Episode 20 研究所

 拓海さんが『研究所』と称してわたしたちを連れてきた場所。

 それはなんと明久さんが通っていた大学だというのだ。

 わたしたちが立っている場所は、道路から大学の門をまたいだ敷地の中にいる。

 背後には、横に長い門扉がリムジンカーの幅の分だけ開かれた校門がある。

 公道を走って、リムジンカーがこの大学の中に入ってきたのだ。

 校門の向こう側には、車線数の多い道路が見える。

 その道路は車の量が多いと思われるが、一台も走って来る様子はない。

 校門の敷地側では、門の左右に黒い服を着た人が二人立っている。

 首には黒いチョーカーをつけている。

 無論、ペアルックとかそういうわけではないだろう。

 玲さんのチョーカーに似ている気がするのは気のせいだろうか。

 もしかすると、わたしが知らないだけで、よく売られている商品なのかもしれない。

 校門の横には軽部員さんがいそうな大きな窓のついた小さな建物がある。

 その窓の向こう側にも同じような格好の人が一人いる。その人も黒いチョーカーをつけていた。

 こちらを見ているが、その建物から出てくる様子はない。

 この付近だけで、これだけの黒い服の人が配置されている。

 あまりに厳重すぎて、部外者は絶対に入れないという意思すら感じる圧がある。

 そんな大学の門の前、リムジンカーの横にわたしたちがいる。

 どうにも異様な光景であるのは確かである。


「どうかな、僕の研究所は」


 あたりを見渡していたら、拓海さんがそう尋ねてきた。

 わたしに聞いているのか、明久さんに聞いているのかはわからないけども。


「ここがお前の研究所なのかどうかはこの際置いておくが――」


 明久さんが続ける。


「あのアパートからここは、車ならすぐの場所だ。なのに、わざわざ遠回りしたな? 何度も同じ場所を通ってまでも」


 確かにリムジンカーは何度も何度も右に曲がったり、左に曲がったりしていた。

 それはそういう道なのかと思ったのだが、どうやら違うようだ。


「なんのことかなぁ? 僕は別にそんな意図は持ってないけどなぁ」


 当然、拓海さんははっきり答えない。


「土地勘のないコイツを惑わすためか? 小手先の細工としては、まあ有効だろうな」


 確かに、わたしがここから出るとして、どの方向に向かえばアパートや、渋谷の駅にたどり着けるかわからない。

 避難所になっている学校に向かえるかもわからない。

 とはいえ、ここの正面には大きな道路が見えてる。

 すぐに看板などで、渋谷の駅までであればたどり着けるはずだ。

 もっと看板を探せば、各場所の案内も見つかるはずである。

 ……もっとも、駅にたどり着いたとしても電車はまだ走っていないだろうけど。


「どう受け取るかはぁ、各々に任せるけど――んー?」


 拓海さんの言葉が急に止まる。

 言葉を止めたと思ったら、守衛室の方に拓海さんの意識が向いた。


「すみません、遊佐さん」


 その方向を見ると、どこからともなく黒い服の男の人が二人が近づいてきていた。

 その二人に白髪の混じった和服のおじさんが羽交い締めにされている。

 アパートの前で何かをつぶやきながらヨロヨロと歩いていたおじさんだ。

 どうしてこの人がこんなところに……?

 それとここがアパートからそう遠くないことを教えてくれる。


「その人、どうしたんだい?」


 おじさんは抵抗することもなく、顔をうつむかせてブツブツと何かをつぶやいている。

 しかし、その言葉ははっきり聞こえない。

 心ここにあらずという様子だ。


「いえ、敷地内で徘徊してる怪しい者がいたので確保しましたので。いかがしましょう?」

「うーん……」


 拓海さんは顎に指をあて、数秒考える仕草を見せる。

 少しの沈黙の後、拓海さんが口を開く。


「まあ、適当な部屋に案内しておいてぇ。後で、僕が面倒見るから」

「はい、分かりました」


 そうして、羽交い締めの姿のまま、大学の敷地の奥へと向かっていく。

 わたしたちはその姿が小さくなるまで見届けてから、改めて向き直る。

 あの後、おじさんはどうなるだろうか。

 と、少し空の方を見ると、白いトリのようなものが通り過ぎたような気がした。

 あれは、あのハトさん……?

