Side A' <ユニバース>
Side A' <ユニバース>
21
ぼくの物語は、これで終わりだ。
喫茶エトランゼの一席で、音楽プレイヤーのイヤフォンを耳に挿し、二つの同じ曲を延々リピートしながら、僕は物語を終えようとしている。
安物のラップトップに向き合って打鍵を続けるこの姿を、見ている者は一人も居ない。周囲の空間から隔絶された状態で、僕の文章はいよいよ最終盤に差し掛かる。
僕は、心療内科の主治医に向かって、ここ数ヶ月で自分の経験したことを洗いざらい話した。友人である石山茜音の死、耳鳴りと頭痛、天命と主題、ワールドマイゼル……。
主治医は、喋っているこっちが心配になるくらいの真剣さで、僕の言うことに耳を傾けてくれた。耳鳴りと人生の主題について語ったときなどは、大きく身を乗り出して何度も頷き、「わかる気がしますよ」と落ち着いた声で親身な相槌を打ちもした。
そうして小一時間の後、診断書に記載される僕の病名は、統合失調症に書き換えられることになった。「とにかく、よく休むように」と、主治医は繰り返し言った。出される薬も変わった。量も種類もだいぶ増えたようだったが、実際に飲むつもりはなかったため、詳しい説明は聞き流してしまった。
勤めていた会社に出向いて事情を説明すると、担当の上長は顔を青くした。「まずは体調の回復が最優先だから」と、これまた僕の方が心配になるくらいの大げさな気遣いを受けた。
予期した通り、休職期間は大幅に延長された。当分の間は、復職しますと言い出したところで受け付けてもらえそうになかった。
こうして僕は猶予を手に入れた。
石山茜音の死から始まる物語を書くことで、僕が望んだのは救いだった。
――誰にとって、あるいは何にとっての?
まず何よりも、書いている僕自身にとっての。
そして二つ目には、書かれている物語そのものにとっての救いだ。
求めたものが得られたのかどうかは、判らない。それは、ずっと後になってようやく判るのかもしれないし、あるいはもしかしたら、いつまで経っても判る日なんてやってこないのかもしれない。
*
いつだって、ぼくらにやれることは、嫌になるくらいに限られている。これは厳然たる事実だ。
けれど、その事実を事実のままに語ることが、常に『正しい』とは限らない。真の有限性は、それが存在しないかの如く振舞う人間の在り方によってのみ、避けがたく見出される。
ぼくらは実存の檻に閉じ込められている限り、こうした螺旋から抜け出せない。人間存在の根幹に打ち込まれた楔としての制約は、生きていくことの前提だ。有限性こそが我々の本質であり、その性質に抗おうなどというのは、現実の見えていない愚か者が考えることに過ぎない。
……本当に、そうだろうか?
前進の意志は、有限性に支えられている。時の流れに身を任せるのではなく、己の力で活路を拓こうとする人間の在り方は、紛れもなく生の一回性によって裏付けられたものだ。
しかし反面、あるいはそれと全く同じ意味合いにおいて、そこには無限への渇望があり、「イマ、ココ」の呪縛から解き放たれんとする願いのようなものがあるのではないか。
彼女が死んだ世界、彼女を殺したぼくらに立ち向かうということは、どこまでも平らな有限性の地表に這いつくばって進むということを、必ずしも意味しないのではないか。
課せられた運命を粛々と受け入れ、今、自分に出来ることだけを正直にこなして生きるのだ、苦しくとも一歩ずつ前に進むのだという言明は、一見すると美しいようにも思える。それは何もかもが不明瞭なこの世界にあって、唯一拠り所となり得る真理の輝きだ。
だがその真理は、ぼくらが彼女を救うことはできたのかという問いには、決して答えてはくれないだろう。
だから、ぼくは物語を選ぶ。
御伽噺の幻想の中に一片の真実が宿ることを、信じて書く。
そのことを、幼児的な開き直りだと言う人がいるかもしれない。人生の義務を放棄した、退廃の極みと見る人がいるかもしれない。どちらも否定はできないし、するつもりもない。
それでも、ぼくは書き、そして祈る。
物語によって齎される、物語のための救いを。
その欺瞞に満ちた響きを、たとえどんなに空しいものだと思うことがあっても、捨て去ることはしない。
そう決めた。
ぼくにとってはこれが、死なずに生きていくということの、一つの意味だからだ。
*
肩を叩かれるまで、彼女の接近に気が付かなかった。
それだけ没頭していたということか、あるいは疲れているのか……。いずれにせよ、少し休憩を挟んだ方が良いだろうという話になって、僕は二人分のコーヒーと紅茶を用意するために席を立った。
「鷺沼さんも、そろそろ淹れ方覚えなよ」薬缶を火にかけながら、僕は言った。「勿論、教えるからさ。そんなに難しいことじゃないし」
