Side B <揺蕩うライオン>

Side B <揺蕩たゆたうライオン>

 

  1

 

 その日もぼくはアジトの休憩室で、木造りの小さな椅子に腰掛けて、本棚から取り出した一冊の本をぱらぱらと捲っていた。

 ED・ワールド・マイゼルと言えば、この国で知らない者はいないだろう。ぼくが読んでいるのは彼による大著『生産の一般理論』、その第一巻だ。

 現代社会の経済――とりわけ、労働による生産と、その生産物の分配――の仕組みを体系的に記述したその著書は、言うまでもなく、ぼくらにとっては教典バイブルと呼んで差し支えない本である。内容はきわめて難解であり、正直なところ皆が正確に理解しているとは言いにくい(ぼくだってそうだ)が、それでも重要な書物として扱われているのは間違いない。

 とりわけ導入となる第一巻の第一章など、仲間内であれば、それこそ皆が読み飽きている。

 ぼくにしたってその例外ではなく、そのときも、第一章の内容を咀嚼しながら読み解くというよりは、書かれた文章をただ目で追っているだけだった。

 彼は言う。『生産の基本は労働である』『換言するなら生産とは、労働によって何かを作り出すことである』『労働によって生産されたものを、生産物と呼ぶ』『以上が本著における生産および生産物の定義である』『労働とは一定の目的をもってその身体および精神の能力を発揮することである』『労働の成果は有形ないし無形の生産物として結実する』……。

 ぼくは何と言っても、マイゼルの文章のこういう徹底したところが好きだった。

 ぼくらみたいな(つまり、)連中が教典としているってだけで、『生産の一般理論』を乱暴なことが書かれた本に違いないと決めつける向きもあるけれど、そんなことは全くない。その内容は、むしろ繊細、いっそ神経質と言って良いくらいだ。

 マイゼルの文章を読むとき、ぼくはしばしば彼のキャラクターに、思いを馳せる。このような文章を綴るのは、一体どんな存在だったのだろうか。

「……ねえ。また、おかしなこと考えてる」

 横合いから、ぬっと顔を突き出してきて、エミリア・ブラウンが言った。

 ぼくはそちらを向いて、驚いたように目を丸くして見せる。それから、頬を少し歪めて答えた。

「そんな言い方はないでしょ」

 ぼくの苦笑につられたみたいに、エミリアは相好を崩した。緩くカールした明るいフラックス亜麻色の髪が、ふわりと揺れる。

「だって……」言いながら、エメラルドを湛えた瞳が細められている。「アイク、あなた自分が考えごとをする時にどんな顔をしているか、知ってる?」

「知らない」息を吐き出すのと同時に、ぱたんと本を閉じた。「ぼくの顔がおかしいのと、ぼくの考えごとがおかしいってのが、そんなに深く関係しているとも思えないし」

「まあ、そうだけど」エミリアはあっさりと認めて、笑う。「でも、おかしなことを考えていたんでしょ」

「別に、おかしくないと思うけれど」ぼくは手元の本を弄ぶ。言葉を発する前に、小さく鼻を鳴らした。「ED・ワールド・マイゼルは、自分の言っていることを、自分でどれくらい本気にしていたんだろう、って。それだけだよ」

 ぼくが言葉を切るが早いか、エミリアは細めていた瞳を丸く見開いた。

「アイク、あなたやっぱり不思議」そう言って、呆れたとばかりに溜息を吐く。「それ、皆の前では、あまり言わないほうが良いよ」

「わかってるよ」と適当に応じた。「でもさ、エミリアは気にならない? 偉大な思想家でもあった彼が、革命家としての自分自身が言う言葉を、どれくらい信じることが……あるいは、信じないことができていたのか」

「うーん」エミリアは眉尻を低くした。「アイクは、どう思ってるの?」

「どうなんだろうって、今考えてたんだ」ぼくは俯き加減に言葉を続ける。「彼がこの本で、一般理論で語っている言葉の内容と、一般的にマイゼルの革命思想として扱われていることの内容って、全然違うよね。いや、もちろん一繋がりになっているんだってことは、わかるんだけれど。そういうんじゃなくってさ……」

