Side B <揺蕩うライオン>

 

  12

 

 突然の呼び出しを受けて、アジトの休憩室にやってきていた。

 グレースは既にそこに居て、小さな椅子に腰掛け、にこにこした表情でマイゼルの著作を捲っている。黒々と美しい頭髪が蛍光灯に照らされて、旋毛の周りに天使の輪を作っていた。垂れ下がった毛先は肩のところで二股に分かれて鎖骨の前を通り、胸元の辺りに収まっている。

 こちらに気付くと、彼女はそのままの姿勢で片手を挙げて「やあ」と挨拶をした。

「おはよう」ぼくも挨拶を返す。「何だか、珍しいね」

 グレースが名指しでぼくを呼ぶというのも珍しければ、彼女がマイゼルの本を読んでいるシーンも珍しかった。慣れない状況に、どう振る舞ったものかと自信が無い。

「珍しい?」グレースは首を傾げた。たったそれだけの仕草に、彼女の豊かな黒髪が首元から流れ落ちるのを意識して、何となく落ち着かない気持ちになる。「珍しい。そうか……面白いな」

「面白いって?」

「いや、悪いね。こっちの話」彼女は頭を振った。「そんなことより、フレッドの話をしようよ」

「どうしてフレッド?」いきなり出てきた名前に、ぼくは虚を突かれて訊き返す。

「気にしないで。持ちネタみたいなものだから」グレースは口の端だけで笑った。「そう、アイザックは、自分が呼ばれた理由が気になる。違う?」

「違わない」ぼくは首の動きで肯定を示す。「珍しいっていうのはさ、こうして二人で話すのが珍しいなって」

「前々から、君とは一度、面と向かって話がしたかった」彼女は落ち着いた調子で言う。「だから私からすれば、この状況は珍しいのではなくて、念願叶ってこうなってるの」

「面と向かって、フレッドの話を?」ぼくは精一杯の冗談を口にした。

「フレッドも良いけれど、音楽の話をね」

 言って、グレースは持っていた文庫本を閉じた。机の上に放られたそれは、ぱたん、と音を立てる。

「そういえば、前にも話していたね。音楽」いつかこの部屋で、女性メンバー三名と交わした会話を思い出して言った。「でも、どうしてぼくと? あのときも言ったと思うけど、特に音楽に対して造詣が深いわけじゃない」

「その様子だと、やはり聴いたことがないんだね」

 気が付くと、グレースは椅子から立ち上がっていた。音も立てずに一歩、こちらへ歩み寄ってきて、そのまま漆黒の瞳でぼくの中を覗き込んでくる。

?」ぼくはかろうじて声を出した。「何かの、音楽の話かい」

「私が興味を持っているのは、君の音楽だよ」彼女の両目に宿った黒色の泉から、直接声が出ているみたいな錯覚に襲われる。「アイザック、君は素晴らしい音楽を持っている。出会ったときから、私はずっとその音に惹かれてきたんだ。音色はだんだん変わってきているけれど、魅力は少しだって衰えていない。それどころか、日を追うごとに軽やかさと力強さが増している」

「何の話をしているのか、わからない」

「ああ……この音が君には聴こえない、一度たりとも聴こえたことがないなんてね」

 グレースが目を閉じて、大げさな動きで額に手をやった。同時にふっと肩の辺りが軽くなって、それで自分が彼女の瞳に釘付けになっていたことがわかる。

「実に悲しむべきことだけれど、言っても詮無い。無理やり聴かせたって仕方ないんだから」

「ちょっと」ぼくは目を逸らしながら言った。「さっきから、君が何を言っているんだかさっぱりだよ。ぼくの音楽ってのは、何のことだ?」

」グレースは、声のボリュームを一段階上げた。「皆が、自分だけの音楽を、リズムを、ビートを、グルーヴを、メロディを持っているんだよ。そして、私はそれを聴くことができる。意味がわからないだろ?」

「新手の口説き文句?」

「ははっ」彼女は快活に笑う。「そうだね、アイザックは異性としても十分に魅力的だけれど……これは、そういうのとは違う。とにかく、君の音楽が好きなんだよ。いつまでだって聴いていたいと思う。厄介なことに、音楽は君が近くに居るときにしか聴こえないし、他者が傍に居れば混ざり合ってしまって、それはそれで素敵なハーモニーだったりもするのだけど、君の音楽それ自体を純粋に楽しむことはできなくなる。だから、私は今日までよく我慢したと言うべきなんだよ。君とこうして差し向かいになる機会を持とうとするのをね」

「どうやら、ぼくには理解の及ばない高度な楽しみがあるらしいのはわかった」ぼくは床のタイルを見つめながら言った。「それで、話はおしまい? グレースは、ぼくの音楽とやらに対する好意の表明がしたかったのか」

