Episode 17 Other Side -蒼空-


 夏に近づきつつある、朝の高校のグラウンド。

 朝でも、太陽の光は強く、半袖からのぞく肌が焼けそうである。

 校舎からほど近いトラックの外側にワタシ、南那 蒼空(みなみな そら)は立っている。

 トラックと言っても、石灰の入ったライン引きで作る簡単なトラックだ。

 ……とだけ言えば、何ら変わりのない朝の部活動ではある。

 しかし、周囲を見渡すと、『一週間前のワタシ』であればきっと恐れおののいていただろう光景が広がっている。

 なぜならば、


 ――グラウンドには人間と動物が半々で存在してるからだ。


 今であれば慣れたものである。

 ただ、やっぱりどうしても違和感が拭えない。

 【獣化病の始まり】の日から、世界は変わってしまった。

 人間が動物の姿に変わってしまう。

 そんな現象が、東京の渋谷で発生したのが一週間と少し前だ。

 ここは東京からだいぶ離れた港町で、その日は対して影響がなくテレビの向こう側の世界であるとさえ思った。

 だが、それが――【獣化病】が現実であることを実感させられる日が来るのはすぐだった。

 最初の異変は学校に来なくなる同級生が一気に増えたことだ。

 まるで学級閉鎖前の教室のようだった。

 しかも、教師は職員室から出てくることが少なく、それだけ、対応に迫られていた事がわかる。

 その次の日だ。

 動物の姿の同級生が登校してきた。正直、初めて見た時は信じられなかった。

 動物が同級生だなんて、何かの冗談かと思った。

 でも、それを受け入れざるを得なかった。姿が変われど、授業にしっかりついてきていたからだ。

 ただの動物にしてはあまりにも賢すぎたのだ。

 人間がそのまま動物の姿になったことを認めざるを得なかった。ちなみに、そんな状況になっても、休校になることはなく今日も通常である。

 そしてその影響は当然、ワタシの所属する陸上部にも出たのは不思議な話ではないだろう。

 今では人間と動物が半々で、ここ数日は動物の姿になる者の数は緩やかになっている。

 動物の姿といっても、さすが陸上部と言ったところか。猫だったりチーターだったり、走ることが得意な動物が多かった。

 もっとも、走ることができない姿になってしまったなら、ここにはいないだろう。さらに言えば、学校に登校することすら困難だ。

 実際に、姿を見せなくなった陸上部部員もいる。

 なので、ここにいる動物になった者の姿がそうであるのは納得すらできるだろう。

 ほぼほぼ部員が集まり、そろそろ開始の時間であるが、ある後輩の姿が無いことが気がかりだった。

 ワタシが学校に着く頃には準備を始めるほど早く来ていて、休むことなど滅多に無い女子部員だ。

昨日もどこか調子を悪そうにしていて、準備運動をする前には帰らせた。

 今日も調子が悪くて休むと言うなら、彼女のことだ。連絡の一本も寄こすはずだ。

 なんとなくワタシの脳裏に嫌な予感が過る。


「先輩、ちょっと」


 準備運動の足を止めていると、すでに準備を始めていた後輩に声をかけられる。

 ハードルが得意な女子部員だ。


「ん、どうした?」

「ウミ先輩が……ちょっと」


 と、校舎の方を指さした。

 その口調はどこか重く、消えるような声色だ。

 心配していた金田 海子の名前が出るとは思わなかった。


「わかった、ありがとう。君はそのまま準備運動を続けてくれ」

「はい……」


 ついてくるとも言わず、おとなしく引き下がった。

 きっと、ワタシ一人で行った方がいいのだろう。

 にしても、校舎から呼ぶとはどうしたことか。

嫌な予感が的中してしまったようで、胸のざわめきが一層強くなる。

 しかし、だ。ウミが後輩を呼んだということは、最悪という程ではないのだろう。

 少なくとも、人を呼べる状況だということだからな。

 一度ツバを飲み、覚悟を決める。

 ワタシはグラウンドから離れ、校舎の方へと向かっていく。

 グラウンドから昇降口は目と鼻の先で、おそらくウミはそこにいることだろう。

 昇降口は薄暗いため、外からは中の様子を伺えない。

