第五章 「死と獅子」

Side A <S.V.A.>

 

  15

 

 鷺沼の体調は、案の定しばらく休むと快復した。

 途中で赤木氏が店に戻り、ソファに寝転ぶ鷺沼とそれを介抱する僕の姿を見て「お前ら何してやがる。人の店でいかがわしい行為に及ぶつもりか」などと騒ぎ立てる一幕があったが、取り立てて大きなアクシデントは発生しなかった。

 彼女はソファから起き上がって「もう大丈夫です」と言った。「ご心配おかけして、すみませんでした」

「いつから?」僕が訊くと、鷺沼は指折り数えて「はっきり聴こえるようになったのは、三日前くらい」と答える。

「こないだ映画を見に出かけたときは、まだ平気だったのか」

「そうですね」彼女は目を伏せた。「最初は気のせいだと思ってたんですけど、徐々に大きくなってきて。でも、さっきみたいに酷くなったのは初めてです」

「とにかく、今日はゆっくり休むんだな」言って、ソファの傍に置いた丸椅子から立ち上がった。「家、翠埜でしょ。送っていくよ」

「あ、はい。すみません」鷺沼も、ソファから足を下ろして靴を履き始める。「だけど、今はもう何ともないですよ」

 僕らは連れ立ってエトランゼを後にした。日は傾き始めていて、時折吹く風が仄かな涼気を運んでくる。

「やっと、夏も終わりそうですね」肩の辺りで髪の毛を揺らしながら、鷺沼が言った。「今年はずいぶん長かった気がします」

 広い通りに出ると、車の往来がある。信号待ちの最中、右手側から差す西陽が、行き交う鉄塊を赤く照らしている。僕は眩しさに少し目を細める。エンジンの音が高く響いた。

「あの、深町さん」

「ん」

「寄り道していきませんか」鷺沼は片目を閉じて、「駄目?」と手を合わせてきた。

「寄り道ってどこに?」僕は赤色のまま静止している信号機に目をやる。「体調はなんともないの」

「耳鳴り、止まってれば平気ですよ。この先に公園があるんです。そこでちょっと、お話をするだけ。ね?」

 彼女の勢いに押される形で、そのまま公園へ向かうことになった。

 先ほどの通りからやや細い路地へ入ってしばらく歩いたところで、住宅街に出来たエアポケットみたいに、それはある。オーソドックスな鉄製のブランコ、小さなジャングルジム、申し訳程度の砂場にカラフルなペンキの塗装が剥げかけたベンチ。簡素な作りは、さながら児童公園の最小構成という趣だった。

 人影はない。周囲を囲む木々が、風に揺らされて音を立てている。

「小さい頃、ここでよく遊んでました」鷺沼が公園の中へ入っていく。ゆっくりと歩みを進めて、そのまま右側のブランコに腰掛けた。「小学生のときって、一日が長かった」

「そうかもしれない」僕は遊具を囲う安全柵の手前で立ち止まった。「この辺りは、昔から大きく変わってないのか」

「あんまりは」彼女は頷く。「建物は、どんどん新しくなりますけどね。街並みはほとんど、そのままです」

 鷺沼はミュールで軽く地を蹴って、ブランコを漕ぎ始めた。鉄の軋む音が鳴り、白いカーディガンの裾が舞う。

「時間って不思議ですよね」振り子運動に身を任せながら、鷺沼が言った。「自分が大人になるなんて、小さい頃は考えもしなかった。なのに、気が付いたら皆に大人って呼ばれてて、だから自然とそんなものかって思って、大人であることを受け容れようとしている自分がいる。私の中の何が変わったのかなって、たまに疑問に思ったりします」

「大人になるのではなくて、子どもで居られなくなるんだと思うよ」僕は彼女に背を向け、鉄柵に腰掛けた。「子どもというのは、社会による扱いに対して、便宜的につけられた呼び名に過ぎない」

「時間は相対的なものだという話もありますね」背中越しに、鷺沼の声が聞こえる。「運動する物体に流れる時間は、静止している物体や、よりゆっくり動いている物体のそれよりも遅く流れる。今、私はほんの少しだけ、深町さんよりスローに生きている。だけど細かく分けたら、きっと私の中にだって、速い部分と遅い部分がありますよね」

