第二章 「残響と音楽」

Side A <S.V.A.>


  5

 

 猫田ねこた健二郎けんじろうはお喋りだ。

「舌の根も乾かぬうちに云々」という慣用句があるが、彼の場合には舌の根の乾く暇がない、というくらいの形容がよく似合う。

 そのことは少なくとも、僕の友人としては美点と言ってよかった。僕は、人間を話し上手と聞き上手に分類するなら間違いなく後者に属するタイプだからだ。この日のように気分が落ち込んでいたなら、尚更。

 地上を焼き尽くさんとばかりに照り付けていた日差しも、心なしか和らいだ晩夏。九月頭の日曜日に、僕らはエトランゼへ向かって歩いていた。

「あのよう深町君」猫田は特徴的な濁声で言う。「募金活動ってのがあるよなあ。街頭で、小綺麗な格好した大学生とかがやってるようなやつが」

「そのイメージには偏見と悪意のようなものを感じる気がするけど」また始まった、と僕は苦笑いを返した。「まあ、そうだね。あるね、募金活動」

「募金に限らないんだけどよ、ああいうのを、やろうって思うきっかけはどんなところにあるんだろうなあ?」

 彼は話すときに僕の顔を見ない。今のように、交差点の信号待ちをしているときであれば、それも特に奇妙な仕草ではないが、しかし猫田はいついかなる場合であっても、話し相手と目を合わせることをしようとしないのだった。

 自然、彼の語りは常に、独り言のような雰囲気を帯びる。

「さあ」僕は気のない返事をする。「そんなの、人それぞれだと思うけれど」

「その、むやみに便利な言葉を使うのを少しは控えろよ、深町君よ」猫田はぶっきらぼうに言った。「そんな言い方が許されちまったら、何もかもがその一言で解決じゃねえのか。人種問題だって、性犯罪者だって、雇用のミスマッチだって、何だって人それぞれだろうが」

「むやみに、って」言いながら僕は信号を見る。赤く揺らめくそいつは、まだ切り替わる気配を見せない。「じゃあ、猫田はどういう話がしたいのさ。実際、行動のモチベーションがどこにあるかなんて、人それぞれとしか言いようがないと思うんだけどね」

「わかんねえ奴だなあ深町君。最初に言ったろ、小綺麗な格好をした大学生なんだよ。対象は限定されているんだ。小綺麗な格好をして大学に通い、そこそこ要領よく単位を取得しながらバイトに精を出し、その一方で異性との交流を謳歌しながら、やがては大企業へと就職していく、お前のような奴らのことだよ」

「そういう奴は、せっかく就職した企業をドロップアウトしてしまったりもするみたいだけど」

 僕が混ぜっ返したところで歩行者用の信号が青になった。ピッポ、ピッポと鳴る間抜けな音に背中を押されるように、歩き出す。

「仕事を続けるかどうかは、今はどうだっていいだろう。そうじゃない。問題は、奴らがどうしてボランティア活動へ参加しようなんてことを思い立つかってことだ」歩きながらも猫田の言葉は止まない。「単位、マネー、セックス。ここまでは、実にわかりやすいだろ。大学生の三大欲求と言っても過言ではないさ。それがどうして、ここへきてボランティアなんだよ。意味がわからねえだろうが。カタカナ繋がりのつもりなのかよ」

「それは猫田が勝手に繋げてるだけだ。しかも単位はカタカナじゃない」僕は一応ツッコミを入れてやる。「範囲を小綺麗な大学生に限定したって、別に話は変わらないんじゃないのか。小綺麗な大学生にも、色々いる。同じ人間なんて居やしないんだ。だったらボランティアの理由だって、人それぞれだろ」

「わかってねえなあ深町君、お前は何もわかっちゃいねえぞ」猫田は突然、小刻みに首を揺らした。若い男がすれ違いざま、怪訝そうにこちらを振り返るのが見える。「分析とはそういうものなんじゃねえのか。個別性があるなんてことはな、偉そうな講釈を垂れてもらうまでもなく、わかっているんだよ。それを敢えて無視して、あるいは矮小化して扱うのが、分析なんじゃねえのか」

「わかったよ、猫田がそう考えているのはわかった」往来のど真ん中で、分析とは何かというテーマについて猫田と語り合うつもりが僕にはなかったので、たしなめるようにそう答えた。「じゃあ、猫田に何か仮説があるの。大学生たちがボランティアに参加する理由」

「ふん」猫田は鼻を鳴らす。「今さっき、個別性を無視するなんて言ったがな、やはり大別すべき性質はある」

「ふうん」と僕は先を促した。「どんな?」

「第一にドラマの見すぎ型だな」猫田は、すぐに断言した。「まあここは、映画なり漫画なりに置き換えても構わん。要するにボランティアに対して、非日常的な体験を求める類型だ。奴らにとって、ボランティアが選ばれたのは、たまたま偶然でしかない。海で溺れる子供を助けるとか、道角でぶつかった相手と運命的な恋に落ちるだとか、そういうアメイジングな経験の代替物として、手近で外聞の良いボランティアが、手に取られている」