 気のせいでなければそうだ。

 アパートで出会った不思議な白いハトさん。

 アパートから発つ時、いなくなったと思ったらついてきていたのだろうか。

 だけど、本当にあのハトさんなのか、すぐに確かめるすべもない。


「見苦しいものを見せてごめんねぇ」


 わたしの方へと視線を向けながら、そんなことを口にする拓海さん。

 まったく悪いと思っていない口調に聞こえる。


「……」

「良いから、さっさと移動しないか? いつまで校門の前にいるつもりだ」


 わたしが答えに困っていると、横から明久さんが入ってきてくれる。

 拓海さんは「うーん……」とつぶやいてから、


「そうだねぇ、まあじゃあいこうかぁ」


 何をいうでもなく、校舎建ち並ぶ大学の内部へと歩を進める。

 そうしてわたしたちは門扉から離れ、大学の敷地の中へと入っていくのだ。




 大学というものに初めて足を踏み入れたわたしは、見るもの全てが新しく感じた。

 まず、大学という学校の敷地内にも関わらず道路がある。

 中央に線が引かれていて、しっかり左側通行のようだ。

 いつもは車を走らせられるのだろうか?

 その道路に沿うように木々が植えられていて、ここが私有地であることを忘れそうになる。

 まるで公道だ。

 そして、その道に沿って、高校の校舎みたいな建物がいくつも建っていた。

 規模が違う。あまりにも大きい。

 その建物一つ一つに特徴的なデザインがあり、どこにどのような建物があるかがわかりやすい。

 それでいてその一つ一つが高校の校舎のようで、どれだけの人数が集まるのかを考えると頭が痛くなる。

 校舎一つが、一つの学校だと考えた場合、高校とはスケールがまったく異なっているのがわかってしまう。

 さらには、全国チェーンのコーヒーショップの看板が掲げられた建物もある。

 先程、学食の案内に、コンビニチェーンの看板まで見かけたので、まるで一つの街のようでさえあると思ってしまった。

 ただ、コーヒーショップの窓の中の明かりはついておらず、今は閉店しているようだ。

 残念だが、利用はできなさそうだ。

 学食やコンビニはわからないが、利用は難しいかもしれない。

 本来の大学の姿を想像すると、きっと大学生が建物内外にたくさんいるだろうことは、簡単に想像がつく。

 このコーヒーショップだって、いつもは賑わっているはずなのだ。

 しかし、今はわたしたちと、黒い服を着た人が見回りをしている程度で、とても静かだ。

 風で木々が揺れる音と、人の歩く音だけ。

 人の声は聞こえない。

 もし、【獣化病の始まり】がなければこのような光景にはならなかったはずだ。

 それに来年にはお兄ちゃんが大学に通うようになっていたはずだ。

 賑わっている大学のたくさんの人の中のひとりだったはずなのだ。

 わたしも来年には受験勉強を経て、再来年にはどこかの大学に通うことになっていたかもしれない。

 そう考えただけで【獣化病】という存在はどれだけの日常を奪ったのかを意識させられる。


「……これはどういうことだ」


 黙って歩いていたわたしたちの中で、最初に口を開いたのは明久さんだった。


「どういうことだって、どういうことかなぁ?」


 拓海さんはまるで何もわかっていないかのように、明久さんに聞き返す。

 黒服の人たちは、拓海さんが通る時に深くお辞儀をしている。

 これで何もない、というには無理がある。


「他に学生がいないだろ……それに、ここに入った時から気になっていたが、黒い服を着た奴らはなんだ」

「【獣化病】なんてものが発生しちゃったし、大学は臨時休校に決まってるじゃないか。黒服は、まあ、僕が雇ったんだよねぇ」

「雇った?」

「おっと、口が滑った」


 おどけるかのように手で口を覆う。

 袖の伸び切って、ボロボロになった白衣が揺れる。


「ウソつけ」

「大学が休みだしぃ、警備が手薄だと困るからぁ、ボディガード?」


 その返答に明久さんの眉間にシワが寄る。


「にしては数が多い。こんな大学中を警備してどうする。お前の周りに何人かいればいいだろう」

「というわけにはいかないんだよねぇ、『僕の研究所』といっただろぅ? それだけ機密にしたい研究が多くなってるのさぁ」