 エミリアは、小さく頷きながら話の続きを促してくれた。

「生産の一般理論をこんなに厳密に語るやつが、同じ口で、まったく同じように、革命の歴史的必然性なんてことを語っているとは、どうしても思えないっていうか」

 革命の歴史的必然性。

 ED・ワールド・マイゼルの運命史観。

 我々の社会には、一定の発展の法則があり、現在の政治経済体制が革命によって打倒されるのは必然だということ。

 それこそが、ぼくらを支える理論の背骨だ。

 マイゼルの一般理論が読まれるのは、いわばその前段階として。革命に至る道筋の土台固めとして、だった。

「例えばの話」とぼくは言う。「もし、革命が本当に必然なのだとすれば、マイゼルがわざわざこんなことを言うまでもなく、この理不尽な政治経済体制は打ち倒されるってことになるんじゃないのかな」

「アイクは難しいことを言うね」エミリアは困ったようにはにかんだ。「わたしは……正直に言ってしまえば、どちらでも良いと思ってるよ」

「どちらでも?」

「そう、どちらでも」ぼくの馬鹿みたいな鸚鵡返しにも、彼女は律儀に頷く。「歴史にマイゼルが登場しなかったら、なんて、そんなもしもの話はどうだって良い。大事なのは、わたしたちの住んでいるこの世界がどうなるか、でしょ。違う?」

「そうかもしれない」彼女の言葉にどう応えたらいいのかが咄嗟にわからなくて、ぼくは曖昧な返事を選んだ。「それってつまり、エミリアにとって、マイゼルの理論が正しいか否かは重要じゃない、ということ?」

「そういうことになるかもね」エミリアはすぐに言う。「と言うよりも、部分的にはもう、否定してしまっているんじゃないかな。だってわたしにとって、革命が必然かどうかは、わからない。そして、『わからない』ということは、『わかる』の否定だから」

「エミリアは頭が良い」ぼくはしみじみと言った。

「そうやって、思ってもないことばかり言っていると、いつか後悔するよ」彼女は腕組みをして言う。

「いや、実際に思ってるよ」とぼく。「君はぼくなんかよりずっと頭が良い」

「良くないのはねアイク」エミリアはポーズを崩さずに続けた。「もちろん、心にもないことを言うのはそれ自体が良くないけれど、もっと良くないのは、そうやって口にした心にもないことを、自分で本気にしてしまうことだよ」

「エミリアは、ぼくのエミリア・リスペクトを理解してないんだ」

 ぼくが思わず言葉に熱を込めると、彼女は肩をすくめる。

「そういうことにしといたげる」それからすぐに、「今の話、マイゼルみたいだね」と笑った。

「今の話って?」

「思ってもないことを口にして、それを自分で本気にしてしまう、って話」言ってから、エミリアは短く息を吐いた。「マイゼル自身がどうだったかは、わからないけど」

「マイゼルはもっと強かだと思う」ぼくは咄嗟に言った。「根拠はないけれど」

「わたしも、そんな気がする」彼女は笑ってくれた。

 それで会話が途切れたみたいになったので、ぼくは再び手許の本に視線を落とす。

「あのねアイク」

 エミリアの話は終わっていないらしかった。彼女は再び、脇から顔を覗き込んでくる。

「何、エミリア」とぼくは応じた。

「アイクはどう思ってるの」

「どうって、何を?」

「革命の歴史的必然性について、かな」彼女にしては珍しく、歯切れの悪い話し方だった。

「大体、エミリアと同意見だよ」ぼくは少し考えてから言った。「ある出来事が必然であったかどうかというのは、結局のところ、解釈の問題でしかない。もちろんそれは間違いであって、自然科学と同じように、歴史にも法則や必然性はあるんだというのがマイゼルの見方なんだろうけれど、彼の論証は、それを明らかにするには十分でないと考える」

「じゃあアイクは、何を信じているの?」エミリアの声はどこか不安げに響いた。

「信じるって……」ぼくは言葉に詰まる。「質問の意図がよくわからない」

「あなたは革命の歴史的必然を信じていない。それなら、何を信じて、ここにいるのかな」

「……エミリアは、何かを信じている?」ぼくはそう問い返すことしかできなかった。「歴史的必然は、君も信じていないんじゃないの」

「そうだね」と彼女は軽く頷いて、「わたしは、革命が歴史的に必然であるということを、突き詰めれば信じていない」それから、こう続けた。「でもわたしは、ここにいる皆を信じているよ。もちろんアイク、あなたのことも」

 エミリア・ブラウンは、翠緑の瞳をまっすぐこちらに向けている。

「ぼくは、」ぼくは、強い瞬きをひとつして、彼女の眼差しから目を逸らした。

 彼女の瞳は、一見明るい。エミリアを初めて見た者は、まずその瞳の淡い輝きに目を奪われるだろう。

 けれど二つのエメラルドを間近で眺めれば、木漏れ日の光に、夜の森を思わせる深みが同居していることがわかる。

 ぼくはどうしてか、それを直視するのが怖かった。

 

