Side B <揺蕩うライオン>

 

  9

 

「さっきの話を気にしてるのね」

 ロクサーヌの席に着くなり、エミリアはずばり、そう言った。

「ぼく、そんなにおかしな顔をしている?」両手を挙げて、お手上げのポーズを取る。変に取り繕っても仕方ないので、さっさと認めてしまうことにした。「その通りだよ。気にしてるというか、気になってる。ぐるぐると、頭の中がこんがらがるみたいな感じだ」

「それはそうだよね」エミリアの形の良い眉が八の字みたいに、へにょっと下がる。「わたしも、戸惑ってるもの」

 

  *

 

 定例会議の場において、惑星ワールドマイゼルの進捗報告は定着しつつあった。その日もいつものように、エンジニアであるダンの口から、状況の説明が行われるはずだった。

「良いニュースと、悪いニュースがある。どちらを先に訊きたい?」

 どこぞの気取った映画みたいな切り出し方を、フレッドが「どっちでも良いから早くしろよ」と非難する辺りまでは、いつもの光景と言ってよかっただろう。

 それがいきなり、「じゃあ良いニュースからだ。世界の各地で革命が起こって、新たな政治経済体制を掲げる国家が幾つか、誕生した」と報告をするのだから驚いた。小さなどよめきが起こり、議長のアレックスも「それは本当か」と、興奮を隠せない様子を見せた。

「まあ、待て。話は最後まで聞けよ」とダンは勿体つけた調子で言う。「確かに革命はあった。その結果として、新体制の国家もできた。だがここからが悪いニュースだ。結局、世界で初めて成立したマイゼル式国家は――勿論、連中はそんな風には呼ばないが――、あわや世界滅亡ってレベルのでかい戦争を経て、あっという間に崩壊しちまった。残った国もあるが、名ばかりっつーか、時間をかけて徐々に普通の国に戻れたら良いね、みたいな雰囲気を醸し出してる」

 ぼくらのリアクションは、落胆と失意と、「ああ、やっぱりか」とでも言うような、諦めにも似た溜息の混じった複雑なものだった。

「無駄に回りくどい言い方しやがって」フレッドは毒づく。「どうすんだよ、それ」

「今、ワールドマイゼルはどうなってる?」訊いたのはベニーだ。

「一時的に、凍結処理を施してある」ダンがすぐに答えた。「革命が起こる手前まで、ロールバックすることも可能だ」

「しかし、巻き戻したところで、そうそう結果が変わるものなのか?」アレックスが苦しげな声で言う。「どれくらい前まで、戻せるんだ」

「その気になれば、惑星誕生の始まりまで」ダンは肩をすくめた。「その後は幾つかチェックポイントがあるが、現実的には我らが惑星マイゼルに、いわゆる知的生命体が誕生した辺りが関の山だろうな」

「マイゼルじゃないが、歴史には一定の法則性があるって話を律儀になぞるなら」ベニーが口を開く。「この段階で、巻き戻しを行うことに意味はない」

「そうだね」エミリアが賛同の声を上げた。「わたし達の世界でも、革命は失敗した……いえ、失敗している最中だと言うべきかな。仮にもマイゼルの理論を標榜するなら、複数の歴史で同じようにマイゼル式の革命が起きて、それが頓挫している事実をまずは受け止めるべきだと思う」

「ベニーとエミリアの意見には一理ある。時計の針を単純に巻き戻したところで、同じ条件のまま時を繰り返すのでは、結果は変わらない可能性も高い」とアレックス。「ここで確認しておきたいんだが、実験の第一目的は歴史の法則性を証明することではないだろう」

「その通りだ」と、今度はフレッドが賛意を示した。「マイゼル式の革命は、まずは失敗した。なら、どうすれば上手くいくのか。理想的な社会の在り方とはどんなものか。それを実験によって、実証的に明らかにするってのが、ワールドマイゼルの目的だったはずだ。そうだろ?」

 社会を対象とした理論は、実験によってその正しさを証明できない。

 長きに渡り、それは真実だった。学問としての社会科学という領域は、常にその限界と戦い続けてきたと言っても良い。一歩間違えばただの政治活動と変わりない営みを、いかにして客観的真理の探究に近付けるか。

 そしてむろん、そんなものには限りがある。どれだけ優れた理論を構築したところで、実際に試せないのであれば絵に描いた餅でしかない。マイゼル式のムーブメント、そしてある国で起こった一国革命は、現実世界において社会科学の実験を行おうとしたものだと解釈することもできるかもしれない。

 試みは、当然に失敗した。クーデター後の政府は勢いばかりが先行していて、急ごしらえも良いところだった。複雑化した現代の社会を運営するために必要な理論も、知識も、技術も、何もかもを持っておらず、あっという間に盛り返した旧体制の勢力に取って代わられた。二年前のことだ。その様子を受けてか、世界各国で隆盛の兆しを見せていたマイゼル式の運動は、急激にその力を失いつつあった。ぼくらの国でも、その事情は変わりない。

