゃん。それが『閾値を越える』って事だ。国語辞典に載ったその瞬間こそが、言語にとっては『閾値を越えた瞬間』ってわけさ。あとはそれを、『信仰』だとか『神様』だとかに置き換えてみれば、言うほど不思議な話でもないと思うんだが」


 私は曖昧に頷いた。正直な感想を述べれば、内灘さんの例題はとても分かり易いと思う。加えて、内灘さんの言おうとしている事が、決して分からないでもない。けれど、それをすんなりと受け入れてしまって、果たして本当に良いのだろうか?


 この世の理が、違うものへと捻じ曲げられる事。換言すれば、この世の理が新しく組み替えられる事。人々の想いが、祈りが、憧れが、願いが──蓄積し、集積し、濃縮し、いつか『閾値を越えた』時。それらがぜて、形と成って、新しい神様を創り出す、それが『神格化』だとして──。


 めでたしめでたし、とはならないだろう。

 それこそ繰絡さんの言う通り、そんなの『堪ったものではない』だろう。


「なぁ梨沙ちゃん、感じただろう? 俺の話を聞いて梨沙ちゃんが感じた通り、想いの力ってのは、恐ろしく理不尽なものなんだ。だからこそ神様は、理由を欲しがっているとも言える。生み出された理由、存在の理由、呼び出された理由、遣わされた理由──ありとあらゆる理由を、神様こそが求めている」

「……内灘さんお得意の『存在理由』ってやつですね。神様にとっての、レーゾンデートル」


 皮肉めいた私の物言いにも、内灘さんは満足げに頷いた。悠長にも緑茶の残りを飲み干してから、内灘さんは続ける。


「がはは、そういうこった。んでまぁ、話を戻すとだな。神格化ってのは、プラスのベクトルに向いた力だ。時にありがた迷惑でこそあれど、あくまでもその力はプラス──陰陽で言うところの陽に向いている。そして今度は、そのベクトルがマイナスに向いたものをイメージしてみるといい。簡単だろ? 祈りや憧れじゃなくてよ、恨みや憎しみに置き換えるんだよ。そうすればほら、見えてきやしねーか? 理不尽よりも理不尽で、理不尽極まりない呪いの存在が──」


 つまり、陰陽の陰──目を閉じて想像すると、流行りもののホラー映画や、巷間に広がる怪談のあれこれが脳裏に浮かんだ。しかしそれらを塗り潰すようにして、まぶたの裏側でありありと再生されたのは、ミシャグジ様が操っていた泥人形の姿だった。禍々しくも生々しい、あの人外の姿にこそ、呪いという言葉がしっくりと当てはまったのだった。


「あの泥人形は、どうなんですか? 見ているだけで痛々しいあの泥人形たちは、一昔前に流行ったキョンシーなんかよりも、ずっと無残で惨たらしい姿でした。陳腐な言い方かもしれませんが、それこそ呪われた者のようでした」

「あれは呪いどころか、むしろ祝福だわな。ただの土塊つちくれに、物好きなミシャグジが魂を分け与えたのさ。あの姿が痛々しいのは確かだが、それは俺らの主観でしかない。そういった意味も含めて、呪言じゅげん言祝ことほぎは本質的に同じものだ。全ては受け取り手の主観に委ねられるのさ」


 私は、薄闇にしゃがみ込むミシャグジ様の背中を思い出した。神風となって散った泥人形たちの魂を、愛おしそうにその掌に集めるミシャグジ様の姿。お世辞にも神様には見えない化け蛇──その見目形をおぞましく思うのも、土塊を愛でる寂しげな姿に心打たれるのも、結局は私の主観の問題でしかないのか。


「いいかい梨沙ちゃん。この世界に絶対悪が存在しないように、祝いと呪いは表裏一体なのさ。『褒め殺し』って言葉もあるだろ? 褒められて伸びる奴だってごまんと居るが、褒められて潰れる奴だってごまんと居るんだ。褒め言葉の一つ一つが、自身を縛り付ける重圧になるんだろうな。蓄積した褒め言葉が、真綿のように首を締めていくのさ」


