第六章 「再生」

Side A <S.V.A.>

 

  17

 

「エンジニアは用意周到だった。自分が惑星マイゼルに関与できなくなったと知るや、実験に見切りを付けた。外部からの関与に対して完全なプロテクトを施し、調停者にインストールされたプログラムを消去するパッチを走らせたんだ。一連の操作は、あらかじめアプリケーションに仕込まれていて、遠隔で実行されたわけだ。こうして、実験はおしまいになった。彼と出資者の他にはGGの正確な位置を知る者も居ない。もはやワールドマイゼルは誰にも停止できないし、手出しもできない。この世界に与えられた意味は、完全に失われた。後のことは、我々には知る由もない。オレに宿る職業的義務意識も、気付けば無くなっていた。それで、迷惑をかけたお詫びってわけじゃないが、あんたには事実を伝えておくべきかもしれないと思って、最後にこうしてやって来た」

 手代木の話が終わった。

 長い回想であり、物語だった。それによれば、僕の知らない世界で起こった出来事が、いつの間にか僕らに対して多大な影響を及ぼしていた。

「僕らの世界は、何度もやり直された挙げ句に出来上がったものだって言うのか」

「そうだよ」手代木は頷いた。「とりわけ核兵器が産まれて以降、人類は幾度となく危機に瀕してきた。破滅を回避するためにリセットボタンが押され、たくさんの調停者が駆り出される羽目になった。倫理の問題など何処へやら、人類を存続させるためならば、直接の数値的介入を除いて彼らは何でもやった。ここ数十年、いわゆる大国同士の戦争は起こっていないが、それでもこの間の地震のときには、巻き戻しを余儀なくされた。発電所の事故による放射能汚染で、世界中が地獄を見る羽目になったせいだ」

 気分が悪い。

 ふざけた話だった。こいつは頭がおかしいか、さもなくば冗談で僕をからかっているのだと断じて、この場を立ち去るのが正しいやり方に思えた。

「そう。実際のところ、あんたはそうするしかない」手代木は、僕の内心を見透かしたように言う。「この世界を支配する連中の存在は、人間には決して証明できない。どころか今となっては、現に支配そのものがない。実験は、尻切れとんぼのままに終わってしまった。あんたがいくら声を大にして支配者や調停者の存在を叫んだところで、得られるのは統合失調症の診断書くらいのものだろう」

「……お前の話は矛盾だらけで、真に受けるに値しない」僕は言い返した。「その連中は、お前らが勝手な真似をしないように、監視していたんだろ。だったらどうして、僕や石山に手出しできたって言うんだ」

「簡単だよ」手代木はすぐに答える。「オレがやったことは、調停者の管理権限に属するものではない。あんた達の持っている音楽を聴いたり、ボリュームを上げて本人にも聴こえるようにしてやったりといったオレの能力は、誰かに与えられたわけじゃない。彼らはこの世界に、こんな力が存在すること自体を知らないはずだ。だから監視の網には引っかからなかった。それだけだ」

「存在を、知らない?」

「ワールドマイゼルを作った連中が外界を認識する方法は、この地球に生きる一般的な人類と大きく変わらない」彼は淡々と続けた。「そうでなければ、仮想世界における実験によって得られた観測結果を、現実の社会に適応できるとは言い難いからだ。物の見方や考え方が、そもそもかけ離れているようでは話にならない。五感を備え、言語に近いシステムで意思の疎通を行うという生物としての基本的な構造は、ほぼ同じなのさ。つまり、連中にとってもオレのような物事の認識の仕方は、理解の範疇外にある」

「それこそおかしな話じゃないか」僕は手代木の論説を一笑に付した。「僕らが地球と呼んでいるこの惑星は、人為的に作られたものなんだろ。どうして、作った当人が認識できないようなものが存在するんだよ」

「変異と淘汰によって擬似的な生命を生み出すという実験の精度が、それだけ高かったということだ。本件に関わったエンジニアは、非常に優秀だった」手代木は動じない。「組織の中にも、オレとよく似た能力を持った奴がいた。そしてもまた、周囲からはほとんど理解されていない。他とは違う仕方で、世界の在りようを捉えているからだ。つまりワールドマイゼルの開発者は、本人も知らないうちに、自分が持っている認識の枠組みを超えた存在を、再現しちまったわけだ」

「だったらどうして、手代木がそのことを知っているんだ」

「そのこと、って?」

「とぼけるなよ」僕は語気を強めた。「最初から、おかしいと思ってたんだ。調停者が介入をスムーズに行うために、実験の状況をある程度知らされていたとしても、不思議ではない。これは認めても良い。だが、長々と語ってくれた組織の人間関係だとか、メンバーの一人が特殊な能力を持っていたなんて話が、プログラム内の登場人物に知らされているとは到底考えられない。特に後者は、本人以外からはまともに受け止められていないんだろ。誰が、どうやって、そのことを手代木に教えてくれたって言うんだ」

