第四章 「天命と主題」

Side A <S.V.A.>

 

  11

 

 いきなり、猫田が声を荒げた。

 今にも掴みかからんばかりの勢いで、しかし僕と目を合わそうとはしない。

「てめえそれ、本気で言ってんのか。覚悟あんのかよ」言いながら、僕の左斜め後ろあたりの空間を睨みつけている。「くだらねえ。石山ちゃんが死んだのが、仕方ないことだったのか、だと?」

「真面目に悩んでるんだ」

「ちょっと黙れよ深町君」猫田は右手でがりがりと頭を掻き毟った。「お前のことは前々から馬鹿野郎だと思っていたが、今日という今日は愛想が尽きたぜ。ああクソが。わかってんのか? 死んだのは石山ちゃんなんだぞ。石原何某と間違えてるんじゃねえのかよ、てめえはよ」

 どうやら彼は本気で怒っているらしい、と僕は思った。猫田はいつだって憤っているみたいな喋り方をするけれど、これはそれとは違っている。純粋に、目の前にいる僕に対して、頭にきているのだ。

「石山ちゃんは悪い子だったか、死んで然るべき人間だったってのか? そりゃ確かに、頭脳労働型の割にいまいち頭は良くなかったかもしれねえが、でも、だからって死ななきゃいけない理由があったか? 死んでも仕方なかったと、たとえほんの一瞬でも、他ならぬ深町君から思われなきゃいけないような理由があったのかよクソ」猫田は凄まじい勢いで喋り倒す。「どうせ深町君は『そういうことじゃない』とか何とか、思ってやがるんだろうが。彼女の死は避けようがなかったかもしれないだとか、くだらねえことを考えてんだろ。アホか。この世の中に一人だって、人間として生まれたのに、心の底から死にたくて自殺する奴があるかよ。自分で自分を殺しちまうような人間は、より良く生きることを求めずにはいられないから、死んでいくんだろうが。だったらその死は、仕方ないことかよ。望むような生き方は叶わないのだから、諦めるしかないから、だったら死ぬのもやむなしってか? それじゃ、てめえが石山ちゃんを殺したのと同じだよ。おい、わかってんのかよ深町君。石山ちゃんは生きてて良かったんだ、決まってんだろ。それを否定するような連中は、社会だろうが世界だろうが、間違ってるし、破壊されるべきモノなんだよ」

 がんがんと、濁声は頭に響いた。だが「うるせえよ」と僕は言わない。顔をしかめてマシンガントークに耐えるが、猫田に苦言を呈すことはしない。

「これは、良いか、一度しか言わないからよく聞けよ。これはこの世に数少ない、真理に関する言説だ。わかってんのかよ深町君、倫理だとか道徳だとか、そんなナマっちょろい話をしてんじゃあねえ。。生きとし生けるもの全てに与えられた唯一の定めが死だ。おしまいはあらかじめ用意されてんだよ。だから、言ってみりゃ自殺ってのは宿命としての終わりの先取りであって、連載漫画で言えば打ち切りみたいなもんであって、その先にあったはずのものは、それまでに実在していたものの延長なんだから、こいつを否定しちまうのは存在そのものを否定する行為に等しい。ああ、聞けよ。石山ちゃんが選んだのは、ある意味で選ばされたのは、自身の在り方そのものの否認だ。生まれてきたこと、生きてきたこと、生きていくこと、そういうの全部、無かったことにしちまったのと同じなんだぜ。そして死んじまった以上、そのことはもう、永久に取り返しがつかない。これ程までに救いのねえ話があるかよ。深町君、てめえはそれを、他ならぬ石山ちゃんのそれを、もう一回言ってみろ、仕方ねえことだったと、本気でそう言うつもりなのか? あ?」

 わからないって言ってるだろ。

 とでも答えようものなら、そのまま殴りかかってきそうな勢いがあった。猫田の両目は相変わらず明後日の方向を見据えたまま、僕への怒りで燃えている。

 いや、しかし表現が正確ではない。これは、この怒りは僕へのものではなかった。僕に向けられたものではあるが、僕に怒っているのではない。

「黙りこくってんじゃねえぞ」猫田はなおも口を止めない。「こいつは真理とは関係のないただの煽り文句だから何度でも言ってやるぜ、今のてめえは石山ちゃんを殺したのと何も変わらねえよ。わかんねえとは言わさねえぞ。深町君よ、面と向かって言えるのかよ、死んじまった石山ちゃんに、君が死んだのは仕方ないことだったねって言えんのかよ。本気で思ってんならてめえ、墓参りのときに言ってみろよ。石山ちゃんが死ねてよかった、物事があるべきところに収まったねってよ。その覚悟があんのかって訊いてんだよ」彼の声は、どことなく悲しげな響きを帯び始めてもいた。「なぁオイ、いつまで逃げ回ってんだよ深町悟。観客がいたら待ちくたびれてる頃だぜ。お前もう、とっくの昔に直面してんだぞ。見ろよ。目を見開いて直視しろ。わからないじゃねえんだよ。今、ここで決めろ。それが出来ないんだったら、てめえはもう死刑だよ。石山ちゃんを殺した罪と、ついでに良い歳こいて働いてない罪で死ね」

 猫田の痛切なる訴え(と言ってしまっても良いだろう)をよそに、僕は考える。良いのか、と。

 

「石山さんが、本当は生きてて良かったはずだって言うんだったら」僕はぼそりと呟く。「胸を張ってそう言うためには、僕は、石山さんのことを助けられなくっちゃいけなかったんじゃないのか」

