Episode 19 Other Side -拓斗-


「みんな、ありがとうー!」


 彼女が辺り一帯に響くような声で叫ぶと、鳴り響いていた曲が止まる。

 ショッピングモールの一階の一区画に組まれた安っぽいステージ。

 最上階である五階まで吹き抜けになったすべての階から、そのステージを見ることができる。

 一階は立ち止まって聞いてくれている人がまばら、後は気にしつつも通過する人間が多い。

 三階から上のフロアを見上げると、乗り出して見ているような人は各階で一人か二人か。

 そんな僕は二階から彼女の姿を見ていた。隣には頭がちょっと寂しいおっさんがいるだけ。このおっさん今いるこのショッピングモールの責任者である。

 ステージで息を切らす彼女は、制服を着崩して豪華にしたような――いわゆるアイドルの衣装に身を包み、長くツヤのある黒い髪をかきあげていた。

 彼女が歌って踊って、その髪を揺らし、汗を散らす姿をこの目に焼き付けるかのように眺めるとともに、その客入りも伺っていた。

 しかし、世間から見れば彼女は無名であり、立ち止まって見るような観客は多くない。

 一応、ステージの目の前には座って見ることができるように、パイプ椅子がそれなりの数用意されている。

 だが、その椅子でさえ、空席の方が多い。

 それもそうだろう。【獣化病】の影響で人の出が少なくなっているのに、無理もない。

 とはいえ、彼女にとっては貴重なライブの機会でもある。

 肩で呼吸をして息を整えている彼女に、少ない観客のまばらな拍手が送られていた。

 その拍手の音は、僕のいるこの場所までは届いてこない。

 その代わりではないが、


「いやぁ、彼女の歌声は良いですねぇ」

「ええ、まったくです」


 僕の隣にいる、責任者が拍手をしていた。

 お世辞なのか本音なのか、はたまた嫌味なのかはわからない。

 少なからず、嫌味ではなさそうだった。

 そして、間違いなく、彼女の歌声と容姿は最高であることは認めよう。


「なのに、無名だなんて勿体ない。ぜひとも、早く有名になれることを祈っていますよ」

「ありがとうございます」


 心に思っているのか、思っていないのか、そんなことはどうだって良かった。

 ただ、好意的に受け取っておこう。

 無名である以上、こうしてこんなご時世であっても、様々な場所で歌って踊って、たくさんの人に知ってもらう必要があるのだ。


「しかし、このご時世で外出する人は減り、催しをしようにも受けてくれるアーティストも少なくてですねぇ。正直、助かります」

「はは……」


 ステージの周辺にはほとんど人はいない。

 集客に貢献しているとはとても思えない。

 それにも関わらず、このステージで彼女に歌わせてくれたのは、この責任者の趣味だけなような気がしてきてしまう。

 その様子を見て、何を考えているのかはわからないが、責任者は「はぁ……」と小さくため息をついて、


「こんな状況なので、客足も悪くて、どうすればお客さまが増えるか考える日々でして」


 確かにただの感染症が広がったわけでもなく、地震のような災害が起きたわけでもない。

 【獣化病】という正体不明の現象が発生したのがすべてだ。 


「僕らアーティストにも、ショッピングモールにも、それぞれ悩みがあるといったところですかね」

「いやはやその通りで、やはりそちらも?」

「ええ、僕も苦労が絶えませんよ」


 【獣化病の始まり】さえなければ、もう少し彼女が歌う機会も多かっただろうに。

 まあ、苦労というのはそれだけではないのだが。


「……少しでもお客さまに楽しんでいただければと思いますが」

「僕としてもそうであれば、と思いますよ」


 あの、まばらな人たちに、立ち止まって見てくれた人たち。

 あの人たちは何を思ってこのショッピングモールに来て、彼女に歌声に何を感じただろうか。

 ただ、少なくとも、


「それならば今日は――」


 と、返そうとしたところ。

 いろいろな人を勇気づけ――


「こんな時だからこそ、私は皆さんに歌声を届けられればと思います!」


 これがいいたかった。

 ステージから彼女の声が耳に届く。


「また、お会いしましょう! 元気な姿を私に見せてください!」


 深々とお辞儀をする彼女に、再び拍手が送られる。

 そろそろ彼女の出番はおしまいだ。

 アンコールの声もなさそうで、舞台袖に移動する姿を確認する。


「さて、お姫様を待たせるとうるさいので、この辺で失礼します」

「ええ、ありがとうございました。また、よろしくお願いします」


 僕は一礼して、責任者と握手を交わす。

 そして、僕はこの場から立ち去り、関係者以外立入禁止と書かれた重たい鉄製の扉を抜ける。

 どうして彼女について偉そうに喋っているかといえば、何を隠そう、僕は彼女――東野 真朱(ひがしの まあか)のマネージャーをしているのだ。

 このライブだって、あの責任者に無理をいって、やらせてもらっている。

 ……とはいえ、真朱のファンだったのか、二つ返事だったので交渉もあまり苦労はしなかったのだが。

