Side B <揺蕩うライオン>

 

  16

 

 打ち合わせは普段と同じく、アレックスの司会で執り行われた。

 幾つかのテーマに関する話し合いが、つつがなく終わった。この後、惑星マイゼルの進捗報告で、定例のミーティングは締め括られる。

 会議室は、ぼくらチームのメンバーが使うには、少々手広な間取りだった。長テーブル四脚を長辺、二脚を短辺として、長方形が作られている。

 事前の相談通り、ベニーとぼくはフレッドの左右に陣取っていた。一方の長辺の、ちょうど真ん中辺りだ。少し離れて、右手にエミリア。ぼくから見て左側の短辺には、ロッテとグレースが隣り合って座っている。

 ぼくらのほぼ正面にアレックスが居て、そこから右側にテーブル一脚分の距離を置いたところで、ダンが立ち上がる。

 彼は手元で端末の画面を参照しながら、話し始めた。

「今回は、取り立てて報告すべきことはない。ニュークリアを用いた戦争は起こっていないし、発電所の事故等による大規模な汚染もない。革命勢力は相変わらず弱まったままだが、可能性がまるっきり潰えてしまったわけではない。細かなところは調停者たちに任せつつ、気長に見守っていくしかないだろうね。前回の会議で指摘された、惑星マイゼル内での研究成果をこちらにフィードバックさせる仕組みについては、早急に実装したいと思っている。現在そのための概念解釈パッチを組んでいるところだ」

「なかなか、上手くはいかないな」アレックスは腕組みをしている。「だが、仕方ない。巻き戻しが効くとは言っても、事を急いて破局を迎えることは避けなくてはいけないからな。惑星マイゼルの時間の流れ方は、我々のそれとは大きく異なっている。焦らず、じっくり待てば、必ず成果は上がるはずだ」

 彼の声は普段と変わりないように思えた。通りがよく、聞く者に落ち着きをもたらす低音。

 ぼくは横目で、左隣に座るフレッドの様子を窺う。緊張や興奮を見て取ることはできなかった。ただ真っ直ぐに、アレックスの方を見つめている。

「懸念されていた件……調停者の独断専行については、どうなってる?」ベニーが言った。「研修用プログラムをインストールしているとは言え、彼らもマイゼルの中で生まれた一個の生命体だ。与えられた権限で、よからぬことをしでかさないとも限らない。動向の監視は、やはり必須だと思うが」

「心配性だね、ベニー」ダンは心なしか、声を上ずらせた。「権限を用いる際は、必ずその利用データをアップロードさせるようにした。連中の動きを、逐一見張っているというわけにはいかないからね。だが、どいつもこいつも真面目なもんさ。他者に害を為すような、危険な動きは一切見られないよ」

「……なら、良いんだけどな」

 ベニーが頷くと、室内が静まり返る。

 大気がぴんと張り詰めたように感じるのは、自分が緊張しているせいだろうか。

 動く気配は、まだない。

「他に確認しておきたいことはあるか」

 アレックスが告げた。

 返事はない。ひんやりとして、僅かに湿り気を帯びた静謐が降り積もってゆく。

 ぼくは息を呑む。

 小さな身じろぎ一つが、決定的な瞬間を呼び込んでしまいそうな予感があった。

 更に、数秒を待つ。再び、アレックスが声を上げる。

「じゃあ、今日のミーティングはこれで終わりにしよう。お疲れ様」

 フレッドが動いたのは、ほとんど同時だった。

 彼は素早く立ち上がり、伸ばした右腕の先から、青白く発光するナニカを放った。切り裂かれた風が鳴る。向かいの壁沿いに置かれた観葉植物の鉢が、アレックスの背後でがしゃんと音を立てて弾け飛ぶ。割れた破片の中から、薄い黒煙が立ち上る。

