第三章 「本質と制御」

Side A <S.V.A.>

 

  8

 

「よく来たね。久しぶりです、深町君」ドアをノックすると、すぐに棚井たない教授が出迎えてくれた。「外は暑かったでしょう。麦茶を用意してありますよ」

 大学へ足を運ぶのも、ずいぶん久しぶりだった。卒業して一年目に、サークルの行事に顔を出したきりだ。

 同窓生だった猫田健二郎は、未だに教授の元で勉強をしている。だから時折、噂話のような形で彼の近況を耳にすることはあったが、こうして実際に会うのは学生時代以来だった。

「どうも。お久しぶりです」僕は軽くお辞儀をした。「失礼します」

 たくさんの学術書が壁中に並べられた部屋の様子に変わりは無かったが、教授は少し、年を取ったように見えた。以前に会ったときよりも、白髪の量が増えている。

「そこへ掛けてください」パイプ椅子を指し示しながら、彼は言った。「わざわざ来ていただいたのに、立派な椅子でなくてすみませんね」

「お構いなく」と僕は軽く笑った。「どうしたんですか、畏まって」

「君はもう、私の学生ではないから」棚井教授は、麦茶の入ったコップを差し出してくる。「まあ、マイルールのようなものです。あまり気にしないでください。現にパイプ椅子に座らせてしまっているのだから、大して気は遣っていません」

「それもそうですね」麦茶を受け取って、一口飲んだ。よく冷えていて美味しい。「まあ、元々気にしてません」

 冷たい飲み物と、適度に冷房の効いた部屋の温度で、熱くなっていた身体が冷めていくのを感じる。コップをテーブルに置かせてもらって、僕は手で火照った顔を扇いだ。

「不躾なことをしました。急に呼び出したりして、びっくりしたでしょう」しばらくして、教授が口火を切った。「実は、猫田君から話を聞いてね」

「そんなところだろうと思いました」予想はついていたので、すぐに頷く。僕が猫田から棚井教授の話を聞いていたのだから、同じように、教授が僕の状況を聞いていたとしても、何も不思議なことはない。「あいつは何でも喋るから」

「悪気はないのだと思いますよ」と彼は宥めるように言った。「深町君は、わかってるでしょうが」

「そうは言いますけど」僕は愚痴っぽくならずにはいられない。「猫田に悪気がないと言うのなら、配偶者が居るにも拘らず浮気を繰り返すような男にだって、きっと悪気はないですよ」

「でしょうね」棚井教授はあっさり言った。

「まあ、いいですよ」僕は麦茶を飲んで、脱線しかけた話題を元に戻すことにする。「それで……多分、棚井先生は心配してくれているんだと思いますが」

「心配、というかね」教授は頬を掻いた。「私があれこれ口を出すような問題ではないと、わかってはいるんですが」

「いえ、ありがたいことだと思います」と僕は答える。「もう、僕はとっくに卒業しているのに、未だに先生に気にかけていただいてるんだから」

「君は……」彼はそこまで言って、何かを探すように視線を彷徨わせた。「今後、どうしていくつもりで?」

「恥ずかしいことに、何も考えていません」

「それ自体を、あれこれ言うつもりはないですよ」棚井教授は言う。「大学へ戻るつもりはないのかな」

「十分なお金があれば、それも良かったかもしれないです」僕は軽い調子で答える。「ただ、今のままでは、学費を払うまでもなく早晩飢えて死にます」

「まだ、退職したわけではないのでしょう」と教授。「何がなんでも、仕事に戻るべきだとは言いませんが」

「どう考えても、戻るべきだと思いますけどね」と僕は笑った。「次に就く仕事が決まっているわけでもないし、労働条件も悪くない。現に、こうして何ヶ月も仕事をサボっている僕のことを、不採算だと言って解雇するでもなく、見守ってくれている」

 そこで少し、沈黙があった。

「……せっかく来てもらったんですし、本当はもう少し、腹を割った話がしたいのだけど」彼は軽く、身を乗り出す。「気が進みませんか?」

 その顔を見て、やっぱり年を取ったな、と思った。目許に深く刻まれた皺が、元来の柔和な印象をさらに強めている。

「疲れたんですよ」僕はそっけなく言った。「色んな瞬間に、自分が磨耗する。耐えるためには麻痺もする。何か大事なものが失われていく感覚があって、いずれはその喪失感すらも無くしてしまう予感がある。それでもあの中でやっていくことは、出来なくはない。だけど、それは人生の空費だとしか思えなかった」

「それは甘えだ」と、こういうときに棚井教授は言わない。そのことを僕は知っている。だからこそ、僕は素直に呼び出しに応じたのだし、腹を割って話そうと言われれば、そのリクエストにも正面から答えようとする。

 僕は結局この歳になっても、色々なものに甘えて、生きている。

「人生の空費、とは」彼はずれかけた眼鏡を人差し指で直すと、僕の言葉を受けて言う。「どういった意味でしょう。まずは人生を定義しましょうか」

「人生というのは、僕が生きている時間の全体です」今度は僕が、彼の言葉を受けた。「そうして人生を総体として捉えたときに……無駄なことを、『空費をしている』という感覚が生じる」