  3

 

 定例のミーティングが終わって、会議室を出ようとするぼくを捕まえて、フレッドが「話がある」と耳打ちをしてきた。

 そうしてやってきたのが、アジトの程近くにあるカフェバー、ロクサーヌだ。

 静かな店で、客も滅多に見かけない。そのため、ぼくらが話し込むのにうってつけの場所として、しばしば利用させてもらっている。

 その日もやっぱり、店内にはマスターと、フレッドと、ぼくの三名だけだった。

 ぼくらはボックス席に陣取って、二名分のコーヒーを注文する。

 オーダーを受けてから、マスターの一連の動きは迅速だ。彼は手早く配膳を済ませると、カウンターに戻って、小さめのボリュームで音楽をかけてくれた。

「裏切り者さ」と、フレッドは切り出した。「公安か、他国の組織か、それとも何処ぞの政治団体か。何者なのかは知らねえが、俺らの中に裏切り者が混じっているのは間違いない」

「……」突然のことに面食らって、どう返事をしていいのかわからない。けれど黙っているのもよくないだろうと思って、かろうじて口にできたのが「なんで?」という間抜けな台詞だった。

「そいつを教えるわけにはいかないんだ」とフレッドは神妙に頷く。「何しろアイク、お前が裏切り者じゃねえって確証もないわけだからな」

 だったらそもそも「裏切り者が居る」なんてこと自体言うべきではなかったのでは、という指摘は飲み込んだ。

 これまでの付き合いがなかったら、きっと彼は冗談を言っているんだろうと断じてしまっていたところだ。しかし、ともすれば冗談と受け取られかねないようなことを本気で言うのが、このフレデリックという男だった。

「それ、本当だったら大変だね」ぼくはとりあえず、話を合わせることにする。「目星はついてないのかい。その、裏切り者の」

「まださっぱりだ」とフレッドは唸る。「今言ったばかりだが、俺はお前のことだって、完全に信じてるわけじゃないんだ」

「どうすれば、君に信じてもらえるんだろう」自分が無害であることを示すために、開いた両手を中途半端な高さに掲げて言った。「ぼくは、裏切り者のつもりはないんだけれど」

「その言い方、なんだか怪しいな」どうやらぼくの釈明はフレッドの気に食わなかったらしい。「『裏切り者のつもりはない』。まるで、偉い連中が悪いことをやったときの逃げ口上みたいじゃないか。自分としては正しいことをしたつもりだ、悪事を働いていたつもりはない、ってさ」

「確かにその通りだ」とぼくは納得してしまう。「ぼくの言い分は怪しかった。けど、他に言いようがないんだ。何故って、君にとって裏切り者ってのが何なのかが、わからないんだから。自分が裏切り者であるつもりがないってだけで、実はフレッドから見たら、ぼくこそが裏切り者なのかもしれない」

「相変わらず面倒くさいやつめ」フレッドは、言葉と裏腹に弾んだ声を出した。「言ったろ。公安とか外国の組織とか、よその政治団体とか。あるいは謎の陰謀を持った秘密結社とか……そういうやつのことだよ。俺が言ってるのは」

「なら、やっぱりぼくは裏切り者じゃないよ」今度は、自信ありげに頷いてみせた。「でも……本当に? ぼくらが普段接している仲間の中に、他所の組織のメンバーが紛れ込んでいるなんて」

「十中八九、間違いねえよ」とフレッドも自信ありげだ。「お前に話して正解だったぜ。こんなの、他の連中は真面目に取り合ってくれそうにないしな」

 ぼくが真面目に取り合っているのかと言われると微妙なところだと思うのだが、「ぼくは真面目に聞いているぞ」とアピールするために、うんうんと頷いておく。

 それと同時に、案の定こいつは本気で喋っているようだ、と思い当たり、いろんな意味で不安な気持ちになってきていた。

「お前の言いたいことは、わかっている」フレッドはそう言いながら、開いた右手を前に突き出すポーズを取った。「だが、情報の出所を教えるわけにはいかないんだ。アイク、お前が裏切り者でないってことは信用しても良いような気にはなりつつあるが、お前から裏切り者に情報が流れてしまわない保証がないからな」