「ああ」手代木は無感動に呟いた。「聴こえるんだよ」

 ぞわりと、背筋に嫌なものが走る。

 見てしまった。

 彼の目を、見てしまった。ぽっかりと開いた洞穴みたいに、大きく落ち窪んだ両目を見てしまった。一切の感情を宿さない、まっくらな瞳を見てしまった。

 それは、何物も意識の内側に映し出すことのない、調停者ロボット視界センサーに他ならなかった。

 こんな顔をした相手と、僕はずっと向き合い続けていたのだと思うと、不意に恐ろしい気持ちが湧き上がってくる。

「あの場所に居ると、何処とも知れない遠くから、何人かの音楽が聴こえてきた」彼はのっぺらぼうの声を止めない。「それは、不思議な音楽だった。聴いたことがない種類の旋律や拍子が用いられていた。当然、この世界に誰一人として、まるっきり同じ音楽を持っている人間なんていない。だけど、そういうんじゃないんだ。それまで聴いてきたものとは、何かが決定的に違っていた。一度に何人もの音楽が鳴り響くときもあれば、一人分しか聴こえないこともあった。オレはその正体が気になって、来る日も来る日も通い詰めた。あんたの働いていた、あの店に」

「……ロクサーヌ」

「そう、喫茶ロクサーヌだ。あそこに居るときにだけ、遠いところから聴こえてくる音楽があった。それがある時にふと、この世界を作った連中の持っている音楽だということに気が付いて、オレは何とか手出しが出来ないかと考えるようになった」訊いてもいないのに、手代木は続けた。「が、結論から言ってしまえば、そいつは無理だった。あんたや石山茜音に対してやったみたいに彼らの音楽を弄り回すことは、オレには出来なかった。だが、それ自体が、聴こえてくる音楽が違う世界のものだということの証明でもある。次第にオレの興味は、音楽そのものや、そこから垣間見えるキャラクターに移っていった」

 僕は思い出す。大学時代、持て余した時間を、喫茶店でのアルバイトに充てていた頃のことを。

 日がな一日、ロクサーヌの一席に陣取って、誰と話すでもなく長時間に渡って居座り続けた手代木洋介の佇まいを、思い出す。

「あんたに聞かせた話は、オレがあの店で音楽を聴きながら、頭の中で組み立てたものだよ。だから、オレの妄想だとか創作だと言われても、真っ向から否定しようと思うほどに的外れではない。事実、見たり聞いたりして来たわけではないからね。でも、大きく間違っていない自信はある。音楽はテーマだと言ったが、テーマはそれを持つ者の性質を色濃く反映するからだ」

 手代木は、話は終わったとばかりに小さく咳払いをすると、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。それから実際に「そろそろ、話は終わりだ」と呟く。「だいぶ、時間を食っちまったな」

「最後に一つ教えてくれ」僕は言った。

「ああ」

「お前は、自分の音楽を聴いたことがあるのか?」

 その質問にも、手代木はやはり眉一つ動かさずに答えた。

「さあ、どうだっけな」黒いガラス玉が、僕の目を見る。「聴いたことはあるかもしれないが、色んな音の残響で、もうどれが自分のだったか……」

 何かを誤魔化しているという風ではなかった。手代木洋介は本当に、自分の音楽を見失っているのだと思った。

「手代木はもう、調停者じゃないんだろ」

「そうだ」彼は頷く。「明日からは、心を入れ替える。髪の毛も黒く染めないとな」言って、自分の髪を人差し指にくるくると巻きつけた。

「あのさ」僕は真っ直ぐに、手代木を睨み返した。「決めたよ。曲のタイトル」

「そうか」彼は頷いた。

「アルファベット三文字で、S.V.A.だ」僕が言うと、「何かの頭文字?」と手代木が訊いてくる。

自殺少女の攻勢Suicidal Virgin's Assaultだよ」

 応えて告げたときに、彼の口元が釣り上がった。

 暗闇みたいな目の色は相変わらずで、口だけで笑う顔は不気味極まりなかったが、それでも手代木の表情には変化があった。

「傑作だ」と、手代木は呟く。「そう……確かにそれは、あんたの音楽に相応しい」

「石山はお前に殺されたわけじゃない」僕は、一息にそう言った。「手代木のやったこと、耳鳴りの増幅はあくまでも『問題に直面させる』ってことでしかない。仮に、僕らからすれば意味不明な動機の殺意が介在していたのだとしても。だったら、誰かが彼女を殺したと言うのなら、その犯人はやっぱり僕たち全員だ。個々の責任を過剰に受け取ろうとするのも、反対に矮小化しようとするのも、同じように間違っている。彼女は様々な要因が積み重なって、自分で自分を殺したんだ」

 不自然な笑みを浮かべたまま、手代木洋介はこちらを見据えている。

「……ずっと、考えてた」虚ろな両目から視線を逸らさずに、僕は続けた。「石山茜音の死は、命を懸けた攻撃だったのか。それとも、逃げ場をなくした挙句、どうしようもないぎりぎりの地点での防御だったのか。どっちへ転んでも、苦々しい話だ。彼女が耳鳴りで精神を病んでいたのだとしても、齎される結果が無力さを浮き彫りにするだけのものだとしても、自殺が、石山の最後の意思決定だったことに変わりはない。僕はそれを、明確な形で尊重することも、また逆に踏みにじることも、選びたくはないと思っていた。いずれにしても結局、石山茜音という人間を辱めるだけなんじゃないかって、そんな気がしてた。そもそも僕なんかに、彼女について悩みを持つ資格があるのかどうかも、わからない」