 悲鳴が上がり、ぼくの左隣に皆の注意が向いた。ベニーが「フレッド」と鋭く叫ぶのが聞こえる。

「黙れ。静かにしろ!」フレッドは右手をアレックスに向けて突き出したまま、左手を挙げて怒鳴った。「盗聴器を破壊した。それだけだ、皆に危害を加えるつもりはない」

 チリチリチリと、金属を砂で擦るみたいな、不快な音が響き渡る。

 ぼくは、正面で席を立ったアレックスを見遣る。彼の顔には戸惑いの色がありありと浮かんでいた。

「……盗聴器?」震える声で疑問を呈したのは、ロッテだった。「何よ、それ」

「話せば長いが、とにかく、この部屋には盗聴器が仕掛けられていたんだ。そのことはアイクにも話したから、知っている。……そうだろ」ぼくに水が向けられたので、「うん」と軽く頷いて応じる。

「単刀直入に言うぞ。アレックス、お前が政府の内通者だということはわかっている。今ここで一度だけ、申し開きの機会をやるよ」

 フレッドの言葉で、彼に向けられていた部屋中の注意が、今度は対面に集まった。

 アレックスは先ほどの驚いたような表情とは打って変わって、俯き、痛みに堪えるように唇を噛んでいる。

 チチチ。ジジジリ。

「間違いないのか」ベニーが低い声で問う。間違いであって欲しいと祈る気持ちが、伝わってくるような響きだった。

「……ああ」アレックスは頷いて、はっきりと答える。「そうだ。僕は組織の活動を監視するために、政府から派遣された工作員だ」

 それから瞬く間に、事態が動き、終息した。

 まず、フレッドが跳んだ。

 向かう先には、当然アレックスが居る。、と思ったときにはもう遅かった。凄まじいスピードに、ぼくとベニーは反応できない。十分な電荷を蓄えた地這鳥ロードランナーの健脚が、稲妻のように光るのが微かに見えた。

 そして、中空に蒼い花が咲く。

 しなやかな植物が爆ぜたみたいな、軽い炸裂音。

 認識はすぐにやってくる。フレッドが体液を噴き出したのだ。誰が、どうやって? 疑問を差し挟んでいる隙は、ない。

 呆然と立ち尽くすアレックスは、跳躍のさなかに自らをコントロールする術を失ったフレッドの肉体を、受け止めきれず仰向けに倒れ込む。

 男の身体が二つ、縺れ合って床に打ち付けられる重たい音で、一瞬の衝突は終わった。

 ぼくは、自分が呼吸を忘れていたことに気が付く。深く息を吸うと、噎せ返るほどに死が匂った。濃い青色の液体は、足元の近くにまで飛散していた。

 無音。

 不自然なまでの静けさ。

 誰もが、声を発することを忘れたかのようだった。歪に変形したフレッドの両脚だけが、時折バチバチと放電の音を立てている。

 沈黙を破ったのは、アレックスだった。

「どうしてだ」彼はゆっくりと起き上がった。上半身が、べっとりと青く汚れている。「どうして手を出した」

 それがどこへ向けられた声なのか、ぼくには初めわからなかった。顔を左へ向けると、細い目を限界まで見開いたベニーと見詰め合うような形になって、こんな状況なのに少しだけ、おかしな気持ちがした。

 アレックスは、首筋に付着した体液を右手の甲で拭っている。剣呑な雰囲気を湛えた相貌と相俟って、その様はさながら幽鬼のようだった。

 やがて、彼が再び口を開く。

「……答えろ、グレース」

 ぼくが視線を向けるが早いか、グレースは落ち着き払った声で言い放った。

「わかりきったこと、訊かないでくれ」彼女は両腕をだらりと下げ、リラックスした姿勢を取っている。「私が動かなければ、確実に殺されていたよ。アレックス、君を殺させるはずがないだろう」