「的確ですね。つまり深町君は」教授はいつの間にか、力強くこちらを見つめている。「人生において、成し遂げたい何事かがあるのですか」

「わかりません」反射的に、そう答えた。「ただ、もっと他の時間の使い方があるのではないかとは思う。生きていられる時間は、限られているから」

「そこをもう少し、突き詰めてみよう」と教授は言った。「深町君は、自分の人生が何に費やされれば、空費とは感じないのですか。これは決して非難とは受け止めないで欲しいのだけど、例えば今、仕事をしていない自分の暮らしは、人生の空費ではないのでしょうか」

「空費だと思います」僕ははっきり肯定する。「こんなことをしている場合ではない」

「ふむ。……とはいえあまり、思い詰めすぎないほうが良いでしょうね」彼は少し、目の力を緩めた。「いくら君が勤めているのが良い企業だと言っても、何の理由もなしに社員が休職することを許しているとは思えない。何らかの休むに足る事由があるのでしょう。だったら、今はきちんと休養をとるのも大切なことです」

 さすがに大学教授だ。猫田からの又聞きで、曖昧な情報しか持っていないだろうに、的確な推論だった。

「理由なんて、飾りみたいなものですよ」僕は言葉を濁す。

「まあ、さほど酷い状態ではないのは事実かもしれませんが」と彼も頷いた。「ならば深町君、先ほどの繰り返しになりますが、どのような生き方であれば、君は人生を空費していると感じずに済むだろう」

 キン、と刺し込むように耳鳴りが襲ってきた。この鋭い痛みには、やはり慣れない。

「すみません」僕は軽く頭を抑えた。「わかりません」

「ええ。無理はしないほうが良い」教授はすぐに言う。「君、やはり体調がよくないのですね」

「いえ……そういうんじゃないので、心配は無用です」小さく首を振って、その言葉を否定した。「今更になって自分探しなんて、みっともないんですが」

「そんなことはない。自分を知るのに、時期は関係ないだろう」棚井教授は生真面目に言った。「私だって、日々迷ってばかりですよ。不惑だなんて言うけれど、あれは嘘ですね」

「先生も、迷うんですか」

「半分は」と彼は応じる。「私には自分の研究があるので、そこへ邁進するという意味では、迷いはない。でも、その上で自分がどうあるべきか……どんな立場を取るべきかという点については、常に迷っています。いっそ、迷うのが仕事だと言っても良い。当然、色々な考え方があるのだと思います。例えば、あるべき社会の姿を思い描くなら、そこに向かって突き進むべきであって、迷いなどは一切、余計な混じり物に過ぎないという見方もある。けれど、私はそうは思わない。そういう話です」

 僕は軽く額を押さえながら、顎を引いた。

 心なしか、不快な音は弱まっている。

「もう、仕事へ行かなくなって結構経つんですよ」俯き加減のまま、そう零した。

「そうでしょうね」

「このまま放っておけば、そのうち野垂れ死ぬだけで、そんなものは遠回りな自殺と変わりない」僕は独り言のように続ける。「猫田には、そんな風にも言われました」

「永らうべきか、死すべきか」教授は言った。「とは言え深町君の場合、無意識にであっても答えは出ているようにも思いますが」

「人はそんなとき、どうやって答えを出すんだと思いますか?」

 ふと思い立って、僕は訊いてみた。棚井教授は少し考え込むような表情になったが、やがて答える。

「そうですね。ひょっとすると、答えというのは常に、あらかじめ出ているのかもしれない」彼は髭のない顎に手をやった。「人が生きたい、あるいは生きるべきと考えるのは、生きるに足る理由があるからでしょう。でも、その理由というのは実は曖昧なものだ。どこまで行っても、主観でしかない」喋りながら、教授は再びこちらを見る。眼光には力が篭っている。「結局のところ、それこそが人の生における本源的な蓄積なんだと思いますね。生へ向かう意思を支える、経験」

「経験ですか」いまひとつピンとこなくて、僕は鸚鵡返しに言った。

「何も難しいことではありませんよ」彼は目を細める。「生きていてよかった。生まれてきた甲斐があった。命があるとは素晴らしいことだ。あるいは、死んでも何にもならないだとか、そういう方向性でもあり得るかもしれませんが……そんな風に思える機会が、どれだけあったか」

 教授の言葉を聞きながら、僕は麦茶に手を伸ばした。

 人の生における本源的な蓄積。生へ向かう意思。石山茜音には、それがなかったのだろうか?