「間近で見てきたみたいだ」彼があまりに生き生きと語るものだから、僕は思わず、少し感心してしまった。「第二は?」

「根拠のない自信型だ」猫田はまたも即答する。「自信というか、ヒロイックな妄想の範疇だろうな。自分は何事かを成し遂げることができる人間であるはずだという、若者にありがちな妄想だよ。深町君にも当然、覚えがあるだろうが。それがボランティアへの参加という形を取って現れている、というパターンだな。困っている人の助けになりたいんです、とか寝ぼけたことを言っている連中は大抵コレだ。その実態はと言えば、困っている人の助けになっていると思い込んで、そんな自分に酔っている」

「ばっさりだな」僕は少し声を弾ませてしまう。「第三もあるんだろ」

「三つ目はスピリチュアル型」猫田はぶれない。「人がたくさん死ぬような事件があったりしたときに、自分は何の関係もない癖に、勝手に気分を悪くしてぶっ倒れてるような奴がこれだな。どうでもいいがよ、最近スピリチュアルって言葉も使わないよな。まあこいつらも広い意味では自己陶酔型に分類できるが、現れ方が違う。もう少し余裕のなさそうな顔をしてる奴が多いな。そういう必死な自分、切実さを湛えた自分が好きなわけだ。人の痛みを我が事のように感じてる、とか真顔でほざくような輩が居たらこのリストに放り込んで良い。あとはボランティアよりもガチな政治運動なんかをやってる連中は、このタイプに属するのが多いんじゃねえのか」

「スピリチュアル、って久々に聞いたな」と僕も頷く。「その使い方、正しいのかどうかわからないけど」

「第四の類型は少しばかり、ややこしいかもしれんな」猫田は応じずに、続けた。「自縄自縛型、とでも言うべきか。第一に、奴らが最も重視するのは自分自身、その点に関しては、勿論これまでに挙げた三つの類型と、何ら変わるところはない。少しばかり異なるのは、こいつらには明確な、ある種の客観的な、指標があることだ」

 彼はそこで一旦、言葉を切った。猫田が喋っている途中で僕に意見を求めたりすることは無いので、それは単に息継ぎのためだっただろう。

 喋っている間にも僕らは歩き続け、路地へ入って、そろそろ目的の喫茶エトランゼに辿り着こうかという頃だった。

「それは、自身の正しさだ。ここで言う正しさってえのは、そうだな。筋の通っている度合い、と読み換えた方がわかりやすいかね」案の定、猫田は再び口を開く。「たとえば、偽善って言葉があるだろう。無意味な言葉だが」

「猫田の口からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかった」僕は思わず言ってしまう。「てっきり、小綺麗な格好をした大学生たちの偽善を、糾弾したいのかと」

「そんなことをして、何になるんだよ。しかも偽善だなんだと言い出せば、今度は、そもそも善とは何かという話にもなってくるぞ。そういう議論に好き好んで首を突っ込むのは、阿呆のやることだな。これはただの趣味、あるいは興味関心、だよ」猫田は調子を崩さずに、訳のわからないことを言う。「話が逸れちまったよ。偽善の話だ。一般にお洒落をした大学生なんてのは、一見したところ脳味噌空っぽのようでいて、物事を考える力はあるし、そのことをある程度、自負しているからな。偽善なんて言葉に突き当たったら、なんでもないような顔をしながら、何かしらの態度を取らずにはいられないものだ。それが、ボランティアという概念と組み合わさったりした日には、尚更だろうが」

「なるほど」僕はとりあえず頷いて見せた。「で、それがどう、自縄自縛に繋がるわけ?」

「今までの話を、ボランティアをしている大学生連中に聞かせれば、それで自縄自縛型の出来上がりだ」猫田は手の甲で額の汗を拭いながら、やはりこちらを見ない。「お前らボランティアとか言って、誰かの役に立ってるつもりかもしれねえけど、それ結局自分のためにやってるんでしょ?とな。返ってくる答えは深町君だって予想できるだろう、『自分のためで、何が悪い』だよ。当たり前だ。しない善よりする偽善、そうやって能書き垂れてるお前は、じゃあ一体、何か困ってる人たちの役に立っているのかよと、こうくるに決まっている。コーラを飲んだらゲップが出るくらい確実にだ。そしてそうやって自分で答えた内容が、ボランティアへ向かうモチベーションを強化するわけだな。自分はああやって口先ばかりで何もしないような屑野郎とは違うぞ、たとえ動機の源泉が自身へ向かうものでしかなかったとしても、実際に誰かの役に立っているのだからマシだぞ、ってな具合に」

「そうは言っても、かなり筋が通ってる気がするけど。それ」と僕は素直に言った。

「そうだよ、筋が通っている。そのことが大事なんだろうが。お前はここまで何を聞いていたんだよ深町君」猫田がすぐに答える。「筋を通さずにいられないから、自縄自縛なんだろうが。面白えよな、ボランティアをしようと思い立つ一番初めの瞬間、そいつらが何を考えていたかって、想像できるかよ。誰か一人でも、良いことして人を助けたつもりになって気持ちよくなってる自分になりたいから慈善活動に精を出そう、なんてことを意識的に考えた上で、ボランティアやることを決めた奴が居ると思うか? いや、そりゃあ居るかもしれねえよ、居てもおかしくねえし、深町君はそう言いそうだ。しかし、どうでも良いぜそんなことは。大事なのは、そうやって始めたボランティア活動に対するモチベーションが、どのようにして保たれているのか、ってことだよ」