「くそ……。僕のせいだ」アレックスは悔しげに歯噛みした。

「仕方ないさ。そいつは、フレデリックは最初からアレックスを殺すつもりだったよ。手に刃物を持っているだろ。話し合いの余地は、存在しなかった」

 グレースは、ぶっきらぼうにも聞こえるいつもの口調を崩さない。

 発せられている言葉の、その意味を考えなければ、普段通りのテンションで雑談をしているようにも見えた。

「どういうこと」エミリアが、押し殺した声を出す。「何が起きているのか、全然わからない。説明して」

「彼が……フレデリックがここ最近、何かを企んでいることはわかっていた」グレースは淡々と応じた。「ロクサーヌで、二人で話しているところを見かけたから、アイザックに鎌をかけてみたんだ。結果、これはどうやら深刻な案件かもしれないと思ってね。少しさせてもらった」

 エミリアは何も言わない。ただ、夜の森を宿した瞳で、グレースを見つめている。

「妥当な判断だったと思うよ」グレースは続けた。「この組織でやっている実験は明らかに、政府の連中に見逃してもらえるようなものではなかった。そこで死んでる男が、どんな風に考えて決断したのかはわからないけど、もし革命勢力にとって都合のいい実験結果が得られたとして、今の状況では、それをそのまま発表できたはずがない。活動を続けるためには、一切の感傷を捨て、裏切り者を粛清するしかなかった」

「……その通りだ」アレックスは俯いたまま、言う。「GGを使った実験が提起されて以降、僕は常にその動向を監視するよう命じられてきた。はっきりと言われたわけではないが、実験の結果次第では、政府が黙っていないだろうことは明白だった。共存はあり得ない。だから内通が発覚した時点で、君たちが僕の排除に向かうのは間違いじゃない」

 語られる内容が、上手く頭に入ってこなかった。出来の悪い演劇を見せられているみたいだ。派手に撒き散らされた青い液体と、それが放つ臭気は、目の前の光景がどうしようもなく現実であることを主張している。にも関わらず、まるで現実感が湧かない。

 覚悟が、なかったわけじゃない。革命組織なんてものに加盟を決めた段階で、暴力沙汰に巻き込まれることもあるかもしれないと思ってはいた。フレッドからアレックスの〝裏切り〟を知らされたときに、真っ先に危惧したのはメンバー同士の争いだった。いざという時には身体を張ってでも止めに入ろうと、今日ここへ来る前には決意もした。

 だが、全ては過ぎ去ってしまった。終わってしまった。致命的な瞬間を前にして、ぼくは何も出来なかった。

「グレッチも、なの?」ロッテはいつの間にか、部屋の片隅へ移動している。「政府の内通者って、言ってたけど」

「違う。彼女は関係ない」アレックスがすぐに否定した。「政府と繋がっているのは、あくまでも僕だけだ」

「あのさ。そんなこと言って、信じてもらえると思っているのか?」グレースが呆れたように肩をすくめる。「今更、言い逃れしようだなんて思っていないよ。そもそも、実際にフレッドを殺したのは私なんだ。確かに政府とは何の関係もないが、アレックスの内通は知っていた。共犯みたいなものさ」

「どうして」エミリアの声は、引き絞ったみたいに細かった。

「聴こえてしまったものは、仕方がない」グレースは目を閉じ、頭を垂れた。「話がややこしくなるからな、詳しくは説明しない。単純に、私にはわかってしまうんだよ。そいつの魂が、どっちを向いてるのかってことが。アレックスの音楽は常に、揺れていた。これが、笑ってしまうほど不安定な旋律なんだ。だけど、底の方で鳴っている音は、重く鈍い。徹底した両義性に、私は興味を抱かずにはいられなかった。何を隠そう、それが私がここに居る最も大きな理由だ」

「……誰にも話すつもりはなかった。当然だ。内通の事実が知れ渡れば、組織に居られないことはわかりきっている」アレックスは、思いつめたような面持ちで言う。「だが……グレースは、何も言わなかった」