 昇降口の扉を覗いて目的のウミを探す、が。


「な……」


 その姿を見て驚きを隠せずにはいられなかった。

 【獣化病】によって姿が変わっていたわけではないのは幸いだった。

 しかし、だ。


「おはようございます、先輩」

「ああ、おはよう……それにして、その車椅子は……」


 そう、陸上部としてあってはならない。

 彼女は車椅子に座って、こちらを見上げている。


「昨日体調が悪そうだったが、そんなに足が悪かったのか」

「実は歩けなくなってしまって……歩けないというよりは、歩きにくいというか」


 言葉を濁すようにウミは私に説明をする。

 しかし、外見だけ見るにいたって普通だ。

 どこかに異常があるようには見えない。

 一つ気になる点といえば、ウミは制服のスカートを短くして丈の長いスパッツを履いていたはずだ。

 今はスカートを長くしている。

 ウミはそのスカートの裾を指で掴んでゆっくりたくし上げる。

 この時間、部活で朝練を行っている生徒は活動を行っている時間で、そうでない生徒が登校するには早すぎる時間だ。

 他に昇降口に現れるような生徒はいないはずだし、周囲に目だけ動かして眺める限り人はいなさそうだった。

 ウミのその行動を止める必要はなかろう。

 スカートから見える膝に、走っている者だからこその引き締まったモモが現れる。

 ウミのスカートをめくる手は止まらない。

 そして、その腿が半分がさらされたところでその手が止まる。

 ワタシの息も止まった。


「それ、は……」


 くっついていた。

 腿の半分からその根本にかけて。

 人間の足は二本だ。だが、ウミの足は一本になろうと変化していたのだ。


「【獣化病】みたいで……昨日から変化が始まっていたのですが、なかなか言い出せなくて」


 どこか申し訳なさそうな口調のウミにワタシの方こそ申し訳なくなる。

 体調が悪そうだったが、見抜くことができなかったのだ。


「そんな状態になるまで気がつくことができなかったとは、すまない……」

「先輩はッ……!」


 ウミが勢い良く立ち上がろうとして、ピタッと動きが止まる。


「先輩は悪くないです。異変が出た時点で私から相談するべきでした」


 ゆっくりと腰を降ろして、車椅子に座るウミは上目遣いでワタシに視線を送る。


「それに、ここまで変化が始まったのは朝起きてからなので」

「あ、ああ……」


 うまく言葉を返せず、沈黙ができてしまった。

 グラウンドの方からは、陸上部に限らず、様々な部活動の朝練が始まったことを知らせてくれる。


「先輩、そろそろ戻らないと」

「いや、それよりもウミがだ――」

「私は、もう陸上はできそうにないので」


 彼女の苦くも、頑張って作った笑みに、ワタシは何も返せない。

 他の【獣化病】によって姿を変えた陸上部員は、急に動物の姿で現れたので、それを受け入れざるを得なかった。

 しかし、ウミはそうではない。

 まだ、人間の姿なのだ。

 徐々に変化が進み、いずれは動物――サカナの姿になるのだろう。


「…………その、うまくは言えないんだが、できるだけの手助けはする。言えるうちに、遠慮なく言って欲しい」

「はい、ありがとうございます」


 そうして、車椅子のウミの姿を何度も見ながら、グラウンドへと戻っていく。

 ワタシには何もできない。

 その悔しさを噛み締めながらグラウンドを何度も駆けた。

 しかし、あまり集中できなかったのは言うまでもないだろう。



「……ふぅ」


 朝練を終え、始業までの時間。

 教室でワタシは机に突っ伏していた。

 ウミに上手いこと言ってやれなかったこと、その後、朝練に身が入らなかったこと。

 ため息が出てしまう。

 もうじき担任がやってきて、そのあとは授業が始まる。

 部活に身が入らず、授業も身が入らなかったらいよいよここに何しに来たのかわからなくなる。


「おはよう、ソラ……今日はずいぶんとお疲れのようだね」

「あ、スガルか?」


 そんなワタシに話しかけてくる男子生徒の声。

 毎日にように聞き慣れた声に、ワタシは顔を上げる。

 細身で髪は男子にしてはやや長い。