「順序が逆だ」猫田は一切の躊躇なく言い切った。「わかってんだろうが深町君、これはミクロな存在論なんだよ。王様みたいに大きな視野は求められていない。純粋に、てめえの意思決定の話なんだ。玉座に座って大局的に見れば、あるいは個別の場面において、避けようのなかった、仕方なかった死があるかもしれない。だがな、それは敗北だろ。石山ちゃんが自身の存在を否定しなきゃいけなかったことは、てめえにとって敗北なんじゃねえのかよ。弱っちい一人の人間に、それを阻止できたかどうかなんてことは訊いてねえんだよ。お前はその事実をどう受け止めてんだって、そういう話だろうが」

「僕は」

 口を開いたけれど、続きは言葉にはならなかった。

 僕は、

「良いも悪いもねえよ。アホが」

 猫田は言って、強張った表情を少しだけ緩める。吐き出した呼気は、丸められてくしゃくしゃになってはいたけれど、僅かに笑いの残滓のようなものを携えていた。

「深町君は、ボランティア連中と現れ方は違えど、立派な自縄自縛型か、さもなくば概念の檻型だ」彼は淡々と告げる。「そのこと自体を、とやかく言うつもりはない。馬鹿が馬鹿なのは馬鹿の自由だよ。だがな、そのせいで石山ちゃんが死んで当然だったみたいなことになるなら、話は別だ。悼む資格があるか、だと? 寝言は寝て言え。てめえに無いなら、一体誰にその資格があるってんだ」

 もう何度目になるかわからないが、石山の言葉を思い出した。選択の積み重ねが、人の個性を形作っている。

 だが、そんな彼女のポリシーを踏まえるまでもない。

 わかりきったことだ。

 僕は石山を救わなかった。救えなかったのではない。

 もし過去に戻ることができたとしても、彼女の自殺を止められた自信はないと、鷺沼に言った。

 とんでもない大嘘だ。

 石山との出会いをもう一度やり直したところで、僕が自殺を止めることはない。彼女の迷い込んだ袋小路へ、真の意味で手を差し伸べてやることはない。

 だったら、それは正しく猫田の言う通り、石山を殺したのと何が違うって言うんだ?

 僕は本当に敗北したのか?

「マジでわからねえ奴だな」猫田は半ば呆れたように言った。「防衛機制って言葉があるだろ。叶わない欲求を前にして、人間は自身を抑圧する。今てめえがやってんのはそれだよ。断言しても良い。深町君は石山ちゃんを救わなかったんじゃない、救えなかったんだ。ああそうさ、認めてやる。もしかすると、現実にそれを為すためには、神のごとき力が必要だったかもしれねえよ。その時点で石山ちゃんを助けることは、人間には不可能だったのかもしれん。中途半端な手出しはむしろ、彼女を余計に苦しめる結果を生んだのかもな。だが、もしてめえが神様だったら石山ちゃんを見殺しにしたかよ? ハイとは言わせねえぞ、なんとかして助けるだろうが。だったら深町君はもう、石山ちゃんが死んだ現実に負けてんだよ。どうしようもなく、挫折してんだ。それをみっともなく覆い隠して、見えないふりをしてるのが、今のお前の姿だよ」

 だって、と猫田は続ける。

「だって深町君は、石山ちゃんに死んでほしくなんかなかっただろ」

「うん」考えるより先に、口が動いていた。「……当たり前だろ」

 石山茜音は、僕の目からすればあまり似合っていない服を着るのが好きなようだったし、僕の友人である手代木洋介のことをイタい人だと断じて憚らないし、自分や他人に対して過度に厳しくあたる傾向があったと思う。

 それらの性質は、僕にとって気持ちの良いものではなかった。彼女との長いとは言えない付き合いの中で、不愉快な気分にさせられたことは何度もある。

 けれど、僕と石山は友人だった。少なくとも、僕はそう思っていた。なんだかんだ言っても彼女と話す時間は嫌いではなかったし、時折見せる笑顔は可愛らしかった。もし石山が何かしらの悩みや問題を抱えているのであれば、それがよい方向へ動いていくことを願っただろうし、可能な範囲で力になろうとしただろう。

 僕が石山の死を知ったきっかけは、遺族からのメールだった。携帯電話のアドレス帳を頼りに彼女の母から送られてきたそれは、簡素な文面で、ただ事実だけを告げていた。

 すぐに押し寄せてきた後悔や煩悶に埋もれてしまったけれど、メールを読んで最初に湧き上がったのは、確かに悲しみだったと思う。胸が詰まって、苦しくなって、口の中が干上がったみたいにからからになって。けれど困惑の色合いも強いから、すぐに涙が零れてきたりはしなかった。

 僕は、石山が死んで、悲しかったんだ。

 猫田に言わせればくだらない彼是を取っ払ってみれば、残るものはそれしかないようにも思えた。

 彼女に生きていてほしかった。もっと色々な話がしたかったし、機会さえあれば手代木に会わせてみたかった。それに、本人は認めようとしないけれど、猫田は石山のことを気に入っていたに違いないから、三人で遊びに行ったりしたって良かった。

 やれること、やりたいことは、考えてみれば幾らだって思い浮かべることができる。

「石山さんに、生きててほしかったよ」僕は、はっきりとそう口にした。「何も言わずに自殺するなんて、あんまりだ」

 猫田は、ふんと鼻を鳴らした。

「認めるのが遅えよ」

 僕には返す言葉もない。

 奴の言うことを全面的に受け容れるのは癪だが、こうも明確にやり込められては反論のしようがなかった。

「けどなあ深町君、それで終わりじゃねえんだ。むしろ、そんなもんはスタート地点でしかない。てめえはそこに立つことでようやく、どっちかを選ぶしかなくなるんだよ」猫田はいつの間にか、普段通りの無表情に戻っている。「戦うか、逃げるかの二択だ。石山ちゃんが死んで、悲しかった。そうだな、じゃあその悲しかった現実に、お前は立ち向かうのかよ。それとも、いじけて引きこもって逃げるのか?」

 立ち向かう、と僕は思った。

 だが、どうやって?