「そうじゃない」エミリアが首を横に振った。「どうだって良いの、そんなこと。わたしが知りたいのはね、アレックス。あなた自身のことだよ。これまでずっと、仲間だと思ってやってきた。わたしを組織に勧誘したのは、あなただった。色んなことを語って、教えてくれたのを覚えてるよ。その頃に抱えてた世の中に対するわだかまりとか、もやもやした感情の、正しい置き所がわかった気がした。わたしはこの組織に出会って、自分がどうやって生きたがっていたのかを知った。すごくすごく、とても口では言い表せないくらい、感謝してる。変な言い方になるけどね、アレックスが裏切り者だろうが何だろうが、そのことに変わりはない。今だって、あなたはわたしにとって大切な存在。だから、聞かせてほしいの。政府の監視者であるあなたは、今まで何を考えて、わたし達と接していたのか」

「僕の……」彼は声を落とす。「すまない、エミリア」

「アレックス!」エミリアが詰め寄ろうとするのを、ベニーが「待て」と制した。

「アレックス、君に一つ確認しておきたいことがある」彼は普段の冷静さを取り戻したようだった。「盗聴器の存在を知っていたか」

 言われたアレックスは、露骨に困惑の色を浮かべる。

「なんだって、盗聴器?」その様子は、演技をしている風にも見えない。「そういえばさっき、フレッドがそんなことを言っていたが……」

「やはり、知らないんだな」ベニーはクールに告げながら、会議室の対岸を射抜くように見据えている。「この部屋に盗聴器を仕掛けたのは、君ではない」

 アレックスは答えない。ただ、重大な過失に気付いたかのように、強張った顔で目を伏せた。額から汗が一筋、流れ落ちる。

「今更こんなことを言ったって、何にもならないのかもしれない」ゆっくりと、ベニーは続けた。「けど、それでも俺たちにとっては大事なことのようだから、訊かせてもらうよ。アレックス、君は本当は、なんだ?」

 アレックスは答えない。

「おかしいと思ったんだ。スパイが居るんだったら、我々の動向を監視するために盗聴器は必要ない。この部屋は定例ミーティングでしか使われないし、肝心の会議は、他ならぬ君が牛耳っているんだからな」ベニーは視線を逸らさないままで、言う。「盗聴器の出所に関しては、幾つかの可能性が考えられる。ごくシンプルに、持ち込んだのが政府だと仮定すると、最もありそうなのは、内通者が虚偽の報告を行うかもしれないと考えられているケースだった」

「虚偽の報告……」思い当たるが早いか、言葉がぼくの口をついた。「まさか、二重スパイ?」

「少なくとも、雇い主からそう思われるだけの根拠が、アレックスにはあった」

 違うか、とベニーは尋ねた。その響きには、祈りに似たニュアンスが込められているようでもあった。

 アレックスは、答えない。

「何とか言ったらどうだい」ぽつりと、静かに呟いたのはダンだった。「キミはチームの誰よりも、実験の完遂に拘っていた。それは、単に監視者としての義務感に駆られてのことだったのか。それとも……」

「――は、」

 最初は、聞き間違いかと思った。

 空気の塊を小刻みに擦るみたいな、微弱な音。

「はは、は」

 掠れたような、引きつったような、それは笑い声だった。

「ははは、ひゃはははは。はっ、はははっ」

 アレックスが笑う。目をぎょろりと剥いて、いびつな笑みが顔中に張り付いている。

「アレックス」

 ベニーの呼び掛けにも、彼は応じない。眼は天井を向いている。ぼくらのことを、見ていない。

 チームリーダーの、今まで見せたことがない狂態に、誰もが言葉を失った。室内には、喉奥から断続的に発せられる甲高い声だけが、響き渡る。

 そうして、どれくらい経っただろう。

「あはははははは、はははははっ、ははは……はは、がはっ……」アレックスが、苦しげに咳き込んだ。ぜいぜいと、呼吸器が呻きを上げている。「は……。そう、そうか……そういうこと、だったんだ……」

