Episode 18 出発

「で、明久くんの答えを聞こうかぁ?」


 黒いスーツを着た男の人が二人。

 その間に立つ白衣の男性。

 髪はボサボサで微笑むように目を細めている。

 答えを聞くと言うには、あまりに威圧的だ。

 わたしを助けてくれた時も、確かに背筋が冷たくなるような雰囲気はあった。

 その時は、わたしではなくわたしに悪意を向けていた人にどこか冷酷な感情を向けていた。

 冷酷な感情を明久さんに向けている。同時にわたしにも、だ。

 今すぐにでも逃げ出したい。

 この緊張感から早く抜け出したかった。

 しかし、黒いスーツの人が玄関を塞ぐように立っているため、逃げ出すこともできないだろう。


「拓海(たくみ)、これは何の真似だ」


 明久さんは白衣の男性に疑問を投げかける。

 わたしを助けてくれたあの人は拓海さんというらしい。


「何の真似って、ちょうど必要になったから迎えにきたんだよぉ? それ以外の理由はあるかい?」


 さも当然のように、当たり前にように。


「今じゃなくてもいいだろう。ちょうど客人もいることだし、時間を改めて――」

「だから今である必要だがあるんだよぉ」


 食い気味に、明久さんの言葉を遮って拓海さんが言葉を口にする。


「あ、ちなみにぃ、ノーっていおうが、イエスっていおうが、後でにしようが、今ぁ屋上の太陽光パネルは回収させてもらうから」

「な……拓海!」


 慌てた様子の明久さん。

 屋上の太陽光パネルがなくなるということは、この建物への電力の供給がなくなってします。

 そうなると、玲さんは……!


「元はといえば、この僕がぁ! キミに貸していてあげていたんだから、いつ返してもらうかも僕の勝手だよね?」


 純粋な邪悪さ。

 そんな言葉がわたしの頭をよぎる。

 明久さんと拓海さんとの仲はわからない。

 だけど、拓海さんのその表情と言葉には恐怖を感じざるを得ない。

 暴力を振るわれるより、暴言を吐かれるより、怖い。


「電気が止まったら困るよねぇ? だって――」

「黙っててくれ」

「スン……」


 冗談っぽく、微笑みを浮かべて言葉を止める拓海さん。

 明久さんも眉間にシワを寄せて、何かを考える仕草をしている。

 その間も、黒い服を着た人はこの場にそぐわない雰囲気を醸しながら、わたしたちをじっと見つめている。

 油断もスキもないというのはこういうことなのだろう。


「……わかった。ついていこう。ただ、条件が一つある」


 ため息をつくように明久さんは重く口を開いた。


「この風香は開放して欲しい。俺とお前の間には関係ないだろう?」


 明久さんはわたしのことを指さして言葉を続けた。


「ふぅむ……」


 その言葉を聞いて、拓海さんは手をアゴに当てる。

 考えるような素振りをしているが。

 数瞬もしない内に答える拓海さん。


「明久くんのお願いなら聞いてあげないこともなかったけど……それはできない相談だねぇ」

「なんだと……?」

「僕が興味を持っている対象は二つ」


 そういって、拓海さんはゆっくりとした動作で明久さんに人差し指を向ける。


「明久くんと――」


 その指は横に動き、わたしに正面で止まる。


「――風香ちゃんだ。これは譲れないんだよねぇ」

「どういうことだ……!」

「どうもこうも、二人とも必要なんだよねぇ」


 え、わたしも……?

 何故、わたしが必要なのだろう。

 


 ――なんでさぁ、君は人間なんだい?



 ふと、拓海さんがわたしを助けてくれた時、わたしに対して投げかけた疑問が頭をよぎる。

 その後、そのうちわかること、ともいっていた。

 それが、このことなのだろうか。

 わたしが拓海さんに会ってから、わたしがいる間にここに拓海さんがやってくるということは決まっていた?