「ぼく、口は堅いほうだよ」別に情報の出所を訊こうとは思っていなかったのだが、そう弁明しておく。「フレッドが裏切り者の存在に気づいたことだって、もちろん他言するつもりはない」

「お前自身の意思に関わらず、ということもあるだろう」彼は右手を突き出したまま、首を横に振った。「自白剤や催眠術に、誘導尋問……ガードの緩い、油断した素人から必要な情報を引き出す術は、色々とある」

「なるほど」ぼくはまたしても、素直に頷いた。確かにぼくは、そういった攻撃に対して、ガードの緩い素人だろう。「そう言われると、そうかもね」

 君は素人ではないのか、という益体も無い問いは、やっぱり飲み込むことにした。

「ともかく、そういうわけだからアイク、お前がこの件についてあれこれ調べたりする必要はない」フレッドは気遣わしげにそう言った。「下手に探りを入れたりすれば、お前が目をつけられることにもなりかねないし、芋づるで俺が捕まる恐れもある。決定的なモノを掴むまでは、水面下で慎重に事を運びたい」

 できることなら、そのままずっと水面下で慎重に事を運び続けてくれれば、平和なのだけれど。

「また、何かわかったら連絡するぜ」そう言いながら、フレッドは席を立った。テーブルには、いつの間にかコーヒーの代金が置かれている。「何度も言うようだが、今のところは大人しくしとけよ。協力が必要なことがあれば、こっちから言うからな」

「わかったよ」とぼくは答える。

 店を出て行くフレッドの背中を見送ったあとで、マスターの方を見ると、彼は慈愛に満ちた表情でカップを磨いていた。

 ぼくはそのアルカイック・スマイルを真似ながら、二人分のコーヒーの代金を支払った。

 

  4

 

「前から聞きたかったんだが」とベニーが言う。「アイザック、君はどうして我々の仲間に?」

 もちろん彼はすぐに「答えにくければ、答えてくれなくても構わない」と付け加えることを忘れなかった。

 彼のそんなところが、ぼくは嫌いじゃない。

 ベニーことベネディクト・マクファーソンは賢く、頼りになる。それは、ぼくら組織での共通認識だと言える。学習会などでは概ね彼が議論をリードし、また包括的にまとめていく立場を取る。マイゼルの理論に対する理解度という意味でも、メンバーの中で群を抜いていた。物腰は落ち着いており、発言の内容は理路整然としている。眼光は鋭く、色素の薄い頭髪を短く刈り上げたその風貌は、立ち振る舞いと相俟って、見る者に怜悧な印象を与えるだろう。

 けれど、そんな印象とは裏腹に、ベニーはとても繊細だと、ぼくは思う。

 他者の痛みや、戸惑い、恐れ、不安などといった感情を重んじる。誰かの内側に踏み込むような問いを発するときには、いつも迷いや遠慮がある。

 それは多分、彼自身が自分の中に、何かとても傷つきやすいものを抱えているからではないかと、勝手な想像でしかないけれど、ぼくはそんな風に考えて、好感のようなものを抱いていた。

「自分でも、はっきりとしたところはわからないんだ。今でも」質問に対し、ぼくは率直に答える。「ただ、初めてエミリアから誘いを受けたときに……この人たちのことは、無視できないなと思って」

「無視できない、か」ベニーは、その言葉を噛み締めるように繰り返した。「なるほど。こういう言い方が正確かはわからないけれど、君らしいね」

「誉められてるのかな、それ」

「どうかな。少なくとも、悪い意味で言ってるつもりはないが」彼は小さく頷く。「でも、無視できないってだけで、いつまでも続けられるものじゃないだろ」

「だけだったら、そうかもしれない」とぼくも頷いた。「多分、単純な理由だよ。なんだかんだで、ずっとここに居るのは」

「なるほど」少し時間を置いて、彼は繰り返した。「なるほどね」

 ぼくの言葉は、ベニーにどんな風に受け取られたのだろう、と考えを巡らせる。

「聞いてばかりも何だから、俺の話をしようか」ベニーはそう言って、テーブルの上で手を組んだ。「勿論、迷惑でなければだが」

「迷惑なんてことはないよ」ぼくは本心を告げる。「ベニーの話には興味がある」

「ならよかった」と彼は頬を緩めた。「俺がこの世界へ本格的に足を踏み入れたのは、十七歳のときだ。もう十年近くも前になるんだな。それ以前から、友人に誘われて会合に顔を出したりはしていたんだが、志を同じくするメンバーという扱いではなかった」