 打ち合わせの時には、「もう一人はどうしたのか」と尋ねられたっけ。

 相当詳しくないとできない質問だったので正直驚いた。 

 元々は真朱一人ではなく、もう一人アイドルがいて、ペアで活動していた。

 元々はPearl & Pearl(パールアンドパール)という二人組のユニットで活動していた。

 もう一人の容姿も正直にいえば、真朱ほどではないが、二人並んでいて違和感がないほど美人だった。

 それに性格も良く、僕に懐いていた……と思う。

 しかし最近になっての活動は、現在は真朱一人になってしまっている。

 あれほど懐いていたが、どうしてもということでパルパルは解散し、真朱一人で活動することとなった。

 その彼女も今でもそれなりに活躍しているようで、その様子を時折連絡してくれる。

 【獣化病】が広がっている今でも、たまにテレビの画面越しに彼女の姿は確認している。

 【獣化病】が発生する前だが、一度だけ、ペアとしての再開を打診してみたが「それだけは絶対に無理」と返答をもらってしまった。

 それ以降、彼女と連絡取る時は、ペア復活の話題を出さないようにしている。

 その理由はすべて、真朱にあるのだが……まあ、すぐにわかることだろう。

 小走りでショッピングモールのスタッフ専用口から通路に入り、階段で一階に降りる。

 そして、いくらか進むとドアに「東野 真朱 様」と書かれた部屋の前につく。

 これが彼女の控室となる。

 真朱の方が距離的に近かったはずだし、すでに控室で待っていることだろう。

 周囲には特にスタッフはいない。 

 これも打ち合わせの時には警備について心配されたが、極力人は少なくするようにお願いしておいた。

 ……それも彼女が関係している。

 あまり人が多くない方が、都合が良いのだ。

 ノックをして反応を待つ。返事は特にない。

 少し間を置いてから、ドアノブをひねる。

 ドアを開け、部屋に入るとムワッとした煙たい空気に顔をしかめる。


「オイ、タクトォ、おせぇ」


 間髪入れずに、ドスの利いた少女の声が飛び込んできた。

 先程ショッピングモールで歌って踊っていた少女が控室の中央で、足を組みタバコを咥えてこちらを睨んでいる。

 舞台で輝いていた美少女の雰囲気はまるでない。別人のようだといわれれば、納得できてしまうほど。

 その姿こそが、彼女の真の姿だ。

 机には吸い殻がいくつも入った灰皿、煙草の箱が数個、空のペットボトルに至ってはキャップが外れたまま横倒しになっている。


「衣装のままでタバコ吸わないで、臭いがついちゃうでしょうに」

「テメェがヘビースモーカーって事にしてんだから良いんだよ。アイドルの目の前でタバコを吸う、困ったマネージャーだ」


 といいつつ、くわえていたタバコを灰皿に押し付ける真朱。


「いや、何度も注意してるけど、君、タバコ吸って良いんだっけ?」

「うるせぇ、マネージャーに無理やり吸わされて困ってるんですぅ」


 断じてそんなことはない。それどころか、僕はタバコを吸ったこともない。

 この煙たい空気でさえ苦手だ。


「というか、ここ禁煙――」

「るせェ、誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ?」

「それは、真朱……だけど……」

「それならオマエは黙って私の『まねーじめんと』やってればイイんだよ」


 と、いった感じだ。

 歌は誰よりも美しい声で歌えるが、性格がこの通りなのだ。

 人目のないところでは、ところ構わずタバコを吸い、そのタバコがなくなれば僕を召使いかのように使う。

 しかし、ファンの前では可憐で素直な少女を装っている。

 その化けの皮が剥がれないようにと気を使うのも僕だ。

 こんなんではペアなんて解消されてしまうなんて当たり前だろう。

 だが、僕は真朱の声には惚れていた。

 どうして彼女は認められず、ショッピングモールでなんか歌っているのだろうか。

 本来なら、もっとCDを出して様々なメディアに露出して、有名になっているはずなのに。

 歌声だけであれば、そう思っていたに違いない。


「真朱は歌うのは好きかい?」


 独り言のように、口に出てしまった。


「……きゅ、急になんだよ気持ちが悪い」

「何となく、聞いてみたかっただけ」

「歌うのは嫌いじゃねェよ……むしろ好きだ」

「そっか」


 それなら良かった。

 歌すら嫌いなのに、無理やり歌っていたとなっては誰も救われない。


「勘違いするなよ、テメェのために歌っているわけじゃない」


 真朱はそういいながら顔をそむける。


「うん、わかってる」


 そして、沈黙が続く。

 空調の音と時計の針が進む音が響き、時が過ぎる。

 秒針が一周するくらいになって、


「ほら、早くヤニ買ってこいヤニ」


 照れを隠すかのように、彼女がピンクの財布を僕に投げつけてくる。

 頬に当たって、それが床に落ちる。

 ……まったく。

 僕はそれを拾って、


「はいはい、じゃあ行ってきますよ」

「さっさと行ってこい、クズ」


 意外と可愛ところがあるのだ。


 