 彼は相槌一つ打たない。

 僕は喋りながら、瞳の奥の伽藍洞を覗き込む。

「自殺をどんな風に解釈して、位置づけたところで、死んでしまった石山が救われることはもはやない。救われることが出来るのは生きている人間だけで、自殺するっていうのは、つまり救いの可能性を絶つことだ。僕は死んでゆく石山を救わなかったし、救えなかった。同じように、既に死んでしまった石山のことも、やっぱり救えないし、救わない。開き直るつもりはないけど、それが本当のところなんだ。死は、あらゆる意味で空虚だ。石山茜音のやったことは、何にもならなかった。……少なくとも、彼女自身にとっては」僕は深く息を吸ってから、言葉を継いだ。「でも、後には僕が残った。猫田健二郎や、森塚英嗣も残った。もしかしたら、手代木洋介。お前も彼女に遺された〝人間〟なのかもしれない」

「それが、石山の攻撃ってわけか」突然、手代木が口を開いた。

「僕はそう決めた」その問いに、頷きを返す。「自殺する人間の数を減らすとか無くすなんて、そんな大それたことは言えない。だけど自分自身も含めて、石山を死に追いやった全てのものに、立ち向かう。そのことによってしか、僕は彼女の死を位置づけられない。今後、生きていくということの根っこの部分に刻み付けられた、これは呪いだ。僕は石山を打ち捨てるのでなければ、呪いを引き受けたまま、先へ進むしかない」

 僕が話し終えると、手代木は目を瞑った。全てを吸い込む落とし穴のような眼球は、薄い瞼に覆われて見えなくなった。

「オレがこんなことを言うのは、本当に変だと思うんだが」彼は再び目を開けるが、もう視線は合わない。「あんたはきっと、大丈夫だよ」

「なんだよ、それ」どんな顔をしたら良いのか、わからなかった。

「聴いてりゃわかる」

 手代木はそっけなく言うと、ポケットに入れた右手を中途半端な高さに掲げて、素早く振った。青いカードのようなものが飛んできて、僕は取り落としそうになりながら、それを受け取る。

 投げ渡されたのは、一枚のキャッシュカードだった。ご丁寧に、暗証番号の書かれた付箋紙まで貼ってある。

「じゃ、な」気付いたときには、彼は背を向け、歩き出していた。「色々、迷惑かけた」

「おい、何だこれは」

「約束しただろ。S.V.A.の印税は、そこに振り込まれる」手代木は振り向かず、立ち止まらない。「大した金額は入ってこないから、それで生活しようとか、アホなことは考えるなよ」

 僕は手元のカードを見た。

 真新しい光沢を放つ表面に、角ばった書体で「テシロギ ヨウスケ」の印字がある。

「CDが発売されたら、一枚くれよ」去って行く背中に声を掛けると、「住所がわからないから、自分で買え」と返事があった。

 僕と手代木洋介はそうやって別れて、それきり二度と会うことはなかった。

 

  18

 

 エトランゼに入ると赤木氏は不在で、森塚の姿だけがあった。帽子を被ったまま、窮屈そうな姿勢で窓際の席に座り、コーヒーを飲みながら文庫本を読んでいる。

 歩み寄って「こんにちは」と声を掛けると、彼は少し驚いたように振り向いた。「やあ」

「すみません、読書中でしたか」

「構わないよ。急に話しかけられたもんだから、少し驚いただけだ」森塚は読んでいた本にスピンを挟んで、言った。「座りなよ」

「どうも」僕は返事をして、向かいの席へ回り込む。「何を読んでたんですか?」

 森塚の本には年季の入ったブックカバーが被せられていて、表題を窺うことは出来ない。

「日本の、古い小説だよ」彼はそう言って、タイトルを口にした。「一見すると無関係な二つの世界が、交互に描かれるんだ。読者はそれぞれの関連性についてあれこれと考えを巡らせながら、読み進めていくことになる」

 僕も、その小説のことは知っている。今では世界的に著名な作家の、まだ若い頃の作品だった。氏の最高傑作であるとする声も少なくない。

 大学時代、持て余した時間の中で手にした記憶があるが、当時の僕にとっては退屈だったのか、内容はほとんど覚えていなかった。

「読み返すのは、もう何回目になるかわからない」森塚は言う。「何処が好きってわけでもないんだけどね。時間が空くと、ふと読みたくなったりするんだよ」

「そういう本は僕にもあります」と頷いた。「時間が空いてるんですか」

「ここのところ、少し立て込んでたんだが」森塚は、シャツの胸ポケットから煙草を取り出した。「個展が片付いたからね。今日からまたしばらく、エトランゼの常連に復帰だ」

「なら、話に付き合ってもらえますか」と僕は言った。

「勿論」彼は煙草に火を点ける。

「前に、ここで話したことの続きなんですけどね」

「茜音ちゃんのことかい」

「そう、石山さんの……」僕は言って、窓の外を見た。「森塚さん、言ってましたよね。絵を描く理由、自分が好きだから描くんだって」

「健康的すぎるって、怒られたっけな」森塚は細く煙を吐いた。「あれはね、後から考えてみたんだけど、どうにも少し格好つけすぎだったよ。雑誌のインタビューでも受けているんなら良いが、友人の質問に対する受け答えではなかった。必要以上に気に病むつもりはないが、特に茜音ちゃんのような子には、もっと違う答え方が出来たはずだった」

「どういうことですか?」

「何だかんだ言って、おれも商売人だからね」彼は言った。「食っていくためには、売れるものを描かなきゃいけない。そこにはやっぱり、多かれ少なかれ葛藤があるよ。こういうのは突き詰めれば程度の問題であって、おれはその摩擦みたいなものが、比較的少ないほうではあるんだろうけれど。今こうして画家としてやっていられるのは、とても幸運なことだと思っているが、同時に大変なことでもある」