 マイゼルの世界ワールドマイゼルは、いわばその志を継ぐ存在だ。

 社会科学の机上実験というテーマ自体は、演算装置の普及に伴い、少しずつ研究されてはいた。しかしながら、低スペックの媒体ではどうしても、扱える情報の量が限定される。必然、境界条件は、実験者の主観によって定められざるを得なかった。実験の舞台となる擬似「社会」が、観測者の主観によって定義づけられる矛盾。奇しくも、マイゼル批判の急先鋒であったLE・ナード・ヴェルナスが指摘した社会科学の限界と根を同じくするそれを克服するためには、彼らが生きる環境そのものを一から生み出し、社会を自然に発生させるしかないというのが、ぼくらチームの見解だった。

 この不可能とも思える一大事業を可能にしたのが、大富豪ハーヴェイ・スコフィールド氏によって極秘裏に買い取られた新世代演算機、ガイアジェネレータ。通称GGである。

 ぼくらの世代で大型化したのは、何も青少年の体格だけじゃない。演算機の処理能力も、ここ数十年で以前とは比べ物にならない規模にまで成長していた。そうしてついに、惑星そのものの演算シミュレートなどという馬鹿げたアイディアを、単なる夢物語で終わらせないために必要なだけの性能を持った機体が誕生したというわけだ。

 本来なら、ぼくたちみたいにまともな知識も技術も持たない半端者集団が、思いつきで着手するようなプロジェクトじゃない。けれど、マイゼルの理論とそれを軸にした運動を取り巻く情勢は、革命とその失敗によって混乱しきっていた。組織は組織としての体を成さず、方向性を見失ったまま瓦解しつつあった。ぼくらはこの思いつきを相談する相手を持たなかったのだ。

 加えて、大学院生の身ながら研究者兼エンジニアとして一流だったダニエル・フリードマンと、大富豪でありながらマイゼル式の革命思想にシンパシーを表明しているスコフィールド氏の二名それぞれに、コネクションを持つメンバーが居たことが、我々の無謀を、無謀のままに実現へと導いた。

「じゃあどうやって、その理想的な社会の在り方を、追究するんでしょうか」それまで口を閉ざしていたロッテが言った。「ワールドマイゼルの凍結状態を解除して、そのまま時間を進める?」

「それはある意味で、マイゼルの理論に対する究極の挑戦になる」アレックスは、強張ったような笑みを浮かべる。「革命の歴史的必然性を、試すってことだ」

「そもそも、実験ってそういうものだろ」ダンは事もなげに言う。

「アレックスは、どう考えてるんだ」ベニーが呟いた。「今後の実験の進め方について」

 ぼくはなんとなく隣の席に居るベニーの横顔を伺ったけれど、その横顔から、彼の思いを読み取ることはできない。

 

  *

 

「恥を承知で告白するけれど」ぼくはエミリアが困ったような顔をするのを見て、言った。「ぼくは今日ダンの話を聞くまで、ワールドマイゼルの住人達に意識があるなんて、考えたことすらなかった」

「わたしもだよ」とエミリアが頷く。「最初はダンの冗談かと思ったくらい」

 

  *

 

 現在のワールドマイゼルは、ダンが作成したアプリケーション上で動作している。これは単純な(……などと言っては彼に怒られる。当然、誰にだって作れる代物ではなく、目的外の余計な機能を持たないという程度の意味の)情報処理ソフトウェアだ。我々の住む星にきわめて近い性質を持った惑星マイゼルが誕生するその瞬間をスタート地点として、ひたすら時を重ねていく。その過程で生じるあらゆる出来事をシミュレートし、森羅万象を再現する。

 アレックスの提案は、掻い摘んで言うなら、ここに一つの機能を追加するというものだった。

「我々の手で、革命の実現を後押しできないか」彼は最初、そういう言い方をした。「実験の目的は、あくまで革命が成った後にある。マイゼル式の、理想的な社会の運営の在り方を探すことだ」

「それは、あの世界に外側から介入するということか?」真っ先に反応したのはダンだ。その議論は予期していたとでも言うかのような(たぶん本当に予期していたのだ)、素早い切り返しだった。「ボクは言ってしまえば雇われているだけの存在だから、君たちがそうしろと言うなら、強く反対することはしない。現在のワールドマイゼルにはそのための機能はないが、技術的には十分に実装可能でもある。だがアレックス、その意味がわかっているのか」

 そのときアレックスは、僅かに目を細めた、形容しがたい表情になった。彼は「それは」と一言呟き、押し黙った。

「ワールドマイゼルはGGの中で動いているソフトウェアだ、それは間違いない。だが、そこには確かに一つの世界が存在する。ボクらの宇宙と大して変わらない物理法則があって、多種多様な生物が暮らしている。中でも今回の実験の主役である知的生命体は、ボクたちと同レベルの知能を持っていると言って差し支えないだろう。喜びもあれば悲しみ、怒りもある。畏れや敬い、死への恐怖、信仰、その他ありとあらゆる複雑な感情、思考がある。痛みだって感じる。住んでいる世界が違うだけで、彼らは本質的にボクたちと同じなんだ」ダンはアレックスの様子を横目に、その場全体に向かって語りかけるように言った。「あの世界へ自在に介入するってことは即ち、文字通り彼らの神になるということだ。今だってその誕生に関与したという意味じゃ、既に神様みたいなもんだと思うかもしれないが、やっぱり段階が違う。一旦そのためのスイッチを作れば、彼らの気分も運命も、すべてはボクらのさじ加減次第になってしまう」

 ぼくはダンの問題提起を、すぐには飲み込むことができなかった。

 本質的にぼくたちと同じ?