 どこか爽やかな笑顔を浮かべているのが、西野 栖軽(にしの すがる)。

 近所の家に住んでいる幼馴染みだ。


「はい、お弁当。おばさんがソラに渡してって」


 そう言って、ピンク色の布で包まれた小さな立方体をワタシの机の上に置いた。

 確かにワタシの弁当箱だ。

 女子にしてはやや大きく、男子のものにしてはやや小さい。

 受け取る時、スガルの手に触れたが、異様に冷たかった。


「おっと、すまない……いつも忘れないようにしていたんだが」

「その割に結構、僕が渡してるよね?」

「うッ……」


 事実として月に指を折って足りるか足りないくらいはこのやり取りをしている。

 スガルとの関係はいつから続いていただろうか。

 小学校の頃からはそうだったはずだ。

 幼稚園は一緒じゃなかったから転校してきたのだっけ。

 気が弱いところがあり、クラスメイトからいじめというほどではないが、いじられていることが多かった印象がある。

 その様子に見かねてワタシが止めに入ってから、近所に住んでいることを知って、長年の関係なわけだ。

 このあたりは学校が少ないため、小学校も中学校も一緒。

 高校もここか、いいところの私立くらいしかないので、一緒になるのは至極当たり前ではある。


「それで、ずいぶんと元気が無いようだけど、どうしたんだい?」


 スガルが弁当箱をワタシの机の横に引っ掛けてあるカバンの中に入れながら尋ねてくる。


「んー、あー……」


 腕を机に投げ出し、顔だけをスガルに向けたままワタシは唸る。

 後輩のことを話してしまっていいのだろうかと頭によぎる。

 しかし、だ。スガルのことだ。

 ワタシが黙っていたところで、すぐに察してしまうに違いない。

 それに周囲を見ると、やはり一週間前とは異なった景色が広がっている。


「……増えたよな、【獣化病】」

「うん、そうだね」


 ワタシのその言葉に、スガルも教室を見渡す。

 人間の数が減り、動物の数が増えた。

 イヌの姿をした者が、クラスメイトに『お手』を要求されて、その手を叩くように実行している。

 またある者は、ハムスターの姿で机の上に立ち、何か餌付けをされている。

 その机の下にはゲージが置いてあり、毎日誰かに連れてこられているという事がわかる。

 それだけで、やっぱり一週間前には考えられなかった光景だ。


「もしかして、ウミが……?」

「違う違う、ワタシは元気だ。実は――」


 しまった。

 そこで言葉を止めてももう遅い。

 まあ、なんだ。結局、スガルには相談せずにはいられなかっただろうから、そのまま続けてしまおうか。


「実は今日の朝、後輩が【獣化病】で身体が変化し始めてるって報告しに来た」

「そう、なんだ……」


 スガルの表情が真剣なものになった。

 そこにどこか申し訳無さそうな雰囲気が加わる。


「でも、報告しに来たってことは、まだ?」

「ああ、でも確実に変化は進んでいるようだった。車椅子に乗っていた」


 報告しに来た彼女の表情を思い出す。

 元気に振る舞ってはいたが、どこか不安が拭えないといった表情をしていた。


「車椅子かぁ。この学校、あまりバリアフリーは進んでないみたいだし、大変かも」


 確かにスロープやエレベーターのような設備はない。


「なら、昼休みにでも、様子を見に行こうと思う」

「それがいいと思う。ウミがいるだけで喜ぶと思うよ」


 スガルの後押しもあり、ワタシはウミの元へ向かうことを決めた。



 そして、授業を二つ乗り越え、昼休みになった。

 弁当は昼休みが始まる頃には空っぽになり、昼休みの開始早々に自分の教室を出た。

 ウミは一つ上の階にいるはずなので、階段を目指し上がっていく。

 異なる学年の人間が、別の学年の階に行くことなど滅多にない。

 そのため、下級生からの視線が集まっている。

 上履きの色が学年ごとに違うため、目立つというのもあるだろう。

 距離的にはさほどあるわけではないため、すぐにウミのいるだろう教室までたどり着く。

 ドアは前と後ろに一つずつ。

 昼休みなので、座ったり立ち歩いたりする生徒が半々程度。