「自分が考えろ」胸中を見透かしたみたいに猫田が言う。「てめえのやれることは、それしかないだろ」

 ふと、鷺沼と交わした会話を思い出した。

 石山の死を位置づけるということ。彼女が死んだのを、誰のせいにするのか。

 でも、それは違う。そうじゃない。

 誰のせいにするなんて、むやみに露悪的な表現は必要ない。彼女の死に報いるのであれば、本気でそう思うのなら、自分の認識を、分析を矮小化している場合じゃないんだ。

 答えろ、誰が石山茜音を殺した?

 

「猫田は」僕は言った。「猫田は、何をやってる?」

「そんなのは」彼は露骨に嫌がって見せる。「今はどうだって良いだろ」

「良くないよ。人生の先輩として、少しでも参考にさせてくれ」

「都合の良いことを言いやがって」猫田は苦しげに呻いて、それから「……論文だよ」と小さな声で付け足した。

「論文?」語の意味が取れなかったわけではないが、思わず聞き返してしまった。「修士論文のこと?」

「今はそうだ」と彼は頷く。「別に、遊びでやってるわけじゃねえんだよ」

「そうか」

 そういえば、僕は猫田の研究について何も知らない、と思った。

 最初は一つ年上の同級生だったはずなのに、僕がストレートで学部を卒業するときには学年にして二つ分の差がついていた。だからというわけではないが、彼が大学院生として論文を書いているという話を聞いても、今も学生なんだな、と思うくらいのものだった。

 猫田はあからさまにこの話題を避けたがっていたけれど、「遊びでやってるわけじゃねえ」という言葉に嘘があるようにも思えなかった。彼の態度はむしろ、これが重大事であるからこそ易々と触れてほしくないのだと、物語っているように感じられた。

「シャイボーイめ」

 僕が言うと、猫田はむすっとしたまま立ち上がって、それで会話は打ち切りになった。

 

  12

 

 棚井教授にこちらからアポイントを取ったことなんて、学生時代にも数えるくらいしかなかったので、決心するために少し時間を要した。

 そんな僕の胸中をよそに、教授はいきなりの電話にも快く応対し、すぐに会って話をするための時間を作ってくれた。

 研究室のドアを軽く叩くと、中からは「はあい」と間延びした声が返ってくる。

「失礼します」僕は部屋に入って、扉を後ろ手に閉めた。「突然、すみません」

「この間とは立場が逆になったみたいですね」と棚井教授は笑った。「どうぞ、楽にしてください」

「ありがとうございます」

 返事をして、既に用意されていたパイプ椅子に、腰掛ける。どうやって話を切り出したものかと迷っていると、教授の方が喋り始めた。

「深町君、前に来たときよりも、顔色が少しよくなったね」

「そうですか?」

「この間は、ずいぶん憔悴しているなと思いましたよ」彼は椅子から立って、備え付けの冷蔵庫を開けた。「麦茶で良いですか」

「あ、はい。すいません」

 棚井教授は麦茶のポットを取り出してきて、テーブルの上でコップに注いでくれる。

「どうぞ」そう言って差し出された麦茶を、僕が礼を述べて受け取ると、教授は「それで、用件を聞かせてもらっても良いかな」と話を促した。

「用件というか」僕は逡巡した。「棚井先生に聞きたいことがあって」

「ふむ」教授は頷く。「私に答えられることなら、何でも」

「これは、猫田からも聞いてないと思うんですけど」一旦区切ってから、言った。「少し前に、友人が自殺したんですよ」

 僕の言葉に、棚井教授は少し目を見開いたようだった。

「……そう、ですか」

「僕は死んだ彼女に対して、何もしてやることができなかった。……時が巻き戻ったとしても、きっと同じことを繰り返すと思います。この世界では、彼女は死ぬしかなかったのかもしれない」

 教授は何も言わず、一度開いた目を今度は細めた。

「猫田はその子の死に対して何で報いようとしているのかって、訊いてみたんです」僕は猫田健二郎の、視線を外した仏頂面を思い浮かべる。「そうしたらあいつは、論文だって」

 棚井教授は、微かに息を吐いた。眼鏡の奥で細められた目が、光っているようにも見えた。

「猫田君は、とてもよく研究をしていると思いますよ」

「あの猫田が」僕は思わず言ってしまう。

「そう。二度も留年をした、あの猫田君がです」教授は深く頷いた。「彼の研究テーマについて聞いたことがありますか?」

「いえ」

「そうですか」彼は言う。「猫田君は経済の理論研究をしています。古今東西、資本主義と呼ばれる経済体系を包括的に捉えようとした理論家たちのありとあらゆる言説を整理して、位置づける試みです。勿論、これは簡単な説明で片付けてしまうには大きすぎる仕事であって、とても今書いている修士論文の範囲に収まるようなものではない。このままいけば、彼のライフワークになるでしょう」