「何ならアイザック、君じたいに対する好意だと受け取ってくれても、私は一向に構わないよ」グレースは更に一歩、近づいてきたようだった。「でも、そうだね。打ち明け話ができれば、目的の半分は達成。もう半分は、君の厚意に甘えたお願いかな」

「お願い?」

「はしたない女だと思わないでほしいんだけれど」と彼女は声を落とす。「君の音楽が欲しい。譜に起こさせてもらいたいんだよ。アイザックが何かをする必要はない。ただ、その場に居てもらえれば良い。そうやって書いた楽譜を誰かに演奏してもらって録音すれば、私はいつでも、心ゆくまで君の音楽を聴くことができる。どうかな」

 どうやら、冗談や暗喩の類ではなさそうだった。グレースは本心から、ぼくの持っている音楽なるものを欲しているのだ。

 それは彼女の基準で言うと、はしたないことなのか……全くもって、よくわからない。

「君の言っていることを、ちっとも理解できなさそうなのは残念だけど」ぼくは頭を掻いた。「特に断る理由はないよ。時間はどれくらいかかるの?」

「いいの? やった!」返事を聞くと、グレースは少女のような嬌声を出した。「えっと、そうだね。確約はできないけど、二時間もあれば何とかなると思うよ。私は、今これからでも一向に構わない」

「ぼくも、今日は暇だから」と頷く。

「じゃ、すぐ準備するね」彼女は弾んだ声で言う。「あ、それとアイザック……」

「何?」

「言いづらいんだけど、もう一つお願いが」グレースはおずおずと両手を合わせた。

「ぼくに出来ることなら」

「楽譜を書いた後も、こうしてたまに音楽を聴かせてもらうことはできるかな」ふざけているのかと思うような提案だったが、口調は遠慮と懇願とが混ざり合った、真剣なものだった。「生演奏じゃないけど、やっぱり君の出している音が好きなんだよ。きっと、そのうち代替品では飽き足らなくなって、聴きたくなってしまうと思う」

 改めて、グレースの顔に目をやる。

 彼女は不安げにこちらを見つめていた。瞳は相変わらず深いブラックで、しかし不思議と、底を見通すことのできない感じはしなくなっていた。

「あのさ、グレース」

 ぼくが言うと、グレースは「やっぱり駄目かな」と悲しげな表情を見せた。

「いや、そんな顔しないでよ。大丈夫だよ、時間があるときだったら」

 それを聞いたら、今度は「本当に?」と黒い目を輝かせるから笑ってしまう。

「君って面白いひとだったんだね」ぼくは思ったままを口にした。「ミステリアスなイメージが台無しになってしまった」

「謎は、知ってしまえば謎ではなくなる」グレースは事もなげに答える。「別に、普段から何かを隠しているつもりはないんだけど。ただ、音楽のことは大抵、理解してもらえないから、無闇に言って回らないようにはしている。それでも私にとっては大事なものだから、どうしても壁があるような印象は与えてしまうのかもね」

 やがて彼女は手荷物の中からメモ帳とペンを取り出すと、「さあ準備はできた」と勢い込んで書き取りを始めた。ずいぶんと手馴れた様子で、白紙のページ上に楽譜が出来上がっていくところは、見ていて飽きなかった。

 しかしながら、作業は長期化した。ぼくの音楽というのが、思った以上の大曲だったのだ。個々のフレーズが複雑な上、立て続けに様々なパートが登場する構成に、グレースは手を焼いた。

 結局、楽譜が完成するまでには五時間を要した。

 

  14

 

 ミーティングが終わるなり、フレッドが近づいてきて「アイク、ちょっと面貸せよ」と言うので、これはいよいよ何か面倒なことになったぞという予感はあった。

 予感が確信に変わるまでに、そう時間はかからなかった。いつものように喫茶ロクサーヌで向かい合って座り、飲み物を注文し終えると、彼は露骨に周囲を警戒しながら「お前、誰かに尾行されてないだろうな」などと言い放ったのだ。

「尾行?」ぼくは多分、素っ頓狂な声を上げてしまったと思う。「何それ」

「あ? 尾行は尾行だろ。そんなことも知らないのかよ」フレッドは苛立たしげに言った。「誰かが、こっそり盗み聞きをしていないとも限らない」

「そういうものなのか」

 ぼくはつい、マスターに助け舟を求めるような視線を送ってしまう。彼はいつもの笑みを浮かべると、気を利かせたつもりなのか、店内で流れているBGMのボリュームを少し上げた。