 様子をチラッと伺い、そしてワタシの後ろにいる者に声を掛ける。


「で、なんでスガルまでついてきてるんだ?」

「いや、なんとなくついてきた方がいいかなって思って」


 何故かワタシの後ろに幼馴染みの姿があった。

 二人で下級生の階を歩いているものだからだだでさえ目立つのに、なおさらである。


「多分、見ていてあまり気持ちの良いものではないぞ?」

「平気」

「そうか」


 このまま引き下がる気配がないので、諦める。

 ウミのクラスはわかっているものの、どこの席にいるだろうか。

 教室内を上級生がまじまじと眺めるのも、どうかと思うので、


「ちょっとキミ」

「あ、はい」


 ちょうど教室を出ようとして、ワタシとすれ違おうとした女子生徒に声をかける。

 一瞬、ギョッとした表情を見せたが、いきなり上級生に声をかけられたのだ。

 仕方あるまい。


「ウミ……金田海子の席はどこだろうか」

「あ、あー」


 ウミの名前を出した途端、彼女の目が泳いだ。

 やはり、【獣化病】で身体が変化してしまえば奇異の目で見られるようになってしまうのは当然か。

 下級生の少女は、ゆっくりとした動作で、


「ウミはあの席なんですが、その……」


 と、遠慮がちに指をさした。


「あ、あー」


 ワタシも彼女と同じような反応をしてしまうとともに、【獣化病】への偏見があったことを恥じた。

 問題はウミにあったのではない。

 ウミの後ろにいる存在が問題であった。

 車椅子の後部、ハンドルを持っている者がいる。

 男子生徒で、確かたまにウミと親しげに話している光景を何度か見た記憶がある。

 しかし、その時と違い目が死んでいる。

 それどころか、意識があるのかないのか目の焦点もあっておらず、口も半開きだ。

 ウミはウミで気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべている。

 なんというか、おぞましいという形容がピッタリかもしれない。


「ちなみに、あの後ろのは……」


 聞くのも申し訳ないが、下級生の少女に続けて尋ねてみる。


「海原君ですか……ウミが車椅子で教室に入ってきてからあの様子で……」


 よく見るとウミの周囲には人がいない。

 みんな遠巻きに様子を伺っているように視線を送って入るが。

 まあ、生気の抜けきった存在が後ろにいればそうなるのは間違いない。


「授業中も……?」

「ええ……先生も何かを察したように触れていませんでした」


 そうだろう。


「わかった、ありがとう。時間を取らせて申し訳ない」


 そう言って、下級生の少女に礼をいう。

 彼女は会釈して教室を後にした。


「にしても」

「どうする? 声かけに行く?」


 スガルが車椅子の彼女……の背後霊的な存在を凝視しながら、ワタシに向けて声を発する。


「行かずしてどうする……と言いたいが、あの様子ではなぁ」


 まさか教室に入って堂々と声をかけるわけにも行かまい。

 ウミはワタシ達に気がついている様子もない。

 などと迷っていると、ウミが顔を上げ海原と呼ばれた少年に何か声をかけている。

 すると、まるでラジコンで操作されているかのような動作で移動を始めた。


「どこかに行くみたいだね」

「ああ、ゆっくりついていってみようか」


 ワタシたちの元ではなく、どこか目的があるようだ。

 教室の反対側の扉から出ていく。

 ワタシたちは適度な距離を保って後を追っていく。

 廊下を進むウミたちは、廊下を歩く生徒たちに避けられながらスムーズに進んでいく。

 ギョッとした表情を浮かべる生徒もいるが、おそらく少年の様子を見てのことに違いない。

 ウミ自身は車椅子には座っているが、目立った変化はなかったはずだからな。

 ウミたちが進む先にあるものは階段か手洗いしかない。

 階段で移動するということもあるまい。

 となると、目的は手洗いということになる。

 ワタシの読み通り、少年は廊下を曲がって、手洗いの方へと方向転換した。

 ……しかし、だ。

 ウミの手洗いに、少年はどこまでついていくつもりだ?