 公園の外を女子中学生の二人組が歩いていく。小声で会話をしながら、好奇の目で僕らの様子を窺っている。

「私の中の忙しないところが、今も小さい頃のままで、こうして疑問を投げかけてくるのかもしれない。何だか周りは時間の流れが速すぎるみたいじゃないか、って……。ふふ、変なの」鷺沼は中学生のことなど気にならないようで、軽やかな笑い声を上げた。

「面白いこと言うね」足元を見ると、数匹の蟻が餌を運んでいる。「相対性理論ってそういう話じゃない気もするけど。だけど、そうだな。……僕にもきっとあるよ、時間の流れに取り残された部分」

 働き者の蟻たちを観察しながら、僕は己の恥を思う。

 心療内科の受付。統合失調症の妻を宥める男性。バウムテスト。枝葉を描くのが面倒で出来上がった枯れ木。自分語りを始める主治医。僕の名前が入った診断書の封筒。余白の多い休職届。ジェイゾロフト。不眠。携帯電話の着信履歴。再三に渡るメール連絡。不眠。面談の重苦しい空気。決断の先延ばし。気遣わしげな視線と声色。痛みが走る。出かけられるなら病気じゃない。不眠。お前の僅かな貯金はいつ絶滅するんだ。ごめんなさい。働いていないのにカネを貰ってごめんなさい。

 死者に胸を張れない生き様。自分の在り方を肯定できない毎日。それを認めながら、死ぬことも生きることも選べずにいる醜悪。

 全部、今の自分を形作っているものだ。どんなに見苦しくたって、捨て去ることなど出来はしない。

「九十八パーセント」鷺沼が、ぽつりと言った。

「……何それ?」

「一説によると、自殺者の九割超に何らかの精神疾患が見られるんだそうです。九十八パーセントというのが、私の見た中でいちばん高い数字」

 精神疾患という言葉に、胸のうちの一部分が、波立つように反応する。

 ブランコの角度が大きくなっているのが、軋みが立てる音の間隔と声の響き方でわかった。

「前に、深町さんに言いましたよね。自殺は、遺された者にとっては呪いだって。説教だと思われちゃったみたいですけど」鷺沼は少し、声を張っている。「知り合いが、自殺したことがあるんです。いえ、すみません。その言い方は嘘ですね、死んだのは学生時代から付き合っていた相手、恋人です。同い年の男の子でした。私には何も言ってくれなかった。もう、二年以上も前になります」

 顔を上げて正面を見る。女子中学生の姿はない。辺りは少し暗くなってきている。

「抗うつ剤を飲んでいたことを、後になって知りました。私はそれを、持病の薬だと教えられて、疑いもしませんでした。耳鼻咽喉科に通院してるんだって」彼女の声のトーンは不自然なくらいに平坦だった。「本当に突然でしたよ。最後に会ったときだっていつも通りに見えましたし。普通にばいばいって挨拶して、また明日ーって。なのに、その日の夜らしいです。飛び降りたの」

 眼前の景色に動きはない。音だけが時間の流れを教えてくれる。木々のさざめき、鉄と鉄の摩擦、鷺沼の独白。僕は、それらが自然のうちに調和していることに気付く。

 音楽。

 何故だか心臓が、きゅっと縮こまる感じがした。

「深町さんには偉そうに言っちゃいましたけど、私もきっと、まだ呪われてるんじゃないかと思います。時間が経って、悲しいとか辛いという気持ちはだいぶ薄れたけれど、もっと根本的なところで。自分はあの人にとって、何だったんだろうなって。一人の近しい人をこの世に繋ぎ留めておくだけの理由にもなれないんだなって。それどころか下手したら、むしろ自分が彼を追い詰めたのかもしれなくて。もちろん、そんなことばっかり考えていたら頭が変になっちゃいますから、何とか折り合いはつけようとするんですけどね。うつは脳の病気だから自分じゃどうしようもない部分もあるんだ、とか。彼は死ぬしかなかったのかもしれない、とか。実際、後から出てきたメモ帳を見たら、すごいこと一杯書いてあって。それは死ぬしかないかもな、って思ってしまうような。でも、そうやって自分を強いて納得させるような行為が何かの解決になってるかって言ったら、違ったのかもしれないです」