「……大丈夫だ」ぼくは自棄になって言う。「いざとなったら、マスターがぼくらを守ってくれる」

 まさかそれで納得したわけでもないだろうが、フレッドは「ふむ」と頷くと、勿体つけた調子で切り出した。

「わかったぞ、裏切り者の正体が」

 返事に窮したぼくは、「そうか」と小声で呟くくらいしかできなくて、それが気に入らなかったのか、フレッドは「何だよ、微妙なリアクションだな」と文句を言ってきた。

 フレッドが本気で裏切り者の存在を疑っているのだということは、話を聞いたときに感じてはいた。けれど、あの時点で彼が本気だったからと言って、情熱がずっと続くのだと思ってはいなくて、むしろ時間が経つにつれて自然に立ち消えになってはくれないかと、そんな期待を抱いていたのだった。

 だからぼくにとっては「そうか、話は終わっていなかったか」という諦めか、あるいは落胆にも似た気持ちが大きかった。

「いや、どう反応したものかわからなくて」素直にそう答える。「えーと、そうだな。結局、裏切り者っていうのは誰で、何の目的で、ぼくらのチームに紛れ込んでいたんだろう」

「まあ、そうがっつくな」フレッドは満足げな表情で言った。「まずは裏切り者の出自からだ。奴は政府の犬だよ。国家転覆を企む組織が過激な行動に出ないかどうか、常に見張っている。あわよくば、犯罪の嫌疑をかけて、逮捕しようとも考えているかもしれない」

「なるほど」ぼくは頷く。「現実味のある話かもしれない」

「当然だろ」フレッドは気を良くしたようだった。「そもそも、俺が裏切り者の存在を察知したのは、ほとんど偶然だったんだが」

 そんなことは聞いていない、と口を挟むことはせず、ぼくは彼の話に耳を傾ける。

 するとフレッドはいきなり、とんでもないことを言い出した。

「別口で使った盗聴探知器を、荷物に入れっぱなしで定例のミーティングに参加したことがあったんだよ」と、手荷物からアンテナのついた小型の機械を取り出して彼は言う。「で、話し合いがちょっと退屈だったから、なんとなく荷物の中を覗いてみたんだ。そしたら、こいつがすげえ勢いで光ってるんだからそりゃ驚いたぜ。思わず声を上げちまった」

「ん?」ぼくにはその話を聞いて、何となく思い当たることがあった。「待てよ。もしかして、それって突然ベニーに突っかかったときの」

 女性メンバーに囲まれて、咄嗟に漁った脳内フレッド語録から飛び出してきた、あの話ではないのか。

「ああ、そうだ。それだよ」フレッドはうんうんと頷いた。「あいつも驚いただろうな。でも仕方なかったんだよ。急に大声を出しちまったら、何事だよって話になるだろ。その場の勢いで、訳わかんねえことを捲し立てるしかなかったんだ。話なんてほとんど聞いてなかったから、大変だったぜ」

「訳わかんないって自覚はあったんだな」ぼくは呆れたような、感心したような気持ちで言いながら、それを奇行として掘り返してしまった自分の行動を、心の中だけで詫びた。「しかし、それは……」

 それは本当なら、冗談ではすまないのではないか。

 口に出してしまえば、ぼくがフレッドの話を真面目に聞いていなかったことが露呈するから言えなかった。

 盗聴器があったということが、即ち組織に裏切り者が存在することの証拠になるわけではない。ただ、それが事実だとすれば、少なくともぼくらの会議を盗み聞きしている奴がいるということだ。

「ふん。今更、何を深刻な顔してんだよ」フレッドは鼻を鳴らした。「ともかく、それで裏切り者が居るかもしれないことに気付いた俺は、その日から調査を開始した。アイクに声を掛けたときには、もうある程度、目星はついてたが」

「ちょっと待って」言って、右手を前に突き出した。

 僅かな時間稼ぎだった。

 遅まきながら、どうやらぼくは事態の見積りを誤っていたようだと判断する。彼がわざと嘘を吐いているのでなければ、これは至ってシリアスな問題だった。拙速は避けなくてはならない。

「証拠はあるのか」と、ぼくは率直に尋ねる。「そいつが裏切り者だって証拠」

「あるぜ。間違いない」フレッドは間髪入れずに答えた。「舐めた質問だな。俺を誰だと思ってんだよ」

 君がフレッドだと思ってるから訊いたんじゃないか。

 危うく声に出しかけたその言葉を飲み込んで、ぼくは改めて口を開く。

「とにかく、フレッド。事を急ぐべきじゃない」噛んで含めるように、そう言った。「裏切り者が誰だかわかってるなら、相談もできるだろ。まずは皆に話して、どうするのかを決めるべきだ。わかるよな」

