第10話  その保健教諭は


 放課後になって、結弦は手早く荷物をまとめて、自分の席を立った。

 確認したいことがあったのだ。


「おーい、そんな急いでどこ行くんだよ」


 博樹に声をかけられて、結弦は歩みを止める。


「保健室だよ」

「保健室? 具合でも悪いのか」


 博樹の言葉に結弦は苦笑いで返す。


「放課後だぞ。具合悪けりゃ家に帰るさ」

「じゃあ、なんで保健室なんかに」


 博樹が首を傾げながら訊くと、結弦はこんこんと自分のこめかみをたたくようなジェスチャーをした。


「覚えてないのか? 財布が見つかったとき、それを伝えにきたの、舞子先生だっただろ」


 その言葉で博樹はハッとする。

 確かに、思い返してみれば『食堂で財布が見つかった』と伝えにきたのは保険教諭の水瀬舞子だった。


「もしかしたらその場の状況を見ていたかもしれないだろ」

「確かに」


 財布が落ちていた状況を知ることで、その移動方法に検討をつけることができるかもしれない。

 結弦はそう考えたのだった。


 そこまで聞くや否や、博樹も慌てて荷物をまとめ出す。


「どうした急に」


 結弦が訝しげに博樹に訊く。

 博樹は一瞬、動きを止めて、結弦の方をキッと睨むように見た。


「見りゃ分かるだろ」


 依然として頭の上にはてなを浮かべる結弦に、博樹はため息をついて、はっきりと言い放つ。


「俺も行くってことだよ」





 保健室は、食堂の一つ手前の位置にある。

 西日の差し込む一階の廊下を抜けて、結弦と博樹の二人は保健室へと向かった。


 保健室の扉をノックすると、中からはいかにも優しげなやわらかい声が返ってくる。


「どうぞぉ」


 左向きの引き戸をがららと引き、保健室の中に入ると、簡易的なデスクの前に、水瀬舞子が座っていた。

 彼女は首を傾げて、結弦と博樹を見た。


「どうしたの? 体調悪い?」


 舞子は、特に怪我をした様子もない二人をじっと見る。


「実は、少し訊きたいことがあって」


 結弦が切り出すと、舞子はにこりと笑ってデスクの前から立ち上がり、控え室に引っ込んでいった。

 そして、すぐに小さな折りたたみ椅子を持って戻ってくる。


「とりあえず、座ったら? 立ちっぱなしでは疲れちゃうでしょ」


 そう言って笑う舞子は、男子二人には妙に色っぽく見えた。


「はは、どうも」


 差し出された椅子に腰をかけながら、博樹は舞子を横目で見る。

 肩の下あたりまでのストレートの黒髪。切れ長の目に、スッとした鼻のライン、そして控えめながらにふっくらと膨らんだ唇。

 絵に描いたような『美人』だった。

 さすが学生の間で《男子高校生泣かせ》と呼ばれるだけはある、と博樹は胸中で苦笑する。


「それで? 訊きたいことって?」


 舞子はデスクに頬杖をついて、斜めな目線で結弦を見た。


「先に言っておくけど、年齢は教えないからね」

「あ、それは別に興味ないです」


 冗談に対してのストレートな返答に舞子は吹き出して、その後に咳払いをする。


「年齢じゃないなら、なんだろう」

「先日の、1年F組の学生の財布が消えた件なんですけど」


 結弦がそう口にしてすぐに、舞子の肩が少しぴくりと縦に揺れたのを、二人は見逃さない。


「確か、あの日食堂で財布を見つけたのって舞子先生でしたよね」


 結弦は、あえて誤った認識をしていると誤解させるように質問をしてみせる。

 その日、舞子が1年F組にやってきて、食堂で財布が見つかったと伝えたことは事実だが、財布を本人が見つけたとは誰も言っていない。

 発見者が誰か、はっきりとさせるために結弦はカマをかけたのだ。


 案の定、舞子は片手をひらひらと振って、結弦の言葉を訂正した。


「見つけたのは私じゃないよ」