 彼女が喋り終えると、後には木の葉とブランコの織り成す伴奏だけが残った。首筋を撫でる空気に、僕は少しだけ肌寒さを覚える。

「主題の話?」

 簡単な質問に対する答えは、数秒してから返ってきた。

「そう、ですね。今どうして耳鳴りが起きているのかということを私なりに考えてみると、真っ先に思い浮かぶのが彼のことでした」背後で、何度か土を蹴る音がする。その度に軋みも大きく鳴る。スイングが弱められていく。「耳鳴りの原因は、ストレスが大半だと言うので。それを手代木くんが詩的に表現したのが主題の悲鳴ということなのかなって、私は思いました。ちなみに、精神疾患と耳鳴りには密接な関係があるとも言われてますね。耳鳴りが引き金になって、うつ病を引き起こすケースもあるんだとか」

「なるほどね」それでは手代木の聴いた音楽が僕の耳鳴りを正しく捉えていたことに説明がつかない。そう思ったが、口にはしなかった。「だとすると、鷺沼さんにも必要だってことになるのかな。その、彼の死を位置づけるのが」

「正直、わかりません」鷺沼は声を落とした。「私は私なりのやり方で、飲み込んだつもりでした。それが不十分というか、間違ったやり方だったのか。それとも、全然別のところに原因があるのか」

「僕の場合は、だけど」とエクスキューズを置いて、言う。「結果的には、必ずしも石山さんの死について考えるってことばかりが、耳鳴りを止めることに繋がっていたわけではないと思う。始まった理由も終わった理由も、はっきりわかっているわけではないけどね。様々な内的問題が、芋づるみたいに絡み合っている。だから言い方は悪いけど、手当たり次第になってしまっても良いのかもしれない」

 ブランコの音が止まった。残ったのは、風に揺れる木の葉の合唱だけ。日はいよいよ暮れかけている。遠くに見える地平線が、赤く燃え上がる太陽を、飲み込もうとする。

「手当たり次第、ですか」心なしか、鷺沼の声が揺れた気がした。「そうですね。……乗っかるみたいになってしまいますけど、それなら。深町さんって、その彼によく似てるんですよね」

 そうなんだ、と声を出した。

 出したと思う。ただ、掠れてしまって、それは背後の鷺沼にまで届かなかったかもしれない。

「だから、というわけではないんだと思います。彼のことは好きだったけれど、恋愛感情は引きずっていないつもりです」彼女は言う。思いのほかしっかりとした口調で、発する声は僕の耳まで十分に届く。「私、深町さんが気になってます。いえ、多分好きです。友人とかではなくて、男のひととして」

 その後も、鷺沼は話した。初対面のときに話を逸らされたのを覚えていること。人を食ったようなところが自殺した彼を思い出させること。声がよく似ているということ。石山の死に向き合おうとする僕の言葉が感慨深かったこと。エトセトラ、エトセトラ。

 僕は、それを聞きながら、

『深町さん、お願いがあります』

 その声、その言葉、

『……キス。してください。今、ここで』

 思い出して、

?』

 

 ――何かが、弾けた。

 

 記憶の蓋が罅割れる。補修用のちゃちなテープごと、音を立てて落ち窪む。

 押し込めていたものが、煙みたいに溢れ出す。

 

  *

 

 誰も居ないエトランゼ。

 僕と石山茜音が、若干の距離を置いて、向かい合わずに座っている。薄いピンク色のTシャツに覆われた頼りない背中越しに、僅かに右頬が見えるくらいで、彼女の表情は窺い知ることができない。

 気詰まりなことこの上ない沈黙。

 冷めたコーヒーが不味い。

 ウォーク・ザ・ドッグのおばさんを求めて窓の外へ視線を彷徨わせるが、当然のように誰も居なかった。

 彼女の言葉に、応えなくてはならない。

 石山は勇気を振り絞ったのだ。それがどんなに幼稚で、退廃的で、あるいは刹那的で、考えなしの、どこにも向かうことがない、愚劣極まりないものであったとしても。

 行われたのは、一つの決断だ。

 無視することはできない。

「……それで」やがて出てきた声は、自分でも驚くくらいに冷淡なものだった。「それで、何かが変わると?」

 彼女は、何も言わなかったと思う。ただ、席を立った。全身ががたがたと震えているのを隠そうともせず、それでも最後に小さく一礼をして、早足で喫茶エトランゼを後にした。続くシーンは、封を解かれた容器の中にも残っていない。