 しかし彼の反応は、ぼくの期待に反するものだった。

「そいつは駄目だ」フレッドは厳しい口調で言う。「俺は裏切り者を特定したが、他のメンバーがシロだとは断言できない。既に引き込まれている可能性だって十分にある。これはあくまで、俺とアイクの間だけの話だ」

 言うことに筋が通っているから困った。

「なるほど」ぼくは言う。「じゃあ、フレッドはどうするつもりなんだ」

「次回の定例ミーティングの際に、裏切り者を告発する」彼はきっぱりと告げた。「恐らく、組織の切り崩しが行われていたとしても、そこまで進んではいない。裏切り者のほかに、向こう側についているのは一名か二名が精々ってところだろう。だから全員の前で告発できれば」

「して、どうする?」ぼくはフレッドの声を遮った。「皆の前で、こいつが裏切り者だと糾弾して、その後は?」

「それこそ、全員で決めることだ」とフレッド。「ただ、政府の内通者を入れたまま、今まで通り仲良しこよしじゃ居られないだろうよ。普通に考えれば、穏便に脱退してもらうことになるんじゃないのか」

「穏便に」ぼくは彼のその言葉を聞き逃さない。「本当に、穏便に進められる?」

「当然だ」フレッドは頷いた。「二度目だぞ。俺を誰だと思ってるんだよ」

「……君はフレッド」ぼくは小さく肩を竦めた。「ぼくはアイザック」

 裏切り者の告発、相手は政府の使者。彼らの目的が、我々の活動を監視することにあるとすれば、それを暴露したときに、どうなるのだろうか。本当に、すべてが穏便に進むのか?

 勿論、全てがフレッドの勘違いという可能性だってあるだろう。盗聴発見器が光ったのは誤作動で、その後の調査は的外れなものだったかもしれない。

 ぼくはいつの間にか、そうだったら良いのにと願っている自分に気が付いた。

「このまま、そっとしておくわけには……いかないんだろうね」

「無理だな」フレッドは素気無く首を振った。「さっきも言っただろ。奴は適当な理由をつけて、俺たちを捕まえる隙を窺っているかもしれないんだ。そんなのを傍に置いたまま、今みたいなことを続けられると思うかよ」

 ワールドマイゼルのことを言っているのだと、すぐに察しが付いた。

 実験は全て、非認可で行われている。やっている内容そのものが違法だというわけではないが、その気になれば言い掛かりのつけようは幾らでもあるだろう。

「確かに、そうかもしれない」観念したような気分で、頷く。「それで、じゃあ、裏切り者ってのは誰なんだい」

 ぼくが訊くと、心の準備をする隙もなく、フレッドは答えた。

「アレックスさ」彼は囁くように、早口で言い切った。「我らがリーダーは、政府の犬だったってわけだ」

 誰の名前が挙がっても驚くまいと、本当ならば相応の覚悟をしてから聞きたかったのだけど、そんな猶予は与えられていない。

 にも関わらず、思ったほど大きな衝撃はなかった。

 代わりに生じたのが、小さな安堵だった。そのことに、少なからず戸惑いを覚える。

 告げられたのがベニーやエミリアの名前でなくてよかったと、どうやらぼくはそんな風に思っているらしかった。

「……アレックスが」そう口にしてみると、今度は疑問が浮かんでくる。「けど彼は、いつも自ら率先して活動の方針を決めてるじゃないか。それに、親の代からの活動家だと聞いたことがあるよ。裏切りなんてものからは、むしろ一番遠い存在に思えるけれど」

 言っているうちに、アレックスと交わした会話の数々が、その場面と一緒に思い出された。

 彼はいつだって、組織のメンバーのことを考えて行動していた。ぼくにはそう見えた。リーダーとして、弱ったところを隠しながらも、ワールドマイゼルという巨大なプロジェクトの抱える倫理的課題を前にして、悩み、それでも先へ進むという結論を打ち出したのだ。

 あの葛藤も、単なる演技だったというのだろうか。

「その辺の詳しい事情は知らないが」フレッドはひそひそ声のままで言う。「奴は政府と繋がっている。それだけが、はっきりしている事実だ」

「さっき、証拠は掴んでいると言っていたけど」

「ああ。奴のここ数回の上への報告内容は、全て押さえてある」彼は迷いなく答えた。「万一のことを考えて、記録は厳重に隠してあるから、この場で見せたり聞かせたりはしてやれないが」