 憔悴しきった爺じの顔を思い浮かべる。烏丸の皆が屶鋼宗一郎へと寄せる信仰は、見方次第では呪縛と言えるのかもしれない。敬仰するというその行為こそが、呪うという行為に等しいのかもしれない。まるで薬の薬毒のように、敬拝や礼賛らいさんが爺じの心を追い詰めていったのかもしれない。


「先生、『百聞は一見に如かず』という言葉もありますし、まずは会って頂くのが良いのではないでしょうか? 梨沙ちゃんも、先生の息子さんの姿をその目でご覧になり、お返事はそれからになされば良いと思います」


 延々と問答を続ける私たちを見兼ねたのか、それとも私の精神状態をおもんぱかってくれたのか、繰絡さんは内灘さんをなだめるように言った。そして今度は事務的な口調で、「先生、面会時間はそろそろ終わりですよ」と告げる。見やれば壁掛け時計が、夜の七時を示そうとしていた。内灘さんは五分刈りの頭を掻き毟りながら、「ったく、糸織はいつでも的確だね」と顔をしかめる。


「そうだな梨沙ちゃん、まずは会ってやってくれ。ツクヨミに願う願わないは別として、息子の話し相手にでもなってやってくれよ。どこかの誰かさんみたいに、口だけは達者なんだぜ」


 軽口を叩きながらも、内灘さんの目は柔和に緩み、私を真っ直ぐに見据えた。歪曲も婉曲も無いひたすらに真っ直ぐな眼差しには、わずかな懇願の色さえも浮かんではいない。私の自由意志に委ねたところで、私が導き出す結論はどのみち同じという見立てなのだろう。そしてその見立ては、概ね正しい。


「……分かりました。そもそも私は、内灘さんを頼る事しか出来ませんからね」


 そう言いながら私は、下唇を噛んだ。責任を取るだなんて壮語しておいて、結局のところ私は、無知で無力な小娘でしかないのだ。けれど私は、生意気にも言葉を繋ぐ。悲観的な私は、お亡くなりになったのだから。繰絡さんだって、そう言ってくれたのだから。


「最後に一つだけ聞かせて下さい。内灘さんは、アラタにも同じ説明をしたのですか? アラタは信じていましたか? アラタはなんて?」


 質問を繰り出すそばから、これじゃあ三つだ、と気恥ずかしさを覚えた。それと同時に、肝心なところでアラタに縋ろうとしている自分に嫌気が差す。しかし私は、せめて認めなければならない。アラタの気持ちを確かめずして先へ進めない自分こそが、屶鋼梨沙という人間なのだと。


「ああ、もちろんしたとも。梨沙ちゃんと違って、新太くんは物分かりが良いよ。俺の言う事をすんなりと理解して、信じてくれたさ」

「アラタは私と違って、真っ直ぐですからね。ただアイツが、内灘さんの話を本当に理解しているかどうかは疑問ですけれど……」


 そんなアラタの率直さを、私は心底頼りにしている。私に足りない瞬発力を、アラタは私に与えてくれる。今までもそうだったし、これからもきっとそうだろう。自分勝手に、自分本位に、私はそう思う──そう願う。


「梨沙ちゃん、お顔がにやけてますよ。お熱いですね」

「違いますよっ。むしろ心配なくらいです。即断即決で借金の保証人とかになっちゃうタイプですよアイツは」

「それはそれは……梨沙ちゃんがお嫁さんとしてきちんと支えていかなくてはいけませんね」


 心底楽しそうに私を茶化してから、「私ももぎ頃なのになぁ」と独りごちる繰絡さん。その呟きをまったく無かったものとして、内灘さんは続ける。


「けどまぁ、案外新太くんの方が、根はしっかりしてるのかもな。だってよ、彼はこう言ったんだぜ。『おっさんの言ってる事が嘘かどうかは、その子に会えば分かるし、考えても仕方ないからな』──単純ながらも、なかなか正鵠せいこくを射た発言だ。恐れ入るよ」


 内灘さんはそう評価したものの、アラタにしてみればただ当たり前の事を言ったに過ぎないのだろう。アイツは私と違って、物事の本質を敬遠したりはしないし、自分の本心を誤魔化したりはしない。迂回は無駄、遠回りは不必要、後回しは理解不能──それが古知新太という人間だと、私は捉えている。


