古志長尾家編

第11話 元服

1543年8月15日。


先代・長尾(ながお)為景(ためかげ)の喪も明けてしばらく経ったこの日、山城やまじろであり長尾家の本城(ほんじょう)である春日山城(かすがやまじょう)の一室では元服(げんぷく)の儀式が行われていた。

現当主・長尾(ながお)晴景(はるかげ)を快く思わない国人衆により、新たな神輿として、しぶしぶ命を出し、麓(ふもと)の林泉寺より呼び戻された為景四男の虎千代の元服である。


元服とは奈良時代から行われている、男児が成人する時に行う通過儀礼の一つであり、公家の女児では裳着(もぎ)とも言われている。


さて、戦国時代の元服時には新しい名を受ける事になっている。

幼名と言われる童(わらべ)の時に名乗っていた名前ではなく、今後一人前の将として活躍する時に使用する名である。


そして今日、虎千代は新しく『長尾(ながお)平三(へいぞう)景虎(かげとら)』と名乗るに至った。

烏帽子(えぼし)という帽子を被せる一時的な仮親である烏帽子親(えぼしおや)は晴景である。


『長尾』が名字・姓。

『平三』が通称・字(あざな)。

『景虎』が諱(いみな)・忌み名。


名字・姓はその名の通り、武家の名字であり他にも武田や織田などが一般的である。

通称・字は一般的に広く呼ばれる名であり、名字・姓+通称・字+殿どので会話中は呼ばれる事が一般的である。織田(おだ)上総介(かずさのすけ)殿や松永(まつなが)弾正(だんじょう)殿が有名である。

最後が諱・忌み名である。これは多くは一族に伝わる通字(つうじ)と烏帽子親から一字を賜る偏諱(かたいみな)で付けることが多い。


長尾(ながお)平三(へいぞう)景虎(かげとら)という名、これについてここで説明しよう。

『長尾』、これは家名であり武家名である為以前より持っていた名である。幼名は長尾(ながお)虎千代(とらちよ)なのだから。

『平三』、これは諱が親や主君にのみしか呼ぶことが許されていなかった為に、諱を呼ばなくても会話が出来る様に作られた仮名けみょう、字である。府中(ふない)長尾氏は坂東八平氏(ばんどうはちへいし)という平氏(へいし)の流れを組む血族である為、それを対外的にも含ませるために平三としたのだ。

『景虎』、これは府中ふない長尾氏に代々伝わる通字である『景(かげ)』、そして寅年の寅の月寅の日という寅に恵まれた事から『虎』の一字を用いて景虎と評した。


正装した晴景から烏帽子を受ける景虎。その表情は何処か誉れ高そうに、しかし決意めいた様に、瞳に覚悟を決めた一人の将としての顔をしていた。






元服の儀式も終わり景虎は一人の男と春日山城の一室で向かい合っていた。


外はすっかり夜の帳とばりが降り、辺りは夏の蒸し暑い空気が夜になっても消えずに残っている。密会をしている訳でも無い為、開け放たれたままの障子からは月明りが部屋の灯りよりも眩しく感じる。


儀式用の正装ではなく、酷く軽装な日常的な服装に着替えた二人の間には一つの酒瓶と少しの肴(さかな)が置かれていた。お猪口に注がれた酒を一口飲むと景虎はそっと語りだした。


「吉舊(よしもと)殿、これで私もいよいよ将になった……。なりたいなりたいとは思ってはいたが、いざなってみると……正直、不思議なものだな」


「不思議なもの、ですか。確かに昔の虎千……いや、景虎様だったらもっと癇癪を起していたかもしれませんね」


そう言って軽い声を出して笑う吉舊は手元の酒を一口飲んだ。


彼の名は金津(かなづ)吉舊(よしもと)。

景虎が当時としては高齢であった為景にとって予期せぬ子であった為、本当に自らの子かどうか疑いを持った。家臣団からも本当の子なのか疑問を持たれ、誰からも愛情を注がれる事の無かった景虎。

そんな景虎に唯一優しく、深い愛情を持って接したのが金津吉舊であった。妻が景虎の乳母(うば)であった関係から傅役(もりやく)として選ばれ、吉舊の前でだけ子供の様に振る舞った。

だからこそ戦の時の父・為景の事は尊敬しているが、同時に畏怖し近寄りがたい気持ちでいるのに対し、吉舊に対してはいつでも自然体でいることが出来るのである。


「まったく、酷いですよ吉舊殿は。それに二人きりなのだから、様付けもいりませんよ。家柄的には吉舊殿の方が上なのですから」


「何をおっしゃいますか。先代守護代である亡き長尾為景様から景虎様の事を託されたのです。家柄が上だ、下だという事は関係ありません。託されたその日から、私は景虎様の臣となり生涯仕えると決めたのです。ですからこれからも私は景虎様と言わせて頂きます」


「まったく、強情なのは相も変わらずなのですね。でもこの会話が私の心を安心させてくれます。林泉寺では毎日毎日を過ごす事が一生懸命で、この様な安心感は感じることが出来ませんでしたらね」


僅か数日前の事だというのに、少し離れるだけで何処か懐かしさを感じる。この気持ちは春日山城から林泉寺に入れられた時にも感じたような既視感を覚えてしまう景虎。もしかしたら寂しさを感じているのかもしれない、そう自嘲気味に笑ってしまう景虎を笑みを吉舊は不思議そうに見つめた。


「寺で何かあったようですね。それも、面白そうな事が」


目の前で思い出し笑いをしている我が子の様な存在に、そう言いながらも親の様に優しい瞳を向ける吉舊に、少しの驚き顔を向けて聞き返す。

何故分かってしまったのか、浮かんできた疑問を頭の片隅に押し消しながら。


「寺で少し……いや、相当な偏物(へんぶつ)に出会ったものでね」


「ほう、景虎様がそこまで言う偏物ですか。でも嫌いでは無いようですね、その人物(ひと)の事が。今のその人物(ひと)の事を思い出されたのでしょうが、景虎様の顔、とても嬉しそうですよ」


「やっぱり吉舊殿には分かってしまうのか。一応顔には出ない様に気を付けたのだがな。しかし……確かに吉舊殿の言う様にとても愉快な人物だよ」


景虎の頭には一人のニヤけた顔をした男の顔が浮かんでいた。

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