 勿論フレッドに、嘘を言っている様子はない。冗談のようなことを本気で言っている、いつも通りのフレデリックの顔だった。

「本当に、間違いないんだな」

「何度も言わすなよ」フレッドはややうんざりしたように言う。「プロの仕事を信じろって」

「プロって何だよ」

 ぼくが半ば義務感から指摘してやると、しかしフレッドは心外だとでも言わんばかりの、唖然とした表情になった。

「何だよって、お前」そうして、当然のことを確認するみたいに言う。「プロはプロだよ。探偵のプロに決まってるだろ」

「は?」甲高い声が出た。「何それ」

「何それって、お前」言ってから、フレッドは何かに思い至ったように、「あれ、もしかして」と呟いた。「アイクには言ったことなかったっけか」

「ないよ」ぼくは反射的に言う。「君からは、まともなことは何一つとして聞いてない」

「酷い言い様だな。あんまりじゃないか」彼は悲しそうな声で言った。「でも、そうかな。本当に言っていなかったかな。俺の本業は探偵だよ。営業も兼ねて、皆に言って回ったことがあると思うんだが。お前が忘れてるだけなんじゃないのか」

「そんなこと」

 あるわけないだろ、と言おうとしたが、思い返せばあまり自信がない。何かのついでみたいに告げられたのであれば、フレッド一流のジョークだと思って聞き流してしまうことも、あり得ないとは言い切れなかった。

「いや、まあ、良いや……」ぼくは溜息を吐く。「それで探知器なんて持ってたのか」

「仕事道具だ」とフレッドは頷いた。「常日頃から持ち歩いているわけじゃないが、使う機会はそれなりにある」

 しかしそうなると、ぼくは彼に関して、かなりの面で認識を改める必要がありそうに思えた。

「どうやら君のことをだいぶ誤解してたみたいだ」ぼくが言うと、「だろうな」とフレッドが笑う。

「正直言って、君のことを素人なんだと思っていた」彼の様子を見て、今のうちに告白しておこうと思った。「ごめんよ」

「素人って?」

 どうやら忘れているらしい。だったら言わなくてよかったのにと発言を取り消したくなったけれど、後の祭りだ。

「油断した素人から情報を引き出すのは、簡単なんだろ。忠告してくれたよね」ぼくは言った。「あれ、言われたときに、お前は素人じゃないのかよって思ったんだ。違ったんだな」

 フレッドは少しの間、きょとんとした顔になったが、やがて吹き出したかと思ったら、けらけらと笑い声を上げ始めた。

「当たり前だろ」彼は心底、おかしそうに笑う。「どこのアホが、自分も素人なのに、人様のことを素人呼ばわりするんだよ」

 つまり、ぼくは君のことをそういうアホだと思っていたわけだ……とは言わずにおくことにした。

 このようにして、ぼくらの深刻な対談は、最終的にはなんとなく笑い話のような雰囲気のままで終わることとなる。

 これが、ぼくとフレッドが交わした最後の会話だった。

 

  15

 

「急に呼び出したりして、ごめん」手始めに、ぼくはそう切り出した。「相談というか、聞いておいてほしいことがあってさ」

 喫茶ロクサーヌにある四名掛けのテーブル席で、ぼくらは向かい合って座っている。

 こちら側には、ぼくだけが。

 あちら側には、ベニーとエミリアが並んで。

「構わないさ」ベニーが言った。「だけど、珍しいよな。俺とエミリアを一緒に呼んだりして」

「わたしは、何でも聞くから」エミリアは、真っ直ぐにぼくの目を見つめている。

「ありがとう」率直に、ぼくは謝意を述べた。「君たちには、聞いてもらいたかったから」

 そうして、束の間の静寂が流れた。

 目の前の男女は、どこか緊張を伴った面持ちで、ぼくが口を開くのを待っている。

「良いニュースと、悪いニュースだ」ふざけるつもりはなかったのだけど、上手い枕詞が見つからなくて、ぼくはそんな風に話を始めた。「あるいは、小さい話と大きい話だと言ってもいいかな。後者と比べてみれば、前者なんか取るに足らない些事かもしれないけれど、それでも両方とも、ベニーとエミリアに聞いてほしいってことには変わりない。ただ、インパクトはどうしても悪くて大きなニュースのほうが大きいから、小さな良いニュースを先に話すよ」

 ぼくの大げさな表現に、エミリアが笑った。

悪くて大きいバッド・エンド・ビッグ、ね」どんぐり眼を細めて、彼女はちょっと面白がった風に言う。「心の準備をしたほうが良い?」

「そうだね」ぼくはあくまでシリアスな調子を崩さずに答えた。「君たちは驚いたり、悲しんだりするかもしれない。これは真面目な話ね。だからあらかじめ、何を言われても良いように、備えておくのは悪くない」

「わかったよ」ベニーが頷いた。「まずは小さくて良い話を聞こう」

「うん」と、ぼくも頷きを返す。「こっちはぼくの、ごく内面的な話なんだ。良いニュースだって言ったけれど、それはもう一つの話題との対比で見ればってことであって、本来は良い悪いのあることじゃない。なんて、勿体つけても仕方ないよね。そう、何というのか……」言って、少し言葉を探した。「ぼくは一先ず、迷うのを止めにしたんだ」