 彼は胸の辺りを押さえて、しばらくの間、ゆっくりと呼気を整えた。額に浮かんだ汗が、少しずつ引いていく。表情にも理性の色が戻ってくる。

 アレックスは、今度は真っ直ぐに、ぼくらを正視した。

「どっちなのかと、そう尋ねたな」声には未だ、濁りのようなものが混じっている。「その答えなら、はっきりしている。僕は今までに一度だって、君たちのことを仲間だと思ったことなどない」

「……そうか」ベニーは頷いた。

「いやしかし、明察だったよベニー。盗聴器の存在に気が付かなかった僕は、とんだ愚か者だな」アレックスは、どこか芝居がかった調子で言った。「そりゃあ、そうだ。確かに二重スパイを疑われたって無理もないさ。何故って、僕は両親が生粋のマイゼル派で、幼少の頃から革命家としての英才教育を受けていたんだからな。あちらさんからすれば、信用しろって方が難しい話だったわけだ。それを、僕は……」

「あの話は、本当だったんだね」ぼくは、加盟の折に交わした会話を思い返す。アレックスは、活動へのモチベーションについて、悩んだことがないと告白していた。「でも、だったらどうして君は今、内通者としてここに居るんだ」

「どうして、ね……。何だか、不思議な気分だよ。そんなことを訊かれるなんてな」薄ら笑いと共に、アレックスは呟いた。「幼い頃から革命思想を教え込まれていたのであれば、長じた後には骨の髄から革命家になっていて当然か。だが、想像したことがあるかいアイク。教育熱心な活動家の、子どもに対する接し方について。一面的な価値観を信じて疑わず、それこそが善と決めてかかる者の醜悪さ。まるっきりの無自覚でありながら、思想の根本に染み付いた選民意識。我が子を、あたかも所有物であるかのように見做す振舞い。連中は僕のことを、一個の自立した存在だなんて思っちゃいない。彼らの生における、僕は付属物なのさ。組織の主導者としての在り方以外は、認められない。マイゼルの理論へほんの小さな疑問を呈することすら、許されない。両親に関わるものは何もかも、全て、僕にとっては憎むべき対象でしかなかったよ。ずっと、ずっと、ずっとだ。ED・ワールド・マイゼルも大嫌いだった。あの神経質な文章は読んでいて頭がおかしくなりそうだし、革命の歴史的必然性なんて、あまりにも欺瞞に満ちていて吐き気がする。あんなものを無邪気に信じて、本気で世の中を変えてやろうだなんて、気が狂っているとしか思えないね。そりゃあ、今の世界の在り方に問題がないとは言わないさ。貧困や格差は、是正されて然るべきだ。でも、それとこれとは話が別だ。僕は、自分自身の体験に基づいて、マイゼル式を断固として拒絶する。あんなに腐った連中を作り出す思想が、正しいものであるはずがない。僕は僕の確固たる意思で、君たちのような反逆者を、駆逐することを決めたんだ……」

 喋り終えると、アレックスは再び、肩で息をした。

 もう何度目になるかわからない、水を打ったような沈黙がやってくる。

 何を言えば良いのか、わからなかった。

 ぼくには、アレックスがありのままの本心を述べているようには思えなかった。それは、単に彼の言ったことを信じたくないといったような、感傷的な気持ちからきているのではないはずだった。

 彼が語った内容は、事実なのだろう。アレックスは、両親を憎んでいる。親から受けてきた教育を、そこから垣間見える思想や自分自身に託されたものを、心の底から忌み嫌っているのだ。その為に、反革命的立場を選ぶに至ったというのも、きっと本当のことだ。