 石山のメールアドレスから訃報が届いたのは、それから五日後のことだった。

 

  *

 

「あの。当たり前ですけど、すぐにどうこうしてくれとは言いません」鷺沼が言うのが聞こえてきた。「急な話だし……私も、好意の告白がしたかったというより、ある意味では総当たりの一部として、吐き出すために口にした部分が大きいので」

 木々の触れ合う音がして、世界に色が戻ってくる。太陽はすっかり姿を消し、僕らを照らす役目は微かな月明かりと、不健康な顔色をした街灯のものになった。

 僕はまだ、混乱している。閉ざされていた記憶領域。一度アクセスが解禁されてしまえば、それが自身の身に起こった出来事であるのは明白だった。

「深町さんと知り合って、あのときのことを思い出す機会は増えました。だけど同時に、なんていうのか、それが上書きされていくような感じもしてたんです」彼女は少しずつ、しかし明瞭に、意思の言葉を紡いでいく。「もしかしたら、こうやって本当の意味で、私は解放されるのかもしれないって、夢見がちな女の子みたいで恥ずかしいですけど、そんな期待をしてたところもあります。知り合えて良かったなって、本当に思います」

 音はよく聞こえている。耳鳴りもしない。声は言葉として、像を結んだ。にも関わらず、何を言われているのか、理解するのが難しかった。何者かが言葉と僕の間に挟まって、正常な伝達を邪魔しているみたいだった。

 頭の中が、ごちゃごちゃに混線している。脳が痒い。錯覚だ。中身を引っ張り出して水洗いしたい。目を閉じて、強く首を振る。振り払う。このままでは、また死ぬ。黙っていてはいけない。

「……あのさ」声を出すと、頭は少し軽くなった。「僕も、良かったと思うよ」

 静寂。

「帰ろうか」僕の口が言う。「もう真っ暗だよ。親御さんが心配する」

「そんな歳じゃないです」後ろで、鷺沼が立ち上がる気配がした。「と、言いたいところですけど、うちの親って過保護なんですよね」

 僕も柵から腰を上げた。いつの間にか、鷺沼は目の前に居る。髪の毛が少しだけ乱れていた。街灯に背を向ける形になっていて、表情は判然としない。

「ご迷惑でしたか」

 抑揚のない小さな声で、彼女は言った。

「そんなわけ、ないだろ」

 僕は答えたかもしれない。ひょっとすると、もっと全然違ったことを言ったのかもしれない。

 発した言葉は夜闇に溶けてしまったから、今となってはそれを確かめる術はない。

 

  16

 

 それが何処だったのか、わからない。

 僕は歩いていた。半分、足を引きずるような格好だった。目指す場所もはっきりとしないまま、亡者さながらの足取りで、ふらふらと歩みを進めた。

 時間もわからない。いつから歩き始めたのか、どれくらい経ったのか。昨日がいつだったのか、明日が何の日なのかが思い出せない。何もかもが曖昧で、夢の中にいるみたいな気分が続いた。

 ただ、会わなくてはならない、と思った。

 すると、手代木洋介が現れた。

「やあ」彼はすらりと長い右腕を挙げる。

「奇遇だな」僕は思ってもいないことを口にした。「こんなところで会うなんて、珍しい」

「ロクサーヌとはお別れだ」手代木は言った。「さっき、マスターに挨拶してきた」

「そうか」

 僕がそっけなく言うと、手代木は「ふむ」と腕組みをする。

「どんな選択をしたって、心配しているようなことは起きないよ」彼はなんでもないことのように告げた。「石山茜音と鷺沼梢は、あらゆる意味で違っている。今生きている方の彼女は、あんたに振られたくらいで自殺したりはしない」