「そっか」エミリアは、ぼくの稚拙な物言いにも、すぐにぴんときたようだった。「無理する必要は全然ないって思ってたけど。でも、アイクが自分で決めたんなら、そうだね。嬉しい。それは確かに、良いニュースだよ」

 彼女の言葉に、自分の表情が自然と綻ぶのがわかった。

「ぼくは、ベニーやエミリア……いや、他のメンバーにしたってそうだけど、皆みたいにはっきりとしたモチベーションがあって、この組織に居るわけじゃなかった」二名の顔を見ながら、言葉を継ぐ。「それは、加入を決めたときからずっと、変わらなかった。ぼくはマイゼルのことがほとんど私的なレベルで好きだったし、一緒に活動している仲間のことも同じように思っていた。皆で一つのことに打ち込むのが楽しくて、それだけでここに居るようなものだった」

「そのことを以て、君は強いと言ったことがあったな」ベニーが静かな声で言った。「それが一個の存在としての強さであって、活動家としての強さじゃないことはわかっていた。だけど俺には、アイザックが本質的に何であるのかがまだ判らなかったから、安易にその強さを否定することはできなかった」

「ベニーのそういうところが、とても好きだよ」ぼくは率直な気持ちを口にした。「ぼくには、ただ強いだけの個体として、活動に片足突っ込んだみたいな状態をいつまでも続けることもできた。このことについては、何回も考えたよ。辞めようと思えば、いつでも辞められる。アレックスやエミリアはそう言ってぼくに加入を勧めたけど、実際に入ったあとも、その言葉が決して嘘にはならないように配慮してくれていたのを知っている。本当に危ない活動には参加させてもらえなかったし、ぼくが組織の一員であることが無闇に色々な相手にバレないようにと、ずいぶん気を遣ってもらったと思う。ぼくは、それにずっと甘えてきた。……感謝してるよ」そこで一度喋るのをやめて、初めてコーヒーに口をつける。一瞬だけ喉が熱くなって、余韻は徐々に消えていく。「考えるべきポイントは幾つかあった。まず最初に考えたのは、『いつでも辞められるとは言うけど、じゃあぼくは、一体どんな事態になったら組織を抜けようと思うんだろう』ってことだった。三日三晩かけて頭をひねったけれど、結局そんなケースは思いつかなかった」

 ベニーもエミリアも、ただ黙ってぼくの話に耳を傾けてくれていた。

「大きな転機になったのが、ワールドマイゼルのこと……取り分け、革命が上手くいかなくて、外側から干渉するかどうかって議論だった」ぼくは話を続ける。「ダンの示した問題に、皆が戸惑っていたと思う。ぼくも驚いたし、自分なりに色々と考えた。ただ、そのときにどうしても、隅っこの方でチラつくんだ。今のぼくがこの問題について頭を悩ませたところで、それは何にもならないんじゃないか、って。何故なら、ぼくは組織のメンバーとして半端者も良いところで、やったことに対する責任を、究極的には負わずに済む立場だった。仮想世界に住まう人々に対する振る舞いを考えようとするのであれば、まずはそこにきちんとコミットして、抜き差しならない場所に立つ必要があると思ったんだ」

「だが、アイザック」ベニーが遠慮がちに口を挟んだ。「君が組織の活動に対して全面的なコミットをしてこなかったのは、我々の打ち出しているそもそもの理念、革命の思想を、はっきりとは受け入れることができなかったからじゃないのか」

「そうだね」ぼくは彼の気遣いに、破顔した。「そのことに対する答えは、何個かあるよ。まず第一に、これはベニーが言っていたことだけれど、現実は待ってはくれない。世界っていうのは絶えず変化していて、だからいつだって、ぼくらに選択を突きつけている。ということは、態度の保留も一つの選択であって、しかも多くの場合は、それが間接的に現状を認めることに繋がっている」言いながら、話しながら、ベニーの目をまっすぐに見る。「二つ目には、やっぱり惑星ワールドマイゼルのことがある。ぼくにとって、マイゼルの理論を読み解く上で最大のネックだったのは、LE・ナード・ヴェルナスが指摘したのと同じポイントだった。つまり、マイゼルの提示した来るべき社会の在り方や、革命の歴史的必然といった命題は、どうやってもその正しさを証明できないってことだ。たぶん、この問題意識は、部分的にはベニーとも共有できるんじゃないかな。GGを使った実験は、この課題をクリアし得る。なら、ぼくはその行く末を見てみたい」言ってエミリアの方を窺うと、彼女は大きな目を見開いたまま、こくりと顎を引いた。「直前に言ったことを引っくり返すようになってしまうけれど、第三の理由は、正しさに拘ることには、結局大した意味がないからだ。もし仮にワールドマイゼルの実験が上手くいったとしても、その結果に疑義を申し立てる連中が居ないとは思えない。惑星マイゼルはぼくらの星をモデルにしているけれど、実物そのものではないし、そこに住む彼らだって、我々にきわめて近しい存在ではあるけれど、全く一緒ではない。納得しようと思ったら、どこかで折り合いをつけるしかないんだ。だから問題は、やっぱり最初の地点に戻ってくる。つまり、ぼく自身が革命を実現したいと願うモチベーション、動機付けだ。そこで、四番目の答えになるんだけど……」