 だけど、どうしてわたしなんだろうか。


「風香は関係ないだろう!」


 明久さんが怒りをあらわにしたように叫ぶかのような大声を上げる。


「残念だけど、関係なくないだよねぇ……風香ちゃんは僕に恩がある。だから、僕の『お願い』聞いてほしいんだよねぇ」

「何?」

「さっき、風香ちゃんが暴漢に襲われていたところをねぇ、助けてあげたんだよぉ、ね? 風香ちゃん」

「風香、本当なのか?」

「……はい、確かに助けてもらいました。男の人に襲われたところを」

「……」


 わたしのその答えに、明久さんは目を閉じて、手で顔を覆った。

 わたし、何かまずいことをしてしまったのだろうか?

 ただ、拓海さんがいなかったら、ここまで返ってこれなかったの事実であり、恩があるのはウソではない。


「まあ、風香ちゃんがどーしてもっていうなら、開放してあげないこともないけどぉ……」


 拓海さんは微笑んだ表情を崩さず、言葉を続ける。


「繰り返しになるけど、二人が僕についてこないと、電気が止まって大事な大事な玲さんが窒息死しちゃうからねぇ。ついてくるっていえば、ちゃーんと保護してあげるからぁ」


 拓海さんは、玲さんのことを知っている……?

 それに楽しそうにそんなことをいっているのだ。


「それで、答えを聞こうかぁ、明久くんと風香ちゃん」


 両手を広げ、肯定の言葉を待っているのだ。

 しばらく、沈黙が続く。

 明久さんはすぐに答えず、横目でわたしに視線を送る。

 わたしの答えを待っている?

 ただ、もう逃げられない。

 嫌だといっても開放はされないだろう。

 玲さんの命が危ないとわかって、わたし達だけ逃げ出すわけにも行かまい。

 それにわたしにはもう……。

 だから、


「明久さん、わたしは大丈夫です」


 わたしは明久さんの顔を見上げて、はっきりと伝える。

 わたしはどんな顔をしているのだろう。

 この経験したことのない緊張感で、全身がこわばっているだろうし、不安も伝わってしまっているかもしれない。

 明久さんはわたしのその顔を見て数秒。そして、


「すまない……」


 小さく口にした言葉。


「わかった、拓海。俺と風香、そして春斗はお前についていく。だから」

「うんうん、ありがとう明久くぅん。それなら、責任をもって玲さんも連れていってあげるねぇ」


 拓海さんが右手を上げると、黒い服を着た人が入ってきた。

 細身の身体で、女の人か。迷うことなくこの部屋の押入れのふすまを開け放った。

 そして、その中にいる玲さんを水槽ごと外に運び出してしまった。

 その手際は良いと表現で表せるものではなく、何をいう前に終わってしまったといっても過言ではないだろう。


「じゃあ、早速だけど来てもらおうかぁ」

「待て、拓海。荷物をまとめる時間だけ欲しい。ここに戻ることはないんだろう?」

「ふむ……」


 拓海さんは部屋の様子をなめるように見回す。

 主にわたしの荷物が点在している。

 ここに来るまで背負っていたリュックに、ここに来てから手に入れた着替え、食料など。

 納得したように拓海さんはうなずく。


「まあ、それくらいはいいかなぁ」

「時間は取らせない」


 明久さんがそういうと、拓海さんが頷いた。


「じゃあ、待ってるからねぇ。ちなみにぃ、その窓から逃げようなんて思わないことだけねぇ」


 そういわれて、わたしも明久さんも窓の外、隣接する道路を見下ろす。

 そこには、拓海さんと一緒にいる黒服の人と同じ格好をした人が二人ほどいる。

 目があってしまい、すぐに視線を部屋の中に戻す。

 飛び降りて逃げようもんなら、一秒も保たずに捕まるに違いない。

 そもそも怪我をせずに着地すら怪しい。


「用意周到なことだ……」

「じゃあ、待ってるからねぇ」


 明久さんの小言は無視して、拓海さんは一人残った黒い服の人と一緒に部屋の外に出ていってしまった。

 玄関のドアは破壊されているためそのまま、心地の良い風が部屋を吹き抜ける。


「はぁ……」


 わたしは思わず、その場でへたり込んでしまった。

 お兄ちゃんは心配そうにわたしに駆け寄ってくれる。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 しかし、これで状況が良くなるわけではないのだ。