 ぼくが黙って続きを促すと、ベニーは続ける。

「色々端折って簡単に言ってしまうなら、俺がこういう活動をすることにしたのは」彼はそこで、切れ長の目を少し伏せた。「妹が死んだからだ。……十四歳だった。彼女は、ろくな食事もできないで、それなのに連日、夜遅くまで工場で働いていた。帰り道でモービルに撥ねられて、即死だった。後でわかった話だが、エネルギーの欠乏が原因で、右耳が全く聞こえなくなっていたらしい」

 何を言って良いかわからなくて、ぼくはただ頷いた。

「俺を高等学校に行かせるために、家族全体が無理をしてた。酷い生活だったよ。それでも、俺が勉強して立派になって、いつか皆に良い暮らしをさせてやりたいって、そう思ってたのに」ベニーはそう言って、紅茶を口に運ぶ。「こんなのアリかって、誰にでも良いから文句を言いたい気分だった。両親と一緒に、ひとしきり神様を呪ったよ。それに飽きたら、今度は自分を責めた。妹が死んだのは、俺が勉強なんかしたがったからだ。……不毛だと思うだろ。でも、何かのせいにせずには居られなかったんだよ。あんな不幸が、誰の悪意も過失もないところに、ただ運が悪かったというだけの理由で、降りかかったりしてはいけない。そんな世界の仕組みには、俺の心が耐えられなかったんだ」

 ぼくはやっぱり、何も言えない。

 ただ黙ってコーヒーを啜りながら、小さく頷くだけだ。

「だからきっと、俺は今もその延長線上にいるんだよ」彼は伏せた目を開いて、ゆっくりとこちらに向ける。「これから生まれてくる子供たちが、ヘレンみたいな目に遭わないように。貧困に苦しむ人々のいない世界を作りたい。こうして俺のモチベーションを言葉にすれば、これ以上ないくらいに立派な大義名分だろうさ。でも多分、本質はそうじゃないんだ。俺は、俺たち家族に降りかかった不幸を、社会のせいにすることを選んだんだよ。勿論、それは一面では間違いなく正しいと、今の俺は思っている。この社会の仕組み、財の配分の在り方はどう考えたっておかしい。ただ……そう思う俺を作ったのはヘレンの死と、そのことを誰かのせいにせずにはいられなかった、自分自身の弱さなんだと思う」

「それは」と、ぼくは口を開く。「弱さ、なのかな?」

「わからない。弱さというのは、言葉の綾かもしれないが」ベニーは迷うみたいに、首を少し振った。「俺にとっては、今やっているこの活動は、ある種の罪滅ぼしなんだよ。手前勝手な話だが、こうすることがヘレンの、死んだ妹のためだって、そういうことにして生きている。でも、本当のところ、死んじまった連中のために出来ることなんてあるわけがないんだよ。こんなものは、妹の生前に何も出来なかった自分への慰めでしかない。今この社会に生きている人々のためですら、ないかもしれない」

「でも、そうするしかない。君は、いや誰だって、自分のためにしか生きられない」ぼくは喋りながら、ほとんど何も考えていなかった。ただ言葉だけが、口をついて出てくる。「それが、ぼくらが生きていくってことだ。なんて……違うかな」

「いや」彼は少し笑ったように見えた。「アイザックの言う通りなんだろうと思うよ。ありがとう」

「礼なんて」

 ぼくが言うと、ベニーは急に真顔になって、それからちょっと困ったような笑みを浮かべた。

「悪い。しみったれた話になってしまった。いい加減、もっと落ち着いて話せるかと思ったんだけど」言って、彼は頭を掻く。「とにかく、それで俺は組織の門を叩いた。元々勉強は好きだったから、お前ほどではないかもしれないが、理論の飲み込みは早い方だったと思う。そこから先は、いろいろな意味で毎日が戦いだよ。両親には苦労かけ通しだけど、幸いなことに応援してもらってる。……良い暮らしをさせてやるって約束、叶えられそうにないんだけどな」

「その、おかしなことを訊くかもしれないけれど」ベニーの言葉を受けて、ぼくは言った。「君にとって、理論ってどういうもの?」

「理論?」彼はわずかに眉をひそめる。「理論って、マイゼルの?」

「そう、マイゼルの」ぼくは肯う。「もっと言うなら、ED・ワールド・マイゼルの運命史観について」

「……ワールドマイゼルのことを、気にしてるのか?」ベニーは心なしか、声を落とした。

「そうじゃない、と思う」ぼくは言ってから、「けど……、いや、本当はそうなのかもしれない。正直言って、きちんと飲み込めていない部分はある。そこんとこは、自分でもよくわからない」と付け加えた。