「……どうして」

 予感はあった。けれど、それしか言えなかった。

 疑念、困惑、懊悩、後悔。記憶、辟易、憐憫、衝動。ぐずぐずに溶けて混ざり合ったそれらが緑色の粘っこいスープになって、頭の中をのたうち回っている。

「その、『どうして』は何に係っているんだろうな」手代木は珍しく、声に面白がっているような響きを乗せた。「まあ、いいさ。時間はたっぷりある。たっぷりとね」

 僕は何も言わず、向かい合って立つ男を見据える。相変わらずの鉄面皮。整った顔立ちには、何らの感情も宿ってはいない。

「石山茜音は、死んだのか? あんたはここ最近、ずっと悩んでた。だが少し考えればすぐわかることで、この問題に解はない。彼女は既に死んでいて、理由なんてものに実体はない。それは生きている人間の頭の中にしか居場所がないものだ。既に起こってしまった自殺の理由っていうのは、そもそもが亡霊みたいなもんさ。

 とは言え、尤もらしい理屈付けはできる。誰からも必要とされないという思い込み。将来への展望のなさ。他者に対する過剰な期待からくる孤独感と不信感。それらを齎した世の中に対する怨嗟。執拗に襲いかかる耳鳴りと頭痛。不眠症。予定調和としての失恋。それら様々な要因が重なって起きた、過度のストレスによる神経損傷。

 ……そんなに睨まないでくれ。いや、無理もないことか。そうだよ、あんたは知らなかったみたいだが、石山茜音も耳鳴りを聴いていた。彼女の音楽は、ちょっと類を見ないくらいに攻撃的だった。軽くボリュームをひねるだけで、脆い人間の神経なんて簡単にぶっ壊せる」

 ちょっと待て。

 今、なんて言った?

「ボリュームをひねる、と言った。当然これも比喩だ。人間の頭にそんなものはくっついてないからね。

 ただ、そう。今まで黙っていたが、オレにはそういったことが出来る。つまり、他人の音楽を増幅アンプリファイして、本人の耳に聴こえるよう調節できる。そのことを認めよう。そして、恐らくはオレの行いが、石山茜音の精神を追い詰めた主たる原因であることも、同時に認めよう。

 すごい目つきだな。オレが憎いかい。きっと、そうなんだろう。しかし、それは何故だろうな。石山茜音に死んでほしくなかったからなのか、それとも、要りもしない罪の意識を背負わされたことによるものか。自分が殺したのかと思ったじゃないかと、文句の一つも言いたいか?

 でも、勘違いしないでほしいんだよ。オレは確かに石山茜音の音量を勝手に弄ったが、そのことが直接的に、彼女の実存的不安の数々を呼んだわけではない。それらは相乗効果として石山を苛んだが、ではオレが何もしなければ彼女は悩まずに済んだかといえば、決してそんなことはないはずさ。言っただろ、音楽はテーマなんだ。生きていく以上、本来であれば避けて通れない。

 主題を見据えろよ、人間。

 音楽はいつだって、それしか言っていないんだぜ」

 ずきりと、頭が痛んだ。久々の感覚。しかし、耳鳴りはない。

 手代木は一拍置いて、続ける。

「オレは石山茜音の音楽に働きかけた。さらに言うなら、あんた対してもそうだ。本人には聴こえないところで鳴っている主題を、耳元に突きつけた。それが、あんたらの耳鳴りの正体だよ。ああ、鷺沼のは違うぜ。あれはオレとは関係がない。……ま、これは良いだろ。

 さて、それじゃあ謎解きの第二章だ。オレは一体どうして、そんなことをしたのか。そのことを語るためには、まず前提を明らかにする必要がある」

 そう言って、彼は謡い始めた。物語を。

 真実という名の、馬鹿馬鹿しい創世記おとぎばなしを。

「オレたちの宇宙がどうやって生まれたとされているのか、あんたも簡単な知識くらいなら持ち合わせているだろ。現在の通説は、ビッグバン理論ってやつだ。時空の爆発から、宇宙は始まった。

 古来より、数多の天文学者が夜空を見上げ、星々の動きを観察した。彼らは気の遠くなるような距離の向こうにある天体の光から、どうにかして宇宙の謎を解き明かそうと腐心してきたし、その闘いは今も続いている。