 ここで立ち止まっているわけにもいかまい。


「……俺の問題なのに、お前たちを巻き込んでしまってすまない」


 明久さんらしくない、ボソボソとつぶやくような言葉だった。

 わたしは慌てて立ち上がり、明久さんに向き直る。

 ただ、明久さんはずっと玄関先の方を見て、わたしに視線を向けてはいなかった。

 確かに、明久さんのお世話にならなければこうなることはなかった。

 だけど、明久さんに危険なところを助けてもらって、ここまで親切にしてしてもらったのだ。

 巻き込まれてしまったなんて思ったら、明久さんにしてもらったことも否定してしまうような気がした。


「わたしは、大丈夫です」


 その言葉に明久さんはようやくわたしの方に顔が向いた。


「わたしにはもう、帰る場所がないんです。だから、どこにだってついていきますよ」


 わたしはどんな表情をしているのだろうか。

 わからないけど、できる限りの笑顔を向けたつもりだ。


「……そうか」


 明久さんの表情はほとんど変わらなかった。

 だけど、一瞬どこか柔らかい表情になったような気がする。


「ところで、あの人は……?」

「遊佐 拓海……俺と同じ研究室の所属『だった』人間だ」


 過去形であることを強調していた。


「研究室?」

「風香にはわからないか……大学では研究室に所属して論文を書くとこになっている。いってしまえば、一人の先生を選んで、そのクラスで勉強を行うイメージだ」

「そう、なんですね……でも、やっぱりいまいちわからないです」


 確かにそういわれても、具体的なイメージがつかない。

 それよりも、


「明久さんって、大学生だったんですね」

「いってなかったか?」

「はい、初めて聞きました」


 そういえば、歳すら聞いていなかった気がする。


「そうは見えないか?」

「てっきり社会人かと」

「そうか……まあ、成人してしまえば見た目は変わらないな」


 わたしから見れば、明久さんは立派な大人だ。


「ところで、拓海に助けてもらったといっていたな……」


 思い出したかのように明久さんがわたしに尋ねてきた。

 これは明久さんに隠すようなことではないし、正直に伝えてしまっていいだろう。


「拓海さんに助けてもらったのは本当です。帰り道、怖い男の人に襲われて……それを助けてくれたのが拓海さんだったんです」

「……」


 明久さんはわたしの顔を見つめたまま、眉間にシワを寄せる。

 その状態で数秒。


「……明久さん?」

「拓海はロクでもないやつだ。ヤツは信用してはいけない」

「……」


 わたしは何も答えられなかった。


「アイツは自分の目的のためならば、手段を選ばないやつだ。残酷なほどに」


 もし、わたしを助けるのも拓海さんの計算通りだとしたら。


「もしかして、わたしが襲われたのも拓海さんの計画のうちだった、とか?」

「……正直、否定はできない。アイツはそういうヤツだから」


 そして、そんなことをしてまでも、明久さんだけでなくわたしも連れていこうと思った理由はなんなのだろうか。

 ただ、もう逃げられない以上、ここにとどまっている理由もあるまい。


「さあ、荷物をまとめるんだ。拓海に何をいわれるかわかったもんじゃない」

「はい」


 わたしはここに来るまで背負ってきたリュックを背負い、ここに来てから手に入れた着替えや、お母さんとお父さんの服が入った紙袋を手に持つ。

 意外と荷物の量が増えてしまった。

 そして、明久さんからもらった銃は腰の目立たない場所に隠すように忍ばせている。

 明久さんは押し入れから大きめの黒いリュックを取り出した。

 ちゃぶ台の上にあった片耳の取れたヘッドホンを乱暴に詰めていた。

 それと、押し入れの奥にあったであろう銃弾の詰まった箱をリュックに押し込めている。

 一晩、銃を撃ち続けたのに、まだあんなにもあるのか。


「……この銃や銃弾は拓海から押し付けられたものだ」


 わたしの視線に気がついたのか、銃や銃弾の出どころを教えてくれた。


「どういう意図で渡されたのかはわからない。アイツなりの気まぐれか優しさなのか、それとも目論見があるのかわからないがな」


 ただ、と言葉を続ける。


「使えるものは使わせてもらうだけさ。何かあれば、俺はアイツを止める覚悟さえ持たなければならないだろう」


 止めるという言葉の裏に、明久さんが持っている銃を合わせれば、ただ簡単な話ではなさそうだ。

 最後に、玲さんのいた水槽の横にあった黒色のチョーカーも明久さんがリュックに入れていたのは見逃さなかった。

 玲さんの大切なモノなのだろうか。

 明久さんと玲さんの間のことをほとんど知らないので、そのチョーカーについて聞く気にはなれなかった。

 それよりも。

 忘れ物がないか、部屋の中を確認する……といっても、失って困るようなモノもないのだが。


「あれ?」


 そこで一つ気になったことがある。


「ハトさんは……?」


 そういえば、いつの間にかハトさんがいなくなっていた。


「アイツは……放っておいてもひっそりついてくるんじゃないか?」

「そう、ですね」


 あのハトさんとの出会いも突然だったし、一緒にいようと約束したわけではない。

 そもそも、人間だったという保証もない。

 だけど、ひっそりとついてくるような気がしているため、あまり心配はない。

 他には忘れ物がなさそうなので、「うん」と頷く。


「準備はいいか?」


 わたしは部屋を見渡す。

 きれいなものだ。


「大丈夫です。準備はできました」


 荷物のことだけではない。

 拓海さんについていって、何が起きるかはわからない。

 だけど、その心の準備もきっとできたはずだ。


「いきましょう、明久さん。いこう、お兄ちゃん」


 二人からの返事はなく、わたし達は言葉を発するもなく、扉が破壊され寂しくなった玄関へと向かっていくのだった。

 