 演算機によってシミュレートされた惑星の生命体が?

 冗談だろうと笑い飛ばすには、ダンの語気が深刻だった。けれど、かと言ってすんなり「ああそうですか」と受け入れる気持ちにもなれない。

 会議室に重い沈黙の帳が下りた。一緒にいる皆が、ダンの言ったことをどのように受け止めたのか、あるいは受け止めようとしているのかはわからない。ただぼくらの間には、未着色の紙粘土を薄く長く引き伸ばしたみたいな、有機的とも無機的とも形容しがたい空気が漂っていた。

「アレックス」ゆっくりと口を開いたのはベニーだった。「当然わかっていると思うが、境界条件に手を入れてしまったら、今回の実験は意義を失う」

 ぼくは彼の言葉に、というよりは声の調子、発した音それ自体に対して、何か奇妙な違和感のようなものを覚えた。再び横に座るベニーの表情を覗き見たが、やはりそこから何らかの感情や意図を汲むことはできない。

「……それは、実験の境界条件をどう定義するかの問題だ」答えるアレックスの声は、僅かに掠れている。「何も、主体の行動原理や物事の受け取り方、惑星の環境なんかに手を入れるわけじゃない。社会の運営方法に主眼を置くのであれば、実験はまだ始まってすらいないんだ。言ってみれば、所与の環境でテストを行うための下準備。そう考えるならば、これは実験の意義をスポイルする行為なんかじゃなくて、むしろ必要なことですらある」

「俺はアレックスに賛成だ」フレッドが声を上げた。「ここで立ち止まっていても仕方ないだろ。革命のために手を入れる方針で進めて、実験が上手くいかなかったらロールバックすれば良い。それだけの話だ。違うか?」

「お前はダンの話を聞いてなかったのか」それまで黙っていたグレースが、ぴしゃりと言う。「でも、それを言い出したら、ロールバックだとか時間の凍結だって、どうなんだって話にもなるよね」

「その通りだ」ダンは頷いた。「本来ならば、実験を始める前に共通認識というか、線引きみたいなものを作っておくべきだった。大前提として、これは程度の問題なんだ。そもそも、惑星を生み出して、そこでいつか現れるだろう知的生命体の営みを観察するという実験の様式自体が、神を目指す試みに等しい。そこから一歩踏み込んで、実験の舞台が物理的に演算装置の内部にあるという事情は、誰かが気まぐれでGGの電源を、もちろん現実にはそんなことは簡単にできないようにしてあるが、電源を切ったりすれば、その時点でワールドマイゼルはおしまいになっちまうということでもある。文字通り、我々が生殺与奪の権利を握っているってわけだ。で、更に考えを進めると、今グレースが言った問題に行き当たる。世界の時間を止めたり、巻き戻したりする所業は、だったらなのか?」

 

  *

 

 ぼくらは結局、ワールドマイゼルへの限定的な機能追加を選択した。

 アレックスの提案を、完全にとは言わないまでも、承認したのだ。

「実験の目的はあくまでも社会の適切な運営方式を見定めることにある」と、アレックスは再三にわたって繰り返した。「箱庭の中身に一切の手出しをせず、無害な観察をただ続けることに、不確かな倫理以外の理由はない」と。

 対してダンは、これはぼくにとって多少意外なことだったのだけど、最後まで「ワールドマイゼルに暮らす者たちの権利」について語った。「自分は所詮雇われの身であり、本件に関して格別の思い入れや思想があるわけではない」と前置きをしながらも、「ストッパーを設ける必要はないのか」と問うことをやめなかった。

 ある種の妥協案として、ワールドマイゼルの在り方に対する限定的な関与という方法が提示されるまでに、さほど時間はかからなかった。ぼくらはこの倫理的な問題に対して、自分たちなりのはっきりとした結論を出すのではなく、技術的に解決(というのは誤魔化しの利いた言い方で、実際には先送りとか、見て見ぬ振りといった表現のほうが適切だろう)することを選んだ。

 

  *

 

「直接、手出しをしないとは言っても、ワールドマイゼルの在り方を、わたし達が望む方向へ誘導することには変わりない」とエミリアが小さな声で言った。「アイクの言う通りだね。本当、自分が恥ずかしい。どうして今まで考えもしなかったんだろう」

 それは第一にぼくらが実験の本質をきちんと理解していなかったからだ、と思う。

 突き詰めるなら、演算装置を用いたシミュレートという言葉が直感的にもたらすイメージの、その枠組みでしか思考をしていなかったからだ。

 何らかの目的を持ったアプリケーションが処理を行うには引数オプションが要る。これがぼくの常識であり、社会科学の実験を演算機で行う際の自明な限界と考えられていたポイントだった。もっと簡潔に言うなら、外側から与えられた条件に対して内側から回答を寄越すというのが、アプリケーションの本質だった。ぼくにとって、そして恐らくはエミリアにとっても、無意識のレベルでそうだった。