 僕は口を挟まなかった。エトランゼまでは、あと少し。キンと、強めの耳鳴りが聞こえる。最近多いなと思いながら、僕は軽く頭を振った。

「正しさだ。自身の行いの、その理由、それを支える理論の正しさが、モチベーションを支える。たとえば、発展途上国に対するボランティア活動で、その対象は、あくまでも貧困に喘ぐ人々だったりするわけだろうが。しかしよ、貧困がいけねえなら、そんなもんはわざわざ発展途上国に行くまでもなく、この日本にだって溢れかえってるぜ。だのにわざわざ南アフリカが選択されるのは何故だ。いかにも貧困って感じがするから? それとも、就職活動で役に立ちそうだからか? いずれにせよ、そこに客体はない。どこまで行っても自分、自分、自分だよ。そのことは初め意識されないくせに、いざ目の前に突きつけられてみると、あっという間に、開き直りの対象になっちまう。何故なら、それが正しいからだ」

「正しい、ね」僕は噛みしめるようにその言葉を繰り返す。再び、キィンと甲高い音が頭の中に響いて、顔をしかめた。「着いたよ」

 言って、立ち止まる。喫茶エトランゼの古びた佇まいは、石山が亡くなった後も、何ら変わることはなくそこに在った。

「着いたな深町君。しかし今は正しさの話をしているところだからな、店へ入るのはそれが済んでからでも良いだろう」と猫田は無茶を言う。「第四の類型は自縄自縛型であり、それはある種、外圧に対する、反発のような形をとって現れるものだ。攻め込まれた際に、奴らが武器として持ち出すのが正しさというわけだな。しかしだ、ここでは、正しさはツールでしかない。奴らにとって正しさは指標だが、それはあくまでも自身の強度を示すための指標でしかないことに注目する必要がある」

「ねえよ」と僕は呟いた。一体どこに、目的地の喫茶店へたどり着いたのに中へ入らず、未だ残暑厳しい屋外で訳のわからん話を続ける必要があるというのか。

「うるさい黙れ。ここで満を持して登場するのが五番目の類型、概念の檻型だ」明後日の方向を見つめたままで猫田は言う。「響きも自縄自縛型と似ているが、実際こいつらの性質は、第四の類型を突き詰めたようなもんだ。とはいえ、第一、第二、第三の類型から第四類型への進化を遂げた奴が、そこからこの第五類型へと至るケースは少ないと言って良いだろうな」

 抗議の声が一蹴されてしまったので、僕は仕方なく黙り込む。ひとたびスイッチが入れば、話し終えるまでは放っておく他ないのが猫田という男である。

 頭に響く耳鳴りの音は、徐々に強さを増していた。

「第四の類型と異なるのは、その正しさという指標が単なる道具に留まらず、もっと根本的に、人間性のレベルを示すようなもの、自らが積極的にそこへ準じていくべきものとして、捉えられていることだ。奴らは何事も、実践ではなく思惟から入る。それこそ、初めのとっかかりは禅問答じみた、善とは何か、のような問いかもしれん。そうした抽象的な思索から始まって、行き着く先がボランティア活動だった……おおまかに言ってしまえば、そんな類型がこの五番目になるな」猫田の声は止まない。妙にリズミカルに流れ出る言葉は、歌曲のように聞こえないこともなかった。「行動に勝る正しさはない。それが奴らを支える主要な理論だ。どんなに頭をひねって、百の理屈をこねたとしても、それは一の行動以上に何かをもたらすことはない。今『支える』と言ったが、正確な表現じゃあねえな。何しろ第五類型は概念の檻に閉じこめられたタイプだ。思索の道筋が正しいこと、それが人間としての格を決定づける。思索の結果として正しき行いが導かれたなら、従わずにはいられない」ゆらゆらと、猫田は揺れる。身体を揺らしながら、ビートを刻むように、言葉を紡ぐ。「奇しくも、深町君が先ほど指摘したことだが、実際に動いている人間というのは筋が通っている。そこに対して何を言ったところで、所詮は外野の喚き声でしかない。『お前は口先だけで何もしてやいない』の一言で、自分の正しさは守られるわけだ。それはさながら概念の要塞さ。そしてその鉄壁は、動き続けている限り破壊されない。どころか、動き続けることによって、ますますその強度を上げていくのが通例だろうぜ」

 ゆらゆらと、猫田が鳴らした音を、僕は途中から、ほとんど言葉として認識できていなかった。キュイン、キュイィイン。小鳥のさえずりみたいに、甲高く耳鳴りが歌う。猫田の声は、さながらそれに乗るボーカルだ。