「そ、そうですね」彼女はぎこちなく頷く。「私、実はものすごく不器用なんですけど、大丈夫でしょうか」
「ほとんど関係ないよ、そんなの」と僕は答えた。「まあ、美味しく淹れようと思ったら、困るのかもしれないけど」
戸棚からカントリーマアムの袋を取り出して、皿に開ける。鷺沼は放っておくとココア味ばかり食べるので、わざとバニラの量を多めにしてやった。
「深町さん、疲れてません?」カウンター越しに鷺沼が言う。
「ん」と僕は片目を瞑った。「あまり意識してなかったけど、そうだね。やっぱり多少は疲れてるのかも。慣れないことをやっているから」
「あんまり無理しちゃ駄目ですよ」
「気をつけるよ」ガスコンロの青い灯を見ながら、僕は言った。「ダージリンで良い?」
「あ、はい」彼女は散漫な声で答える。「ありがとうございます」
飲み物の支度を手早く済ませると、カップ二つとカントリーマアムの丸皿を載せたトレイを持って、席に戻った。
鷺沼は、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「お待たせいたしました」久しぶりに、接客モードを起動してみた。「ダージリンと、カントリーマアムでございます」
「カントリーマアムじゃなくて、チョコチップ・クッキーなんでしょう?」と彼女は笑った。
「何か面白いものはあった?」僕は椅子に腰掛けながら、裏路地を見つめる鷺沼に訊く。
「いえ」彼女は首を振った。「深町さん、よくこっちの方を見ているから。何かあるのかなと思ってたんですけど」
鷺沼の真剣な眼差しが何だかおかしくて、僕は笑ってしまう。
「たまに、レアキャラが通ることがあってさ」と説明した。「彼女は僕のラッキーアイテムみたいなものなんだよ。見かけると、少し得をしたような気分になれる」
彼女は「ふうん」という、わかったようなわからないような曖昧な返事をして、それから「いただきます」と紅茶を口に運んだ。僕はその様子を眺めながら、バニラ味のカントリーマアムを一袋取って、開けている。
「美味しい」鷺沼は溜息交じりに言った。「もう、すっかり冬ですね」
僕は彼女の言葉に、つられて窓の外を見る。枯れ落ちた木の葉が、風に吹かれてアスファルトを滑っていた。冬特有の褪せた空気の色が、街全体を覆っている。
「あ」と鷺沼が急に声を上げた。「そうだ、忘れるところだった」
「ん、どうしたの?」
「深町さん、絶対忘れてるだろうと思って」彼女はそう言って、鞄の中からダークグリーンのレジ袋を取り出した。「はい、これ」
手渡されたそれが何なのかは、触ってみればすぐにわかった。「……CD?」つるつるとしたビニールで包装されたケースを摘んで、テーブルの上に置く。
「ああ、そうか」
再生紙製の、シンプルなジャケットだった。濃紺の下地に散りばめられた銀色のアルミ紙が、夜空の星を思わせる。アルバムタイトルの下には、「the DOGS」の名前が記されていた。
「ちょっと変わったコンセプトアルバム、という触れ込みらしいですよ」と鷺沼は言った。「作曲は全部、それぞれ違う人への外注で、誰が作ったのかは内緒なんだって。事情を知っていると、なんだか面白いですよね」
「これ、聴いてみていいかな」
「はい、どうぞ」彼女は声を弾ませる。「そのために、わざわざここへ持ってきたんですからね」
透明なビニールを開封しながら、僕はアルバムをひっくり返して、裏面を見た。
そこには思ったとおり、曲目のリストがある。収録されているのは全部で十一曲だった。それぞれの長さはまちまちで、最も短いものが二分強、長いものが六分半ほど。
並んでいるタイトルには統一性がなかったが、動物をモチーフにしたものが幾つか見受けられる。中でも先頭を飾る「揺蕩うライオン」という謎めいたトラックは、僕の目を惹いた。
僕の音楽、S.V.A.は九曲目に収められていた。トラックの長さは三分十八秒。作詞者の欄には、手代木洋介と富士
ふと、手代木から投げ寄越されたキャッシュカードのことを思い出した。あの日は家に帰ってすぐ眠ってしまったが、果たしてカードはどこに置いたのだったか。あれから特に意識することもなかったため、目にした覚えもない。
大した金額は入ってこないと言われはしたが、帰ったら探してみよう。ノートPCのトレイにディスクを載せながら、そんなことを考えていた。
<Suicidal Virgin's Assault> is the END.
and <the UNIVERSE> is about to START PLAYING...
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