「わぁ……」


 玄関から外に出ると、階下の道路には立派な長い車――リムジンカーが停まっていた。

 そんな車体が長い車、初めて見た。


「拓海……どこでそんなモノを手に入れたんだ」


 わたしたちが出てくるのを見つけると、拓海さんは楽しそうに両手を振っていた。

 その周囲には黒い服を着た人が三人。

 こんな人気のない住宅街には似つかわしくない光景なのはいうまでもないだろう。

 そこまで厳重に警備をする必要性も感じない。

 外階段を降りて、そのリムジンカーの横に立つ拓海さんの元へ歩む。


「やぁ、待ってたよぉ、さぁさぁこちらからどうぞぉ」


 と、黒い服の人がリムジンカーの真ん中付近にあるドアを開け、拓海さんがそこに手を差し伸べた。

 まるでお金持ちの人ではあるが、そうであれば手を差し伸べる側ではなく車の中で待っているのではないだろうか。


「荷物はこちらでお預かりします」


 黒い服の人の一人が素早くわたしたちに寄ってきて、声をかけてきた。

 男性でその姿からは想像できない柔らかな声だった。

 拒否する理由もないため、わたしはリュックをその男性に手渡す。


「お預かりします」


 わたしの荷物を受けると、車の後部にあるトランクへと手早く詰め込んでいった。

 その流れるような動作は、手慣れている人のそれだった。


「頼む」


 明久さんもそれに続いていく。

 不信感を隠しきれてはいない様子だったが、従うよりほかないだろうことが伺える。


「じゃあ、改めて乗って乗って」


 それに反して、拓海さんはとても無邪気で楽しそうだった。


「……」


 明久さんはなんともいえなさそうな表情で、車に乗っていく。


「ほらほら、風香ちゃんもどうぞぉ」

「あ、はい」


 わたしとお兄ちゃんもそれに続いて中に入る。


「わぁ」


 リムジンカーは初めて見たし、初めて乗った。

 まるで遠足で乗るようなバスを少しだけ小さくしたような、そんな雰囲気だ。

 車の壁に這うように、座席が長いソファ状になっている。

 コの字を書くようなシートは、テレビで有名人が乗っている様子が思い出される。

 真ん中にはテーブルが一脚あって、その上にはかごに入ったお菓子が存在している。

 しかし、窓は外の景色が一切映らず、真っ黒だ。

 天井の明かりが唯一の光源で、十分に車内は明るかった。

 運転席もここから様子を確かめることはできなかった。

 窓と同じく真っ黒で壁があるようだ。

 明久さんはどっかりと席の真ん中に腰掛け、両腕両足を組んでいる。

 表情もムスッとしている。

 どうも声をかけにくい雰囲気だ。

 わたしは少し離れて、普通の車でいう後部座席に当たる場所にゆっくり腰を下ろした。

 お兄ちゃんはわたしの足元で伏せて、目を閉じた。


「うんうん、着席したねぇ」


 拓海さんも車に乗って、外からドアが閉められる。

 拓海さんはテーブル挟んで反対側に着席する。