 だがワールドマイゼルの意義は、まさにその本質的な限界を超えようとする点にあった。

 勿論アプリケーションである以上、ワールドマイゼルにも引数は在るだろう。だがそれは、あくまで乱数発生装置ランダマイザの触媒程度の意味しか持っていないはずだ。回答を寄越すための条件そのものを作り出すこと、それこそが実験の肝なのだから当然だ。

 そのように考えるならば、とぼくは思う。ならば、そこで生まれた生命が、外側の世界にいるぼくらと同じく自我を持っていることも、自明だろうか。

 自明ではない。ぼくはそう思う。そこにはダンの主観が混じっている。そもそもぼくらは、ぼくら自身についてすら、よくわかっていないのだ。例えばぼくとエミリアが、あるいはアレックスやダンが、全く同じようにこの世界を知覚しているのだという保証はどこにもない。これは今日に至るまで解けていない哲学上の難問だ。ならば、GGの中の仮想世界に住まう彼ら彼女らが同じだなどと、どうして言えようか。ダンはこの問題についていかなる立場も取らないと言っていたが、それは嘘というか、間違いだ。彼には彼の思い入れがある。その執着が彼に熱弁を振るわせたのだし、結果としてはワールドマイゼルに対する際限なしの介入を止めさせたのだ。

「ぼく達は実験の一側面しか見ていなかった。そういうことだと思う」ぼくはそう言ってから、特にエミリアを慰めるためというわけではなかったのだけど、付け加えた。「けれど、ダンの見解が必ずしも正しいというわけじゃないよね。ワールドマイゼルの住人たちが、ぼくらと同じように自我を持っているというのは、一つの解釈に過ぎない」

「君は優しい」エミリアは、笑おうとしたのだと思う。大きな翠の瞳が細められ、頬が若干、引きつったみたいになった。「ありがとう、でも大丈夫。落ち込んでいるわけじゃないから」

 二人とも、それ以上は何も言わない。

 エミリアは頬杖を突いて、顔を窓のほうへ向けた。ぼくは彼女の横顔を眺めて、その憂いを帯びた表情に新鮮な魅力を見出しながら、やがてベニーのことを思い出す。

 

  10

 

 ベニーと話す機会は、程なくして訪れた。

 いつものように休憩室で読書をしていると、彼は静かにドアを開けて部屋に入ってきた。ぼくに向かって軽く目配せした後で、向かいの椅子に腰掛ける。

「どこを読んでるんだ?」とベニーは訊いてきた。

「四章一節」ぼくはすぐに答える。「ゲー・ヴェー・ゲー」

「ダッシュ」彼はそう付け加えて、小さく笑った。「こういう言い方も何だが、よく飽きないな」

 テーブルの上に伏せるようにして置いたぼろぼろの本は、その日もやはり『生産の一般理論』だった。

「いつも読んでるようで、読んでないから。今だって、目が滑ってた」

「アイザックは不思議なやつだ」教科書の文言でも読み上げるみたいに、ベニーは言う。「そうしていると、組織の鑑みたいにも見えるんだけど」

「それじゃ、まるでぼくが不良みたいじゃないか」

 ぼくの抗議に、ベニーは首を振るだけで答えない。彼は小さな椅子に座ったまま、こちらに背を向けて壁際の本棚を物色し始めた。

「アイザック、前に言ってたよな」ベニーの背中が言う。「自分が組織に居るのは単純な理由からだ、って」

「言ったね」

「それ、今も変わらないか?」彼は戸棚から本を取り出して、表紙と背表紙を交互に眺めては、元の場所に戻している。「君は今も変わらず、単純な理由でここに居るのか」

 その声に詰問のニュアンスはなかった。どちらかというと、縋るような(ぼくがベニーの物言いをそんな風に感じるのは率直に言うと意外で、後から捉え返してようやくその含意に思い至ったくらいなのだが)切実さを帯びた空気が滲んでいる。

「きっとそうだ」

 ぼくは簡単にそれだけ答えて、テーブルの上の一般理論を再び手に取った。

「君は強い」

 ベニーはすぐに言った。そこにはやはり切迫した響きがある。

「そんなに良いもんじゃないよ」本心だった。「皆、買い被っている。ぼくは特段、何も考えちゃいないんだ。さっきも言っただろ。マイゼルの本だって、読んでるようでいて実は読み飛ばしてるんだよ」