「ふむ」彼は躊躇うように息を吐く。「そうだな、さっきの質問に直接答えるなら、俺にとってマイゼルの運命史観は、ひとつの拠り所だ。それを揶揄して信仰だと呼ぶ向きもあるが、少なくとも俺に関して言えば、それは一面では真実だろうと思うよ」

「信仰、というのは」ベニーの言葉を、ぼくは頭の中で噛み砕くように繰り返した。「どういう意味だろう。根拠が無い信念、というようなこと?」

「それを言い出すなら、根拠とは何か、ってことにもなるが」ベニーはそんな風に言って口の端を歪めた。「だが、そうだな。信じているというよりは、信じたいと思っている。あるいは、それを信じる自分でありたいと思っている。簡単に言い換えるなら、そういうことだと思っておいてもらって良い」

「なるほど」とぼくは頷く。「ごめん、漠然とした訊き方をしてしまって。でも、その説明は、わかると思う」

 ぼくの反応に、ベニーも軽く頷いて、それから口を開く。

「革命が歴史的に不可避であることは、どうしたって証明不能だという意見がある。革命が起きる前の段階では、それはどこまで行っても『未だ成されていない』ということにしかならないし、実際に革命が起きてしまった後では、歴史がひとつしか存在しない以上は、それが不可避であったかどうかなどわからない。……基本的に、俺はその見解に賛同というか、まあそれでも構わないんじゃないかと思っている。マイゼルの理論にとって、また彼の目指したものにとって、本当に大事なことはそんなところにはないと信じるからだ」彼は小さく息を吸った。「そもそも俺たちの活動自体が、現実はどうあれ御題目としては、マイゼルの革命理論を実現に導くためのものだ。このこと自体が、半ば自家撞着的だよな。けど、どうして俺たちが革命を目指しているのかといえば、結局は信じているから、だろう。循環論法みたいだが、それで良いんだと、俺は思ってるよ。革命が不可避であるという命題は、言ってしまえば勇気をくれるおまじないみたいなものさ」

 エミリアの言ったことに似ていると、ぼくは思った。二人とも、示し合わせたように「信じている」と言う。

 信じるとは、なんだろうか。

「難しい顔だな」とベニーは笑った。「まあ実際、難しい問題さ。多分、こういう生き方をしてる以上、ずっと付いて回る話でもあるだろう。自分がやろうとしているのは、正しいことなのか?ってな。ワールドマイゼルの発想が出たのだって、元はその辺りの問題意識からなんだし……それに、自分に対する懐疑がなくなってしまえば、我々の思想は求心力を失う」

 ぼくはなんとなく、コーヒーカップの中に目をやった。

 陶器のオフホワイトと、僅かに残ったコーヒーのダークブラウンに向かって、先ほどの問いをもう一度、投げかけてみる。信じるとは何だ?

 それはある種のコミットメントだ。誰かを信じるってのは、そいつに騙されても構わないという覚悟のことだと、いつか誰かがそんな風に言うのを聞いたことがあるが、一面では真実だろう。

 ある思想や信条が誤りである可能性がほとんど無いと思われるような場合に「信じる」という言葉は使われない。それは知識だ。「知っている」という言葉で表現される。

 だから、間違っているかもしれないこと、裏切られるかもしれないという可能性を飲み込む決意が、信じるという行為の本質だ。

 命懸けの飛躍サルト・モルターレ、とぼくは思う。

 失敗すれば谷底まで真っ逆さまの、紐なしバンジージャンプ。

「皆はすごい」ぼくは感嘆して言った。「ぼくには、そういうことはできない」

「それは違うよ、アイザック」ベニーは鷹揚な笑みを崩さずに応じる。「できるとか、できないの問題じゃない」

「そうかな」カップの中にある、指先くらいの大きさの黒い水溜りを眺めながら、ぼくは呟く。「ぼくにも、できるのかな」

「生きてる限り、逃れられないさ」彼の口ぶりは確信に満ちていた。「自覚するとしないとに関わらず、俺たちは常に選択を突きつけられている。今こうしてここに居ることを、選んでるんだ。俺も、それに君も」

「でも、ぼくは……」

 ベニーの言葉に何かを言おうとして、だけど続きは出てこなかった。

 そういえばエミリアに、こんな話は他のメンバーにするものではないと言われたのだったなと、今更のように思い出した。

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