 真朱に追い出されるかのように控室を出て、再び関係者専用口からショッピングモールへと戻る。

 いざタバコを買おうとしたが、どこで売っているだろうか。

 喫煙所すら見かけないので、ショッピングモールの外まで行かないと買えないのではなかろうか。

 と考えつつ、売っていそうな店を横目に進んでいくと、入り口にほど近いところにチェーンのコンビニを見つけた。

 こんなご時世でも、コンビニというのは便利なもんだなぁと感じながら入店する。

 自動ドアが開くと、よく耳にしたメロディが流れる。

 店員はレジ打ちをしていて、こちらに視線を送るだけだった。

 広くも狭くもない店内に、まばらな客。

 こんなショッピングモールまで来て、コンビニに立ち寄るような人間はそうそういまい。

 タバコはレジで番号を伝えるだけなのだが、レジ待ちの列が何人かいるので、少しだけ店内を見て回ろうと思った。

 【獣化病の始まり】以前は常に何かしらのキャンペーンが行われていたが、そういったポップは見当たらない。

 今はそんなものをやっている場合ではないのだろうか。

 とはいえ、コンビニの品揃えとしては欠品がほとんどない。

 食料品があれば、菓子、ホットスナック、玩具、雑誌……ないものを探す方が大変なのではないだろうか。

 物流がそれなりに動いているということになる。

 人間が突如動物の姿へと変わる【獣化病】という現象が発生しているのに、だ。

 自然災害のようなものなのに、こうして日常に近い生活ができているんだから不思議なものだ。

 などと考えつつ、店内を何周かしている間に、レジ待ちの列が減ってきたので僕はその最後尾に並ぶ。

 少し列で待ち、僕の番となったため、店員に番号を伝え真朱のためのタバコを購入する。

 特に年齢確認もされずに、いわれるがままの値段の支払いを行う。

 会計も終え、さて戻ろうと入り口に向かう。

 出入り口の自動ドアが開き、出ようと思った矢先、


「おやぁ、あなた、思い悩んでいる顔ですねぇ」

「!?」


 入って来る男性を横に避けようとしたところ、すれ違いざま、急に声をかけられて一歩後ろに下がる。


「そんな警戒しないでくださいよぉ」


 とはいえ、ボサボサの髪に、使い込まれた白衣をまとって、折れてしまいそうな細身の身体の男に声をかけられたら身構えてしまうのは無理もない。

 大学の構内のコンビニならまだしも、ここはショッピングモールだ。あまりにも不自然過ぎる。

 不審者として通報されても文句はいえまい。


「あんたは何者だ?」

「通りすがりの研究者ですよぉ」


 ショッピングモールで通りすがりもあるか。


「いや、ねぇ、袋いっぱいのタバコを持っているのに、あなたからはタバコを吸っている臭いがしないんで、不思議だったんですよぉ」


 ビクリと、僕の心臓が跳ねる。


「臭いでわかるのか……?」

「いやぁ、人より鼻が利くものでぇ……まあ、そんなことは良いです」


 なら聞くな。


「立ち話もなんですし、ちょっと外でどうですかぁ?」

「え、ああ、まあ……」

「待ってますんでぇ」


 僕の返事を待たずにコンビニから出ていってしまった。

 いや、入ってきたばかりで出ていくの? 店には用事がなかったのだろうか。

 入り口はここ一つしかなく、そのまま逃げようにも、すぐに捕まってしまう予感がする。

 目的はわからないが、まあ、話だけ聞いてさっさと戻らねば。

 お姫様がさらに不機嫌になってしまう。

 覚悟を決めて、後を追うように僕もコンビニから出る。


「おやぁ、意外と早かったですねぇ」

「いや、会計も終わって出ようとしていた人間に話しかけておいて、おかしいでしょう」