 考えながら、残った麦茶を喉の奥へ流し込む。多少温くなってはいたが、やはり美味しい。

「変なことを訊きますが」と医者に言われたときのことを、僕はふと思い出す。「死にたい、と思うことはありますか?」

 なんと答えたのかは、忘れてしまった。

 

  9

 

 教授の元へ出向いた翌日、喫茶エトランゼで携帯電話のメール受信履歴を検索していると、一人の男が近づいてきた。

「やあ」と彼は声をかけてくる。「お邪魔しても良いかな」

 少し高めの嗄れ声に顔を上げると、アッシュグレーのくたびれた帽子と、あちこちがカールした黒髪が目に入った。

森塚もりつかさん」携帯電話をテーブルに置いて、応える。「こんにちは。どうぞ」

 森塚英嗣えいじという名前を、僕は実際に会うまで聞いたことはなかったのだけど、あるいは絵画に造詣の深い者ならば、新進気鋭の芸術家である彼の噂を耳にしたことがあるかもしれない。

 痩身長躯で手足が長い森塚のシルエットは、針金細工の人形を思わせる。彼は「失礼」と一言告げると、その身体を折り畳むようにして、僕の向かいに腰掛けた。

「なんか、久しぶりだね」森塚は帽子を取って、髪を軽く払う。「というか、おれの方が最近来てなかったのかな」

「そうですね」と僕は頷いた。「僕は相変わらず、ここでしょっちゅう本を読んでいるので」

 彼は僕の言葉を聞いて、何故か満足げに頷くと、手に取った帽子をテーブルに置いて言った。

「調子はどうだい」

「まあ……そっちも変わらず、ですかね」僕は窓の外を見る。「ただ、一つきちんと考えたいことがあって」

「考えたいこと?」

「石山さんについて」外の景色に目をやったまま、すぐに言った。「彼女はどうして、死んでしまったのかなって。今も、それでメールのやり取りを読み返してたんですけど」

「へえ」森塚は声を上げた。「それはまた、驚いたというか何というか。心境の変化でもあったのかな」

 石山茜音は、亡くなるまでの僅かな期間ではあったけれどエトランゼに入り浸っていたので、常連客は大体、彼女のことを知っている。森塚も、僕ほどではないにせよ、石山とは交流があった。

「ちょっと、説教をされて」

「説教か」彼は苦笑する。「赤木氏や猫田君の説教が、君を動かすとは考えにくいけど」

「よくわかってますね」

「おれだって、彼らに説教はされたくないからな」森塚は冗談めかして言った。「前に言っていた、大学時代の恩師?」

「それもあります」窓から見える歩道は静かで、犬の散歩をするおばちゃんが通りかからないかな、と僕は思う。「もう一人は、森塚さんは知らないと思いますね。最近、ここへ来た人で」

「女の子だ」彼は間髪入れずに断定した。

「何故」危うく、何故わかったのだ、と言いかけた。咳き込みそうになるのを、コップの水を飲んで誤魔化す。

「顔に書いてある」森塚は得意げな顔をした。「深町君は一見クールそうだが、ポーカーフェイスは苦手だ」

「そんなに判りやすいですか」

「いや、最初のはただの鎌掛けというか、冗談みたいなものだったんだけど」彼はそう言って、可笑しそうに笑う。「リアクションが大げさだったから」

 僕はコップを置いて、一息吐いた。

「……森塚さんは人が悪い」

「ごめんよ。まさかこんなに面白い反応をするとは思わなくて」森塚さんはまだ、笑っている。

「何も面白いことはないでしょ」不貞腐れたみたいな口調になってしまうのは、止められなかった。

「まあ、そうだね」と彼は笑いながらも認める。「君に説教をしたのが男だろうが女だろうが、別に面白いことは何もない」

「とにかく」僕は半ば強引に、話を元に戻そうとした。「そういうわけで、石山さんのことを考えてるんですよ」

 石山の名前が出ると、森塚もさすがに笑うのを止めて、真顔になる。

「生きている人間が、死人のためにしてやれることはない」彼は呟いた。「ポリシーを曲げるってわけか」

「元々、ポリシーってほど、立派なものじゃないです」僕は首を振る。「考えることから逃げ回っていただけ、かもしれない」

 森塚がジャケットの内側に右手を入れて、こちらを見た。

「どうぞ」と目配せに応える。「身内が吸ってたので、慣れてます」

「悪いね」彼は煙草を取り出して、火をつけた。「茜音ちゃんに訊かれたことがあるんだ。森塚さんは、どうして絵を描いているんですか、って」

「そうなんですか」初耳だった。

「恥ずかしながら、すぐに答えが出てこなくてさ」森塚は顔を横に向けて、煙を吐く。「その場で考えてみたんだよ。おれはどうして絵を描くのか」

 僕は無言で続きを促す。

「簡単に言えば、こう答えた。おれは絵を描くのが好きで、自分の描いた絵を必要としてくれる人がいるのであれば、それが幸福だと思うからだ」口に咥えた煙草の先端が、森塚の呼吸に合わせて赤く灯った。「言葉にしてみれば、なんてことはない。この上なく陳腐で、シンプルな動機だよ」

「健康的だ」と僕は言った。

「そうだな。自分でも些か、健康的すぎるんじゃないかと思うくらいだ。ところが、それを聞いた茜音ちゃんは、なんとも難しそうな顔をした」森塚は話しながら、視線を右斜め上にやる。「彼女は言うわけだ。『もし仮に、森塚さんの絵が誰にも必要とされないとしたら、それでも絵を描き続けますか』とね。率直、難しい問題だとおれは思った。ただ、誰にも必要とされなかったとしても、自分が好きだから描くだろうし、その場合にもやはり、必要とされるような絵を描くべく努力をするだろうと、結局そんな風に答えた」