 僕はそれを聞いて、上手く反応することができなかった。はっきりと浮かんだ感情があったのだが、それが何なのかもわからない。

 戸惑いをよそに、教授はなおも続けた。

「猫田君がどのように考えて研究活動をしているのかということについては、私がここで話すべきではないと思います。もし深町君が知りたいなら面と向かって本人に聞くべきだし、それだって本当のところが知れるかどうかはわかりません。彼が本音を口にしないだろうと言っているのではないですよ。ただ、人が生きるということについて直截に語ろうとするときには、どうしたって零れ落ちてしまうものがあります」

「わかる気がします」僕はどうにか答える。「僕も、猫田の思うところを聞きたかったわけではなくて。なんというか……」

 続けるべき言葉はすぐに思い浮かんだのだけど、口にすることに抵抗があった。

 そして、その理由に思い至ったときに、自分は恥じているのだと自覚した。

 恥ずべきことなど何もないと、目の前にいる大人であれば言ってくれるとわかっていた。わかっていながら、それでも尚、僕には自分が恥ずかしかったのだ。

 多分、ずっと。

「実感として」僕は半ば無意識に、ほんの僅かに迂回するルートを選んだ。「自分の仕事に打ち込むってことが石山を、自殺した彼女を弔うことに繋がるんだと、猫田は本心から信じているようでした」

「そうでしょうね」教授は言う。「猫田君の仕事には、それだけの価値があります」

 そうだ。僕は心の中で頷いた。

 猫田は発見しているのだ。自分のやるべきことを。

 遊びでやっているのではない。

「僕には、ないんです」行き場をなくして溜まっていた恥を吐き出すようなつもりで、僕はそう告げた。「死んでしまった人間に向かって胸を張れるようなものは、何もない」

 もっと言うなら、生前の石山茜音にだって、僕は胸を張れるような生き方をしていなかった。初対面の石山に対する自己紹介の言葉が、「クズ野郎」だったくらいだ。

 ひとたび記憶の蓋を開けると、彼女とのやり取りが次々に思い出された。初めて会ったときの石山は、今考えてみれば、ずいぶんと失礼な少女だったけれど、僕の方だって大概だった。自分のことをクズ野郎だと言い捨てたその口で、いきなり携帯電話のアドレス交換を申し出てくる無職の男と出会った店に、彼女はよくもまあ、その翌日に顔を出そうなどと思ったものだ。

 でも、と僕は思い直す。石山は、僕がそんなだったからこそ興味を持ったのかもしれないし、それに却って、だからこそ取っつき易い部分もあったかもしれない。

 石山と友人になれたのは、僕が彼女にとって初めてエトランゼで会話した客だから、というだけではなかっただろう。

 他でもない深町君、と猫田は繰り返し言った。少なくとも僕は石山茜音にとって、幾らでも取り替えの利く他人ではなかった。猫田からは、そう見えていた。

「ミッションという言葉を」と、教授は突然そう言った。「深町君も、聞いたことがあるでしょう」

「はい」意図がわからなくて、僕はただ頷く。

「キリスト教の用語で、要するに教義の伝道を表現するのに使われるのですが、その元々の意味合いを我々の使っている日本語に直訳するなら、使命とか天命といったところになります」棚井教授は静かな声で、淡々と続けた。「彼らにとっては、神の教えを広めることが、天から与えられた使命だったわけですね。このことから、現在ではミッションという概念は、いわゆる天職のことを指すことがある」

 教授の目が、再び光った気がした。

「さて、しかし天職とは何でしょう。深町君、神の存在を信じていますか?」

「わかりません」僕はすぐに答える。「特定の宗教を信じているかという意味であれば、今のところ答えはノーですね」

「そう、現代日本では決まった宗教を信仰している人のほうが珍しいですね」教授は眼鏡のブリッジを触った。「にも関わらず、天職という概念は、その正確な理解はさておき、字義的な意味はそれなりによく知られていますし、実際に使う人もたまに見かけます。キリスト教の神を仰いでいない人間にとって、では、天とは何のことでしょう」

 静かな棚井教授の声を受けて、僕は考える。

 経済理論の研究が、猫田にとってのミッション、ということになるのだろうか。

 彼は何かに衝き動かされているのか? 例えば、神のような何かに?

「私の考えるところでは」何秒か経って、教授は続きを口にした。「この問いに対して、単に天とは自分自身だという答えでは不十分でしょう。神は居ない、ならば自分を動かすものは自分でしかあり得ない。この考え方には一見、説得力があるように思えます。ですが、自らの仕事をミッションであると言うときに、そこには確かに自分以外の何かが介在している。言い換えれば、自分で決めたからやっているのだという以上の意味が、ミッション概念には含まれているように思います。それは突き詰めれば自分が頭の中で作り出したものに過ぎないかもしれませんが、しかし、少なくとも自分の意識だけではコントロールしきれない何かです」

 僕はただ頷いた。

「それが神と呼ぶべきものなのかどうか、私には判断ができない」教授は言う。「ただ、神なき世界に生きる我々にとって、近い概念であると言うことはできると思います。あるいは冷静な誰かに言わせれば、こんなものは勘違いや思い込みの類だと切って捨てられてしまうようなものかもしれない。ですが、まずはそういうの冷静さを乗り越えたところにしか、天命は存在しません」