 ショッピングモールに似つかわしくない不審者が、僕になんの用事だというのか。


「間違ってたら大変失礼なんですがぁ」


 そもそも急に話しかけてくる方がよっぽど失礼である。


「例えばぁ、消してしまいたいような存在とかいらっしゃいません?」

「――ッ!?」


 まるで見透かされた可能な言葉に、僕の表情はこわばってしまう。


「図星のようですねぇ……このご時世とはいえ、人を殺めるようなことをすれば当然犯罪です」

「そりゃそうだ」

「ですが!」

「近い」


 この男は『ズッ』と僕に顔を近寄せる。

 吐息が僕の顔にかかって非常に不快である。


「動物に変えられるといったら信じますか?」

「へ?」


 動物に? 人間を、動物に変える。それはまるで――


「【獣化病】。意図的に引き起こせる薬があるとしたら、欲しいですかぁ?」


 そんなもの、あるのか?

 人間が突然動物の姿へと変わってしまう【獣化病】。

 その恐怖に怯えながら、誰しもが今をいきている。

 その原因は不明。

 ウイルス性でもなく、何かのテクノロジーが使われているわけでもない。

 誰もその原因を特定できてない謎の現象。

 それを意図的に引き起こせる?


「信じていませんねぇ? 内緒なんですよ。そんな物があるなんて知れたら大騒ぎです」


 確かにそうだ。

 大騒ぎで済めば良い方だろう。


「こう見えてそれ専門の研究者なんですよぉ。【獣化病】の」


 いわれてみれば、どこかで見たとことあると思った。

 どこかというとすぐに思い出せないが、テレビで見たことがあるような気がする。

 テレビで見た時はもう少し健康そうだったし、不審者っぽさはなかった。

 きっとメイクとかスタイリストとかによって「ちゃんとした人間」のように見せていただけかも知れない。

 しかし、実物はどうだろう。

 あまりにも不審である。

 僕が小学生だったらすぐに警察を呼ぶ。

 見ず知らずの人間に声をかけ、怪しげな口調で喋り、人との距離感を知らないような……。


「使い方は簡単ですぅ」


 聞いてもいないのに、説明が始まった。


「このヨー……薬をですねぇ、対象の口に入れます」


 といいつつ、処方される薬のように銀色のパッケージに白い錠剤のようなものが包まったものを見せつけてくる。

 それ、よく見るラムネ菓子なのでは? しかも、こいつ商品名をいいかけたんじゃないか?

 【獣化病】の研究者だなんてウソなのかも知れない。


「そして、間髪入れずに変えたい動物を意識するように、イメージさせてください。それだけです」

「それだけ?」

「はいぃ、別に順番は逆でも構いません。意識するように仕向けてから薬を飲ませても問題ありません」


 ウソ臭い。

 そんな手順で【獣化病】を引き起こせる? そんなバカな話があるものか。


「まあ、信じられないって顔をしていますが、まあですよねぇ……そんな話、どこにも出していませんから」


 イメージしただけで【獣化病】によって、動物姿に変わるだなんてとんでもない話だ。

 仮に本当だとしたら、あまりにも手順が簡単過ぎる。


「不要なら燃えるゴミとして処分してもらっちゃって結構です。信じるも信じないも、あなた次第ですぅ」

「……」


 といいながら細身とは思えない力で僕の腕を持ち上げ、その手のひらに銀色のパッケージが乗せられる。

 僕は怪しげな男から、銀色のパッケージに包まれた錠剤を受け取ってしまった、ということになる。

 やはり、どこからどう見ても、ヨーグルト風味のラムネ菓子にしか見えないが……多分、おそらく、きっとそういうものなのだろう。

 というか、いらなかったら可燃物ゴミって、そんな雑な扱いで良いのか?