「健康的すぎる」と僕は思わず言った。

「茜音ちゃんも、もしかしたらそう思ったのかな。今となってはわからないが、何だか思いつめたような表情になったのをよく覚えてるよ」彼は遠くを見つめるみたいな目になった。「『森塚さんが羨ましい』と言われて、すぐにはその意味がわからなかった。今だって、本当にはわかってないかもしれない」

「誰からも必要とされない人間は生きていけない。生きていてはいけない」

「そう、それだ。茜音ちゃんはそんなことを言っていた」森塚は何度も頷く。「深町君にも言ったのか」

「そうですね、似たようなことを」

「今考えてみれば、あれもシグナルみたいなものだったのかも……なんて、考えるのは自由だけどさ」彼はどこか投げやりに言った。「どうすれば良かったんだろうな」

「わかりません。それに、どうすれば良かったかを考えるつもりは、今はあまりなくて」僕はもう一度、窓の外を見た。相変わらず、誰も居ない。「石山さんは、自分が誰にも必要とされていないと思ったから、死んだんでしょうか」

 人間は、太古の昔から、互いに助け合いながら生きていくように出来ている。集団の持続、発展に寄与できない個体が淘汰されるのは、仕組みとして自然なことだ。石山はそんな風にも言っていた。

 あるいは猫田であれば、この発言を受けて、問題をさらに一歩、先へ進めるだろう。即ち、現代社会を動かしている経済の仕組みも結局のところ、この原理に基づいている。今の世の中でヒトが生きるためには一般に、働いて産み出したモノの対価――カネが必要だ。

 だったらカネは、その人間が社会においていかに必要とされているか、求められているかを示すバロメータとなり得る。それはとりもなおさず、人間の価値と呼ぶべきものではないのか。

 僕らは常日頃、そういう世界で生きているのだ。望むと望まざるとに関わらず。

 己の価値を、測られている。

「そもそも、自殺の理由を一つに限定しようというのが、ちょっと乱暴な話かもしれないとは思うんだが」森塚はしばらく考え込むような素振りを見せていたが、やがて口を開いた。「そういう、いじけた気持ちみたいなのがあったのは、確かかもしれないね。特定の誰かに対する不満とかではなくて、遍く世の中に対して」

 人間の生における本源的な蓄積。棚井教授の言葉を思い出す。

「スーサイド・アタック」と僕は呟いた。

「アタック?」

「今の話で言うなら、石山さんの死をそうやって解釈することもできるのかなと思って」首を傾げる森塚に、僕は言う。「世の中に対する一種の異議申し立て。テロ行為として」

「テロ行為ね」

「あまりに脆弱ですけどね」歩道にはやはり、ウォーク・ザ・ドッグのおばさんは居なかった。「誰かに必要とされなければ生きていけない社会に対する異議申し立て、なんて。しかもその表出が、ただの自殺だなんて」

 無力すぎる。

 あらゆる意味で、何にもなっていない。

「そもそもあの茜音ちゃんは、そうやって徹頭徹尾、頭で考えて行動するというタイプにも思えないんだけどな」森塚は二本目の煙草を取り出した。「だったらまだ、自分の人生を悲観して……とか言われたほうが、納得できる気がするけど」

「同感ですね」と僕も頷いた。「ただ、現実に石山さんがどう考えていたかっていうのは、一つの要素でしかないとも思う」

「どういうこと?」

「これは、僕に説教をした女の子の受け売りですけど」鷺沼の声を思い出しながら、言う。「自殺というのは、残された人間にとって呪いとして働く。死んだ本人の意思とは関係なく」

「確かに、そういう面はあるかもね」

「呪いから逃れるために、死を自分の中に位置づける必要があると、彼女は言いました」僕はずっと、窓の外を見つめている。「だからこれは、僕の問題なんだと思います。勿論、死んだ石山さんと全くの無関係ではないですけど、本質的には僕の持ち物であって、石山さんの物ではない」

「死は、他人の持ち物じゃない……」

「そう、それと同じ理屈で」僕が言うと、森塚が「呪いは受ける側の物、か」と続けた。

「そういう意味で言えば」森塚は煙を吐く。「今、深町君は茜音ちゃんを必要としているかもしれない。自分にかけられた呪いを解くために」

 冗談だと思ったので、笑い飛ばそうとしたのだけど、上手くいかなかった。

「まさか」僕はかろうじて息を吐く。

「現実に茜音ちゃんが、そういう理由で死んだとは思わないよ。勿論」だけど、と彼は続けた。「だけど、こんな話がある。自分の好意や善意で振り向かない相手の気を引くにはどうすれば良いか。答えは、悪意をぶつけることだ」

「そりゃ、そうかもしれませんけど」

「いわゆるストーカーが相手を殺してしまうのも、きっとその延長なんじゃないかと、おれは思うんだよね。他人の人生に自分が介入するための最も直截的な手段だろ、そいつを殺してしまうのって」森塚は煙草を口元へ運ぶ。「……ま、こういう考え方もできるって程度のものだよ」