 不意に、晩夏の日差しの下を歩いたあの日のことを、想起した。

 猫田のボーカルみたいながなり声と、一緒に響いていた耳鳴りの音を思い出し、そして二つのことに気が付いた。

 一つ、猫田はボランティアの大学生を揶揄しているようでいて、その実、滅多にすることのない自分の話をしていたのかもしれない。

 二つ、いつからか僕を悩ませていた、あの喧しい耳鳴りが止んでいる。

「焦る必要はないのですよ、深町君」棚井教授は、小さく息を吐いた。「この間も言ったと思いますが、私はこんな歳になっても尚、迷い続けています」

 教授の言葉をよそに、僕は考えている。

 耳鳴りはどこへ行ったのだろう。そしてまた、あの耳鳴りは何だったのだろう。

 こめかみの辺りから、脳みその真ん中を刺し貫くように襲ってくる、キンという甲高い音。聞こえなくなったのは、たった今ではなかった。考えてみれば、もうしばらくの間、聞いていないような気もする。酷いときにはほとんど一日中、鳴り止まないことだってあったのに。

 そのことは僕にとって、どうしてか多分に暗示的な意味を孕んでいるように思われた。

 

 問いは突如として拡散し、放射状に広がった末端の部分が、これまで僕の向き合ってきた様々な物事に触れて、じかに結節されていくような感触があった。

 天命という言葉、ミッションというフレーズが、僕の中で独自の意味解釈を与えられて、ある日から始まって知らぬ間に終わっていたあの耳鳴りと、今分け難く結びついたのだった。

 内的衝動が、噴流のように湧き起こるのを感じた。

 

「ありがとうございます」と僕は言った。「もう少し、考えてみます」

「根詰めすぎないように」教授は、立ち上がろうとする僕に向かって言う。「それと、最後にこんなことを言うのも何ですが」

「はい」

「人の生き方は、様々ですから」このとき、彼の声はいっそ厳かだった。「天職とか、天命と呼べるような仕事を得ることが、万人にとって必ずしも幸せとは言えないかもしれません。自分のことを、本当に一番に考えられるのは、自分だけです。深町君がよく生きられることを、願っています」

「ありがとう、ございます」

 もう一度そう言って、僕は席を立った。


  13

 

 手代木洋介には、簡単に会うことができた。

 メールで呼び出すというのも何だかおかしな気がしたので、喫茶ロクサーヌに顔を出してみると、案の定と言うべきか、相も変わらず彼はそこに居た。

「久しぶり」席へ近づくと、僕が声をかけるよりも先に、手代木の方から挨拶をしてくる。「何だか、あまりそういう気もしないけどな」

「ここ、良いかな」

 彼が一人で座っているテーブル席の、正面の椅子を指して言った。手代木が無言で頷いたのを見て、腰掛ける。

「だいぶクリアな音になった」と手代木は言った。「今はもう、聞こえてないのか」

 戸惑いや驚きはなかった。

 耳鳴りが奏でるメロディには、懐かしさがあった。

 僕はあの曲を知っていたのだ。

「いつの間にか聞こえなくなってたよ」頷いて、顔をしかめてみせる。「しかし、酷いもんだった」

「まあ……」手代木は珍しく、言い淀んだ。「聞こえ方は様々だよ。ただ、多くの場合は閾値のようなものがあって。そこを超え出た音が実際に聞こえるわけだから、本人にとっては耳障りなものになってしまうことも多いのさ」

「やっぱり」僕は素早く本題に入ることにした。「お前の言っていた音楽が、僕の耳鳴りだったんだな」

 甲高い音で僕の頭を痛めつけてくれたあの耳鳴りは、じっくりと聴いてみれば確かに、一つの曲を為していた。

 それは数年前に、目の前の男が声を掛けてくるきっかけとなった、『僕の音楽』だった。

「はっきりとしたことはわからないが」言いながら、手代木は首を縦に振る。「多分、そうだよ。自分の持つ音楽のことを、耳鳴りとか幻聴だと考える人は多い」

「あれは何なんだ?」

「難しいことを言うよな」単刀直入な僕の質問に、手代木は少し笑った。「あんたの音楽は、あんたの音楽だよ。オレにとっては、それが一番、過不足のない言い方なんだ」

「それじゃ、よくわからない」僕は言った。「もう少し詳しい説明をしてくれ」

「言葉を加えれば加えるほど、本当のことからは遠ざかる」彼は淡々と告げる。「言語というのは、一般的な人間が、その一般的な認識の範囲内で生きていく上での発明だからだ。無理やり五感を超えた世界の話をしようとするなら、言葉は比喩を用いるしかない」

「五感を超えた世界?」

「そうだよ」手代木は平然と頷いた。「だから、あんたの音楽という表現も比喩に過ぎない。実際に楽曲化できてしまうくらいだから、オレにとってはこの上なく的確な喩えではあるが、しかし一般的な意味での音楽とは、やっぱり違っている。音が聞こえる仕組みを、あんたもどっかで勉強したことがあるだろ。人間の可聴領域にも限度があって、勿論そこには個人差もあるが、この世界中でオレとあんたにしか聞こえない音楽なんてものは、本来存在するはずがない。だから、それは音ではない」

 僕は慎重に頷いてから、言った。

「でも、だったらそれこそ、あれは何なんだってことになる」言いながら、手代木の喋ったことと、自分の喋っていることの内容を持て余しては、混乱が深まっていくようだった。「耳鳴りでも幻聴でも音楽でもない、そもそも音でもないって言うんなら、僕は何を聴いたんだ?」