「研究所? そんなに厳重な警備が必要な研究を一人で、か?」

「そう一人で……といいたいとことだけど、今日からはキミを含めて二人さ」

「……」


 明久さんを含めて二人。

 明久さんの表情からは隠しきれない嫌悪感がにじみ出ている。


「……どういう魔法を使った? この規模――しかも大学を貸し切り状態にした上で、この人数のボディガード。普通じゃあない」

「魔法ってほどじゃないけどねぇ。今流行りの『疫病』の研究は儲かるんだよねぇ」

「どうだか。どうせ正規の方法を取っていないんだろ?」

「さぁ」


 と、簡単に流して、


「こう見えて忙しいんだよぉ? 研究は当然として、論文書いたり、テレビとかメディアからの熱烈なオファーに答えたりとかぁ」


 拓海さんが続ける。

 ピリピリとした空気に、わたしは何も口を挟めない。


「本当はさぁ、この案内してる時間すらもったいないんだけどぉ、『親友』の歓迎は僕自身がしないとねぇ」

「……で、何が目的だ。大学を占領した目的と、俺と風香を連れてきた理由だ」

「やっぱりそうなるよねぇ? 簡単に述べると、明久くん。キミが欲しい。それが約束だったはずだけどぉ?」

「俺に何をしろと」

「研究の手伝いをして欲しいんだよぉ。キミだって優秀な研究者でしょう?」

「どうだか?」

「そういうところ、僕はキライだなぁ……優秀なのにそうやって、ツメを隠すところが」

「そりゃどうも」


 わたしには明久さんが誤魔化そうとしているようには見えなかった。

 だからといって、拓海さんがそういうのであればきっと優秀なのだろう。

 実際のところはわたしにはわからなかった。

 とはいえ、明久さんが拓海さんから優秀だといわれるのを良くは思っていないようだ。


「で、風香ちゃんが欲しい目的は……今は答えられないかなぁ」

「どうしてだ?」

「どうしてもぉ」

「……」


 何か理由があるらしい。


「それとぉ、ここを研究所にしている理由は、設備が整っているからで都合が良かったんだよぉ」

「設備が整っていることは認めるが、大学を占領するほどなのか?」

「それも都合が良かったしぃ、簡単に――おっと、ここからは内緒だよぉ」

「わかった。そうなったら、お前は絶対に口を割らないもんな」

「わかってくれて嬉しいよぉ」

「……それと、俺たちはどこまで連れていかれるんだ?」


 確かにそうだ。

 大学の敷地の中まで入って、拓海さんについているが、そこまでいくのか聞いてはいない。


「単刀直入にいうと、今日から住み込みで研究を手伝って欲しいんだ」

「住み込み……?」


 明久さんは眉をひそめた。

 わたしもその言葉に疑問を持つ。


「そう、その言葉通り、ここで寝泊まりして"僕"の手伝いをして欲しいんだ」


 拓海さんは「僕」を強調して両腕を広げる。


「そのために、俺を呼びつけたということか」

「そうさ、無論風香ちゃんも、手伝って欲しいことがあるからね」

「わたしも……」


 だからこそ、アパートではドアまで破壊して、ここに連れてこられたのだ。

 それに、わたしに手伝って欲しいということはなんだ。

 特別なことはできないし、できることもない。


「何をして欲しいかは、追々説明するから、それまでは待っててねぇ」


 そういうのだから、何か目的があるはずだ。きっと。


「……」


 明久さんはわたしの顔を見ながら、だがしかし何も口にはしなかった。

 この状況である以上、何もいえることはないかもしれない。


「まあ、ここまでついてきてるってことは、断れないってことだよねぇ?」

「話だけは聞いてやるつもりだった……が、簡単に帰してくれるわけではないだろ?」

「そうだねぇ」


 うなずく拓海さん。

 明久さんはあたりの景色を見渡す。


「この敷地から出ることは?」

「僕が許可すれば。逃げちゃうような事があれば、地獄の底まで追いかけるからぁ」

「わかった。どうせ、お前からは逃れられない」


 両手を上げて、抵抗しない意思を見せる明久さん。

 大学に入ってから見た黒い服の人数や、拓海さんの様子を見る限りは、ここから逃げることはできなさそうだ。


「わかってもらえたところで、そのままついてきてねぇ」