 車椅子は一人でも動かせるので、問題はなさそうだが、少年は手を離すつもりはあるのだろうか。


「スガル、ちょっと急ぐぞ」

「あ、うん、わかった」


 距離を取っていたが、ワタシは嫌な予感がして走り出す。

 少年とウミが曲がって数秒もせずに、ワタシもコーナーを曲がる。

 ウミの乗った車椅子を押す少年は女子トイレにまっすぐ――


「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁ!!」


 ワタシが叫び、数瞬遅れてその光景を見たスガルがワタシを追い抜く。


「ソラ先輩!?」


 一瞬、少年が足を止め、驚いた声を上げるウミ。

 そのスキにスガルが少年を引き剥がそうとするが、全く動く気配がない。

 スガルの力が弱いのもあるのだろうが、それにしても反応もせず微動だにしないのはやはり異常なのだろう。

 しかし、このままでは少年まで女子トイレに突入しかねない。

 しかたなく、ワタシも加勢するのだが、何だこいつの力は、二人がかりでも大変だ。

 幸いなことに、この場には他の生徒がおらず目撃されることはなさそうだ。


「ウミ、こいつどうしたんだ?」

「え、と……私が【獣化病】だったことを伝えたら、急にこんな様子に……ショックだったのかと」

「ちなみに、手洗いには用があるか?」

「あ、はい……でも、このままだと、コータまで」


 昨日よりもどこか色っぽさを感じさせるため息に、ワタシの胸までドキリとしそうだったが、今はそれどころではない。


「この、離れろ!」


 一瞬だけ力を強く入れて、なんとか車椅子から海原少年を引き剥がすことに成功した。

 そのままスガルに渡して、羽交い締めにさせる。

 声を上げることなくジタバタと手足を少年はやはりどこか不気味だ。


「スガル少しの間、任せられるか?」

「ああ、なんとかなりそうだよ」


 ゾンビのように車椅子に戻ろうとする少年とそれを止めるスガルから目を離す。


「ウミ、行こうか」

「あ、はい」


 ワタシがウミの乗る車椅子のハンドルを握り、女子トイレへと入っていく。

 背後からは少年の気配を感じるが、声を一つとして上げないところが、やはり不気味であった。



 この学校は少々古いため、トイレの中は薄暗い雰囲気が広がっている。

 壁はタイル張りで、床も年季が入っている。

 もう少ししたら改修工事が入るとの噂があったが、ワタシが学校にいる間に行われることは無いだろう。

 もっとも【獣化病】の影響で学校が続くかどうかも怪しいといったところか。

 トイレは車椅子であれば一台すんなりと入ることができる。

 幸いにして珍しく女子トイレには誰もいなかった。

 車椅子を個室の前で止める。

 個室は非常に狭いため、車椅子は入れない。


「ウミ、ワタシが抱えるか?」

「いえ、まだ少しは歩けるので」


 と、ウミは車椅子から腰を上げた。

 ワタシはウミの両手を握って、ゆっくりと立ち上がらせる。

 手を離してもウミは二本の足でしっかりと立っている。

 外見だけでは【獣化病】が進んでいるようには見えない。

 だが、スカートの内側、制服の内側では【獣化病】は着実に進んでいるのだ。

 ウミは歩幅は非常に小さいものの、言葉通り歩けるようだ。

 一歩一歩、足を擦るように歩を進めて個室のドアを閉める。

 ガチャリとカギが閉まる。

 ワタシは誰もいなくなった車椅子をじっと見つめて、静かに待つ。