「でも、無視はしていない」

 いつの間にか、ベニーはこちらへ向き直っていた。切れ長の目が、半ば睨むように細められる。

 ぼくは思わず少したじろいで、言った。

「……ベニー、何が言いたい?」

 彼ははっとしたような顔になって、謝意を口にする。

「いや、悪い。別にアイザックを責めたりしたいわけじゃないんだ」ベニーは軽く首を振った。「今のは、そう……八つ当たりみたいなもんだ。すまなかった」

「気にしてないよ」とぼくは嘘をついた。「でも、急にどうしたのさ」

「正直に言うと」とベニーは秘密を告白する少年みたいに深刻な顔になる。「俺は、少し迷っている」

 それはぼくにとって、半分だけ思いがけないことだった。

 彼が何事かを抱えているだろうことは想像に難くなかったけれど、それをあっさりと聞くことができるとは予想していなかった。

 ベニーは幾らか躊躇うように視線を迷わせてから、話し始めた。

「俺たちのような活動をやってると、たまに言われることがある。『弱者を救うと言ったって、この世は弱肉強食の仕組みで出来ている。もし百歩譲って、仮に我々すべてが幸福に生きられる社会が到来したとして、それは我々が他の生物すべてを支配し、抑圧することに他ならない』」彼はゆっくりと、一言ずつ喋る。「その言い分は、ひとまず正しい。正しいが、まっすぐに受け止める必要はない言い分だ。何故なら、そういう言葉が発せられる理由は結局のところ、現在の世界の在り方を肯定したいということ以外にあり得ないからだ」ベニーの声は、ともすれば聞き逃してしまいそうなくらいに、低かった。「誰がなんと言おうとも、物事を前に進めるしかない。行き着く先が、結局は抑圧の形が変わったという程度のことでしかないのだとしても、今の世界をそのままにしておくことができないと感じる以上は、変えていくより他にない。そう思ってきた」

 ぼくは無言で頷く。

「今も基本的なところで、その考えに変わりはない」彼はそこで、逆接を挟んだ。「だが、変革のための過程に、たくさんの苦痛や死が含まれるとしたら? それでも俺は、同じように考えることができるのか」

「ワールドマイゼルのこと?」確認のために、そう訊く。

「そうだ」ベニーは頷いて、それから言った。「生を与えるということは、死を与えることと同義だ」

 何も言わずに、先を促した。

「実際のところ、あの実験が始まる前から、ダンが言及した可能性については考えていたんだ。つまり、仮想世界に住まう人々には自我が宿るんじゃないかって……。ワールドマイゼルに誕生する生命は、単なるAIとはわけが違う。彼らをプログラムしたのは知性ではなくて、演算処理装置によって擬制エミュレートされた自然の世界だ。勿論、その高度さ複雑さだって、我々にひけを取らない。そうでなければ実験の主体足り得ない。だったら、彼らと俺たちは何が違う? 住まう次元レイヤの違いが、免罪符になるか?」ベニーは訥々と告解を進める。「知らぬ振りをしていたんだ。ワールドマイゼルを意のままに操る術を得ることを、ダンは『彼らの神になる』と表現した。けど本人も後から認めた通り、俺たちはとっくに、彼らの神になってしまっている。命を与えるということは、死の運命を与えるのと同義だからだ。まともに考えを進めれば、こうなるってことはわかっていた。わかった上で、俺はそれ以上どう考えるべきかわからなくて、蓋をした」

「ベニーは、実験を止めるべきだと?」

「戦争、とダンは言った。世界滅亡レベルのでかい戦争だ」彼はぼくの言葉に直接返事をせずに、続けた。「当然、多数の死者が出ただろう。ニュークリアのような、おぞましい兵器も使われたかもしれない。そういう事態を、望むと望まざるに関わらず、我々は作り出してしまった。適切な社会の運営方法などという、彼らの世界そのものとは何の関係もない自分たちの都合によってだ」

 ベニーは、テーブルの上で組んだ自分の両手に視線を落とした。

「ワールドマイゼルに生きる者たちが受ける苦しみを緩和するだけであれば、彼らの生から苦痛や死を取り除くという方法がある。しかし、それでは元も子もない。死や苦しみが無くなれば、倫理も価値観も一変するだろう。もしかすると高度に発展した社会は出来上がるかもしれないが、現実に暮らす我々にはその仕組みを適用できない。結局、当初に設定した実験の目的を完遂しようとするのであれば、今の方針が正しいということになる」

「彼らの死は、ぼくらが与えているわけではないと思う。上手く言えないけど……」それに、とぼくは付言した。「どんな苦しみがあろうとも、ワールドマイゼルは現にもう存在してしまっている。我々の勝手な意思でそれを止めるっていうのは……まさしく、神の所業じゃないか」

「その通りだ」ベニーは俯いたままだ。「だが、我々はもはや神だ。どのような決断をしようとも、それは神がかいなを振るうことに等しい」

 ベニーは明らかに、何かしらの頑迷に取り憑かれているように思われた。しかしぼくには、その正体がすぐにはわからない。

「ぼくはダンの話を聞くまで、あの世界の住人がぼくらと同じかもしれないなんて、考えたこともなかった。それこそ演算処理を行うためのAIや、RTSのゲームに登場する小さなアバターと似たようなものくらいに捉えていたんだ」言いながら、ぼくはエミリアを思い出す。彼女の美しい横顔を眺めながらベニーについて考えた、その経験を想起する。「だから昨日はショックだった。ぼくが彼らに対してすべきことというか、取るべき態度とはどういうものかって、考えたよ。考えたと言っても、まあ結論は出ていないんだけど、一つだけ前提として、ベニーのそれと食い違っているように思える点がある」

「前提として?」

「そう、前提として」ぼくは頷く。

 頷きながら思う。そう、前提としてだ。

 ベニーの前提とはヘレンだ、と思う。

「ぼくは生を死のおまけとしては捉えていない」

「……その言い方は心外だな」ベニーの口調は、彼が本当に傷ついたことを表現しようとしていた。

「ごめん」ぼくは、ひとまずその傷心に頭を下げた。「けど、ベニーの前提には死があると思う」

「それは、」ベニーは口篭る。「事実の問題として」

「確かに、生があれば死がある。ぼくらにとって二つは抱き合わせ販売されていて、決して別々には買うことができない商品みたいなものだ」ぼくは俯いたベニーに向かって、続ける。「でも、そうじゃないと思う。と言うのは、ベニーにとっては単にそれだけの意味合いじゃないって意味だけど……ベニーは、死に囚われている」