「嫌なこと言いますね、森塚さん」それだけ言うのが精一杯だった。

「悪い。思いついちゃったんで、ついね」目の前の男に、悪びれた様子はなかった。「でも深町君。もし、実際に茜音ちゃんが君に思い悩んでほしいとか、傷ついてほしいという理由で死んでいったのだとしたら、どうするつもりでいる?」

「わかりません」僕はすぐに答える。「わからないけど、正面から彼女の要求に応じる必要は、ないのかもしれないと今は思う」

「ほう。それは、どういう意味?」

「……自殺の動機と自殺の原因は同じではない、ってことですかね」少し考えてから、そう続けた。「彼女が何のために死んだのかということと、彼女がどうして死ななくてはいけなかったのかということ。僕は、どちらを受け止めるべきなのか。そういう問題です」

「難しいことを考えてるんだね」森塚は、二本目の煙草を灰皿に押し付けた。

「そうでもないですよ」僕はまた、窓の外を見る。「あ」

「どうした?」

 おばちゃんが通った。

 白いむくむくの犬も一緒だった。

 

  10

 

 鷺沼さんって普段、化粧をしてなかったんだね。

 などと、思ったことをそのまま口に出さない程度の分別は僕にもある。今は仕事をしていないとはいえ、もう良い歳なのだ。

「……深町さん、何考えてるんですか」そんなことを考えていると、開口一番、鷺沼が訝しげに問うてくる。「何か、面白いことでもありました?」

「いや、特にどうという程のことは考えていない」僕はしどろもどろの返事をした。「おはよ」

「おはようございます」先に来ていた鷺沼は、背筋をぴんと伸ばしたまま、お辞儀をする。

 待ち合わせの十分前だった。水曜日の正午過ぎ、駅前のロータリーはやや閑散としている。天候は相変わらずの晴れ。九月も半ばに差し掛かろうという頃だったが、太陽は依然として、白く熱く、燃えていた。

 そんな気候に合わせてか、目の前の彼女は薄い青色のサマードレスに身を包んでいる。首筋には汗の痕が光っていた。

「早かったですね、深町さん」と鷺沼。

「君のほうが早かったみたいだけど……」苦笑混じりに僕は応える。「もしかして、結構待った?」

「そうでもないですよ」鷺沼は軽い調子で言った。

 嘘があまり上手じゃないね。

 などと、思ったことをそのまま口に出さない程度の分別は僕にもある。

「何食べたい?」代わりにそう訊いた。「上映までは、まだ時間がある」

 鷺沼と映画を見に行くことになったのは三日ほど前で、どちらから言い出したというわけでもない、自然な流れだった。

「さっき、美味しそうなお蕎麦屋さんを見つけたんですけど。あっちの方で……」と鷺沼は右手で指差す。「アレルギーとかじゃなかったら」

「大丈夫だよ。あそこのことかな」僕が店の名前を口にすると、彼女は「そうそう」と頷いた。

 目当ての蕎麦屋は、駅から徒歩二分程度の近くにある。僕らは道すがら、これから見る映画の監督について、軽く話をした。と言っても、僕のほうには大学時代に聞きかじった程度のほとんど表面的な知識しかなくて、鷺沼の博識を拝聴するような形となったのだけど。

「ところで、全然関係ないんだけどさ」蕎麦屋に入り、注文したメニューが配膳された後で、思い立って訊いてみた。「森塚英嗣って知ってる?」

「知ってますよ」鷺沼は平然と頷く。「画家ですよね? 個展を見に行ったりしたことはありませんけど」

「知ってるんだ」尋ねておいて、驚いてしまった。「あの人、エトランゼにたまに来るんだよ」

「そうなんですか」彼女は口元に手をやった。驚きを表現するジェスチャーだろうか。「学生時代の友達が、好きだと言ってました。確か当時は、まだデビューしたばかりだったと思いますね」

「デビューね」鷺沼の年齢をこっそり計算しながら、僕は繰り返した。「画家の世界にも、デビューという概念があるんだな」

「勿論ありますよ……って言うほど、私もその辺りの事情に明るいわけではないんですけど」鷺沼は、口のところにあった手をいつの間にか顎の辺りに移動させている。「でも、その森塚さんがどうかしたんですか?」

「こないだエトランゼで会ったときに、鷺沼さんの話を少ししたんだ」

「えっ」顎に指先を当てたまま、鷺沼の動きが止まった。

「石山さんのことで、説教をされたって言ったら、ちょっと彼女の話になってね」

「わ、私はそんな。説教なんて」

 慌てて訂正しようとする鷺沼を半ば無視するような形で、僕は続ける。

「善意で振り向いてくれない相手に興味を持ってもらうためには、悪意をもって接するしかない。彼はそんな風に言っていた」

「……悪意、ですか?」

「ただの比喩みたいなもので、実際にそうだと言いたいわけじゃない、と思うんだけど。つまり、石山の自殺は、残された者に対する悪意だったと解釈することもできる」

 僕に対する悪意、とは言わなかった。

「そんなことって」鷺沼は少し深刻そうな表情になった。「そんなことって、あるんでしょうか……振り向いてもらうために、自殺をした?」

「さあ」と僕は首を振る。「言った本人も、本気でそんな風に考えてはいないと思うよ。ただ、僕には思いつきそうもない話だから面白かったし、それに」

「それに?」鷺沼は不安げに首を傾げる。

「死んだ人間の意思を汲むってのは、こういうことなんだなと、改めて思ってさ。回答には正解もなければ制約もない。どこまで行ったって、言ってしまえば自己満足の世界だし、死者に対して冒涜的ですらある」