 そうして、話しながらも立ち止まることなく、大学の敷地内を進んでゆく。




 が、しかし、思ったよりも道のりが長い。

 どうして大学内に道路のような道が引かれているかを理解したような気がした。

 校門から結構歩いたような気がする。

 それでも、まだ目的地にはたどり着かないようだ。

 目的地には何があるのかわからないけど。

 遠目ではあるが、黒い服の人は何人かすれ違った。

 やはり、警備をしている人の数が多い。

 それだけの機密の研究があるということか。


「風香ちゃん、遠いって思ったでしょう?」

「えッ」


 顔に出ていただろうか、拓海さんに話しかけられる。


「授業と授業の間に、別の校舎に移動しないといけない時があってねぇ、そういう時はすごく大変だったんだよぉ?」

「そうですか……」


 休み時間の移動教室の規模が大きくなると考えると大変だ。

 だけど、想像がつかない。


「おっと、もうちょっとで曲がるからねぇ」


 確かに、目の前には円形の花壇があり、十字路のようになっていた。

 花壇を囲むような道路となっていて、よく見る十字路に比べたら事故は少なそうだ。

 その花壇の周りでは、左回りに進んで最初の道で、細い道に入る。

 その細い道の左右に、コンクリートの校舎が建っている。

 入り口の近くの校舎は新し目に見えたが、この辺りは年季が入っている。


「ちょっと古いって思った?」

「……」


 拓海さんに声をかけられて、ビクッと肩が震えてしまった。

 先程から、思ったいたことを見透かされているように感じてしまう。

 まるで、心が読まれているようで、すぐさま返答ができなかった。


「まあ、そう思うよねぇ。実際古いしぃ」

「そんな場所に住み込めといっているのか?」


 明久さんが間に割って入る。


「ま、そうだねぇ。研究している棟が近い方が良いでしょぅ?」

「それなら、あのアパートでも良かっただろう?」

「そうしたら、逃げられちゃうかもじゃん? 明久くんは優秀なんだから、僕の目のあるところにはいて欲しいんだ」

「フン」


 明久さんが鼻を鳴らす。


「ということで、中はもうちょっとはキレイにしてあるからぁ。ガマンして欲しいなぁ」


 ここで「イヤです」なんていっても改善されるわけではあるまい。

 返答に困っていると、この話題はこれ以上続くことはなかった。

 そうして進んでいくと、とある建物の前で右折し、細い道路からその建物の方へと向かう。

 この建物は小綺麗で、比較的新しそうだ。

 広さのほどは分からないが、大体五階建てくらいか。

 その建物の出入口の前までやってくると、拓海さんはドアノブをひねって扉を開ける。

 金属の重い音を立てながら扉は開かれる。

 どうやら施錠はされていないようだった。


「あ、夜でもカギは閉めないからねぇ、ここは二十四時間出入り自由だよぉ」


 わたしがドアノブの付近を凝視していたのを察したのか、拓海さんがすぐさま説明してくれる。


「ってことは、見られて困るような大事な情報はここにはないってことか」

「そゆことぉ」


 当たり前だというかのように拓海さんがいう。


「ちなみに僕の研究棟は反対側の建物で、そっちは常に施錠されているから、必要なら黒服を捕まえて僕に連絡して欲しい」

「一人で研究するには自分と広い建物だな。城か?」

「まあ、城だし、それだけ機密が多いからねぇ」

「一週間しか経ってないのに、研究は進んでいるんだな」

「僕とキミの研究分野を忘れたのかい?」

「ん……」


 明久さんの言葉が詰まる。

 なんとなく、【獣化病】に関係する研究ではあることはわかっていた。

 しかし、実際に明久さんや拓海さんがどのような研究をしていたのか、わたしにはわからない。


「いいから進め。立ち話をしている場合じゃないんだろう」

「明久くんがそれで良いなら、ささ、入って」


 そうして、誘導されるがままに、建物の中まで入っていく。

 建物の中の床は高校で見るようなタイル張りだ。

 違いを挙げるなら、下駄箱はなく土足で良いことだろうか。

 入ってすぐは踊り場だが、そこから左右に通路が伸びている。

 その通路の両壁には、ドアが等間隔で並んでいる。