「業者ですか?」

「そうみたい」


 舞子は、デスクの上に広がっていた書類をひとまとめにして、たん、と机の上で角を揃える。

 そしてそれをデスクの中にしまった。


「その日はケガ人も病人もいなくて、片付けないといけない書類もなかったから暇してたの。そうしたら突然保健室の扉がノックされてね? 生徒かなぁと思ったら業者さんで」


 舞子はその時の情景を思い出すように、天井に視線を泳がせながらゆったりと語った。


「何かと思ったら、食堂に大量のお財布が散らばってるって言うから」

「散らばって?」


 そこで、結弦が口を挟む。


「ん?」


 突然話を遮られた舞子は、なぜそこで区切られたのか不思議だったようで、首を傾げた。


「そこ重要?」

「かなり」


 結弦が頷くと、舞子は思い返すようにこめかみのあたりを人差し指でくりくりといじりながら目を瞑った。


「あれはまさに『散らばってる』って感じだったわね。無造作に放り投げられたみたいな」

「ひとまとめになって積まれていた、とかではなく?」

「そうそう。いろんなところにバラバラーって落ちてる感じ」

「ちょっと待って」


 舞子の語り口を聞いて、つい今まで黙って話を聞いていた博樹が手を上げた。


「なぁに?」

「あたかも自分が見た、って感じの話し方だけど」


 博樹が言うと、舞子は目をぱちくりとさせて、すぐに首を縦に振った。


「そりゃ、呼ばれて食堂に行ったからね。業者さんだって、学校関係者でもないのに大量の財布の中身なんて確認できないでしょ」

「なるほど、つまり財布の中身を見て、1-Fの学生のものだって確認したのは舞子ちゃんってことか」

「そうそう。……というか舞子ちゃんって! ちゃん付けされるような歳じゃないよぉ」


 おどけて見せる舞子をよそに、博樹はふむと顎に手を当てた。

 業者がまず財布を発見し、最も食堂から近く、かつ教諭が常駐している保健室に報告がされる。そして保健教諭の舞子が財布を確認し、1年F組担任の伊藤静真に報告しにきた……という流れになる。

 特に不自然なところはない。むしろ、自然すぎるほどの流れだ。


 博樹がちらりと結弦を見ると、結弦も同じように一人で考え込んでいた。


「ちょっと、ちょっと」


 考え込む二人の男子学生を交互に見て、舞子は失笑した。


「どうしたの二人して」


 可笑しそうにくすくすと笑って、舞子はギシと椅子の背もたれに深くもたれかかった。


「実は二人の財布からは現金が抜かれていたのです! みたいな?」


 冗談めかして舞子が言うが、二人は首を横に振る。

 その様子を見て、舞子は首をかしげて、少し声のトーンを下げた。


「じゃあ、何がそんなに気になるの?」


 その声色は、まるで二人の行動を咎める意味合いが籠っているようで、結弦は背筋にうすら寒さを覚えた。


 結弦はうつむいて、答えを考える。

 素直に「消えた初恋の女の子を探すために、この財布騒動の謎を解かなければならない」などと言ったところで、舞子には首を傾げられて終わってしまうだろう。


 結弦が考え込んでいる間に、博樹が口を開く。


「今回の事件で、真っ先に疑われたのは俺たちのクラスメイトだった」


 博樹が話し始めると、舞子は脚を組んで、軽く微笑みを浮かべながら博樹の話を聞いていた。


「少なからず、険悪な空気になった。でも、こいつの“チカラ”を使って、クラスの中には犯人がいないと分かった」


 博樹が、結弦を指さして言うと、「ふうん」と舞子は結弦をちらりと見る。

 博樹はすらすらと、言葉を続けていった。


「そんなふうに、うちのクラスがかき乱されたっていうのに、犯人は分かりません、実害はなかったのでこの事件はなかったことにしましょう、って言うんじゃ納得できないでしょう」