「森塚さんは」僕は無人の路地を見つめて、言葉を選ぶ。「自分がやっていることの意味って、考えたことはありますか」

「意味」と、森塚は繰り返した。「意味ね。それは、自分にとってどんな意味があるのかということ?」

「もう少し、一般的なニュアンスで」と僕は首を振る。「それが齎すものというか、結果みたいなもののことです」

「ああ、そうか。どうして絵を描くのかって質問と、重なる部分も多いように思うけど」彼は、じっと考え込むような顔になった。「気を抜くと、またインタビューみたいなことを言いそうになるな。そう、例えば深町君が雑誌の記者だったら、おれはこんな風に答えるだろう。自分の描いた絵が、見た人の心に何かを残して……いや、ちょっと違うな。おれの絵が、見た人にとって、何か良きものであって欲しい。おれの見ている世界と、他の人の見ている世界は違っている。隣に立っていたって、全く同じものを見ることなんて出来ない。だからおれの絵は、おれの見ている世界だ。それを通じて、見た人が自分の世界をちょっとでも好きになれたり、見方や考え方を変えて前向きな気持ちになれたりするのであれば、こんなに嬉しいことはない」

「相変わらずの健康ぶりですね」僕は感心して言った。

「……というのが、余所行きの回答だ。雑誌のインタビューか、さもなければ入試の面接で喋るような内容だな」森塚は再び、煙草を咥える。「実際のところはそんな、立派なものじゃないさ。おれの絵を見て他人が何を思おうが、本当はどうだって良い。絵を描いて、それを何らかの形で必要としてくれる人さえいれば、生きていくことは出来るんだから」

「それにしたって、僕からは十分に健康に思えますけど」

「うん。今のはそうだな、大して仲良くもない高校のクラスメートに、軽薄な感じで話すとき向けの回答ってところだ」彼はにやりと笑った。「この問いに対して、真正面から答えようとするときに必要なのは、もう少し違うアプローチだったんだと思う」

「ふむ」僕は腕組みをして、首を傾げる。「難しいことを言いますね」

「いや、そうでもないよ」彼は頭を振った。「おれにとって大事なのは、今描いている理由なんかよりも、描き始めた理由の方だったんじゃないかと、よく考えてみて思ったんだ。ただ、それだけのことだ」

「描き始めた理由、ですか」

「おれは、幼稚園に入ってから卒園するまで、一言も喋らなかった」森塚は、そう言って僕のほうを見た。「発育不全とかじゃなくてね。家では普通に話せたみたいだ。だが幼稚園にいる間は、自分から話すことはおろか、誰に話しかけられても一切の返事をしなかった。理由は覚えちゃいないが、声を出すのがひどく恥ずかしいことに思えていたような気がする。当然、周りの子とは仲良くなれないよな。いじめの対象になることも多かった。そんな中で、おれが唯一得意にしていたのが、絵を描くことだったんだ。絵を描いている間だけは、誰とも話さないことをとやかく言われない。出来上がった絵は、皆が褒めてくれる。おれは自然と、画用紙に向かう時間が多くなった。小学校に上がって、皆と普通に話せるようになってからも、それは変わらなかった」

 僕は口を挟まずに続きを促す。

「だからおれにとって、絵を描くっていう行為は、周囲の世界との接点みたいなものだったんだ。なんとか喋れるようになった後でも、その象徴性が残っているとでも言うのかな。絵を描くことでしか、おれは人に見てもらえないというような感じが、ずっと残っている気がする。こうして考えてみるまでは、ほとんど忘れかけてたんだけどね」森塚は、灰皿で煙草の火を揉み消した。「誰からも必要とされない人間は生きていてはいけない、だったか。おれの場合はまさに、絵を描くことがそのための手段だったんだな。こうして今、絵を生業にしているのも、そう考えると必然なのかもしれない。つまりおれは、一人ぼっちにならないために、絵を描いている。それが自分にとっての、描くことの意味なんだと思う」

「森塚さん」僕は笑った。「今の回答のほうが、よっぽどインタビュー向けだと思いますよ」

「あれ、そうかな」彼は目を丸くした。「こんな話は、大衆受けしないものかと思っていた」

「これは偏見かもしれませんけどね」と僕は前置きをしてから言う。「画家の人間性に興味があって、わざわざ雑誌のインタビューなんて読むような人にとっては、多少抽象的だったり、難解なくらいの話の方が面白かったりするものですよ」

「そういうものか」森塚は納得したように頷いた。「今後、雑誌のインタビューを受けるようなことがあったら気を付けよう」

「もしも、幼稚園で普通に話せていたら、どうなっていたと思いますか」

「難しいことを訊くね」彼は被っていた帽子を取って、くしゃくしゃと頭を掻く。「絵を描く以外の生き方があり得たかどうか、か。正直に言って、想像しにくいな。でも、そうだね。幼稚園児だった頃の経験が変わっていたら、違う道を歩んでいたってこともあるのかもしれない。当時のことをよく覚えているってわけじゃないから、はっきりしたことは言えないが」

「森塚さんにとっては、絵を描いて生きていくってことに対して、悩みみたいなものはなかったわけですか」僕は、だんだん自分が本当にインタビュアーにでもなったような気がしてきた。

「ないね。そう言われると、不思議なくらいに全然なかった」と森塚は答えた。「自分も周りの人たちも、おれは画家になるんだと信じて疑っていなかったように思うよ。他の生き方をしているところが想像しにくいと言ったけど、そういうことを、今まで真剣に考えたことがなかったんだ」

 天職、と僕は思う。

 それから、手代木洋介の言ったことを思い出した。世界そのものの存在理由、ワールドマイゼル。

 森塚にとっての天職は、この世界にとっては、どんな意味があるものだったのだろうか?