「じゃあ、感想を聞かせて……といいたいところですがぁ、また会える保証はないんで、別に結構ですぅ」

「どうして、見ず知らずの人間にそこまで?」

「だからいったじゃないですかぁ、人より鼻が利くんですよぉ、じゃ、それではぁ」


 怪しい男は手を振って、ゆっくりとしてフラフラとした足取りで立ち去っていく。

 僕はそれを見届けておくことしかできなかった。

 あの怪しげな男も去っていってしまったし、本物かどうかもわからない。

 ……だが、試してみる価値はあるのかも知れない。

 あの男のウソだったとしても、ただのラムネ菓子だったと誤魔化せばいい。

 しばらく彼女に罵倒され続けるだろうが、それはそれでまあ……我慢しよう。

 それにしても、まるで……いや、僕の考えていたことをいい当てた。

 鼻が利くという言葉ではとてもじゃないが納得できない。

 最初から知られていたかのようだ。

 もしかすると、これから僕がどうするかまで知っていたのではなかろうか?

 手元にある錠剤と疑問が残っているが、いつまでもコンビニの店先で悩んでいても仕方ないだろう。



 僕は錠剤のことで頭が一杯になりながらも、彼女が待つ部屋へと戻ってきた。

 重たいドアを開けると、


「遅ェ! どこまで買いにいってんだよ」


 真朱の罵倒が真っ先に飛び込んできた。


「ちょっと変な人に絡まれてさ」

「いい訳はいい、はよヤニ」

「はいはい」


 僕は手に持ったビニールを真朱に手渡す。

 その傍から、僕の買ってきたタバコのシュリンクを取るや否や、小さい四角い箱から白い筒を取り出す。

 筒を口にくわえ、テーブルに置いてあったライターを着火し、もくもくと煙を口から吐き出してた。

 あまりにも素早く、手際が良かった。


「見せモンじゃねェ」

「いや……あ、うん」


 と、たじろぐフリをしながら、真朱の意識がタバコに向いている間に、僕は錠剤を二つ自分の手に開ける。

 そして、その二つを自分の口に入れる。

 砂糖の塊のような風味が口いっぱいに広がる。

 どう考えてもヨーグルト味だ。


「真朱」

「アアン?」


 目つき鋭くこちらの向いた真朱。

 そんな彼女にゆっくり近づく。


「なんだよ……」


 その様子に気味悪がるが、椅子から動く気配はない。

 タバコは灰皿に置かれた。

 僕は人差し指を立ててゆっくりと上に向ける。


「アン?」


 真朱の意識が上を向いた。その瞬間。


「――ッ!?」


 僕は彼女の顔を両手で掴んで、そのまま唇を重ねた。


「ん、んんー!?」


 そして、困惑して暴れる彼女の口の中に、僕の口の中の錠剤を突っ込む。

 彼女は口は悪くても女の子だ。ちょっとやそっと暴れたところで、僕から逃れることができない。

 僕は片手で彼女の鼻を掴み、そのまま錠剤を飲み込むのを待つ。

 彼女は精一杯の力で腕や足を激しく動かすが、無駄だ。

 しばらくすると、ゴクリと彼女の喉が動く音が聞こえ、そこで拘束を解いた。

 結構な量、僕も錠剤を飲み込んでしまった。

 僕は床につばを吐き出した。