 博樹が言い切る。

 結弦はその様子を見て、感心した。

 結弦には博樹が本心でそう言っていないことは手に取るように分かった。“チカラ”の効力もあるが、そもそも博樹はそういった正義感に燃えるようなタイプではない。

 しかし、それでもすらすらと、あたかもそう思っているかのように語れるのは一種のスキルのようなものだと、結弦は思う。

 結弦にはないものだ。


「あはは、なるほどね」


 しかし、博樹のその言葉を聞いて、舞子はけらけらと笑った。


「うんうん、スピーチが上手。政治家とか向いてるんじゃない?」


 舞子は可笑しそうに言って、すぐにスッと声を低くした。


「でもね、そんなんじゃないでしょ。素直に言えばいいのよ、『好奇心です』って」


 背もたれにもたれかかって、上目遣い気味に博樹の瞳を見つめてそういう舞子は、少し不気味な迫力を伴っていた。

 結弦が博樹を横目で見ると、博樹の目には明らかに動揺の色を発していた。

 舞子は二人の様子を見て、くすりと笑う。


「ごめんごめん、意地悪しちゃった」


 舞子はおもむろに立ち上がって、窓際に歩いて行った。

 そして、保健室のカーテンを閉め、代わりに部屋の電灯をつける。


「静真くんにも言われたかもしれないけどさぁ」


 舞子は椅子に座りなおして、ゆっくりと言った。


「この件はあんまり深く首を突っ込まない方が、身のためだと思うよ」


 舞子の言葉に、結弦は首を縦に振った。


「確かに、伊藤先生にも同じことを言われました」

「はは、だと思った」


 舞子はくつくつ肩を震わせてから、結弦の瞳をじっと見つめた。


「な、なんすか……」

「……いやね、こう言ってもやめる気はさらさらない目してるな、って思って」


 舞子は結弦や博樹の心情などお見通し、といった様子でそう言い放つ。


「やめないと、ダメなんですか」


 結弦が言うと、舞子は鼻を鳴らして質問を返した。


「ダメって言ったらやめるの?」

「……」

「じゃあこの問答に意味はないよね」


 舞子の言葉に、結弦は押し黙ってしまう。

 この保健室に来てから、会話のペースをすべて舞子に握られているような気がして、結弦は妙な居心地の悪さを感じずにはいられない。

 おそらく博樹も同じ気持ちだろう、と結弦は胸中で独りごちた。


「まあ私は静真くんほど優しくないからさ、君たちの好きなようにすれば? って思うよ」


 舞子はそう言って、結弦と博樹を交互に見た。


「私は、好奇心に身を任せきってる男の子って好きだし」


 そう言って鼻を鳴らす舞子に、結弦も博樹もどう言葉を返したらいいのか分からなくなる。


「まあでも、一つだけ」


 舞子はおどけた様子で肩をすくめて、言った。


「大人としての最後の忠告だけどさ」


 舞子の纏う雰囲気が、少し変わったのを、結弦は感じた。

 上目遣い気味の視線が、結弦にじっと刺さる。



「知ってしまうと危ないこと、っていうのもあるんだよ」



 その言葉は妙な迫力を伴っていて、結弦は引き続き押し黙っていることしかできなかった。

 舞子はクスッと笑って、椅子から勢いよく立ち上がった。


「よし、私も今日中に片さないといけない書類があるからね。帰った帰った!」

「あ、はい……」


 両腕を下から上にぐいぐいと持ち上げるようなジェスチャーをされて、結弦と博樹はおずおずと椅子から立ち上がった。

 結弦が立ち上がると、舞子はその肩をぐいと掴んで、自分の方に引き寄せた。


「うわ! な、なんすか」


 急に距離を詰められて結弦が慌てると、舞子は結弦の耳に唇を近づけて、小さな声で言った。


「恋愛の相談があるなら、いつでもおいで」


 その言葉に、結弦はぎょっとして、舞子の目をまじまじと見た。


「な、なんで」


 結弦が口をパクパクとさせると、舞子はへたくそなウィンクをしてみせる。


「恋してる男子は、目を見れば一目瞭然だから」


 改めて、恐ろしい女だ、と結弦は思った。






 日も沈みかけの帰り道、長い間、結弦と博樹は無言だった。


 ようやく口を開いた博樹は、少しげんなりとした様子で、言った。


「舞子ちゃんさ……美人だけど、なんか苦手だわ」


 同感だ、と結弦は苦笑を返すのだった。


 しかし、舞子の発言から得るものは少しだけあった。

 財布は無造作に食堂にばらまかれていたということ。

 その情景を聞けただけでも、財布の移動の方法を多少が想像しやすくなる。

 また、少しだけ前進したぞ、と結弦は内心で拳を握った。


 だがそれと同時に。


『知ってしまうと危ないこと、っていうのもあるんだよ』


 舞子の発言が、妙な重みを伴って、胸の奥でぐるぐると渦巻いていた。

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超越した佳代子さん しめさば @smsb_create

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