 彼は組み合わせた両手の親指の辺りを、じっと見つめている。

「誰かが死ぬっていうのは悲しいことだし、大抵の場合、そこには苦しみがある。生まれてきた以上、これは避けられない運命だ。でも、だからって、それだけじゃない」ぼくは自分の言葉を、別の誰かが発するもののように感じていた。「意味のない死とか、生まれてきたこと自体が踏みにじられるような死とか、そういうものだってあるに違いない。だけど、そうでない死と生だって、きっとあるよ。何か大事なものを見つけて、生きることに意味を見出して、死ぬことに納得して死んでいく奴が、ワールドマイゼルにも居る。それは、いけないことかな」

 言いながら、頭の中の全く別の部分でぼくが考えている。前提なのだ、と。

 ベニーがこの活動を始めた動機について、それをぼくに話してくれたことについて、思い出している。

 妹であるヘレンの死。高等教育を受けたいというベネディクト少年を家族全員が支えようとした、その結果としての妹の死。今のベニーの原動力エンジンは、死を燃料としている。理不尽な死が生み出す怨嗟、世界に対する恨みのようなものが、彼のモチベーションの源だ。だからベニーにとって、死が物事の前提にあるのは当然のことだった。

 幸せに生きて、死んでいく者が居ることは、彼の世界観には関係がない。その事実はヘレンを救わない。

 ベニーに、ぼくの言葉は届かない。

「アイザック、俺は」彼の零した声は、微かに震えていた。「俺は、わからないんだ。本当に」

「ぼくだって、何もわからない」突き放すような言い方にならないよう、注意した。「本当は、それが普通なんじゃないかな」

 すると、ベニーが顔を上げる。彼は、細い目を見開いて(実情にそぐわない慣用句を用いるなら、目をまるくして)、何秒か呆けたように黙りこくった。

「君は強い」そうして、やっと発した言葉がそれだった。

「買い被りだよ」とぼくは笑う。「その証拠に、問題は何も解決していない」

「ならアイザックは、実験を続けるべきだと思うか?」ベニーは居住まいを正して、率直に尋ねてきた。

「わからないよ」ぼくは軽い調子で繰り返す。「ただ、他者の生き死にの問題に際限なく口出しできるほど、自分が生きることに精通しているとも思えない」

「無責任じゃないか、それは」と詰るベニーの口調は、しかしどこか大らかだった。

「そうだね、無責任だ。正直に言って、この件は完全にぼくの能力を超えている」言ってからふと思いついて、でもさ、と付け加えた。「でも、これはひょっとすると、現代のぼくらの倫理の尺度で言うなら、子を成すことに似ているかもしれない」

 ベニーもその発想には思うところがあるのか、なるほどと小さく頷く。

「一度生まれた子を、殺すようなものか」

「実験を途中で止めようとするなら、そういうことになる」ぼくは言った。「子供だってある程度の年齢までは面倒見るけど、大人になったら基本的には野放しにするしかないよね。幸せになって欲しいと願いはするだろうけど、そのためにできることって、決して多くはない」

「だが、それで言うなら」とベニーは声を落とした。「やっぱり外側からの介入は」

「うーん、確かに」ぼくは俯くしかない。「まだ子供だってことに、しておくんじゃないかな……」

 

  11

 