「この研究室で働いてもらっている人たちには、ここで寝泊まりしてもらっているんだぁ」

「ここで……?」


 明久さんが口にする。


「そう、ここでちょうどいいでしょ? 部屋いっぱいあるしぃ」

「他人の研究室を宿代わりにして良いのか?」

「【獣化病】の研究が第一だしぃ、今は僕の研究所だからいいんだよぉ」

「そうかい」


 確かにドアの横には、人の名前と「研究室」という札が取り付けられている。

 誰かの研究室ということか。

 それだけの数の生徒がいれば、先生もいてそれぞれが研究をしているのか。

 その研究室で勝手に寝泊まりすると考えると、なんともいえない気持ちになる。

 人の使っていた部屋を無断で使っているようで……そんなことを考えたら、昨日アパートだって……。

 あまり考えてはいけないことなのかもしれない。

 そして、通路を歩いているが寝泊まりしてもらっているという割には静かすぎる。

 わたしたち以外の気配が何もない。

 ……とはいえ昼だし、全員が警備をしていると考えると、静かなのは当然といえば当然か。

 白い壁に、黄色いドア。

 等間隔に並んでいるものだから、歩きながらずっと見ていると目が回ってくる。

 もしかしたら、病院のイメージの方が近いのかもしれないと思ってしまった。

 そうして、いき止まりの近く、端から二つ目のドアで拓海さんが止まった。

 そのドアノブをひねって、ドアを開ける。

 金属のドアでとても重たそうに開く。


「さ、ここが君たちの部屋さぁ」


 先に部屋に入った拓海さんがそういって、わたしたちも入るように促す。

 明久さんがまず先に部屋に入って、次にお兄ちゃんが入る。

 それを見て、わたしが最後に続く。

 外装も古かったが、部屋の中も全体的に古いような気がした。

 床は高校でも見るような材質の床で、ところどころ黒ずんでいる。

 壁も白というよりねずみ色で、塗装が剥がれかかっている箇所もある。

 明久さんは「ふむ……」と頷いているので、そういうものなのかもしれない。

 反面、壁の一つの面は、水族館で見るようにガラス張りになっていて、その向こう側は水で満たされていた。

 このガラスだけは真新しそうで、これだけ後から取り付けられたのかもしれない。

 部屋に一面に無理やりガラスを差し込んで、水槽にしたかのようで、雰囲気に合っていない。

 一面全てがガラス張りかというと、そうでもなく、天井の近くでガラスが途切れている。

 見上げると水面が見えるし、ガラスの壁の両端にはハシゴが備えられていて、そこから巨大な水槽を上から覗けるようだ。

 その水槽には、一匹のサカナ――おそらく、玲さんだろう――が泳いでいる。

 そして、真新しそうな設備といえば、ベッドは二つ。ちょっと離れている。


「同室にしてみたんだけど、どうかなぁ?」


 ニヤニヤと拓海さんが尋ねる。


「どうして同室……いや、何でもない」


 そういって、言葉を濁す明久さん。

 何か思うことでもあっただろうか。

 アパートの一室で一晩過ごした……のは、銃の使い方を教えてもらうためだった。

 そうでなければ、家族でもない男の人と同じ部屋というのもおかしな話だ。

 しかし、それで別室にしようと提案しなかったのだ。

 きっと、何か意図があるに違いない。


「風香ちゃんは何か要望があるなぁ?」


 拓海さんが聞いてくる。


「いえ、これでいいです」


 余計な口を挟まない。

 足元のお兄ちゃんはどことなく不満げだが、抗議の声も上げずに静かにしていた。


「ということで、部屋の中は自由に使っていいからねぇ」


 といっても、テレビがあるわけでもなく、暇をつぶせるようなものもない。


「あ、ちなみに研究所の敷地内だったら自由に散策して良いからねぇ」

「なんだ、軟禁というわけではないのか」


 明久さんは意外そうな感情を隠さずに挟む。


「そこまで鬼じゃないさぁ、運動不足になっちゃうしさぁ。この部屋にいてもつまらないでしょ?」

「そうだな、まだアパートの方がマシだった」

「そんなこといったら玲ちゃんが可愛そうだよぉ」


 ねぇ、と続ける。


「玲ちゃんも、今まで狭い思いをしていただろうし、元気そうで何よりだぁ」


 わざとらしく拓海さんが玲さんの方を見る。


