終章 「有限と夢幻」

Side B <揺蕩うライオン>

 

  17

 

 ロクサーヌの佇まいは、笑ってしまうくらい、ちっとも変わらなかった。

 辺りは相変わらず静かで、賑わっている様子もない。薄い木製のドアを開けて中へ入ると、そこには一人を除いて、誰も居なかった。

 カウンターで穏やかな笑みを浮かべるマスターは、やっぱり、少しも変わっていない。

「……ご無沙汰、してます」ぎこちない挨拶とともに、会釈をした。「アイザックです。覚えてもらえてるかな」

 彼は言葉で答えない。ただ、静かに頷きを返す。そうして、カウンターの裏にあるスタッフ・オンリーの扉を視線で示した。

「この先に?」ぼくが尋ねると、マスターはもう一度、小さく点頭した。

 この先に彼らがいる。あの日以来、今日まで一度も会うことのなかった彼らが。

 あの日。

 グレースとアレックスの二人を残して、ぼくらはアジトから逃げ出した。それから今日に至るまで、互いに一度の連絡も取り合っていない。

 万一の事態に見舞われた場合の、それは組織としての決め事だった。

 二年間、メンバー間の接触および連絡を避けること。そしてぴったり二年後の同じ日に、決められた場所――喫茶ロクサーヌの従業員控室――で集合すること。そのとき集まったメンバーで、組織の活動を再開すること。

 ぼくは深く息を吸って、ノブを回した。軽い音と共に、戸が開く。

 

  *

 

「アイク、久しぶり」フラックスの豊かな髪の毛を揺らして、彼女が言う。「元気そうだね」

 思わず、息を詰まらせそうになった。

 二度と会うことなんか出来ないかもしれないと思っていたエミリアが、当たり前のような顔をして、すぐそこに居る。

「なんとかね」と、ぼくは辛うじて平静を装って言った。

「他の皆は、まだなんだ」彼女は僅かに目を伏せた。「少し早かったかな」

「もしかしたら、まるで別人みたいになって、わからなくなってたりして」ぼくは言った。「……エミリアが変わってなくて、ほっとしたよ」

 エミリアは、にこりと笑って首を傾げた。その仕草が懐かしくて、おまけにとても魅力的だったから、ぼくはまた、胸が締め付けられるような気持ちになる。

「皆、元気だと良いね」彼女は少し視線を逸らしながら、小さな声でそう零した。「グレースも……それに、アレックスも」

 ぼくは何も言わずに頷いた。

「アイクはさ」エミリアが、思い立ったように弾んだ声を出す。「この二年間で、どう変わった?」

「どうかな」ぼくは、窓の外に広がる空を見上げた。「皆のことは、しょっちゅう考えてたよ。今日の約束のことも」

「それ、わたしも」と彼女は笑った。

「昔、想像したことがあったんだ。二年間ルールが実際に必要になったら、ぼくはどうするんだろうって」天へ向けて投げかけるように、ぼくは呟く。「案外、組織の活動なんか忘れちゃって、普通に暮らしていくのかもしれないって思ったこともあった。言ったよね。ただでさえ、ぼくはいつだって組織から抜けられるような、中途半端な態度で参加してきたんだ。危ない状況になったら、素知らぬ顔で逃げ出すのが似合いなんじゃないかって、卑屈っぽく考えたりした」

 エミリアの方を見ると、彼女はこちらを向いて目を細め、笑窪を作った。

「だけど実際にそうなってみたら、全然、そんなことはなかった。当然ぼく自身の態度が変わったってことも、あるのかもしれないけど……」ほっぺたに出来た魅力的な窪みに若干気を取られながらも、ぼくは続ける。「組織に関する色々なことが、ずっと気になって仕方なかった。それに不思議な話だけれど、組織の活動を実際にやっていた頃よりもはるかに、自分たちが扱っていた問題に対する興味は大きくなった。ぼくらがこうして現に生きている社会において、どういう問題がどんな形で表出しているのか。組織はそこへ、どう立ち向かおうとしてきたのか。漠然とではあるけれど、そういったことをよく考えてたよ。だから、そうだな。変わったと言えば、モチベーションが変わったかもしれない。今のぼくは、いつになくやる気だ」

「あのね、アイク」エミリアは、笑いを堪えているみたいな声で言った。「あなた、変わったよ。すっごく変わった。多分、自分で思っているよりもずっとね。前に、言ったことがあるのを覚えてる? 思ってもいないようなことを言って、それを自分で本気だと信じちゃうのは、良くないよって」

「ああ」とぼくは返事をした。「よく覚えてる。いつ、どんなシチュエーションで言われたのかも思い出せるよ」

「今のあなたには、そういう雰囲気が全然ないもの。何かを遠ざけようっていう意思を、感じなくなったって言うのかな」彼女は勢いよく言う。「以前はもっと、自分から話をするときでも、そのことによって身を守ろうとしているみたいなところがあった気がする。意識的にそうしていたわけでは、ないだろうけどね。でも、だからこそ、あなたは変わったって言えるんだと思うよ」

「そういうものかな」ぼくはゆっくりと首をひねった。「自分では、そんなにぴんと来ないけれど。でも、エミリアが言うなら、きっとそうなんだろうね」

 その言葉の何が可笑しかったのか、エミリアは声を上げて笑った。どうして笑ったのかが気にならなくもなかったけれど、口に出して理由を訊くのはやめておくことにする。

 彼女の笑い声が途絶えると、部屋の中が急に、しんと静かになった。

 ぼくはもう一度、窓の外に目を遣る。白く輝く灼熱の恒星は、今日も地上を照らしている。蒼穹はどこまでも澄み渡り、筋状の雲がゆっくりと流れていく。

 何となく、ワールドマイゼルのことを思い出した。もはや観測することすら叶わないあの世界で、起こるかもしれない出来事に思いを馳せる。

 仮想世界に住まう彼らの見上げる空も、こんな風にブラッド・ブルー血のような蒼色をしているだろうか。彼らもまた我々と同じように、言葉にはできない様々な思いを、空へ託すことがあるのだろうか。

「ねえアイク」やがてエミリアが、いたずらっぽい口調で言った。「もしこのまま、他に誰も来なかったら、どうしようか?」

 なるほど、とぼくは思う。

 以前だったら、彼女のこういう台詞を、ぼくは半笑いで聞き流していたかもしれない。それなら確かに、ぼくという存在はずいぶんと大きく変わったんだろう。

「さっき言ったろ」そう、躊躇いなく答える。「今のぼくはやる気なんだ。他に誰も来なくたって、再開するよ」

「……なんだか、アイクじゃないみたい」言って、彼女はぼくの横合いから、ぬっと顔を突き出してきた。「でも、すごく嬉しいよ。また一緒に頑張ろうね」

 口から飛び出しそうになった心臓をなんとか飲み込んで、首肯した。

 それを見たエミリアは「変な顔」と、ぼくを指差して笑う。ぼくはそれに少しむくれて、「そんな言い方はないでしょ」と言い返した。

 そうやってぼくらは二人、残るメンバーの到着を待ち続けたのだった。

 

                     <The Floating Lion> is the END.

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