 ぼくがあからさまに言い淀んだため、二人はちょっと怪訝な顔になる。

「何か問題が?」とエミリア。

「悪くて大きいニュースに、直接ではないにせよ、関係があることなんだ」

「心の準備はできてる」ベニーが冗談めかして言った。「聞かせてくれ」

「……うん」頷きを返す。

「繰り返しになるけど」エミリアも表情を柔らかくした。「わたしは、どんな話でも最後まで聞くからね」

 聞く側に心の準備を促しはしたが、実際は言う方にも気構えが要る。

 ぼくは大きく息を吸って、言った。

「アレックスは政府の内通者かもしれない」

 反応は抑制されたものだった。

 ベニーはほんの少し眉根を寄せて、中に何かを含んでいるみたいに口を動かした。

 エミリアはほとんど顔色一つ変えずに、ゆっくり頷くと「どうして?」と呟いた。

「フレッドが調べたんだ」ぼくは注意深く言葉を選ぶ。「彼は初め、偶然から、定例ミーティングの行われている会議室に盗聴器が仕掛けられていることに気が付いた。それで、もしかしたらぼくらの活動を監視している人間が居るんじゃないかと考えて、調査を行った」

「間違いないのか?」暗闇の中へおずおずと手を伸ばすようなその言い方で、ベニーも慎重になっているのがわかった。「アイザック、君を疑っているわけではないが」

「絶対に間違いないとは言い切れない」極力、誤解を避けようとすると、持って回ったみたいな言い回しになってしまう。「フレッド自身は、アレックスが上へ報告した内容を証拠として押さえてあると言っていたけど、ぼくは実物を確認できていない。だから、彼の勘違いって可能性は十分にあるし、ぼくはそうだったら良いなと思っている」

「ちょっと待って」エミリアが驚いたような声を上げた。「調査とか、証拠とかって。まさか、フレッドが探偵だっていうのは本当だったの?」

 フレッドが彼女のリアクションを見たら悲しむだろうな、と思う。

 エミリア、アレックスが裏切り者だと聞いたときにも動揺を見せなかったのに。

「冗談を言っているようには見えなかった。それに、アンテナのついた発見器は、実際に見せてもらった」ぼくは、ちゃらけたトーンにならないよう神経を使った。「ひょっとすると、エミリアは彼がいつも真顔で冗談を言う男なんだと思っているかもしれないけど、フレッドが本気で喋っているように見えるとき、つまりほとんど常に、あいつは見たまんま、本気で喋ってるんだ」

「彼が探偵だというのは本当だよ」ベニーが淡々と述べた。「以前、仕事の協力を頼まれたことがある。フレッドが手の込んだ芝居を打っているのでないなら、間違いない」

「……そう。そうだったの」とエミリアは深刻そうに息を吐いた。「だとしたら、フレッドにはずいぶん悪いことをしたな」

 彼女とフレッドの間に何があったのか、その場で追求する気にはならなかった。

 ぼくは仕切りなおしのつもりで軽く首を振って、それから言う。

「良いかい、話を戻すよ。アレックスが政府の内通者だってことについては、ぼくもまだ半信半疑だ。ただ、フレッドはもう内通を確信していて、次回の定例ミーティングのときに、皆の前で告発をするつもりだと言っている。ぼくはそれを止められなかった。事を起こすより前に、アレックス以外の全員に相談すべきじゃないかと提案したんだけれど、寝返っているメンバーが居るかもしれないからと却下された。今こうして君たちに話をしているのも、ぼくの勝手な判断だ。これから自分がどうすべきなのか、まだ決め兼ねてる。こんなことをいきなり言われても困るかもしれないけど、ベニーとエミリアに、相談がしたかったんだ」