「――好きなんです」

 言ったのはロッテだった。初めは声で、次に姿を見つけたので、それがすぐにわかった。

 場所はいつもの通り、喫茶ロクサーヌ。

 店の隅っこにあるテーブル席で、彼女の正面に座ってこちらに背を向けているのは、長身の男。アレックスだ。

 大変なシーンに立ち会ってしまったと思うが早いか、入り口のドアを開けたまま立ち尽くすぼくに、彼らは気がついた。

「あ、ああ」振り向いて、アレックスがぎこちなく言う。「アイクか。こんにちは」

「やあ」とぼくは中途半端に右手を挙げた。「良い天気だね」

「先輩!」微妙な空気を醸し出す男たちをよそに、ロッテはいつも通りの元気な調子で挨拶をしてくれた。「どうしたんですか、そんなところでぼーっとして」

 いつまでも入り口の前に立っているわけにもいかず、かと言って邪魔をして良いものか判断がつかなかったため、ぼくはマスターに視線の動きと表情で助けを求めた。

 帰ってきたのは、いつものアルカイック・スマイルだけだった。

「どうしたんですか、アイク先輩?」するとロッテは首を傾げて、席を立つと、こっちへやってくる。「お暇なら一緒にお茶でも」

「いや、その」ぼくはどう答えて良いかわからなくて、間抜けな返事をしてしまった。「良いの?」

「ロッテが構わないなら」そう言ってアレックスも手招きをしてきたので、ぼくも「ならお言葉に甘えて」と答えざるを得なかった。

 アレックスと一緒にテーブルに着いて、気詰まりな時間は、しかしすぐに終わりを迎える。

「恋愛相談に乗ってもらっていたんです」

 ロッテは、はにかみながらそう告げた。

「そうなんだ」と肯定するアレックスは、あらぬ誤解を避けられたためか、あからさまに安堵の表情を浮かべている。

「相手を訊いても?」覗き見男にならずに済んだぼくも、恐らくはほっとした顔になっていただろう。「差し支えなければ」

「内緒ですよ」とロッテは人差し指を立てて、小声で言った。「ベネットをデートに誘いたいの」

 なるほど、とぼくは頷く。

 ロッテがベニーに好意を寄せていることにはまるで気がついていなかったのだが、それは特に驚くようなことでもなかった。ぼくもベニーのことは好きだった(あくまで友人として、だ。念のため)し、いつも頼りになる彼のことだ、憧れを抱く女の子がいるのは自然なことに思われた。

「ロッテは男を見る目がある」ぼくは言った。

「そう思いますか?」ロッテは嬉しそうに目を輝かせる。「アイク先輩、何か良いアイディアがあったら、教えてくれませんか」

「そうだな、ぼくのアーカイブによれば」言いながら、記憶の引き出しを開けていく。せっかく年下の女の子に頼られたのだから、何か役に立つアドバイスをしてやりたかった。「……ベニーは、花が好きだよ。いや、花に限らず植物だったかな。以前は時間のあるときには、植物園へ行ったりしてたと聞いたことがある。今もやっている植物園がどれくらいあるかわからないけど、目星がつくなら誘ってみたら良いんじゃないかな」

「へえ」と声を出したのはアレックスだった。「それは何というか、意外だな」

「そう?」ぼくには無い感覚だったので、首を傾げる。

「植物園ですか」ロッテはふむふむと何度か頷くと、律儀にもメモ帳を取り出した。「とても参考になります。アレクさんはどうです?」

「ベニーの好きなもの、か」アレクさんことアレックスは答える。「無難なところだが、映画は悪くないんじゃないか。社会問題を扱ったようなものとか、よく見てると思うよ」

「映画ですね、それは私も考えました」メモ帳に書き込みをしながら、ロッテは言う。「テーマパークとかは、どうなんでしょう? ベネットはあまり好きじゃないかな」

「遊園地ってこと? 付き合ってくれないことはないと思うけど……」ロッテとベニーが連れ立って遊園地を訪れる場面を想像してみたが、あまり盛り上がりそうにはなかった。「ベニーが喜ぶかどうかは未知数だな」

「うーん、やっぱりそうですか」彼女は残念そうに手帳を閉じると、すぐに明るい顔になって、「こんなところかな。ありがとうございます」と礼を言った。

「上手くいくと良いね」ぼくが言うと、ロッテは「はい」と輝かしい笑顔で頷く。

 それを見て、ふと、ベニーの抱える死を思った。

 彼は生きるための燃料として、ヘレンの死を燃やし続ける。だからベニーの住まう世界には常に、死がその影を落としている。

 そんな彼の世界は、真っ直ぐに向けられるロッテの輝きをどう受け止めるのだろうか。鮮やかな光は、暗き想念のフィルタによって屈折してしまわないだろうか?

「どうしたんですか、アイク先輩」気付くと、ロッテがぼくの顔を覗き込んでいた。「顔色が良くないですよ」

「いや、大丈夫」ぼくは何度か首を振った。「ちょっと、考え事をしてただけ」

 ロッテは「なら良いんですけど」と言いながらも、心配そうに眉尻を下げている。ぼくは彼女を安心させようと、おどけてみせた。「考え事をしてるときのぼくの顔は、どうやら相当おかしいらしいね。エミリアにも言われたけれど」

 それでロッテが少し笑ってくれたので、ぼくは気が楽になって、注文をまだ済ませていないことに思い至った。

 マスターは気を利かせてくれたのか、新しく入ってきた客であるぼくに、今までオーダーを取りに来ていなかったのだ。

「考え事と言えばさ」ぼくがマスターを呼んで注文を行う傍らで、アレックスが思いついたように言った。「アイクとロッテは、どう考えてる?」

 彼の言葉には独特の含みがあったから、それが機密事項ワールドマイゼルに関わることだとすぐに判った。マスターがカウンターへ戻った後で、ぼくは念のため、アレックスに尋ねる。

「この間の会議のこと?」

「そうだ」彼は躊躇いがちに続けた。「はっきり言って、僕自身、自分の推した意見が正しかったという確信はない」

「仕方ないことだと思う」ぼくは率直に言う。「ぼくらだけで背負うには、大きすぎる問題だ」

「私は」とロッテが口を開いた。「よくわからない、というのが正直なところです。ダニ君の言ってたことの意味も、ちゃんとは理解できていないと思う」

「実験を止めることになったり、結果や意義が損なわれるような事態は、何としても避けたかった」アレックスは声を低くした。「そこに僕のエゴが多分に含まれていたことは否定できない」