「またしても、答えにくいことかもしれませんが」僕は質問を続ける。「石山さんが死んだことって、森塚さんに対して、どんな影響を与えたと思いますか?」

「これまで喋ったようなことを、考え直すきっかけになったよ」森塚は少し考える素振りを見せてから、言った。「おれは彼女が何を思い悩んでいたのかが、全然わかってなかった。いや、きっと今だってわかっていない。だけど少なくとも、そのわからなさとでも言うべきものに対して、ちょっとは思いを馳せることが出来るようになった、気はする」

「なるほど」それは、あくまで個人的な影響であるように思えた。「描く絵については、どうですか。何か変わりそうですか」

「……考えたことがなかった」と彼は気まずそうに答える。「こういう風に言うと、おれはなんだか、随分ぼんやりと生きているみたいじゃないか」

「間違いないと思いますよ」僕は半ば呆れながら言った。「あまり訊かれないんですか、こういう個人的なことって」

「そうだね、訊かれたことがなかった。皆、画家の言葉なんかに用はないんだ」森塚は口を尖らせる。「しかし影響か、どうなんだろうな。ある訳がないような気もするし、ない訳がないような気もする。ただ……さっき言ったわからなさっていうのは、大事かもしれないな。おれの見てる世界と他人の見ている世界は違うと言ったが、今までそのことは、単に自明の前提に過ぎなかったんだ。同じテーマを与えられて出来上がった絵を、隣の席の子のそれと見比べてしまえば、後は特に考えるまでもないことだった。自分と他人との違いに、興味がなかったと言っても良い。こんな歳になるまで、情けない話なのかもしれないけどね。それが、茜音ちゃんのことを捉え返すにつけ、本当に自分の世界とは全然違うそれの存在が、リアルに感じられたっていうのかな。そのことが、自分自身の見るものや描くものに対してどういう影響を及ぼしていくかってことまでは、まだわからないというのが本当のところだね。どっちにしても、今すぐに判ることじゃない。おれにとって、認識っていうのはその程度のものなんだよ。常に現象の後追いでしかないっていうのか……描いたものを見てもらって、人から指摘されて、それで初めて自分が何を描こうとしていたのかが理解できるというような、そんな間抜けでのろまなやり方を、いつもしてるんだ」

 なるほど、と僕は頷いた。

「森塚さんって、実は結構インタビュー受けるのに向いてると思いますよ」

「そうかなあ」彼はのんびりと言う。「自分では、口下手なつもりなんだけど」

「メディアへの露出が増えたら、きっと今以上に人気者になる」

「ああ、そういうのはちょっと面倒だ」

 森塚は不味そうにコーヒーを啜って、それからふと思いついたように口を開いた。

「けど、おれにとって絵を描くことの意味が外の世界と繋がるってことにあって、そこに茜音ちゃんが何らかの影響を及ぼすのだとしたら」

「それは、救いのある話でしょうか」

「さあ」彼は困ったみたいに曖昧な笑みを浮かべた。「誰にとっての救いだろう」

 わからない、と僕は思う。

「救われることができるのは、生きている人間だけだと思います」

「だろうね」森塚は帽子を深く被り直して、言う。「……でも、本当に人間だけかな」

 

  19

 

「あのよう深町君」猫田が特徴的な濁声で言った。「それで、お前はいつまでこうしてるつもりなんだよ」

「藪から棒だな」やれやれと肩を竦めて、答える。「何の話だよ、今度は」

「わかってんだろうが」彼は真っ直ぐに前を向いたままで、言う。「石山ちゃんの話には、お前の中で一応の片みたいなものが付いたことになったんだろうが。だったら後は、お前がどうするかってことだよ」

 僕らはまたしても、喫茶エトランゼへの道のりを歩いている。十月下旬の日曜日。日差しはすっかり弱まって、朝晩は冷え込むことも増えてきていた。

「ああ」と僕はとぼけた。「そうだな、考えないとな」

「おい深町君、前に言ったことを忘れたわけじゃないだろうな」猫田は声を高くする。「今みたいな状態は、ずっと続くわけがねえんだよ。無理やりに続けようとするなら、そんなもんは結局、遠回りな自殺と一緒だ。死ぬなら死ぬで構わないが、最後くらいちゃんと自分で決断して死ね」