「悪い」僕は右手でこめかみを押さえた。「ちょっと、気分がよくないみたいだ」

「あ?」猫田のしかめ面が、歪んで見える。「なんだよ深町君、この程度で根を上げるとはだらしねえぞ」

 はじめ断続的だった耳鳴りは、今や絶え間なく響き続けていた。入れ替わるようにして、絶え間なく喋り続けていた猫田の声が止む。

 そこで僕はようやく、それがただの耳鳴りではないことに気が付いた。

 頭蓋を刺し貫くように甲高いその音は、通して聞けば、どこか懐かしいメロディを形作っている。

 

  6

 

 女は鷺沼さぎぬまこずえと名乗った。

 メロディのような耳鳴りは、止みこそしないものの、ボリュームを落としている。

 僕は何度か頭を振って、側頭部に走った痛みに思わず顔をしかめた。転んだ拍子に頭をぶつけたのだということを、それで思い出す。

「大丈夫ですか?」鷺沼は気遣わしげに言った。「まだ、寝てたほうが」

「うん……ありがとう」言われるがまま、再びソファに横たわる。「えっと、僕は」

「深町悟」彼女は僕の言葉を遮るように言い放った。「猫田さんに聞いたから、知ってます」

「あぁ」と僕は間抜けみたいな声を出す。「そうか、猫田もいるんだ」

 ようやく、意識が少しはっきりしてきた。

 ここは喫茶エトランゼ。僕は猫田と一緒にこの場所へ歩いてきて、店の前で彼のどうでもいい話に付き合わされている最中に、謎の耳鳴りに襲われた。

 とは言え、その表現はあまり正確ではない。耳鳴りの兆候は、以前からあったのだ。エトランゼへ向かっているときから。あるいは、それよりもっと前から。

「猫田はどこに?」寝転がったままの姿勢で、僕は薄暗い店内を見回した。「誰も、いないみたいだけど」

「猫田さんは、よくわからないけど、お店の外に出て行っちゃいました」鷺沼の声音も、どこか頼りなげに揺れている。「店長さんも、私しかいないのに買い物へ行っちゃうし」

「鷺沼さん、ここは初めて?」

「あ、うん」と彼女は頷く。肩にかかるくらいの黒髪が、さらりと鳴る。彼女が結構整った顔をしていることに、僕はこのとき気付いた。「深町さんは、よく来るんですか」

「まあ、それなりに」返事は適当に誤魔化した。「ここの店長、変な人だから。客に店番を任せて出てっちゃうことは、割とよくあるんだ」

「はあ、それは……変ですね」鷺沼は少し笑ったみたいだった。「正直、深町さんが来てくれて、助かりました」

「僕が店の前で倒れて、頭をぶつけて気絶してくれたお陰で、助かった?」

 おどけて言うと、鷺沼は慌てたみたいになる。

「あ、いえ。そういう意味じゃ」小刻みに首を振る様がおかしかった。「一人になって、どうしていいか、わからなかったから」

「わかってるよ」思わず吹き出してしまった。「ただの冗談」

 僕が言うと、鷺沼は片目を細めて眉を下げる、変な表情になった。

「何、その顔」

「えっ」彼女は右手で頬を触っている。「あ、安心した顔?」

「何それ」と僕は笑った。

 全体的に気弱な感じだけれど、おかしな子だなと思う。

 僕はそれが嫌いではなかったから、もう少し話していたい気分になる。耳鳴りは、あまり気にならなくなっていた。

「鷺沼さん、誰かと待ち合わせ?」上半身を軽く起こして、僕は訊いてみた。

「い、いや。そういうわけではないです」鷺沼は、右手を顔と一緒に振って答える。「ただ、なんとなく疲れちゃって」

「疲れたという理由で手近な喫茶店に入ってみたら、もっと疲れるようなことが立て続けに起きてしまったわけだ」

「えぇっと、まあ」彼女は曖昧に頷いた。「入ってきて、飲み物を頼んで、それが出てきたと思ったら、店長さんが『ちょっと出てくるから、留守番お願い』って……」

 たぶん赤木氏も、鷺沼が暇だとわかってそんなことを頼んだのだろうとは思うけど。

「でも僕ら、ここへ来る途中で、赤木さん見なかったな」と僕は思い出して言う。「店の前でも、けっこう話してたと思うんだけど。店長が出てったのって、いつ頃?」

「えっと」鷺沼は左腕の時計を見やった。「一時間くらい前……ですね」

「だいぶ待たされてるね」僕は溜息のようなものを吐いて、一応訊いてみる。「鷺沼さん、この後の予定、平気なの?」

「あ、はい。平気です」彼女は小さく頷いた。「特に、予定はないので」

 そのとき、鷺沼の背後で、ガチャリと音がした。

「ただいまーぁ」どことなく充実感を漂わせながら、男の声が店内に響く。赤木氏の帰還である。「いや悪いね。ちょっと街頭パフォーマーのパントマイムに見入ってしまった」

「お、おかえりなさい」鷺沼はそちらを振り返っておじぎのような動作をした。「えっと」言いながら、こちらを伺うように顔を向けてくる。

「お邪魔してます」と僕は上半身を起こしただけの姿勢で言った。

「あ?」赤木氏がこちらに気付いて、怪訝そうな顔をする。「なんだ、悟か。何を寝転がってんだよ」

「すいません、ちょっと具合が悪くて」僕は頭をさわって見せる。「店の前で転んだんですよ」

「何してんだか知らないが、大方、その子を口説くための口実だろうが」と赤木氏は、僕を心配する様子など欠片も見せないで、とんでもない決めつけを行った。「お嬢さん、そいつにあまり近寄らないほうが良いですよ。何をされるか、わかったものじゃあない」