「良いんだと、思います」小さな声で、しかしはっきりと彼女は言った。「少なくとも深町さんが、苦しむ謂れはないはずだもの」

 本当にそうだろうか?

 反射的に喉まで出かかったその問いを、僕は飲み込む。

「ここから先は、少し抽象的な話になってしまうけれど」代わりにそう前置きをした上で、言葉を継いだ。「振り向いてもらうための悪意ってのは、何も特定の個人とかを想定したものに限らないのかな、なんてことを考えたんだ」

「特定個人じゃないってことは、不特定多数の誰か、ですか?」

「と言うよりは」続く内容に上手い表現が見つからなくて、結局、初めに思いついたままに言う。「世界の全部に対して」

 鷺沼は、しばらく考え込むような素振りを見せた後で「どういうことでしょう?」と尋ねてきた。

「ポジティブに世界と関われない人間が、どう生きるのかって話かな。……いや、死んでるんだけどさ」森塚の〝健全さ〟を思い返して、僕はそう答える。「上手いこと、自分の望むことと、周りの求めるものが噛み合わない」

「そういう感じは、わかるような気がします」と鷺沼は頷いた。

「森塚さんと話したときには、社会に対するテロ行為、異議申し立てのような側面もあるんじゃないかって言ったんだけど、やっぱりもっとミクロというか、パーソナルな解釈のほうが適当かもしれない」僕は考えている。石山茜音の死について。彼女の言葉の一つ一つに、託されていたかもしれない意味内容について。「彼女は言ってたんだ。『誰からも必要とされない人間には、生きている資格がない』って。何かの拍子で、『誰かから必要とされたい』という気持ちが、『必要とされないなら死ぬしかない』って方向に変わってしまったんだとしても、さほど不思議ではない。それならあの自殺は、スーサイド・アタック……世界に対する攻撃じゃなくって、むしろ世界による絶え間ない攻撃から自分を守るための、防御だったんじゃないか」

 石山茜音の持っていたある種の苛烈さに、思いを馳せる。石山はごく当然のように他人の振る舞いを責め、同じように自分のことも責めていた。

 一面では、あの性質が彼女を追い詰めたのだと僕は思っていた。けれど、実際はその逆だったということも、あり得るのではないか。つまり、石山茜音を責め、苦しめ、追い立てた世界の苛烈さが、そのまま彼女の考え方や態度に表出したのではないか。

 とはいえ、これはコインの裏表、鶏が先か卵が先かという類の問題だろう。

 たとえば森塚英嗣にとって、世界はシンプルな構造をしているのであり、なんら過酷な場所なんかじゃない。

 このことは、自分の欲求と周囲の求めるもの、望むことがたまたま合致したお陰に過ぎないという見方もできるだろうが、現実にはきっとそうではない。少なくとも、それだけではないはずだ。

「社会と世界って」と、鷺沼は思いついたように口にした。「一緒じゃないですよね」

「言われてみれば、そうかもしれない」口に出す際には無意識だけど、使い分けをしていた気もする。

「世界、の方が広い意味合いでしょうか」

「広いというか、低いレイヤーの話になるかもね。社会はあくまで人間が作った仕組みだけど、世界はそれを規定する位置にあって、必ずしも人間の手が届くところにはない」僕は言葉を選ぶのと同時に、自分の考えを整理していく。「石山さんが嫌だったのは、社会と世界のどっちだったんだろう」

「さっきの話で言えば、どこまでが社会で、どこからが世界なんでしょうね」鷺沼は考え込むような顔になった。

「誰からも必要とされない人間は生きている資格がない、というのは……まあ、これ自体は石山さんの主観だけれど。社会の話か世界の話かで言えば」そこまで言って、僕は立ち止まる。「考えてみると、案外難しいね」

「社会の仕組みが変われば、変わる部分なのかどうか」鷺沼がぽつりと呟く。

「……わからないというのが、正確な気がするけど」僕は肩を竦めた。「ただ、人間が互いに補い合い、助け合いながら生きる動物だという前提に立つのであれば、『必要とされない個体には生きている資格がない』という命題は常に真と言えるかも。つまり、世界側の話だ」

「だったら、社会に対するテロ行為っていうのは、どういう文脈において成り立つ解釈ですか?」

「ああ、そうか」鷺沼の問いで、森塚との会話を思い返し、手を打った。「思い出した。人間の、その助け合う性質が、現代社会においてどう現れているのかってことを、考えたんだった」