「わからない」手代木は至極真面目な顔でそう言い放った。「あくまで個人的な世界の話だから、きっと一般化できる答えはない。それでも敢えてオレの考えを述べるなら、テーマだ」

「テーマ?」僕は彼の言葉を繰り返す。「テーマって、あのテーマのことか」

「日本語にすると、主題」手代木は調子を崩さない。「クラシック音楽なんかでも使われる言葉だよ。微妙に形を変えながら繰り返し登場して、その曲の根幹となるフレーズのことをそう呼ぶ」

「それが、あの」音楽とも耳鳴りとも言い難くて、僕は言葉に詰まった。「僕やお前の聴いたものと、何の関係が?」

「人間にも主題テーマがある」と手代木は言う。「人が持っている音楽というのは、そういうテーマの象徴みたいなものだろうと、オレは思っている。その証拠にってわけじゃないが、音楽は不変ではない。しばらく会わないうちに、ある人の持っていた音楽が、すっかり別の曲になってしまうことだってある。そこまではいかないが、あんたの音楽だって、少しずつ変わってきている」

「そうだったと仮定して……」僕は首を傾げた。「一時期、僕の耳鳴りが酷くなって、それから収まったということには、どんな意味があるんだろう」

「さあね」手代木は肩を竦めた。「あんたにとっての主題テーマが、酷い耳鳴りというくらいだから、きっと悲鳴を上げてたんだろう。それが聴こえなくなったということは、悪い状態ではないと思うよ」

「そんなものかな」

「悪いが、オレは物を考えるのが得意なわけじゃないんだ」彼は、今度は首をぐるぐると回す。「物事に解釈を付け加えたりするのは、むしろあんたの方が上手そうだよ。こういうのは、夢占いみたいなもんでさ。自分の役に立つように都合よく受け止めていれば、それで良いわけだ」

 耳鳴りの正体は、と僕は思う。正体は明らかになったのか?

 それは音ではない、と手代木洋介は言った。音ではなく、主題だ。主題の悲鳴が、耳鳴りの正体なのだと。

 では何故、主題は悲鳴を上げていたのか?

 僕の主題とは、何だ?

「ところで」と手代木が思い出したように言った。「曲名は思いついたかい」

「いいや」僕は頭を振る。「でも、そうだな。考えておくよ」

 正体は不明のままだった。

 それでも僕は、曲にタイトルをつけようと思った。以前もらった音源のCDは、家に置いてあるはずだ。

「そうすると良い」手代木は頷いた。「その曲に名前をつけられるのは、あんただけだからな」

 

  14

 

 僕はそのとき初めて、意味づけされた形で僕の音楽を聴いていた。

 音とは粒子であり、波であり、色彩を持つ流れだった。それは確かに音楽でありながら、手代木の言うように、本来の意味での音とは根っこのところで異なっていた。

 時には音階の一つ一つを手にとって、眺めることができた。それぞれの部分に暗喩的に込められたメッセージを読み取ろうとすることができた。かと思えば、またある時には音楽は大きな流れそのものであって、分析され、解釈されることを拒んだ。

 歌うように、囀るように、手代木洋介の奏でるエレクトリックギターが鳴る。僕は目を閉じて、世界のあるがままの、そのほんのごく一端に触れる。

 三分強のさして長くないトラックが終わると、数秒のブランクを挟んで、リピートが始まる。

 そうしたことを何度か繰り返して、僕は不意にわかった気がした。

 これが僕の音楽であるということの意味を。

 あるいは、この音楽に意味づけを行った、僕という人間の正鵠を。

 

 僕は、喫茶エトランゼに居る。

「深町さん」鷺沼梢の声が、イヤフォン越しに聞こえた。「こんにちは」

「うん」イヤピースを耳から外して、僕は応じる。「おはよう」

 鷺沼は薄いデニム地のワンピースに、白い長袖のカーディガンを羽織っていた。そういえば、今日は少し涼しい。

「音楽、聴いてたんですか。珍しいですね」

 彼女の指摘に、確かにそうだな、と僕は思う。少なくとも、鷺沼の前で音楽を聴くのは初めてだった。

 好んで聴いていたこともあったのだけど、一体いつから、そうでなくなったのだろう。

「ちょっと、気になる曲があって」僕は頷いて、向かいの席を指した。「よかったら座りなよ」

「では、お言葉に甘えて」鷺沼はおどけたように、ちょっと畏まった口調で言う。「何の曲ですか?」

「そういえば、鷺沼さんには話したことなかったね。経緯を説明すれば長くなるんだけど、時間とか大丈夫かな」

「いつものように、暇なので」

 小首を傾げて、控えめな笑みを浮かべる鷺沼を見て、僕は頷いた。

「結論から言うと、僕が今聞いている曲は、手代木という友人が録音したものだ」

「えっ」鷺沼がいきなり声を上げる。「手代木って、あの手代木くんですか?」

「あの、って言われても」彼女の勢いに、思わず苦笑が漏れた。「でもまあ、珍しい苗字だし、多分その手代木くんで合ってるよ」

 博識な鷺沼のことだ、the DOGSのギタリストを知っているのはむしろ当然のことのように思えた。けれど彼女の物言いは、単にそこそこ有名なロックバンドの構成員の一人を知っている、というだけには留まらないものにも聞こえる。