「あのさ猫田」僕は口元に手をやった。「修論は上手くいきそうか?」

「あ?」いきなり話を振られたせいか、彼は少したじろいだ。「今は、深町君の話をしてたんだよ。修士論文のことなんて、どうでも良いだろうが」

「良くない」僕は首を振る。「僕は猫田の話が聞きたいんだよ」

「そうやって、話を逸らすつもりなんじゃねえか」

「違うよ。お前の方こそ、自分の話を避けたくて、矛先を変えようとしてるんじゃないのか」

「そういうんじゃねえけどよ」猫田はもごもごと口を動かした。「何が聞きてえんだよ、修論の」

「言ってたろ、遊びでやってるんじゃないんだって」僕は言った。「じゃあ、どんなつもりでやってるのかなって思ってさ」

「仕事だよ、仕事」と彼はぶっきらぼうに言い捨てた。

「仕事と一口に言ったって、色々あるだろ」再びインタビュアーになったつもりで、僕は尋ねる。「猫田にとって、その仕事ってのはどういうものなんだよ」

「面倒くせえことを訊くなあ深町君」猫田は顔をくしゃくしゃに歪めて、首を振った。「生きていこうと思ったら、働くしかないじゃねえか」

「大学院生は、論文を書いたって金にならない。新書でも出すんだったら別だけどさ」と僕は指摘する。「将来的には、大学にポストを得たいってことになるんだろうけど。普通に考えたら、大変なことだよな。オーバードクター問題とか、知らないわけじゃないだろ。生きていくために働くというだけなら、他にも様々なやり方がある」

「嫌なことや出来ないことを除けてったら、他に残らなかったんだよ」

「出来ないことはなんとなくわかるけど、嫌なことって?」

「そんなもん、幾らでもあるぞ」猫田は声を荒げた。「あのなあ、言っただろうが深町君。例えば小洒落た格好をした大学生なんてのは、その最たるものなんだよ。特に連中のやってるような、ボランティア活動なんてのはな。何だよあいつらは、ツイッターのプロフィール欄を充実させるために生きてんのかよ」

「知らないけど」僕は思わず噴き出してしまった。

「ああいうのを見てるとよ、何もかもが、身を小綺麗に飾り立てるためのアクセサリみたいじゃねえか」彼は喋るのを止めない。「課外活動だけじゃないぜ。教養やら思想、信条だってそうだよ。今は、ツイッターアカウントの上に座って石を投げれば、市井の哲学者に当たる時代さ。過去の偉人なんてものは、未だかつてない程に軽んじられているにも関わらずだ。どうして、こんな馬鹿馬鹿しいことが起きているのか、わかるかよ」

「さあ」僕は欠伸を一つした。「馬鹿馬鹿しいのか、それって」

「これが、別に世の中が馬鹿ばっかりだからってわけじゃねえんだ。いや、馬鹿ばっかりなのは確かだけどよ」猫田は聞き手の言うことは無視して、両手でがりがりと頭を掻き毟っている。「もうなあ、全然どうしようもないくらい崩壊してんだよ。偉大なる先人たちが積み上げてきたはずのものが、バラバラになって捨てられてんだ。壊れること自体は勿論、悪いことだってわけじゃあないんだけどな。破壊されるのは駄目なものなんだから。しかしよ、今の状況ってのは度が過ぎている。壊す力が強すぎるんだな」

「何を言っているのか、よくわからない」

「駄目なものが壊れるのと、駄目なところがあるものが壊れるのは全然違うってことだアホが」彼は罵倒の声とともに、勢いよく唾を飛ばした。「本当は違うはずなのに、両者の区別がなくなってんだよ。今、この国の知性に起こっている問題の大半は、それで説明できる。深町君も、フィッシュセラピーくらいは知っているだろ」

「いや、知らない」僕は首を振った。「何だそれ」

「お前は本当に何も知らねえなあ」と猫田。「足湯みたいなもんなんだが、中にドクターフィッシュっつう小さい魚がわんさと居るんだよ。そこへ足を入れると、その小魚が寄ってきて肌の角質を食ってくれるわけだ。そうして、しばらく経つと足がつるつるになっている。ちょっと前に、変わった美容法として話題になってただろうが」

「だから知らないって。で、それがどうしたんだよ」

「つまりだな、フィッシュセラピーで悪いものを吸い取るかと思いきや、気付いたら足ごと食われちまってるんだよ」彼は小刻みに頭を揺らしている。「壊す力が強すぎるってのは、そういうことだ。通信手段の発達によって、人類は歴史上に類を見ないほど、容易にコミュニケーションをとることができるようになった。それがこの国に齎したものが、凶暴化したドクターフィッシュの群れさ。今じゃ何を言うにしても、皆こいつらのことを無視するわけにはいかなくなってしまった」

「そういうのはわかる気がする」と、僕は同調してみせた。「でも、そのことと、さっきの気に入らないって話がどう繋がるんだよ」

「いつもいつも、わかんねえ奴だよなあ深町君」猫田は、不自然に声を震わせる。「思想だの何だのと言ったものの本来の価値が、スポイルされちまってんだよ。蟻の一穴じゃねえが、ちょっとでも悪いところが見つかったら、それでドクターフィッシュの餌食になっちまうんだ。今じゃ思想家の大層なお言葉なんざ、誰も本気で信じやしねえ。そうして、行き着く先が装飾品さ。日常を少しばかりお洒落に彩る、スパイスとしての学問だよ。小洒落た服装、小洒落たレストラン、小洒落た思想。こういった傾向は今に始まったことじゃねえが、前代未聞なまでに顕在化してんのは確かだ」