 彼女は無言で頷いている。

「石山さん言うところの『生きている資格』って、今僕らが生きている社会においては明らかに、カネのことだろ」猫田や棚井教授だったらもっと上手く図式化して、説明できるだろうか。喋りながら、そんなことを考える。「人は働いて何かを生み出し、その対価として金銭を得ている。手に入れたお金で、他の人が作った物を買わないと、僕らは生きていけない。だから生きるためには、自分以外の誰かが欲しいと思うもの、必要とするものを生み出さなくてはならない」

 鷺沼は口を挟まない。

「そういう風に考えるのであれば、カネっていうのは人間の価値を測る物差し足り得る。直截的に、いかに他人から必要とされたか――必要とされるようなものを生み出すことができたかがわかるバロメータだ」

「なんだか、あれを思い出しますね」と鷺沼。「マックス・ヴェーバーの」

「言われてみれば、そうかもしれない。プロ倫のことだよね?」

「そうそう、それです。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」鷺沼は「名前が思い出せなくて」と何度も頷いた。「ヴェーバーのは、キリスト教からのアプローチでしたけど。石山さんのそれは、なんというか、もっと私たちにとって身近な問題意識って感じがしますね」

「とにかく、そういう現代的な現れ方という側面に着目したのであれば、彼女の自殺は社会に対する異議申し立てだと解釈することもできるんじゃないかって、思ったんだよ」

「なるほどです」彼女は不思議な敬語で納得を示した。「けど、そうですね。結局、石山さんが厭ったのが世界と社会のどちらなのかは、想像するしかないってことでしょうか」

「そう言ってしまえばその通りだよね」僕は苦笑いを返すしかない。「ただ、もう少し踏み込んで考えてみるとさ。どうして、他人から必要とされない人間が生きていけないことを、石山さんは辛く感じたのかな」言ってから、「まあ、その前提が既に想像でしかないんだけど」と付け加える。

「自分が、誰にも必要とされない人間だと感じているから?」

「それは動機……というか、理由だ。僕が今ここで問題にしているのは、原因の方で」自分で言っていて頭がこんがらがってくる。「えーっと」あれだよあれ。「理由っていうのは本人の主観だけど、原因はそれとは独立して在るもんでしょ。もっと言うと、石山さんが〝自分は誰からも必要とされない人間だ〟と思ってしまうようになったのは何故なのか。どこに原因があったのか、ってこと」

「えっと。つまり」鷺沼は一度、目を瞑った。「そこに、世界と社会の差っていうか……」

「そういうこと」僕は言って、考えを纏めながら、また喋り始める。「そもそも、誰からも必要とされないなんて、ある種の極論だよね。原点に立ち返ると、生きていく上での『他者に必要とされる必要』というのは、労働とか、それによって生産されるモノの必要性であって、ほとんどの場合は代替可能だ。職場の誰かが会社を辞めたら、そこには新たな人員が割り当てられる。こっちの筋で考えるなら、明らかに、石山さんは誰からも必要とされない人間なんかでは、あり得ない」

「そうですね」と鷺沼も頷いた。

「ここまでが、正攻法……というか、建前や正論ってところかな。実際に彼女が直面していた現実は、もう少しシビアな顔をしていたんだろうと思う」ポイント切り替え、路線変更。そんなイメージで僕は言う。「さっき言った代替可能性って、就職活動で一つも内定が貰えなくたって、アルバイトで生きていける。極端に言えば、そういうレベルの話なんだよ。そりゃ、誰からも必要とされない人間なんてあり得ない。けど実際には、やっとの思いで見つけた働き口が、凄惨な働き方を要求される、ブラックな企業だったりする。取替えが利くような立場なんだから、どんな扱いだって甘んじて受け入れろという理屈が、そこにはある」

「なるほど」鷺沼はそこで相槌を打った。「必要とされないというのが極論なら、そんなことはないというのも、また極論ということですか」

「こっちは極論というより、詭弁って感じかもね」僕は彼女の言を受ける。「けれど、現に世の中を動かしているのはこういう論理だし、仕組みなんじゃないかな。仮に石山さんが生きていて、誰かに自分の悩みを相談したとして、返ってくる答えが『甘えるな』でしかない可能性も、僕は低くないように思う」

 何か思うところでもあるのか、鷺沼は俯き加減になって、黙り込んだ。

「こうして考えると、社会の問題なんじゃないかって気もしてくるんだけど」彼女の様子を見ながら、話を続ける。「問題は、そもそもこれが人間の、というか、生き物の在り方なんだという議論を否定できないってことだね」

「どういうこと、ですか?」

「弱肉強食なんだよ」僕は半分茶化したような言い方をした。「自力で満足できる立場を掴み取れないやつは、どんな目に遭ったって文句は言えない。この世に生命が誕生してから今に至るまで、世界はずうっとそういう原理で回ってきたんだ。つい最近になって、人権だとかっていうキャンペーンが流行っているけれど、そんなものを中途半端に認めようとするから、歪みが生じる」捲し立てるみたいに言い切ってから、コップの水を飲む。このとき漸く、そういえば蕎麦を食べていない、と気が付いた。「……とか、そういう話だね。こうやって考えると、彼女が自殺したのは、弱いやつが勝手に淘汰されただけってことになる。自分で喋っていて気付いたけど、つまり、石山さんを死に追いやったのが社会なのか世界なのかっていうのは、僕らの価値判断ひとつで決まる問題だ。これも当たり前といえば、当たり前の結論だけど」