「人聞きの悪いことを言わないでください」僕は即座に否定した。「この店に誰がいるかなんて、知りませんでした。店の前で具合が悪くなって転んで、看板か何かに頭をぶつけて、少し気を失ってたんですよ」

「言い訳をするのは、やましいことがある証拠と相場は決まっているんだ」彼は無茶苦茶を言う。「大体から、さっきまで気を失っていたって言う割には、随分すらすらと言い訳が出てくるじゃないか。それに、看板に頭をぶつけて、気を失っただって? 今どき、漫画のキャラクターだってそんな言い訳しないぜ」

「そんなこと言ったって……」僕は言い返そうとしたけれど、続く言葉よりも先に、溜息が漏れた。「やめましょう。鷺沼さんが困ってますよ」

「え、その」急に名前が出てきて驚いたのか、鷺沼は吃った。「こ、困ってないです」

「そうだ、そうだ」赤木氏は増長する。「都合が悪くなったからって、人のせいにして逃げるのはやめろ。そういうやり方は、人として最低だ」

 こうなってはもうキリがないので、シカトして寝転ぶことにした。赤木氏の声を聞いているうちに、頭も痛くなってきたことだし。

「おい悟、客の分際で、何ソファを占有してやがるんだ」

 客の分際で、ってすごい言われようだな。

 喫茶店のマスターが、客前で吐いて良い台詞じゃないだろ。

「あ、あの……」と鷺沼が言った。「深町さん、本当に気を失ってましたから。少し、休ませてあげた方が良いと思います」

 救いの声だった。

 いかにエトランゼのマスター・赤木雅弘といえど、一見さん相手に暴論を振るうつもりはないらしく、彼は渋々と言った様子で矛を収めた。

「べらんめえ、お嬢さんがそう言うなら仕方ねえや」謎の江戸っ子口調である。「後で痛い目見る羽目になったって、知らねえからな」

 赤木氏はそう言って、買い物袋と共に奥の居室へと引っ込んで行った。

「変な人だろ」僕は苦笑とともに言う。「いつもあんな感じだよ。絡まれたら、適当にあしらっとけば良いから」

「そうします」

 鷺沼は小声で、舌を出しながら言った。

 可愛いなと、素直に思った。

「鷺沼さんって、この辺の人?」と僕は訊く。「社会人……だよね」

「ええまあ、一応」彼女は、ちょっと言葉尻を淀ませた。「翠埜みどりのですよ、住んでるの」

「ずいぶん近所だね。今まですれ違わなかったのが不思議なくらいだ」

「深町さんも、この辺りなんですか?」

「柏新町だよ」僕はすぐに答える。「この店までは、だいたい歩いて十五分くらい」

「すごい。近いですね、ご実家ですか」鷺沼は楽しそうに笑った。「中学校とか、一緒でもおかしくないですよね」

「残念だけど、実家住まいじゃないんだ」共通の話題で盛り上がれないのが、素直に残念だった。「大学生のときに上京して、それきり」

「あ、そうなんですね。ご実家はどの辺りなんです?」

「北の方だよ」とだけ僕は言う。「もう二年近く、帰ってないけど」

「一人暮らしですか、凄いんですね」鷺沼は感心したような声を出した。「私なんて、生まれてからずっと、ここで暮らしてます」

「特に珍しくもないと思うけど」しかも働いてないし、とは言わなかった。「それに、必要があったから一人で暮らし始めただけであって……別に凄いことでもないんじゃないかな」

「そうでしょうか」彼女は小首を傾げる。「私からすると、自分一人で自分の生活を支えている人は、それだけで凄いなって、思いますよ」

「そんな立派なもんじゃないさ」ばつが悪くて、つい顔を背けてしまう。「自分一人だけじゃ、自分の面倒だって見られやしない」

「それは……、そういう言い方をしたら、誰だってそうでしょう?」鷺沼は笑おうとしたみたいだった。「誰にも助けられないで生きている人なんて、居ません」

 そうじゃなくてさ、と僕は言わない。

「確かに、そうかもしれない」代わりに僕は、そう零した。「ぎりぎりのところで伸ばした手を取ってもらえなかった人間は、追い詰められて死ぬしかない。そういうことも、あるのかもしれない」

「いえ、それは……」彼女は困ったような顔になった。当たり前だ。「そういうのとは、また違うんじゃないかと思うんですけど」

 そりゃそうだろう、と思う。

「ごめん、変なことを言った」僕は苦笑いを浮かべて、首を振った。「誉められるのが、どうも苦手でさ」

 鷺沼は困惑気味の表情のまま、ぎこちなく笑った。

 

