外伝2話 不安

1543年1月29日。


春日山城の一室には通常では考えられない様な不気味な雰囲気に包まれていた。


この日の早朝、守護代・長尾(なが)為景(ためかげ)が73年の人生に幕を閉じた。それは突然で何の前準備もしていない、誰もが予期しなかった事だった。

綺麗なまでの死に顔は、為景が一切病気の事を家臣の者達や家族の者達に伝えていなかった事で暗殺と言う噂まで流れたほどである。


10畳程の部屋に数十人もの家臣や親族が為景の最後の姿を見ようと集まっていた。しかし服装は武装した状態で、いつでも出陣できる様に装った状態で。


息を引き取り、部屋の中央に横に寝かされている白装束を着た為景。瞳は固く閉じられており、もう二度と開くことは無い。


為景の亡骸の近くには嫡男の晴景(はるかげ)を筆頭に、血の繫がった子供である景康(かげやす)、景房(かげふさ)、虎千代の四人がその顔を除いている。

奥には虎千代の生母であり継室(けいしつ)の青岩院(せいがんいん)や後の仙洞院(せんとういん)で有名な綾などの女衆(おんなしゅう)が目元に涙を浮かべながらも控えていた。


「父上……何故、何故何も言ってくれなかったのですか。ほら、目を開けて下さい。冗談だと言って……下さいよ……」


多くの者達が泣き崩れ、すすり泣く声が響く部屋の中にあっても一際大きな声が響いた。先代・為景の後を継いだ現長尾家当主である長尾(ながお)晴景(はるかげ)の声である。


「晴景様、家臣の前でございます。その様に大きな声はお控えください」


一部の人物には主体と言われるかもしれない、そんな姿に苦言を呈するのは一人の老体。

いくつもの苦難を乗り越えた証でもある深い皺が顔に刻まれ、鼻の下の人中(じんちゅう)の左右から顎(あご)に掛けては立派な白鬚(しろひげ)が蓄えられている。

髪も完全に白髪になってしまってはいるが、醸し出す雰囲気は若々しく、眼光鋭く力が宿っている。


あまりの大きな声で泣く晴景の行動は一つ間違えれば家臣に今後の不安を与えかねない。総大将はいつも勇猛果敢で皆を戦闘で引っ張って行かなくてならない。


そう考えている者が多いのがこの越後国の国人衆の基本的な考え方なのだから、父が無くなり泣き叫ぶという将としても男としても疑問視する様な相反する行動をしている晴景の行動は家臣たちには非常に先を憂慮させる。

しかし家臣が主君に意を唱えるのは相当な覚悟がいる。一つ間違えれば自らの首すら刎ねられかねない程に。


長尾家家老の宇佐美(うさみ)定満(さだみつ)はそんな不安が頭を過りながらも越後の将来を、長尾家の将来を、ひいては宇佐美家の将来を、それら全てを考えながらも泣き叫ぶ晴家に叱責の言葉を掛けたのだ。


辛いのは一人ではないと。


悲しんで泣いている場合ではないと。


今こそ雄姿を見せる時と。


「分かっている、分かっているのだ。しかし今日だけ……今日だけは……」


晴景の言葉は最後まで続くことなく、再び部屋には一際大きな鳴き声が響き渡る。


幼少より合戦よりも芸事を好み、病弱で床に臥せっていることも多くあった。嫡男という事や体が弱いという事もあり甘やかされて育った晴景には、将の器量が無いのではないか。

そう言われることも珍しくはなかった。


その性格は国内における政策にも溢れて出している。


父である長尾(ながお)為景(ためかげ)は上条(じょうじょう)上杉(うえすぎ)家や揚北衆(あがきたしゅう)の強い抵抗などによって隠居に追い込まれた。

しかし朝廷からは内乱平定の論氏(りんじ)を受けたり、三分一原(さんぶいちがはら)の戦いでの勝利などで優勢下での隠居である。よって越後国(えちごのくに)内部での影響力を非常に残した状態であった。


温和な性格で将としての器量に足りない嫡男・晴景を何としても長尾家の当主として、越後国の君主として認めさせるため。為景は隠居後の生を全て国内領主の内乱を鎮圧する事に注いだ。

誰よりも晴景を愛し、最良の理解者であった。


しかしそれは晴景にとっての事。

国内領主や隣国大名、主君上杉家にとっては、為景は二代にも渡る主君殺しの戦国時代でも類のない程の奸雄(かんゆう)である。戦国時代という血で血を洗い、下剋上など当たり前の時代においてもこれ程までの奸雄も珍しい。


自らが欲するものは主君を打倒しても手に入れる。そんな傲慢さに加え、毎日の様に戦場に身を置き、戦う事100戦という他に例が無い程の戦場を経験した。気に入らなければすぐに戦を。


そんな人物の言う事を誰が信じようか……。例え隠居していたとしてもだ。


だからこそ為景が力を注いでも国内領主の反発は根強く、自らが亡くなったこの時でさえ春日城の近隣には上条上杉家の軍勢が迫ってきているのだ。


「父上……私は、私を……一人にしないでくださいよ……」


未だに泣き続ける晴景の背を宇佐美は心配そうな顔で見つめる。いや、宇佐美だけではない。

部屋に控える多くの臣(しん)や国内領主が晴景の背に不安を感じてしまった。


思えばこの時から、晴景は長尾家の当主では無くなったのかもしれない。

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