 だが、得られた果実は所詮、状況証拠の寄せ集めに過ぎない。観測の結果から仮説を立て、ぶち上げられた理論を元に、また観測を行う。傍証となるようなデータが得られる。認識の枠組みが精緻化する。天文学に限らず、科学ってやつは一般的に、こうやって発展を遂げてきた。ごく当たり前のことで、人間の瑕疵などでは決してないが、ここにははっきりと限界がある。すなわち、科学を名乗る営為は、最終的には認識の範囲を超えることができない。

 ビッグバン理論の最も基本的な根拠は、地球から見た星の輝きが、時間の経過と共に遠ざかっているという観測結果にある。人類が見ているのは星の輝きであって、星そのものではない。

 とは言え、太陽系は確かに実在する。人類は月に到達できるし、火星に生命の痕跡を探ることもできる。その気になれば、いつかは土星の輪っかでスノーボードの真似事ができるかもしれない。

 だが、アンドロメダ銀河は、もはやいつ消えるとも知れないオリオン座のベテルギウスは、驚異的なスピードで我々から離れていくクエーサーは、プラネタリウムの天井に描かれた星たちと、本質的に何の変わりもない。何故なら、いかにGGが巨大な演算処理能力を誇るとはいえ、オブジェクトの生成には限界があるからだ。

 何を言ってるんだ、って顔をしてるね。初めて声を掛けたときと同じだ。あの時はあんたの音楽の話だった。今は、この世界を動かすコンピュータの話をしている。

 目的は、知的生命体の社会運営に関する実験だ。彼らの住まう星に環境条件を可能な限り似せて作られたこの惑星は、あっち側ではマイゼルと呼ばれている。言語の互換性については、ややこしいので省略しよう。長い年月をかけて、惑星マイゼルには生命が現れ、それらは変異と淘汰を繰り返して、やがて人間と呼ばれる存在になった。

 初めは全てを自然に任せる方策が採られていたが、それでは上手くいかない部分が出てきた。特に拙かったのが核だ。ボタン一つで、あるいは緊急時のオペレーションミスによって、いとも容易く完全な破局を呼び寄せてしまうその存在は、時間の巻き戻しや軌道修正を余儀なくさせた。

 アプリケーション上で動作するこの世界に、外側からパラメータを書き換えることで直接干渉するという案もあるにはあったが、議論の末、それは倫理的な観点からNGだという話になった。折衷案として生まれたのが、調停者だ。歴史の陰で、実験を破綻させないように、時には必要な方向に導くために暗躍する存在。

 その正体は、実験遂行のため、部分的な管理者権限を与えられた擬似AIさ。

 オレはそのうちの一人なんだよ」

 風景はない。

 僕が手代木洋介と対峙している。この状況では、それが全てだった。

「説明になっていない」僕は吐き捨てるように言った。「SF映画の見すぎだよ。誇大妄想も甚だしい。もし仮にお前の話を丸ごと信じたとしても、それは僕や石山にちょっかいをかけることに繋がらない」

 手代木は、能面のような表情を崩さない。

「あんたがそう考えるのも無理はない。実際のところ、これは業務外の活動だ。オレにとって本来の仕事はthe DOGSというバンドでやっていることで、だからあんたらとの関係は、あくまでプライベートなものだよ。

 しかし、オレには徹底した職業意識というか、使命感のようなものがあってね。まあ、そのために生まれたんだから当然なんだが。ともかく、実験の成功に資するかもしれない案件を見つけたら、とりあえず手を出しておくことにしていたんだ。

 どこから説明したもんか。あんたはパトロンって知ってるかい。直接、人間の生活に必要なものを生み出さない芸術家や学者のような職業は、その道だけに専念しようとするのであれば、他人に価値を見出してもらわなければ存在できない。こういう連中に資金を提供するのがパトロンだよ。資本主義社会において、例えばミュージシャンは自分の楽曲とかライブのチケットを売って、それを生活の糧にしている。人気でもって、パトロンの役割を分散させてるってわけだ。