「それは、悪いことなのかな」

「さあな」彼はそこで意外にも、すっと矛を収めた。「良いとか悪いの話は、別にしてねえ。ただなあ、気に入らねえんだよ。だって、おかしいじゃねえか。皆が皆、おかしいと思ってんだろ。今、この時をよ。深町君だってそうだろうが。だったらどうして、そのことにもっと正面からカチ合おうとしねえんだよ。名立たる偉人たちの思想ってのは、そういう営みの結晶だったはずじゃねえのか。何だってそれを、多少洗練されただけの誇大妄想みたいに扱ってんだよ。もっと真面目に受け継いで、叩いて、間違いを見つけたら修正していくべきなんじゃねえのかよ。ちっぽけな魚ごときにビビってる場合じゃねえだろ。大きなことばかり言って足元のことを疎かにしてるようじゃ駄目だって、そりゃそうかもしれねえが、じゃあそれは誰のどんな都合で吐かれた言葉だと思ってんだよ。そうやって利口ぶって、目の前の仕事に一生懸命になってるうちにだよ、一体この世界の何がどうなっていくってんだ、それじゃ石山ちゃんは、結局死ぬ他ないってことにしかならないんじゃねえのか、ああ? どうしようもねえクソッタレの、人殺し集団だぜ」

 誰も居ない方へ向かって、一人でヒートアップしていく猫田の姿を僕は見ている。彼の言うことを聞きながら、棚井教授と、手代木洋介の言葉と、僕の音楽を思い出す。

 経済理論史の総括という、ライフワークとしての研究課題。

 ミッションとテーマ。

 旋律に秘められた意思。音楽が語る、僕という人間の主題を。

「猫田は別に、気に入らない物事を避けたわけじゃないな」と僕は言った。「むしろ、身の周りに山ほどある気に食わないものを吹き飛ばしたくって、それで今の仕事を選んだんだろ」

「そうかよ」彼は不機嫌そうに、それだけ答える。

「お前が羨ましいよ」

 その言葉は、意外なほどすんなりと、僕の口から出た。

 ちらりと横目で猫田を窺うと、何か信じがたいものを見たとでも言うような表情で、こちらを向いている。

 ガードレール越しに、低い唸りをあげて、白の軽自動車が通り過ぎた。

「でも、それじゃ駄目だよな」僕はそう続けた。「僕はどこまで行っても、僕でしかない。生きていくつもりであれば、自分にやれることをやるしかない」

 与えられようとしていた、天命があった。今や永遠に失われてしまったそれを、神なき世界で生き続けることの意味を、僕は思う。

「おう、わかってるじゃねえか」猫田は狼狽えたような声を出した。「いい加減、腹決めやがれ」

 喫茶エトランゼが近付いてくる。僕らは何となく無言になって、残りの道程をぼんやりと歩いていく。

 チョークで品書きのされた看板が目に入って、ああそういえばあれに頭をぶつけて気を失ったんだったなと、僕はもうずっと昔のことのように思い出した。

 

  20

 

 鷺沼梢が現れると、猫田はいつの間にやら、音もなく姿を消していた。

「あれ、そういえば猫田は?」

「さっき、トイレに行くって言って、そのまま帰ってきてませんね」

 鷺沼の答えに、思わず苦笑いを返した。

「まあ、気が向いたら戻ってくるだろ」と僕は言う。「……せっかくやって来たのに、すぐ出て行っちゃうんだもんな」

「そうですね」彼女も、曖昧な笑みを浮かべて言った。「何だか、本当に猫みたい」

 会話が途切れた。

 それまで全く意識していなかった空気の重みとでも表現すべきようなものが、途端に圧力を持ったような気がする。猫田健二郎はうるさいばかりで疎ましく感じる局面が多いが、たまには役立つこともあったのだと思った。

「体調はどう?」と、僕はさりげなさを装って言う。「この間、あんまり良くなさそうだったから」

「ええ、耳鳴りはあれっきり」鷺沼は軽く首を振った。「何だったんでしょうね。このまま、無くなっちゃえば良いんですけど」

「そっか」

 僕は頬杖を突いて、窓の外に目を遣る。散歩のおばさんでも猫田でも森塚でも、何なら買出し中の赤木氏でも良い。誰か通りかからないかなと思ったけれど、路地は無人の静寂を保っていた。

 そうして、数分ほど経った頃だろうか。

「あの」鷺沼が口を開いた。「やっぱり、ご迷惑でしたか」

「何が?」

 反射的に言ってしまったが、良くない受け答えだったと後悔するのに時間は掛からなかった。鷺沼は少し傷ついたような顔で、目を伏せている。

「いや、悪かった」僕は素直に謝った。「迷惑なんかじゃないよ。全然」

「いえ……こちらこそ、すみません」と彼女は声を落とす。「答えにくいですよね、こんなこと言われても」

 何か言うべきだと思うが、言葉が出てこなかった。僕は黙ったまま、喫茶店の裏路地に誰かが通りかかるのを待っている。

 猫田が見たら、間抜けな光景だと笑うだろうか。

「僕は全然、駄目だな」

「どうしたんですか、いきなり」溜息と一緒に呟いた僕に、鷺沼は気遣わしげな声を掛けてきた。

「なんだか、ちっとも変わってないよね」独り言みたいな調子で、そう続ける。「駄目なんだよ。こんなんじゃ駄目なんだ。あれこれ考えて、決めたんだったら、行動が変わらなくっちゃ話にならない」

 鷺沼は困ったような視線を僕に向けている。

「あのさ。よく知らないかもしれないけど、僕はすごく駄目な奴なんだよ」僕は彼女の目を見て言った。「合わないからって職場から逃げ出して、もう半年以上になる。そんな自分を駄目だなあ良くないなあと思いながら、でもその駄目さに安住しようとしてるんだ。石山さんが死んだことをきっかけにあれこれ考えて、僕なりに頑張らなくちゃなって思うけど、具体的にじゃあ仕事に復帰すんのかよって考えたら、まるで気が進まない自分がいる。あんなところへ戻ったって、何にもならないんじゃないかってさ。それこそ、形を変えた遠回りな自殺なんじゃないかって、そう思えてくるのが単なる逃げ口上に過ぎないのかどうかも、自分じゃよくわからない。なら転職を考えるのが正しいんだろうけど、それにしたってわからなくて。今勤めている会社と比べたら、きっと待遇は悪くなるんだろうし、新しい環境で働くことが自分にとって良いことなのかどうかも……」