 彼は後悔しているのだろうか。アレックスの表情や声音からは、痛みのようなものが見え隠れしている。

「もしもアレックスが、実験によって発生する様々な事象の責任を一手に引き受ける必要があると考えているなら、それは違うんじゃないかな」

「そういうわけじゃないが」彼は口ごもった。「きっと僕は不安なんだ」

 アレックスが、はっきりとぼくにわかる形で弱気を表明するのは初めてだった。それは単なる偶然ではなくて、彼が自分に対して、常に組織のリーダーであることを強いていたからだろう。

 皆が不安を抱えているのだ、とぼくは思った。アレックスをして、吐き出させずにはいられないような、大きな不安。

 ED・ワールド・マイゼルは、我々の歴史全体を見渡す壮大な理論を打ち立てた。そしてマイゼルの運命史観は、実際に世の中を動かそうとしている。革命は成らなかったが、息吹はまだ消えていない。理論が、現実に対して世界規模での影響力を持ち得ているのだ。それだけの仕事を受け継ぐ実験を行っているのだから、生半可な覚悟で貫き通せるはずがない。

 ぼくらは今、問われている。

「勿論リーダーの決断は、いついかなるときも、ただのエゴに基づくものであるべきではない」ぼくは独り言みたいに呟いた。「その場の勢いもあったし、皆が戸惑う中での決定だった。けど、あれは決してアレックスだけが先走った結果なんかじゃなかったと思う」

 アレックスはこちらの目を見て、何か言おうとしたみたいだった。けれど、彼の口は何度かぱくぱくと動いただけで、声を発しない。

 ぼくは続ける。

「君は我々にとっての良きリーダーだ。決然たる意思を持って、ぼくらを導こうとしている。そのやり方は決して無理やりじゃなくて、皆の気持ちをも汲もうとしている。なかなか出来ることじゃない」言葉はアレックスに向けると同時に、ロッテへも投げかけた。「でも、だからこそ、もし君が今も迷いを断ち切れないのであれば、一度立ち止まってみても良いと思う。リーダーが迷ってはいけないという決まりはないけれど、良きリーダーは、発進した後でさしたる理由もなしに向かう方角を変えたりはしないだろうから」

 そして、それはきっと、形を変えたぼく自身に対する提案でもあった。

 ベニーは言った。「今も変わらず、単純な理由でここに居るのか」と。ぼくはその質問に対してYESと答え、彼はそれを強さだと断じた。

 良いものでないと言いはしたものの、ベニーの言及は誤りではない。きっと、ぼくの在り方がシンプルであることは、現時点で一つの強さだ。でも、そのことが組織で活動を続けていくにあたって、今後も強さで在り続けられるかというのは別の問題であるように思われた。

 ぼくは結局のところ、今日に至るまで、本当の意味では決断をしていない。アレックスとエミリアを前にしてつけた、「一度入ったら抜けられない決まりはない」という留保を、今もまだ保持している。

 このままずっと、ある意味でどっちつかずな態度を取り続けることだって、不可能ではないだろう。だが、そのことによってぼくはきっと、運動に対するコミットメントのチャンスをほとんど永久に失ってしまう。

 生きている限り、誰もが常に選択をしている。そこから逃れることなど出来やしない。ベニーの言に則るならば、ぼくだってとっくの昔に選んでいるし、今も絶え間なく選択を迫られている。でも、それは外から見たときの話であって、言ってみれば他者から課される責のようなものだ。自分が自分に課すものではない。

 今までのぼくが抱いていたシンプルなモチベーションは、あくまで自分の中だけで完結するものだった。マイゼルの文章が好きだから。一緒に活動する仲間たちを、無視できないと思ったから。こういった動機は、ぼくにとって、アレックスや周囲のメンバーに手を引かれて、巨大な組織の一部として受動的に参加している分には、過不足のないものだったと思う。

 しかし、ぼくらは最早はっきりと、立ち向かおうとしていた。ED・ワールド・マイゼルの経済理論と歴史観に。そしてまた、それを通じて、ぼくら自身を取り巻く世界に。

 このフィールドで自分が振るうことのできる力なんか、微々たるものだ。やろうとしていることの巨大さに対して、及ぼせる影響なんか、ほとんど無いに等しいだろう。だけどそれでも、ぼくはもう、「いつ抜けたって構わない」という半端な心持ちでは居られない。自らを支える両足に重心を置かぬまま、ふらふらと責任転嫁を続けるわけにはいかない。

 失敗すれば谷底めがけて自由落下フリーフォール間違いなしの、紐なしバンジージャンプ。それでも、、と我らがマイゼルは言ったのだ。

 ここで跳べ。さもなくば、尻尾を巻いて逃げ出すがいい。

「難しいことは、わからないですけど」ロッテがおずおずと手を挙げた。「私は、やっぱり変革が必要だって信じてます。それに、メンバーの皆さんのことも。だから皆で納得いくまで話し合って、それで出した結論なら、私はどこまでも着いていくと思う」

 信じる、と彼女も言った。ぼくはロッテがその背中に、白く荘厳な翼を携えた光景を幻視する。

 アレックスは、しばらく黙ってぼくらの顔を見比べるようにしていたが、やがて口を開いた。

「ありがとう、二人とも」彼の声から、迷いや揺れは消えている。「実験を続けよう。我々が、歴史を先に進めるんだ」

 ぼくは頷いて、右手で自分の背中に触れた。

 当然ながら、臆病者の縞馬ゼブラに翼はない。

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