  7

 

 その日も僕は手許の文庫本に熱中していたため、声を掛けられるまで、鷺沼梢の接近に気が付かなかった。

「深町さん」聞き覚えのある声に顔を上げると、彼女は少し驚いたような表情を浮かべている。「こんにちは、奇遇ですね。あはは」

「そうだね」僕はそう言って本を閉じた。多少、ばつの悪さが顔に出てしまうのは隠せなかったと思う。「平日の昼間に、こんなとこで会うなんて」

「……あの。実は私、休職中で、会社へ行ってないんです」鷺沼はすぐに言った。「社会人なんて言っちゃいましたけど、半分ドロップアウト気味」

「そう、それは本当に奇遇だな」彼女の勢いと、喋った内容に、僕は思わず笑ってしまった。「僕も一緒でさ。と言っても、心境的には八割くらいドロップアウトしてしまってるけど」

「え」鷺沼は声を高くした。「本当に奇遇ですね。てっきり今日はお休みなだけかと」

「今日お休み、だね」僕は肩をすくめる。「とりあえず、ご注文をどうぞ」

「えっ、あ、えーと」彼女はきょろきょろと辺りを見回した。「もしかして、マスターさん居ないんでしょうか」

「今は、僕が留守番だよ」言いながら、僕は席を立ってカウンターへ向かう。「コーヒー飲める?」

「すみません、ちょっと苦手です。……紅茶はありますか?」鷺沼は所在なげに立ち尽くしている。「でも、良いんでしょうか」

「大丈夫。こう見えて、大学時代はウェイターのバイトをしてたんだ」カウンターに立って、彼女の質問に対し、恐らくはピントがずれているであろう答えを返した。ティーカップを見繕いながら、訊く。「何がお好み? ダージリン、アッサム、アールグレイ、アプリコット、オレンジペコ……」

「ふ、普通ので良いです」彼女は眉尻を下げて、こちらへ歩いてきた。「勝手に淹れちゃっていいんですか。紅茶とか」

「怒られたことはないね」水を入れた薬缶を火にかけながら、僕は言う。「それに向こうだって、お客に店を任せて外へ出て行っちゃうんだからさ。お互い様だよ」

「そういうものですか」鷺沼は言葉に詰まったようだった。「え、ええと。じゃあ、お願いします」

 銀製の薬缶の下で、旧式のガスコンロがごうごうと音を立てている。鷺沼はいつの間にか、カウンター席に腰掛けていた。

「けど、どうしてまたここへ来ようと?」なんとなく手持ち無沙汰になって、口を開いた。「初めての客に留守を任せるマスターの居る店も、案外悪くないと思ったのかな」

「そ、そうですね」彼女は軽く目を泳がせる。「近くを通りかかったので、なんとなく気になってしまって」

「そんなもんか」薬缶がポコポコと音を立て始めた。「ちょっとタイミングを間違えたら、また留守番させられてたかもしれないけど」

「まあ、暇なのは事実ですから」言って、鷺沼はちょっと照れたみたいに笑った。「それに、来てみてよかったです」

「ただで紅茶が飲めるから?」僕はおどけて言った。コンロの火を止めて、ティーポットとカップに、それぞれお湯を注ぐ。

「いえ、それもありますけど」彼女の顔が、僅かに蒸気に隠れた。「深町さんに、社会人だと言ってしまったのが、少し心残りだったので」

「そんなこと……」僕は吹き出しそうになった。「律儀だね、鷺沼さん」

「律儀、ですかね」湯気が晴れて、鷺沼は視線を彷徨わせる。「ただ、細かいことを気にしすぎてしまうというか……そういうところはあるんだと思います」

 その声になんとなくネガティブなニュアンスが滲んだように、僕には思えた。

「マスターには内緒にしておいたほうが良いと思うよ」話題のポイントを切り替えるつもりで、そう忠告をした。「あの人、無職嫌いだから」

「そうなんですか」鷺沼は目を丸くする。「深町さんは嫌われてないと思いますけど」

「いや、あの人は僕のこと嫌いだよ」彼女の驚いたような顔に、なんとなく笑みが零れた。「おおかた、喧嘩友達みたいな関係を想像してるんだろうけど、あれは本気で僕のことをクズだと思ってる」