 喋り終えると、エミリアがすぐに答えてくれた。

「まずはね、アイク。ありがとう、話してくれて」彼女は、笑顔の出来損ないみたいな表情になった。「わたしは、アレックスと話がしたい。内通が本当なのか確かめたいし、事実だったとしたら、彼がこれまで、何を考えて一緒に活動をしてきたのかが知りたい。もちろん、話をするのはミーティングのときで良いよ。フレッドから、他の皆には黙っておくよう言われたんでしょう。その言い分も理解はできるもの。わたし達は、フレッドの告発で初めてこの件を知ったことにする。ベニーも、それで良い?」

 エミリアに話を振られたベニーは、びっくりしたように「あ、ああ」と吃った。

「そうだな。内通が本当だった場合のことを考えるなら、当日まで下手にアクションを起こすべきではないと思う」彼は喋りながら、何か別のことを考えているような様子でもあった。「出たとこ勝負みたいになってしまうのは、止むを得ないか」

 彼らが言い終わるのを聞いてから、ぼくは「うん」と言って頷く。

「ぼくも、アレックスときちんと話がしたいと思ってる。フレッドは、なるべく穏便に事を運ぶつもりだと言ってはいたから、そういう風になると良いんだけれど」

「不安は拭えないな」ベニーはきっぱりと言った。「万が一に備えて、当日はあいつの隣の席に座ろう」

「気休めにしかならないかもしれないけど、仕方ないね」エミリアは細く長い息を吐いた。「わたし達にできることは少ない」

 彼女の言う通りだった。

 アレックスが政府の内通者かもしれないということがわかっても、取れるアクションは限られている。きっとぼくら全員、彼を裏切り者として即座に排除しようなどという気持ちにはなれていない。

 可能であれば、組織からアレックスを失いたくはなかった。だけど、それはぼくらの意思だけでどうにかなる問題ではない。せいぜいが、お互いの早とちりで、避けられたはずの不幸が起こってしまうことを防ごうとするくらいだ。

「ところで、アイク」気を取り直したように、エミリアが言った。「まだ、四つ目を聞いていないよ」

「あ、うん」何のことを指しているのかはすぐにわかった。「さっきの話だね。ぼくにとっての、組織の運動に対するモチベーション。まあ……これも結局、元のところに戻ってきちゃうんだけどさ」ぼくは「変なこと言うかもしれないけど、笑わないで聞いてよ」と前置きをして、話し始める。

「ぼくには極端な貧困の体験はないし、虐げられている存在の苦しみを、我が物として受け止められるような想像力もない。だから自分自身にとって、今この社会がきわめて生きにくい、納得のできないものかって言われたら、正直なところ、わからない。長いこと活動をやってきても、本質的にこの部分は変わらないと思っている。でも、一つ変わったところがあるんだ。ぼくにとって、一緒に活動をしている君たちの存在は、いつの間にか、単に無視できないってだけのものではなくなっていた」

 ベニーもエミリアも、何も言わなかった。

 ぼくは続ける。

「以前、マイゼルの運命史観について話したとき、君たちは別々のところでそれを聞いたにも関わらず、示し合わせたみたいに『信じている』という言葉を使ったね。ぼくにはそれが印象的だった」

「そんなことは自分には出来ないと、アイクは言っていた」ベニーはそう指摘した。

「うん。……事実、ぼくはそう思っていた。それに対してベニーは、『生きている限り、そこからは逃げられない』って言ったんだ」彼の言葉に、ぼくは途中から、目を閉じて答えた。「今だったら、その意味がわかるよ。全ては選択なんだ。そしてほとんどの選択は、自分がまだ知らないことについて、行わなくっちゃいけない。間違うかもしれない、失敗するかもしれない。そうした可能性を飲み込んで、崖から一歩を踏み出さなくてはいけない。それが、信じるって言葉の意味だ」

 エミリアが無言で何度も頷いているのを見て、軽い笑みが漏れる。その勢いのままに、言い切った。

「皆のことを信じてる」意図せず、少し早口になる。「おかしな話だけど、アレックスが内通者だと聞かされてみて、はっきりわかった。ぼくは、ぼくの仲間の存在を、肯定したがっているんだ。これは裏切るとか裏切らないとか、そんなことに左右されるような問題じゃない。君たちが崖の向こうへ跳ぼうとするのであれば、ぼくだけがこちら側に残ることに、何の意味も感じない。間違いや失敗を恐れて足を止めるんじゃなくって、皆の望んでいることがどうやったら上手くいくのかってことを、ぼくが考えたい」

「あまり主体性がないな」温和な調子で、ベニーが言った。「だけど、そう……きっと、俺だって一緒だ」

「アイク」エミリアはぼくの名前を呼びながら、困ったように眉を下げて、だけど目から下は笑顔を作っている。「改めて、これからよろしくね」

 差し出された手を握ると、彼女はいきなり目を丸くして、照れたみたいに「あはは」と笑った。

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