 だけどそれでも、いや、あるいはだからこそ、アレックスは何処かで嘘を吐いている。ぼくはそのことを、どんな風に表現すれば良いのかがわからなかった。

「あなたが」絞り出すように細く、エミリアがささやいた。「今までわたし達に語ってきたこととか、教えてくれたことは、じゃあ、何だったの」

「組織で信用を得るための方便だ」

「嘘よ」エミリアは、今度はぴしゃりと言う。「何故そんな嘘を吐くの?」

「何を。嘘なんて言うものか」せせら笑うみたいに、アレックスが答えた。「まったく、救いようのないお人好しだな。一体この期に及んで、僕なんかに何を期待しているってんだ? わかるだろ、フレッドの言った通りさ。僕は政府の使者だ、裏切り者なんだ。君らからすれば一顧だにする価値もない、どうしようもない存在なんだよ。その証拠に、聞いたろ。僕は自分の本来仕えるべき組織から、監視されてたんだぜ。二重スパイの疑いをかけられてさ。その癖、欺くべき相手には、内通が発覚して真相を告げても、まだ仲間だと思われてる? おい、こんな馬鹿げた話があるかよ。もう良いだろう、勘弁してくれ。僕には何も残っちゃいないんだ。どのみち、君たちに身元がバレてしまった時点で何処にも行けない。殺すんだったら、さっさとやってくれ。グレースは、もう邪魔立てできないはずだ」

「違う」エミリアは怯まない。「アレックスは、死にたいの? そうじゃないでしょ、どうして目を背けるの。あなたはわたしに言った。ED・ワールド・マイゼルがまるっきりの無謬であるはずがない。そして、そのことをマイゼル自身がわかっていなかったはずもない、と。マイゼルの遺した思想の価値は無謬性にあるのではない。歴史を、我々の世の中を前へ進めようとする意思にこそあるんだと、そう言ったの。それは間違いなく、真摯さによって鍛えられた言葉だった。今そうやって、マイゼルや両親に向けられる恨み言なんかよりも、よっぽど鋭く研ぎ澄まされていたよ。だからはっきりと、確信を持って言える。あなたは悩んでいた。マイゼルの思想を強く憎みながら、それでも正しいのはどっちなのかと、考えずにはいられなかったんでしょう? でも、その結果、自分の立場に自信を持てたのだったら、もうマイゼルを憎んだりする必要はないはずだよ。嫌いとか、吐き気がするとか、そんな乱暴な言葉で逃げなくたって良い。つまりねアレックス、あなたは……」

「その辺にしておけ」エミリアの口上を遮ったのは、グレースの刺すような一声だった。「に堪えない。これ以上やったら、取り返しのつかないことになるぞ」

「……どういう、こと」

「学校で習わなかったか?」グレースはあくまで冷ややかに言う。「我々を象る螺旋に刻まれた、獣因子。そこで倒れてるフレッドの脚を見てみろよ、奴の起源はロードランナーさ。恐らく、並外れた逃げ足が仕事の役に立ったんだろう。普通、肉体変異ポリモルフは意識で制御できるものではないが、違法な手術を受けることで、それが部分的に可能となる。こいつの場合、単に元から刻印されていた獣性を解放するだけじゃなく、手の方には改造も加えていたみたいだが……。ともあれ仕組みは簡単、変異させたい箇所の獣細胞を、強力な電気信号で刺激してやるだけだ。だがそれは非正規的な変異の手段であって、本筋は別にある」

「……過度のストレスによる獣変異か」ダンが静かに呟いた。

 グレースは軽く頷いて、続けた。

「アレックスは日頃から、非常に不安定な精神状態にあった。政府のスパイとしての任務がもたらす緊張に加えて、両親への憎しみとマイゼルの思想に関する懊悩、内通者である自分の立場と、それとは相反する〝仲間〟への感情。およそ、一個の存在がまとめて抱え続けるには、複雑すぎる葛藤さ」言葉は、平坦な調子を崩さない。「加えて、ワールドマイゼルの実験に突きつけられた、独自の倫理的課題がある。実直なアレックスのストレスは最高潮に達していた。それこそ、いつ獣化を発症してもおかしくない程に」