 一呼吸置き一度うなずいて、運転席につながる壁をノックする。


「出して」


 と合図をすると、車が走り始めた……ようだ。

 ここからだと、外の様子がわからないため、本当に出発したのかはわからない。

 だけど、車が走っている時のような揺れを感じているため、車が動いているということはわかる。

 少しだけ進んだかと思えば、車が止まったり、曲がったり、再び進みだしたりと繰り返している。

 窓は外の景色が映らないため、どこを走っているのかはわからない。

 しかし……何度も同じ方向に曲がっているようで、ずっと同じ場所を走っているようにも思える。

 その間はずっと沈黙が続き、とても落ち着かない。

 右に左と、本当に目的地へと進んでいるのか心配になってくる。


「おい、これはどこに向かっているんだ?」


 しびれを切らしのか、明久さんが口を開いた。

 確かにもうすでに、ちょっとその辺で表現できる距離は超えている。

 時計もなく、経過した時間は正確にはわからない。

 だけど、ちゃんと前に進んでいるのであれば近場ではなさそうだ。


「僕の研究所だよぉ? もしかして、トイレ行きたくなっちゃった?」

「研究所?」


 拓海さんの冗談には答えず、明久さんは短く返す。


「そう、僕が住み込みで【獣化病】について研究しているんだ……あれ、知らない? 有名人になっていたと思ったけどぉ。そっかぁ、そうだよねぇ……テレビ映らないもんねぇ」

「テレビもない部屋を用意したのはお前だろ」

「そうだったねぇ」


 ケロッと悪びれる様子もない。


「【獣化病】とは何かを研究してて、結構テレビに出てるんだよぉ。寝る暇もないくらい忙しいのに、わざわざ迎えに来てあげてるんだからねぇ。感謝して欲しいくらいだよ」

「……なら、暇な時に来ればよかっただろう」

「まあ、今じゃないといけなかったんだけどねぇ」


 それほど忙しいのにも関わらず、それらよりも優先して明久さんを迎えに来たということか。


「……にしても、遊佐 拓海『センセー』は、どうやってテレビに出るようになったんだか。もっとも、マトモな方法じゃないんだろうがな」

「ふっふっふー」


 不敵な笑みを浮かべるだけで、否定も肯定もしなかった。

 曖昧な答えを返すだけだった。


「まあ、【獣化病】に関する学問――【獣化学】って、僕は呼んでるけど、その研究をしていたから専門家として呼ばれるのは当たり前だよねぇ。明久くん?」

「……何がいいたい?」

「僕はキミが欲しかったんだ。だって、【獣化学】の研究をしていたのは、僕と明久くんの二人だけだったんだから」


 え、明久さんも【獣化学】を?

 【獣化学】というのがどういうものなのか、わたしにはいまいち想像できていない。

 だけど、それならば拓海さんが明久さんをどうしても迎え入れたい理由にはなるのか。

 明久さんと拓海さんが【獣化学】を研究していたとして、【獣化病】は関係あるのだろうか?