 アラタの変わらない率直さを誇りに思いながら、私は言う。「明日出るかもしれない答えに、足踏みする必要は無いですね」、と。のっそりと立ち上がり内灘さんが返す。「そういうこった。明日が訪れる有難さが身に染みるぜ」、と。


 私の肩口を指差しながら、内灘さんが顔をしかめてみせた。「いい年して、素直に謝れないんですかねぇ」と、横槍を入れる繰絡さんは何だか嬉しそうだ。ややあってから内灘さんは、肺に空気を溜めるようにして、細く長く息を吸い込んだ。


「梨沙ちゃん、済まなかった。もしもその傷のせいで嫁の貰い手がなくなったら、俺が責任を持って引き取らせてもらう。屶鋼の爺さんにも、俺の口からそう謝罪しよう」

「いえ、結構です。謝罪も引き取りも、どちらも必要ありません。そもそも私を引き取ったら、内灘さんが若干得をしますよね」


 その申し出をぴしゃりと撥ね除けると、あろうことか内灘さんは、「せっかく謝ってやったのに」とぶつくさ呟き、「自分をどんな良い女だと思ってるのかね」と悪態をついた。おそらく二回りは年の離れているであろう男性が、アラタよりも子供染みた行動を平然と取ってくる事に、心からの軽蔑を覚える。考えるまでもなく、私と内灘さんの相性は最悪だ。こんな人に引き取られるくらいなら、一生独身を貫いた方が良いと、私は密やかな決意を固めた。


「というわけで先生、引き取りを拒まれたところで、そろそろお引き取りを。婦女子へのお見舞いを長引かせるのは、ちょっとしたマナー違反ですよ。梨沙ちゃん、私は用心のために近くにおりますから、何かあればいつでも呼んでくださいね。今晩はごゆっくりとお休みください」


 そう言って繰絡さんは、私へと名刺を差し出した。特に飾り気の無い、スタンダードな白い名刺だ。手にとって見やれば、『八百万案件請負人見習やおよろずあんけんうけいおいにんみならい 繰絡糸織くりからいおり』という漢字ばかりの肩書きと、携帯電話の番号が記されていた。上方に視線を戻すと、ぶっきらぼうな態度で内灘さんが言う。


「俺のは無いぜ。名刺なんて持つガラじゃねーし、糸織が物好きなだけさ。まぁ俺らに頼む仕事なんて、無いに越した事はない。探偵の浮気調査よりも値が張るしな」


 内灘さんはそう言い残して、「じゃあな」といった仕草で病室を出て行った。果たして私は、その高額な代金の代わりに一体何を要求されるのだろうか。八景鏡塚で内灘さんの使った『代償』という言葉が、今更のように戦々恐々とした緊張感を連れてくる。


「えへへ、いちいち芝居がかった人でしょう?」


 嬉々とした表情で繰絡さんが問いかけ、私は肩を竦めてその答えとした。昨晩の宝物庫で繰絡さんが言った通り、仕事のパートナーとしても恋のパートナーとしても、内灘さんはちょっと考えられない。そんな私の心中を察したのか、繰絡さんが言葉を付け加える。


「けれど梨沙ちゃん、先生はあれでいて良いところもあるんですよ。いつの間にかこの病院の敷地内は、泥人形の匂いでいっぱいです。私の予想に過ぎませんが、新太さんのお宅の周りも、きっと今頃そうなっていると思いますよ」


 子犬のようにくんくんと鼻をひくつかせてから、繰絡さんは微笑んだ。屈託の無い微笑みの奥に、内灘さんへの揺るぎない信頼が見て取れる。子犬が飼い主に寄せる忠誠心と、甘やかな恋心にも似た憧れ──そんなものを同時に連想させる繰絡さんの笑顔は、見惚れてしまいそうなくらいに可愛らしかった。


「一つ二つ良いところがあっても、まだまだマイナスです」


 意地悪くも私がそう言うと、「可愛げの無いところが梨沙ちゃんの可愛いところですね」と強烈なカウンターをお見舞いされた。思わず閉口しそうになったけれど、気力を振り絞って精一杯の笑顔を作り、私は言う。


「繰絡さん、今回の一件が片付いたら、内灘さんの良いところをもっと聞かせてくださいね」


 満面に喜びを隠そうともせず、鼻歌を口遊みながら立ち去る繰絡さんは、可憐な少女そのものだった。



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