「ど、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですかっ」鷺沼は今まで聞いたことがないくらいの早口で言った。「そんな、嘘でしょ。手代木くんもエトランゼに来るんですか。もしかして他のメンバーも? 私、会ったことないですよ」

「わかった。鷺沼さんがあのバンドのファンなのはわかったから」僕は両手を突き出して、どうどう、と宥める。「手代木はここには来たことないよ、学生時代に僕がバイトしてた店の常連なんだ。それと、他のバンドメンバーとは僕も会ったことはない」

「お店の名前は」彼女は勢い込んで言ってから、はっと我に返ったようだった。「い、いえ。急にすみません。ご迷惑ですよね。それに、よく考えたら、お店の名前を聞いたって直接会いに行く勇気はないです」

「知らないよ」一人で盛り上がったり謝ったり、せわしない鷺沼の新鮮な姿に、僕は笑ってしまう。「まあとにかく、鷺沼さんの大好きな手代木なんだけどさ。ああでも、よく考えたら、こんな話をして幻滅しないかな」

「幻滅って」鷺沼はあからさまに困惑した声になった。「……悪口の類ですか?」

「そういうわけじゃないけど」僕はちょっと言い淀む。「なんていうか、あいつはあれだよ。少しエキセントリックなんだ」

「なるほど」と彼女は納得したように頷いた。「それならわかっているので平気です。ファンの間では常識ですよ」

 どうやら常識だったらしい。

 彼らの活動は詳しく知らないけれど、きっとバンドでもあの調子なんだろう。

 生身の人間同士として接したときには戸惑いを覚えることも多いが、ステージの上に立っているのであれば、むしろ多少の奇抜さもチャームポイントと言えるのかもしれない。

「なら話は早い」僕は気を取り直して、言う。「僕と手代木が知り合いになったのは、もうだいぶ前の話になる」

 そうして、石山茜音に説明したのと同じように、手代木との邂逅を話した。

 鷺沼は、さすがファンと言うべきか、かつてないほどの興味と関心を持って、その話を聞いてくれた。さりげない相槌や質問にも、情報を漏らすまいとする気迫のようなものが感じられた。

「で……まあその、僕の音楽を久しぶりに聴いてたんだけどね」

 手代木と知り合った経緯をひとしきり語り終え、やっと本題へ移れるかと思ったのも束の間、鷺沼が、座っている椅子をガタッと揺らした。

「あ、あの。つまりそれは」彼女は興奮した様子で言う。「み、未発表音源ということになるのでは」

「なんか、ライブでは何度か演奏したことがあるらしいよ」僕は苦笑するしかない。

「えっ、あっ」鷺沼は驚きの声を上げ、それから何かに気がついたような表情になった。「もしかしてそれはあの、題名のない曲ですか」

「題名のない曲が、一つしかないのかどうかはわからないけど」彼女の情熱に、半ば感心しながら答える。「でもそうだね、この曲にはまだタイトルがない」

「すごく、良い曲だったのを覚えてます。一見、軽快で透明な印象なんですけど、でも底を見通せない深みみたいなものがあって」と鷺沼。「だけど、そう。確かに他の曲とは毛色が違ってましたね。インストでしたし。アレンジは間違いなくDOGSだったけれど、富士ふじくんがあんな曲を作るのかって、驚いた記憶があります。……あ、富士くんっていうのは、ボーカルの」

「それは知ってるから大丈夫」僕はひらひらと手を振りながら、自分の中に芽生えた感情に対して、軽い困惑を覚えた。「でも、鋭いね。そんなことまでわかるもんなのか」

「勿論、そう言われてみれば、っていう程度ですけれどね」口元に手を当てる鷺沼の表情は、心なしか誇らしげに見える。「でも、まさかあれが深町さんの曲だとは」

「別に、僕が作ったわけじゃない」わかってると思うけど、と僕は冗談めかして言った。

 言いながら、僕が作ったわけじゃないのに、とも思う。それなのに、曲を誉められたことに対して、照れているのか。

「ん」鷺沼が周囲をきょろきょろと見回した。「何かおかしなことでも?」

「いや、ごめん」おかしな気分が、笑いになって漏れていたらしい。「ちょっと、思い出し笑いみたいなもの」

 石山と知り合った頃だったら、『僕の音楽』を他人からどんなに誉められたって、もしくは逆に貶されたところで、これといった感慨は抱かなかっただろう。

 それは僕の音楽が、その呼称とは裏腹に、僕とは関係のないものだったからだ。本当はもちろん無関係などではなかったのだが、僕がその音楽と僕自身との繋がりを、把握できていなかった。

 換言すれば『僕の音楽』は、今正しく僕のものになりつつあるのだ。

 音楽は、僕によってイニシャライズされた。無題のトラックは、命名の瞬間を待つばかりとなっている。

「話が逸れたね」僕は首を振った。「ただ、ここから先を話すと、僕もエキセントリック一味の仲間入りをしてしまうかもしれないんだけど」

「そういうの、嫌いじゃないですよ」と鷺沼は悪戯っぽく笑った。

 僕もつられて笑って、冷めかけたコーヒーを一口飲む。

「ここのところ、僕はその、手代木によって存在を指摘された僕の音楽ってやつを、それとは知らず聞いていたみたいで」極力、平坦なトーンに聞こえるように、僕は言った。「ほら、鷺沼さんと初めて会ったとき……僕、倒れて看板に頭をぶつけたって言ったろ。あれ、酷い耳鳴りと頭痛のせいだったんだ。その、耳鳴りっていうのが」