「深町さんは」と、鷺沼が話を遮るようにして言った。「何か誤解してます。駄目とか駄目じゃないとか、そんなの」

「わからないな」僕は頭を振る。「鷺沼さんの方こそ、誤解してるんじゃないか。あるいは、自棄になっているかだ。わかるだろ。こんな人間と一緒に居て、幸福になれるはずがない。僕は社会不適合者なんだよ。適合しようとする意思がないから、不適合なんだ。僕は自分のためには頑張れなかったし、きっと君のためにも頑張れない。だから、ここから前に進むためには、もう死者の呪いなんてものを持ち出すしかなかったんだ。そんなことに、他人を巻き込んで良い道理はない」

「それを決めるのは、深町さんじゃないと思います」鷺沼は小さな声で、しかし明瞭に言った。「貴方の世界には、貴方以外の人の居場所はないんですね。誰も、本当の意味で貴方に影響することは出来ない。深いところに手を差し入れようとすれば、何かがそれを阻んでしまう。……あの、題名のない曲みたいに」

「だから、不適合なのかもね」

「深町さん、私の話をしても良いですか」彼女は言って、紅茶のカップに口をつけた。「忘れられてそうですけど、ある意味では私も一緒なんですよ。仕事、今はしてないんです」

 僕は口を噤む。僅かに顔の向きを変えて、窓の方を見た。

 路地はやはり無人のままだ。

「私の場合は、びっくりするくらい、ありふれた話なんですけどね。イジメです。お局様っていうんでしょうか、年上の女性社員から、執拗に嫌がらせを受けてたんです。辛いなあ、嫌だなあと思いながらも、それでもしばらくは通勤してたんですけど。ある日ふと、朝目が覚めてもベッドから起き上がれなくなっちゃって。会社休んで、夜に電話で友達に相談したら心療内科の受診を勧められて、そしたらもう、あっという間に休職でした」鷺沼は、あっさりとした口調で話し続ける。「まるっきり同じだなんて、言うつもりはないです。私は深町さんのことなんて、ほとんど何も知らない。だけど、私だって生きてるんですよ。生きて、物を考える人間なんです。深町さんからしたら、俗っぽくて下らない、紋切り型の人生を送っているように見えるのかもしれませんけど、それでも間違いなく、ここに存在してるんです。意思だってあるんですよ。ただ観察されて、評価とか判断を下されるだけじゃないんです。当たり前ですよね。もう良い歳なんだから、自分で考えて、生きるってことがなるべく良い方向へ行くように行動したい。やりがいを持って働ける職場で、誰からも虐められずにお仕事がしたい。いつまでも、昔の彼氏が自殺したってことについて悩みたくないし、好きになった人には、ちゃんと気持ちを伝えたい。……それに、出来ればお付き合いだってしたい。全部全部、私の気持ちです。恋愛感情なんて一時の熱狂に過ぎないって言われたら、そうかもしれない。でも、一時のものだとしても、紛れもなく私の感情なんです。私が、望んでることなんですよ。深町さんがどんなに私を嫌いだったとしても、私の思っていることを否定はできません。だってそれが、死なずに生きてるっていうことの、本当の意味じゃないですか」

 僕は、考えた。

 何を考えたのかは、自分でもよくわからない。ただ、これまでに起こった様々な出来事の象徴のようなものが、頭の中を目まぐるしいスピードで駆けて行ったような気がした。

 何処か遠くから、懐かしい響きを持つメロディが、穏やかに聴こえてくる。

「そうか」と僕は呟いた。「鷺沼さんは、生きてるんだね」

「私は死んだりしません」鷺沼は力強く頷いた。

 石山茜音は死んだが、僕は生きている。

 同じように、猫田健二郎も、森塚英嗣も、手代木洋介も生きている。

 目の前にいる鷺沼梢も、自分は生きていると言う。

 実験は終わりだと、手代木は言った。この世界には、もはや何の意味もないのだと。にも関わらず、この世界は誰にも侵されることなく、これからもただ続いていくのだと。

 我々の生きる世界からは、既に天命も主題も失われている。わざわざ誰かに言われるまでもなく、判りきっていたことだ。

 それでも、僕らは生きている。

 自らの内に鳴る音楽を、聞き漏らさないように。何処へ向かうのかもわからないままに、不恰好なステップで進んでいく。

「ワールドマイゼル」僕は言った。

「ワールド……?」鷺沼は首を傾げる。「何ですか、それ」

 おかしな話だけれど、僕はそのことに、少し安心してしまった。

 窓の外には、誰もいない。

「そう、聞いてもらいたい話があってさ。……暇なときに考えた、陳腐な作り話だとでも思ってくれれば良いんだけど」そんな風にちょっと早口で捲し立てた後、僕は席を立った。「少し長くなるから、紅茶とカントリーマアムでも用意しよう。時間は大丈夫?」

「はい」彼女はよく通る声で、おそらくは笑いながら、言った。「いつもの様に、暇なので」

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