「自分だって、お客さんに留守番させて、自分はサボったりするのに」鷺沼はおかしそうに言った。

「だからだろ」と僕は答える。「本当は自分だって、働くのが好きじゃないんだ。それで、実際に働いてない人間が疎ましいんじゃないか」

「ああ」彼女は納得したような声を出す。「でも、こんな時間にお店にいるのを見られたら、結局ばれちゃう気がします」

「今日はたまたま休みなんです、とでも言っておけば」

「今日はよくっても、次に来たときの言い訳が難しいですよ」鷺沼は笑った。「在宅勤務ってことにしておこうかな」

 僕は何も言わなかった。

 不意にやってきた、鼓膜を内側から劈くみたいな高音にこめかみが痛んで、わずかに顔をしかめる。

「大丈夫ですか」彼女はすぐに言った。「どこか痛む?」

「……あ、いや。大丈夫」僕は軽く目を閉じて、首を振る。「ちょっと耳鳴りが」

「頭、ぶつけてたから」と鷺沼は気遣わしげに言う。「痛むようなら病院へ行ったほうが」

「そっちはたぶん平気だ」言って、頭をさすった。「ただ、最近ちょっと耳鳴りが酷くて。この間倒れちゃったのも、半分はそのせいなんだよ」

「それは……心配ですね」鷺沼は考え込むような顔をした。「病院、行かれてます?」

「いや、特には」僕は首を振る。「あまり酷くなるようなら、行くことも考えてるけど」

 入口の方から、しゃりん、とベルの音がした。

 遅れて、聞き慣れた濁声が飛んでくる。

「よう深町君、元気そうじゃねえか」入ってきたのは猫田だった。彼は鷺沼の姿を認めると、「あっ」と声を出す。「こないだの」

「こんにちは」彼女はカウンター席を立って、軽く会釈をした。「猫田さん、でしたよね」

「……あんた、また来てたのか」猫田は、鷺沼の言葉に直接は応じない。「昼間っからこんなところへやって来て、暇なのかよ」

「それをお前が言うのか」僕は口を挟んだ。「そういや、こないだ猫田、僕が起きたら居なくなってたな」

 どうして居なくなったのだ、と追求することはしない。彼が消えた理由には想像がついたからだ。猫田健二郎は初対面の人間が、とりわけ女性が、大の苦手なのである。

 苦手な相手が現れると静かに姿を消す辺りはまるで猫のようで、名が体を表していると言ってもよかった。

「俺はお前らのように暇じゃねえんだよ」猫田は案の定、口ごもった。「今日だってな、ここへは修論を書きにきたんだ」

「手ぶらで論文を書くのか」と僕は面白がって取り合う。「まあ座れよ。コーヒーで良いよな。何か食うか?」

「糖分だよ」猫田は言い放った。「頭脳労働にはブドウ糖だろうが」

「カントリーマアムでいいか」比喩とかではなく、この喫茶店では、戸棚を漁ると本当にカントリーマアムが出てくるのだ。「メニューに書いてある名前だと、チョコチップ・クッキーだけど」

「何だか気に入らねえ話だよな」と猫田は唾を飛ばした。「カントリーマアムを出してるんだから、堂々と『これはカントリーマアムです』と言えば良いじゃねえか。カントリーマアムに罪はないはずだろ。何かやましいことでもあるのかよ。大体、どうしてチョコチップ・クッキーなんだよ。そのチップとクッキーの間に挟まってるモノは何だ、村上春樹の魂かよ」

「知らないよ」僕は軽く噴き出した。「でも多分、喫茶店のメニューに『カントリーマアム』と書くことには、マスターの美学に反する何かがあったんじゃないか」

「具体的な商品名を書いてしまうと、どうしても、原価を思い起こさせるから、というのもあるんじゃないですか」鷺沼が言った。

「なるほど」と僕は感心する。「つまり、スーパーマーケットなりコンビニなりへ行けばもっと安く買えるものを、わざわざ注文したくないって心理か」その上で、ただ、と付け加えた。「ただ、そこまで、あのマスターが考えてるとは思えないけど」

 カップを温めるために入れてあったお湯を捨て、代わりにポットから紅茶を注ぐ。また湯気が立った。「ミルクと砂糖は?」僕が訊くと、鷺沼は「二つずつお願いします」とすぐに答える。