「……深町さんの、音楽だったんですか」鷺沼は綺麗に僕の言葉を引き継いだ。けれどその表情は、どことなく強張ったようにも感じられる。「そういえば、耳鳴りのことは、前にも言ってましたよね。今は大丈夫なんですか」

「いつの間にか止んでいた」と僕は頷く。「不思議なものでさ。耳鳴りに悩まされているうちは、ただ疎ましいだけで、早く終わらないかなと思うことはあっても、それがどうして起きているのかなんてことには興味が湧かなかった。だけど、ふと止まってみると、何だかそれが特別な意味を持っていたように思えてきて」

「わかったんですか」鷺沼は声のボリュームを高くした。「耳鳴りがどうして起こったのか」

「二割くらいは」と僕。「昨日、手代木に会ったんだ。耳鳴りの話もした。それで言われたのは、人が持っている音楽は主題テーマだってことだった」

「テーマソング」彼女はやや俯いて、そう零す。

「ああ、そうだね。きっと、まさにそうなんだと思う」僕は鷺沼の暗喩を肯定した。「僕にはそれが酷い耳鳴りとして聴こえた。手代木は、主題が悲鳴を上げていたんだという言い方をしたけれど、それを僕なりに解釈するなら、気付いてほしかったのかもしれない」

「気付いてほしかった?」

「ここで猫田の言葉を引かなきゃいけないのは、微妙に気に入らないものがあるけれど」と僕は続ける。「僕は逃げていた。仕事から逃げ出したと思ったら、今度は石山さんの死から。長いこと、自分の問題から目を逸らし続けていたんだ。そういう逃げ腰に対する、アラームみたいなものだったんじゃないかと、今は考えてる」

「アラーム、ですか」鷺沼は小声で繰り返した。「だから、問題と向き合うようになって、耳鳴りが収まった」

「そう考えれば、まあ、一応の辻褄は合うよね」僕はやや自信なく頷く。「ただ、手代木も言ってたけれど、正しい受け止め方なんてものがあるわけじゃないんだと思うよ。それに……なんていうか、大事なのはそこじゃないのかもなって気もする」

「そこ、というのは?」

「つまり、耳鳴りが起きた理由とか、そもそもこの耳鳴りは何なのかとか。そういったことを考えるよりも前に、僕は僕の音楽に、きちんと耳を傾けてみるべきだったのかもしれない」手元のコーヒーカップを干して、僕は最後に付け加えた。「なんてことを、音楽を聴きながら、さっき考えてた」

 ふと、窓の外を眺めると、例の白い犬を連れたおばちゃんが散歩をしていた。

 手でも振ってやろうかと思ったけれど、一度にエキセントリックポイントを稼ぎすぎるのも考え物であるため、我慢することにした。

「難しいですね」鷺沼はしばらく考え込む素振りを見せたかと思うと、眉間にしわを寄せながら言う。「誰にでも、テーマがあるんでしょうか」

「そうだと思う」僕は答えた。「ただ、それも意味づけというか、認識の問題なのかもしれない。主題が存在していたとしても、本人が気が付かないままなら、無いのと同じってことにもなりかねない」

 鷺沼はそれを聞いて、更に眉間のしわを深くした。

「……大丈夫?」

 流石に心配になって訊くと、彼女は「すいません」と苦しげな声で呟いた。「ちょっと、頭が痛くて」

「それってもしかして」耳鳴りか、と言いかけて、今はそれどころではないと思い直す。「いや、安静にしてた方が良いな」

 席を立って店内を見渡すと、いつの間にか赤木氏の姿は消えている。

「今だったら、ソファを使っても文句を言う人間はいない」立ったまま、右手で額の辺りを抑えている鷺沼に声を掛けた。「良くなるまで寝てな。ほら、立てる?」

 差し出した僕の右手を力なく掴んで、彼女はかろうじて立ち上がる。握った手はひんやりとして、少し汗ばんでいた。

「ごめんなさい」小さな声で鷺沼は言う。「迷惑かけちゃって」

「言ってる場合かよ」僕は呆れて応えた。「僕のと同じ症状だったら、しばらく休んでれば良くなる。心配しなくていいよ」

 彼女は無言で頷いた。

 ソファへ辿り着くと、鷺沼は仰向けに倒れ込むようにして横たわった。表情は相変わらず険しかったが、少しすると呼吸は落ち着いて、掌の温度も上がってきたようだった。

 その様子を見ながら、僕はふと考える。

 鷺沼を襲っているのが僕の耳鳴りと同じ症状だとしたら、そのことは一体、何を意味するのだろうか?

 手代木洋介が言うところの主題を、言い換えれば音楽を誰もが持っているのだとすれば、その表出としての耳鳴りも、普遍的な現象であり得るだろう。だが、今までにそんな話は聞いたことがなかった。

 これが単に解釈の問題だからだろうか? 僕が初めて直面したときに、この現象を耳鳴りと呼んだのと同じで、一般に人間の主題がアラームを上げることを、我々は耳鳴りと見做しているのだろうか?

 ほぼ同時期に、あたかも僕の後を追うように始まった鷺沼の耳鳴り(これ自体が解釈でしかない)という現象に対して、過剰な含意を見出しそうとしてしまっているだけなのだろうか。

 鷺沼は、じっと耐えるように目を瞑っている。僕はそこに何らかの兆しや変化の現われを読み取ろうとしたが、わかったのは数分後に彼女が寝入ってしまったことだけだった。

 音楽も、聞こえない。

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