 彼女の味はとてもじゃないが、美味しいものではなかった。タバコの臭いがきつかった。

 その瞬間、彼女の手が僕の胸ぐらをつかむ。


「どういう真似だテメェ!? キスを……ファーストキスがお前だなんて……ありえねぇ」


 涙目で荒い呼吸をする真朱。

 その姿を見ていられる時間は短いだろう。


「ブタに真珠って言葉は知ってるよね」

「ああん? 私がブタだっていいたいのか?」

「いや、モノの例えだよ。ほら、もしも【獣化病】で姿が変わったとしたらさ、どんなに可愛い顔だったとしても、ただの動物になってしまう」

「何いってんだ?」

「ほら、指を見てごらんを」

「指……?」


 僕の胸ぐらを掴んでいた手を離し、自分の手を見る真朱。

 まだ変化はない。

 と思った矢先、彼女は一歩、二歩と下がる。


「お、オイ……な、何しやがった!?」


 真朱の指が黒く変色し始めていた。

 僕は目の前で起きていることが信じられないという気持ちと、どこか安堵した気持ちがあった。

 下手すればこのまま通報され、ブタ箱いきだった可能性さえあった。


「だけど、もう違う!」

「何がだよ!」

「本物だった……【獣化病】を引き起こす薬、存在していたんだ!」

「な、なんだよそれ……ま、まさか!」


 彼女は血の気の引いた顔で椅子にもたれこんだ。

 手を喉に突っ込んでいたが、もう遅い飲み込んだ後だ。

 諦めがついたのか、彼女は自身の手を見て、震えている。

 その指は、あの細かった指が徐々に太くなっているではないか。


「や、ウソだろ、オイ! 何かのドッキリだろ!?」


 真朱はキョロキョロと辺りを見渡すが無駄だ。


「そんなわけがあるもんか、カメラの一台すら置かれていない。君は【獣化病】で動物に姿を変えるんだ!」

「なんで……【獣化病】は、病気なんかじゃない! 感染しないって……急に発生するものだって……」

「それがさっき、研究者に会って、譲ってもらったんだ。【獣化病】を発生させる薬を! そして、さっきの口づけで真朱に飲み込ませた」


 目を丸くする真朱の顔、とても良い。


「何が目的だ! 治せるんだろ? いってみろ、タバコを止めればいいのか?」

「そんなことじゃないよ……それに、治す薬はもらっていない」

「なッ……!」

「そんなものあるわけないだろう! あったら、とっくに【獣化病】は収束しているさ」

「なら、なんで、なんで……」


 真朱にそんなものを飲ませたかって?


「僕は真朱の歌声が大好きだった、惚れ込んでいた」

「は?」


 どうしたのだと、困惑しているようだ。

 僕は気に留めず、言葉を続ける。


「惚れ込んでいた――」


 目を一度閉じ、開ける。そして、僕はまっすぐに真朱の姿を望む。


「だけど、実際はどうだ? 自分勝手でタバコは所構わずに吸う。厄介事は全部僕に押し付ける。せっかく組んだペアだったのに、あっという間に解消した。バカは死んでも治らない。なら、その歌声だけを永遠にすればいい。真朱は【獣化病】で声も姿も失いました! だが、歌声だけはデータだけでも永遠に残り続ける! そして、真朱の真の姿は僕の記憶の中だけに残り続ける!」