 本題は、あんたの友人の話さ。猫田健二郎ってのが居るだろ。なかなか見込みのある男だ。彼の研究テーマを知ってるよな。経済学の統一的な理論研究。惑星マイゼルの目指す成果にとって、これは非常に重要な課題だった。にも関わらず、今この国でそういう大きな問題意識を真正面から扱おうとしている研究者は、驚くほど少ない。流行じゃないからね。だから金は出ない。猫田はそれでもなんとかやり通すだろうが、大学にまともなポストを得るには相当の忍耐が要るだろう。それまではその貴重な時間を、アルバイトなんかに費やさなくちゃならない。これは若く有望な研究者にとって、計り知れない損失だ。彼にはパトロンが必要だと、オレは考えた。

 猫田に、金を持った女の紐になれるくらいの器量があれば良かったが、それを求めるのは酷というものだった。あんたはよく知っているだろうが、彼の対人能力はほとんど欠落していると言って良い。きっと大学でも苦労するだろう。友人と呼べるような相手だって、今はあんたの他に居ない。

 もうわかるだろ。オレは、猫田の唯一の友人であるあんたに、パトロン役を期待したのさ。カール・マルクスにとってのフリードリヒ・エンゲルス。それがあんたという人間の天命だった。オレが独断でそう決めたというだけの話だけどね。

 理解に苦しむ、って顔だな。だがオレの目から見れば、特に見込みのない話というわけでもなかった。あんたの音楽は、確かにそっちを向いていたよ。この先、猫田健二郎の志や研究課題についてより深く知ることができれば、彼の協力者となり得た。これは間違いない。あんたは自分について、職場で宛がわれた仕事ひとつ満足にこなせない人間だと思い込んでいるかもしれないが、本来そんなことはないんだ。明確な目的意識。欠けていたのはそれだけだよ。必要とあらば研究のための資金繰りだってなんだって、やってのけるだろう」

 脳の皺が、片っ端から緑色の液体で目詰まりしていくような感触があった。言語中枢が、スムーズな理解を拒んでいる。

 天命ミッション。音楽。様々な問題から逃げ回っていた僕。向き合う契機となったのは。鷺沼梢。耳鳴り。無機質なメールの文面。×××××。冷めたコーヒー。お願いがあります。誰からも、本当に必要とされたことってないんです。選択の積み重ねが、人の個性というものを形作っている。

「お前は」誰かが言った。「お前はそんなことのために、石山を殺したって言うのか」

「そんなこと、と言うけどな。あんただってオレだって石山茜音だって鷺沼梢だって猫田健二郎だって、突き詰めれば皆、そのために生まれてきたんだぜ。本来はね。

 やり方が非人道的だとか、もっと上手い方法があったとか、そういう話はあるかもしれない。ならば、オレの未熟と受け止めよう。そうしたところで許されるとも、許される必要があるとも思わないが。

 それに、繰り返しになるが、石山の苦しみの根源はオレが生んだわけじゃない。オレに出来るのは、直面させることだけだ。スイッチを押したのはオレかもしれないが、爆弾を拵えたのは今の世界であり、彼女の周囲にいた人間たちであり、石山茜音自身だよ。そういったものを打破することを、あんたも願ったはずだろう」

 ぐらぐらと、足元が揺れている。気を抜けば倒れ込みそうになるのを、踏み堪える。

 目を閉じて、眠ってしまいたかった。一連の会話を、悪い夢として処理してしまえたらどんなに良いだろう。

「具合が悪そうだな。さっさと切り上げて、家に帰りたいか。だったらお望み通り、展開を早めよう。

 オレは石山茜音の音楽のボリュームを上げて、耳鳴りを起こさせた。あんたのケツを叩いて、猫田健二郎の協力者になってもらうためだ。石山が死んだ後も事態がなかなか動かないから、あんたの音楽も増幅させたし、鷺沼梢がエトランゼに辿り着くよう仕向けもした。

 どうしてそんなことをする必要があるかと言えば、猫田の研究が、この世界を作った連中の目的に合致するものだから。オレは調停者で、奉仕精神の塊なので、いつでも実験を成功させるために行動する。

 それじゃ、種明かしの最終章だ。だったらオレは何故、今ここで、あんたにこんなことを話しているのか?

 答えは簡単。

 ロクサーヌとは、今日でお別れだからだ」

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