「なんかよ」このとき、直感として猫田が余計なことを口走る気配があった。「石山ちゃんを思い出すよな」

 再び、鋭い耳鳴りと一緒に、痛みが走る。傾けていたティーポットを咄嗟に元に戻したので、熱いお茶は零さずに済んだ。

「いしやま、ちゃん?」猫田の言葉に、鷺沼はもちろん疑問符を浮かべる。「人の名前ですか」

「石山ちゃんは石山ちゃんだよ」猫田は面倒くさそうに言った。「死んじまった、石山ちゃんだ」

 僕は無言でこめかみを押さえている。

「えっと、その」助けを求めるように鷺沼がこちらを見た。「あ。深町さん、大丈夫ですか」

「ああ、気にしないで」僕はなんとか言う。「カントリーマアムの話だろ」

「カントリーマアムが好きだった、石山ちゃんだよ」猫田は真顔で呟く。「カントリーマアム好きに悪い奴は居ないんだ」

「どうして、その石山さんを思い出すんですか?」と鷺沼は尋ねた。

「石山ちゃんも、紅茶にミルクと砂糖を二つずつ入れてたからな」彼はそっぽを向いた。「彼女は頭脳労働型だったんだ。だから、糖分を必要としていた」

「はあ。ええと」鷺沼は、どこまで尋ねていいものかと迷っている風でもあった。「その、石山さんは」

「自殺だよ」猫田は遮るように言う。「原因については、深刻な糖分不足など諸説あるが、真相は闇の中だ。誰にも、何も言わずに死んじまった。なあ深町君」

「どうしてそこで、僕に話を振るんだよ」恐らくは苦りきった顔で、僕は答える。

「石山ちゃんと言えば、深町君だろうが」彼は不貞腐れたみたいな表情で、続けた。「仲良しだったじゃねえか。この店で最後に会ったのも、お前だったんだろ」

「そうだけど」がんがんと痛む頭を、右手で押さえる。「結局は僕にだって、何もわかりはしない」

 悔悟の念と無力感と、その他いろんなものが混ざり合った苦くて酸っぱい情念ものが、じわりと込み上げた。

 水が飲みたい。

「何も……」鷺沼は小さな声で呟いた。「死んでしまった人が、何を考えていたのかわからない。それって、辛いですよね」

 何か言おうとしたけれど、言葉にはならなかった。

「あの、深町さん」彼女は、おずおずと切り出す。「そういう辛さは、ただ我慢して飲み込むべきものとは、違うと思うの」

「どういう、こと」それだけ言うのが精一杯だった。

 彼女の死は、彼女だけの死だ。他の人間の持ち物ではない。

 だから、生きている人間が、死者のために出来ることなどない。見当違いにも何かを行おうと考えるならば、それは本人の意思に関わらず、墓荒らしにも等しい所業となる。

 耳鳴りは依然、甲高く響いている。

「……自殺というのは、死んだ本人が望もうが望むまいが、残された人にとっては、呪いみたいなものになってしまう」鷺沼は、ゆっくりと言葉を紡いだ。「それはちゃんと、自分の中に位置づけていかなくっちゃいけない。私は、そう思います」

 呪い。

 その響きを、僕は反芻する。

「呪いは、放っておけば人を蝕むから」鷺沼は続けた。「それは、死んだ人のためなんかじゃない。今を生きている、貴方のために必要なことなの」

「自分の苦しさを、和らげるために……彼女の死を、踏みにじれって?」絞り出すみたいな声で、僕は言った。

 石山の言葉を、僕は思い出す。選択の積み重ねが、人の個性を形作っている。

 彼女は、僕らに何も言わずに去ることを、選んだのだ。ならばそれは、正しく呪いなのではないだろうか?

「そういう言い方をすれば、そうかもしれません」鷺沼は小さく首を振る。「石山さんがどんな気持ちで死んでいったのかは、誰にもわかりません。それを想像して、解釈することが、真意を告げなかった彼女に対する裏切りのように、貴方には映るかもしれない」でも、と言う彼女の表情に、迷いはなかった。「でも、そのために貴方が苦しむ謂れは、ありません。死んだ人にしてあげられることなんて、ないんです。深町さんはもしかすると、自分が苦しむことを石山さんが望んだのだとしたら、苦しみが唯一の償いになり得るとか、そういう風に考えてるかもしれない。だけど、そんなのって嘘でしょう。そもそも、それだって勝手に決め付けてるじゃないですか。死んでいった、石山さんの気持ち」

「その通りだ」と猫田がいきなり割り込んでくる。「深町君は結局、それで何かを償った気になりたいんだろ」

 気が付くと、両目を瞑っていた。

 まただ、と僕は思う。鷺沼と猫田の喋る声が、メロディアスな耳鳴りに乗って、歌みたいに響いている。

「……深町さん?」鷺沼が気遣わしげな声を出した。「耳鳴り、酷いんですか」

「大丈夫、話は聞いてる」僕は右手で頭を抱えながら、ひらひらと左手を振る。「けど、こういう言い方もなんだけど、らしくないね。鷺沼さん」

「そうですか?」彼女の声のトーンが上がった。

「こないだ知り合ったばかりで、らしさも何も無いけど」耳鳴りに阻まれて、自分の声がよく聞こえない。「あまり、長広舌をふるうようなタイプじゃないと思ってた」

「ああ」と鷺沼は頷く。「それは、そうかもしれないですね。……ごめんなさい、むきになっちゃって」

 僕は、纏わりつく音を振り払うように、何度か頭を振った。

「だが、指摘は的を射ている」猫田は大仰に言った。「深町君は逃げてるんだ。働くことから逃げたと思ったら、今度は、石山ちゃんの死から逃げている」

「その通りかもしれない」と僕は素直に認めた。逆らう気力がなかった、とも言う。「僕は苦しむことで、何かを償った気になっているだけの、ろくでなしなのかもしれない」

「そ、そこまでは言ってないです」鷺沼は慌てたように手を振る。

「言っちまって構わねえんだよ」猫田が混ぜっ返した。「深町君はろくでなしだ」

 うるせえな、と思った。耳鳴りが激しい。

「あの、深町さん」鷺沼が、少し近づいてきた。「無理しないでくださいね。辛かったら、ソファで横になったらどうですか」

「うん……ありがとう」僕は頷いて、のろのろと立ち上がる。「そう、させてもらおうかな」

「でも、しばらく休んで元気になったら」

 ソファへ向かう僕に、彼女がそんな風に言った気がした。

 続きは聞こえなかった。

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