 人間の姿を失いつつある真朱を見下し、熱くなり呼吸をしていなかったことを思い出し、息を整える。

 涙目で僕の事をにらむ真朱は、


「……オマエ……狂ってるよ」


 軽蔑するかのような視線のまま、そっとつぶやくように吐き捨てた。


「そうでもなきゃ、真朱をブタに変えてやろうだなんて思うはずがない。いや……」


 狂っているのは元々だ。


「狂っていなければ、真朱のマネージャーを続けようなんて思わないさ」

「ク……」


 そして、メキメキと人間からは発してはいけないような、骨や肉の変形する音が耳に届く。

 その姿を眺めていられるのは、僕の特権だ。


「グ……アァ……」


 苦しそうな吐息、僕はその姿を目に焼き付けるかのように凝視する。

 真朱の身体はみるみるうちに変化を遂げていく。

 彼女の細くて美しかった足や腕は太くなり、徐々に短くなっていく。


「い……や……イヤァ!」


 虚勢を張っていた真朱がついに女の子らしい『素』の声を上げ始めた。

 それに合わせるように、真朱の着ていた衣装のボタンが弾け飛んだ。

 服が体型に合わなくなったんだ。

 身体の線も人間のそれではなく、徐々に丸みを帯びて別の存在へと変わっていくことを嫌でもわからせてしまう。

 衣装の下からは可愛らしいピンク色の下着があらわになる。

 その性格に似合わず、随分と女の子らしいではないか。


「たす……けて……」


 椅子からズルズルとずり落ち、懇願するかのように僕の足元にまとわりつく。

 僕は一瞬だけ、一瞬だけ後悔思想になった。が、その思いはすぐに振り切る。


「遅いよ……遅すぎた。もう、遅いんだ」


 もっと早く改心してくれたのであれば、もう少し違った未来が会ったかも知れない。

 が、『もし』の話など、無駄だ。


「そん……な」


 僕は彼女を言葉で突き放す。

 その掴んでいた腕も、力が抜け僕の身体から離れていく。

 そうして、僕に掴みかかっていた身体が、徐々に離れて床にズルズルと飲み込まれていくようだった。

 彼女をトンと押すと、ソファの足元に倒れ込んでしまう。


「……ヒッ……ゴフ……」


 声帯も変化してしまったのか、もはやそれは鳴き声であり人間の声でなくなっていた。

 僕は彼女からあの歌声を奪ってしまったんだ。

 だが、後悔はしていない。

 これで完全に僕のものなのだ。

 彼女の歌声は僕の記憶の中で永遠に残っていくのだ。

 僕はやった、やってしまった。

 

 

 どれだけの時が経っただろうか。

 永遠にも思えたこの時間。

 完全に人間の姿を失った真朱は、生まれたての動物のように――いや、動物の姿へと変わり、プルプル震えている。

 僕の足元には、服を着たブタの……元少女がそこにいた。

 ようやく四つになった脚で立ち上がって、よたよたとこちらに近づいてくる。


「フゴ……フゴ……!」


 まるで僕に恨み節でもぶつけているかのようだ。

 あんなにも弱々しく、女の子のような声を上げていた真朱。

 その女々しい様子はなく、今はイノシシのように激怒しているようだった。

 ただ、その身体に慣れていない真朱から離れるのは簡単だ。

 その度に、真朱は僕の逃げた方向へと向きを変える。


「ほら、僕はこっちだ、追いかけてみなよ」


 そうして僕はスタンドミラーの横に立ち、真朱に見せつける。


「これが今の君の姿だ! どこからどう見ても、『かわいい』ブタだ!」

「――!」


 真朱が一瞬で僕の元に飛び込んできた。

 しかし、その勢いも、たかがしれている。

 僕は両手で真朱の身体を押さえつける。

 ジタバタと暴れる彼女を出入り口の対面へと運んでから、僕は足早にその出入り口へと向かう。

 変化した身体に慣れていない彼女はその距離を縮めることができないでいた。

 僕はそのまま部屋を出て、バンとドアを閉め、鍵をかける。

 しばらくすると、ゴンゴンとドアの足元の方からぶつかるような音が聞こえるが、まあその姿では出てこれはしまい。

 それに、スタッフすら訪れないこの通路。

 真朱のために気をつかった配慮が、こうして役立つとは思わなかった。

 僕らが帰るまで、近づかないようにといってあるので、動物の姿になった彼女が閉じ込められているなんてバレるまではまだまだ時間がかかる。

 その間に、どうやって彼女を運搬するか、考えねばならない。

 ペットショップにいって、ペット用のケースでも買ってくればいいか。

 まさかこの短時間で一人のアイドルがブタになっているだなんて、誰も思うはずがない。

 ……それにしても、コンビニに現れた人物は本物だったのだろうか。

 そうであれば、【獣化病】の研究というものは実はかなり進んでいるということになる。

 僕がそれを広めようと思えばできるだろうが、誰も信じないだろう。

 それに、時間が残されていない。

 あの男にはもう会うことはないだろうが、いいものを譲ってもらった。そう感謝をしたい。

 もし会えたとしたら、伝える感想は「最高だった」の一言に尽きるが、それすら伝えることは難しいだろう。

 僕はどこか開放的な気持ちであり、身体がとても軽かった。

 そして、僕の身体も人間ではないものへと変わりつつあることを意識させられる。

 僕もあの薬を口にしたんだ、彼女への仕打ちを考えれば軽すぎる報いだ。

 僕はそのドアから離れて、ショッピングモールへと戻っていく。

 この通路は、僕の靴音しか響かない。

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