「いい加減なことを言うな、グレース」アレックスが彼女を睨みつけた。「獣化? この僕が? 冗談も休み休みにしてくれ」

「そうだな、冗談だったらどんなに良かったかと思うよ。本当に、君の音楽を失いたくはなかったんだ。とは言え私の愛した音楽は、まさに君が苦しむことによって生じているものだったのだから、皮肉と言うほかないけれどね」グレースは、そこで初めて感情のようなものを覗かせた。その口ぶりには、既に終わってしまった物事に対する愁傷じみた響きが乗せられているように、ぼくには聞こえた。「……アレックス、寒くないか」

「寒い?」と、アレックスは怪訝そうな顔をする。

「理不尽に齎される破綻というのは、存在する。どんなに拒んだところで、誰かのせいにしようとしたって、運命としか言いようのない流れが、物事をめちゃくちゃにしてしまうことはある。これは間違いないことだよ」グレースは言う。「だが、今回のケースはアレックス、君自身が招いた結末だ。そもそも、やろうとしていることに無理があった。……いや、それどころか当の本人ですら、自分が何をやりたいのか、ついに最後まで判らず仕舞いだった。音楽は魂がどちらを向いているのかを教えてくれるが、君の場合にはベクトルというものが無かった。惑い続けたまま、何処へも行けない。やがて訪れる破滅のときを、ただ待つことしか出来ない。君はそういう存在だった」

 眉根を寄せていたアレックスの顔が、くしゃりと歪んだ。

「グレース、僕は……」

「逃げろ、アイザック」グレースは、ぼくに向かってはっきり、そう言った。「私は君を死なせたくない。勿論、他の皆も……それに、アレックスも。早くしないと、全部手遅れになる」

 ぼくはアレックスを見る。

 彼は低い声で、苦しげな呻きを上げている。頭の毛が逆立ち、おでこの辺りにはびっしりと脂汗が浮かんだ。両目が黄色く濁り、瞳孔は細くなり始めている。

「君はどうするつもりなんだ、グレース」

「私は大丈夫だよ」ぼくの問いかけに対し、彼女は涼しげに答えた。「さっき言っただろう、フレッドを殺したのは私なんだ。いざというときに身を守る術は心得ている」

「どうやって殺した?」

「アイザック、押し問答をしている時間はないんだ。……これ以上は言わない、心配は無用だ」グレースはにべもない。「全員、もう決して此処へは来るな。盗聴器が破壊されたことがわかって、じきに政府の連中がやってくるだろう。フレッドの死体が見つかれば、内輪揉めによる殺害事件として、捜査が行われる。我々は容疑者だ。指名手配を受けることになるかもしれない。とにかく、今は逃げろ。組織や革命のことなんか、忘れてしまえ。GGのところへ行くのも駄目だ。ワールドマイゼルの実験は、君たちが考えるよりもずっと、政府に危険視されていた。こんな格好の口実を前にして、連中がお咎めなしで済ましてくれるはずがない」

 アレックスの漏らす苦悶の声は、徐々に強くなっていく。それに従い、彼の身体が少しずつ、大きくなっているようにも見えた。

「後のことはともかくとして」言ったのはベニーだった。「今は逃げるべきだろう。それは彼女の言う通りだ」

「でも、だったら尚更、グレースを放ってはおけない」

「アイザック」ベニーがぼくの肩を掴む。「時間がない。わかるだろ、アレックスを一人で置いて行くわけにはいかないんだ。獣化した状態で外に出してしまったら、何が起こるかわからない。ここは、グレースの指示に従うべきだ。全員で心中するつもりか」

 ぼくはもう一度、グレースに目を向けた。

 すると驚くべきことに、彼女は笑っている。

「この間はありがとう、アイザック」それは、謎多きぼくらの仲間が初めて見せる、満面の笑みだった。「楽譜を作らせてくれて、本当に嬉しかったよ」

 もう何も言えなかった。

 ぼくはベニーに引っ張られるようにして、アジトを後にした。背中越しに、獅子の咆哮を耳にしたような気がする。

 記憶はそこで途切れている。

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