「【獣化学】とか変な名前をつけるのは勝手だが、そもそも、お前とは目指していたものは違うはずだ。力になれるものはないと思うが?」

「それを決めるのは僕さぁ」


 ニヤニヤとした笑いを浮かべる拓海さんの言葉で、会話が途切れた。

 沈黙が続き、車のエンジン音のみが車内に響く。

 この沈黙に耐えきれず、わたしは尋ねてみる。


「ところで、明久さんの部屋って、拓海さんが用意したんですか?」

「お、いい質問だねぇ」


 よくぞ聞いてくれましたといわんばかりに、拓海さんのトーンが上がった。


「明久くんがさぁ、【獣化病の始まり】の直後にさぁ、渋谷の路上で血相変えて走っててぇ」

「ちょ、お前……ッ!」


 明久さんが腰を浮かせて拓海さんに迫る。

 狭い車内でテーブルを挟んでいるため、それは叶わないが。


「それを見つけたのが僕なんだよねぇ」


 拓海さんは微笑んだ表情のまま、淡々と続ける。


「僕が声をかけると、一匹のサカナを抱えて『拓海さま、助けてくださいお願いします!』って――」

「いってねぇよ」

「ゴホン……というのは冗談だけどぉ、そのサカナを死なせないために、あのアパートと設備をわざわざ用意して貸してあげたのは僕なんだよねぇ……ねぇ、明久くん」


 急に話を振られた明久さんは、一瞬動揺したように見えたが、咳払いを一つ。


「……ああ、それは間違いない」


 苦虫を噛み潰したような表情で答える。


「それが、僕の誘いを断れない理由ってワケ。借りたら返す。当然だよねぇ……?」


 当然……当然だけどちょっと違うような気がする。

 だけど、反論するにしてはいけないような気がして。


「そ、そうですね……」


 ごまかすような笑みを浮かべることしかできなかった。


「まあ、このご時世だし、たまたま空いていた部屋を明久くんのために、貸してあげていたんだけどねぇ」


 そうか、だからあの部屋の表札代わりのシールが『本田』ではなく『田中』だったのか。


「……たまたま、空いていたのではなく、空けたんじゃないか?」

「さあ、どうだろうねぇ」


 両手を肩のあたりまで上げて首を左右に降る拓海さん。

 はっきりと否定しないあたりが、もしかするとと考えさせられてしまう。


「あ、着いたかなぁ」


 確かに車がピタッと停止して、進む気配がない。

 すると、ドアが空いて、黒い服の人がそこに立っていた。


「到着しました」


 どうやら到着したようだ。


「じゃあ、降りようかぁ」


 まず、拓海さんが降りて、お兄ちゃん、わたしの順で降りる。

 最後に明久さんが降りようとしたところで、途中で動きが止まる。


「明久さん?」


 明久さんは降りた先に見える景色に目を丸くしながら、


「おい、なんてところに連れてきた」


 口調強くつぶやいた。

 だけど、どこか震えていて驚きが隠せないといった感じだろうか。

 額にはうっすらと汗を浮かべている。


「『なんてところ』だなんて、失礼だなぁ……明久くんだって、懐かしい場所だろぅ? まあ、懐かしいってほどは間は空いてないだろうけどさぁ」


 懐かしい?


「あの、明久さん……」


 わたしは遠慮がちに明久さんに声をかける。


「ああ、ここは俺の……俺たちの通っていた大学だ」


 ここが大学。

 こんなに広い場所、病院だと思っていた場所が大学という場所なのだ。

 お兄ちゃんもわたしも高校生だったし、まだ縁のなかった場所だ。


「そう、ここが僕らがともに勉学に研究に励んだ場所だよぉ……そして」



 ――今はここが僕の研究所なのさ!



 両腕を広げ、天を仰ぐ拓海さん。

 無邪気に楽しそうに差も当然のように叫ぶような声。

 通っていた大学にも関わらず、さも自分の所有物のように振る舞っているのだ。

 わたしはそれにどこか、気持ち悪さのような、不気味なような、どこか普通ではない雰囲気を感じ取った。

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