「……」


 明久さんは眉間にシワを寄せ、何かいいたげであったが、その寸前で喉を鳴らして飲み込んだ。


「それよりも、玲の安全は保証されているんだよな?」

「ま、明久くん次第だねぇ」

「人質ってことか」


 徹底的に明久さんを逃さないという強い意志がある。

 逆にいえば、わたしはそれだけ足を引っ張っていることになる。

 だけど、アパートに比べたら玲さんは安全なのかもしれない。

 ……いや、結局命綱である酸素の供給の権利は、拓海さんが握っているのには代わりはないか。

 それを考えると、わたしも下手な行動はできないかもしれない。

 などと考えていると、


「あ」


 と思い出したかのように拓海さんが手を叩く。


「で、君たちの専属ボディガードを呼んでくるから、部屋でゆっくりしていてよ」

「……それで俺たちを監視しようっていうわけか」

「じゃ、ちょっと待っててねぇ」


 そういい残し、拓海さんは部屋から姿を消していった。

 ドアがバタリと閉まる。

 それから数拍おいて、明久さんは「ふぅ」と息をつき、部屋の手前のベッドに腰を下ろす。


「どっからベッドを用意したんだ……」


 と、ボヤいている。

 その様子を見て、わたしはもう片方のベッドに座った。

 ギシギシと、固めのマットレスのベッドだ。

 寝心地は悪くはなさそうだけど、良いともいえなさそうだ。

 とはいえ、ドッと疲れてしまい、このまま眠れてしまいそうなのも確かだ。

 もしかすると、久しぶりにまともな寝床かもしれない……アパートがまともじゃないといったら嘘にはなるが。

 思えば、【獣化病の始まり】をテレビで見て、お母さんとお父さんが渋谷で生きているかを確かめるために、横浜からここまで歩いてきた。

 もうすぐ渋谷というところで、男の人に連れ去られそうになったところ、明久さんに助けられた。

 お母さんもお父さんも【獣化病】でいきていはいなかったけど、この目で確かめることはできた。

 そして、明久さんと別れてサヨナラかと思ったら、こうなった。

 怒涛の一週間だった……いや、【獣化病の始まり】から怒涛じゃなかった人もいないだろう。


「風香」


 これからどうなるのか、と考え始めそうになったところで、明久さんがわたしの名前を呼んだ。


「その……勝手に同室で話を通してしまってすまない。どうしても、お前を一人にするわけにはいかなくてな」


 明久さんのその言葉に、お兄ちゃんが一度吠えて抗議した。


「……俺の目の届かない場所にいることが、リスクだと思ったんだ」


 本当であれば、明久さんだって、わたしやお兄ちゃんと同室は避けたかったんだと思う。

 こんな時でなければ、わたしも同室は避けて欲しいといったつもりだ。

 だけど、それはあまり良くない予感がするのは、明久さんと同じだ。


「それと、いっておきたいことがある」

「……はい」

「何があっても、警戒は怠らないで欲しい。いつ、どんな手段で、アイツがお前に手を出すか想像がつかない」

「……」


 なんとなくわかる。

 だけど、気味の悪い――未知への警戒は難しい。

 わたしはただただ静かに頷くことしかできない。


「……お前が巻き込まれているのは、アイツにとって何か確かめたいことがあるからだと思っている」


 そのまま明久さんは言葉を続ける。


「そうでなければ、お前は開放されているはずだ」

「はい」


 拓海さんに出会ってからその間に、何か気になることがあったのだろう。

 わたしには特別な何かなんてないはずだ。

 知識もなければ、特殊な力があるわけでもない。

 それでも、わたしがこうして選ばれたことには何か意味があるのか。



 ――コンコン。



 色々と思考を巡らせていると、ノックの音が部屋に響く。

 それだけの時間が経過してしまっていたようだ。

 ノックの音からしばらくして、そっと静かにドアが開かれる。

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獣化しいきゆくこの街は 瀬田まみむめも @seta_mmmmm

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