「価値判断。何が良いのか、悪いのか。そういう話ですね」鷺沼はそう言って、ふと何かに気が付いたみたいに腕の時計を見ると、「……あの、深町さん」と遠慮がちに言った。

「うん、僕もさっき気が付いた」

 頷いて時計を見ると、上映開始時刻を二分ほど、過ぎていた。

「まあ、チケット買ってあったわけでもないし」僕は蕎麦に手をつける。

「そうですね、時間はありますし」鷺沼もちょっと気まずそうに笑ってから、蕎麦を食べ始めた。

 僕らは結局そのあとも暫く蕎麦屋で話し込んでから、当初の予定よりも三時間ほど遅れて、映画を見終わった。映画館を出ると、まだ空は明るかったけれど、照りつけるような晩夏の日差しは消えている。

 駅への道を歩きながら、映画の感想を簡単に交換した。僕と鷺沼の意見は大まかな方向において一致しており、もっとも重要な点は「犬が可愛い」ということだった。鷺沼はそれに加えて「犬を可愛がる青年も可愛い」との所感を述べたが、この点では合意に至らなかった。

「ところで、話はだいぶ戻るんですけど」と、彼女は犬と青年について語った後で、そう続けた。「深町さんは結局、どっちだと思ったんでしょう」

「どっち?」急に訊かれて、僕は間抜けな返事をしてしまう。「何が?」

「世界か社会か、です」

「ああ」その一言で、彼女の質問の意図がわかった。「普段ならそういう質問には、『わからない』と答えるのが僕のやり方なんだけど」

 石山茜音を殺した(ここでは敢えてそういう表現をする)のは、社会なのか、世界なのか。自分でも言葉にした通り、結局この問いに対する答えは価値の判断に収束する。

 社会のせいなのか、世界のせいなのか。

 社会の仕組みは人間が作るものだが、世界の仕組みに人間は触れることができない。

 だから、問題はこうも言い換えられる。

 彼女の死は、仕方ないことだったのだろうか?

「多分、この問題に対する答えを出すことが、僕にとって一つの区切りというか、君の言うところの、死を位置づけることに繋がるんじゃないかと思う」

「うん、そう思います」鷺沼はすぐに肯定した。「映画を見ながら、ちょっと考えてて。石山さんの死とどう向き合うかというのは、もちろん深町さん自身が決めることです。ただ、もし自殺した人を弔おうという気持ちが少しでもあるのなら、それは同じことを繰り返さないという方へ向かうしかないのかなって。だから、訊いてみたんですけど」

「君は頭が良い」僕は嘆息する。「ただ、せっかく質問してくれたのに申し訳ないけど、今の僕には、まだ答えられそうにない」

「いえ、そんな」彼女は首を振った。「そうですよね。すぐには答えられませんよね」

「多分、現実的に考えるなら」と僕は呟いた。「石山さんが生き続けるには、彼女自身が変わる必要があった」

「そうかもしれません」

「でも、なんていうかな」考えながら、頭を掻く。「もし今の僕が過去に戻って、石山さんと出会うところからやり直せるんだとしても、自殺を止められる自信はない。相手を変えることができないんだったら、『生きるためには変わらなくてはいけない』ってのは、『死にたければ勝手に死ね』と言って突き放すのと何も変わらない」

 鷺沼の横顔は何も言わない。

 少しだけ涼しい風が吹いて、彼女の黒髪が靡いた。さらさらと、細い髪の毛が揺れている。

 続く言葉は、半ば自分へ言い聞かせるようなつもりで、口にした。

「それで良いのかってことを、僕は考えなくちゃいけない」

 返事はすぐにはなかった。

 僕は自分の言ったことを、頭の中でもう一度、繰り返す。石山茜音は死ぬしかなかったのだろうか。死にたきゃ勝手に死ね。それで良いのかってことを、考えなくちゃいけない。

 やがて、鷺沼がこちらを向く。

 気のせいか、彼女は少しだけ笑ったようにも見えた。

「私、深町さんと知り合えてよかったです」

「何をいきなり」突然のことに、動揺を隠せた自信がない。

「いきなりでごめんなさい」鷺沼は、今度ははっきりと笑った。はにかむ、とはこんな表情のことを言うのだろうと、僕は場違いにも思う。「何だかふと、そういう気持ちになったので」

「僕も、鷺沼さんと知り合えてよかったよ」何か答えなくちゃいけないような気がして、僕はそう言った。「お陰で、可愛い犬も見られた」

「一人だったら、見に来ませんでしたか?」

「多分ね」

「なら、よかったです」

 彼女は楽しそうに笑う。

 よかった、と僕も思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る