 布の擦れる音が耳に届く。

 他に誰もいないので邪魔する音は一切ない。


「どうして先輩が……?」


 ドア越しに、ウミの声がワタシに届く。


「ああ、ウミの様子が心配で見にきた。結果的に少年が変態呼ばわりされないで済んだな」

「そうですね、ありがとうございます」


 あの死んだサカナのような目をしている少年の顔を思い出す。

 ウミもどこか呆れたような声だった。


「調子は、どうだ?」

「異変は他にないです」

「そうか」

「ただ、ちょっとずつ足の変化が進んでいるように感じます」


 本人でも自覚できないけど、確かに進行しているということだろうか。


「……私、怖いです」

「……」


 ワタシは何も言葉にできず、ため息のような音が喉から出るだけだった。


「【獣化病】って、変化に気がついたら一気に姿が変わるものだと思っていたので」


 実際にそうだ。その印象が強い。

 陸上部の他の者だって、次の日に突然動物の姿になっていた。

 中途半端に変化した状態で姿を表した者は記憶の限りでは、ない。


「徐々に別の生き物へと変わっていくのを見せつけられているようで、怖いんです」


 ワタシは何も答えず、彼女の言葉を聞き続ける。


「走るのが好きだったのに走れなくなって、少しずつ陸で生きていくには難しい姿になって、最後は人間の姿でなくなってしまう。それをじわじわとゆっくり自覚させられるのが、怖いんです」

「そう、だな……その恐怖をワタシが全て理解することは難しい。でも、いつワタシも【獣化病】で姿が変わってしまうのか……走れなくなってしまうのかと思うと、怖いよ」


 ウミの恐怖に比べたら全然ではあるが。


「ただ、進行がゆっくりである、ということは、人として最後を迎えて、覚悟を持って動物の姿に慣れるのではないか?」


 そんな言葉で納得させることはできないとはわかっているが。


「他の者は急に姿が変わって、言葉が発せられなくなる。しかし、ウミは違う……今ならまだ、間にあう。言葉を伝えたい者に、まだ届けることができるのではないか?」

「……」


 結局、ワタシの言葉は【獣化病】を知らない存在としての言葉だ。

 わかっていないと怒られても文句はいえまい。

 しかし、


「……ありがとうございます。そう、ですね……走れなくなったくらいで落ち込んでる場合じゃ、無いですね」


 ウミはそう何かを決意をするかのような声色だった。

 そして、結局用を足す気配なく、カギが開いた。



 ラジコンのように教室へと戻っていく少年と、その少年が押す車椅子に乗る少女の背中を見送って、ワタシとスガルの何も声を発さずに見つめ合う。


「戻ろうか」

「そうだな」


 スガルの提案をワタシは肯定する。

 この時、スガルの表情が曇り、顔色が悪くなっていたことに気がついていれば、もう少し違ったのかもしれない。 

 二人で何か会話をするでなく、自分たちの教室へと戻っていくのであった。



 午後の授業も終え、放課後となった。

 教室はすでに半分くらいのクラスメイトが教室を後にしている。

 残りの半分も帰りの支度をして、もうじき教室からは誰もいなくなるだろう。


「ソラ」


 その直後、スガルがワタシの席に近づき、声をかけてきた。

 その声には覇気がなく、どうしたのだろうと座ったまま、彼を見上げる。


「……な、どうした!?」


 思わず、立ち上がってしまった。


「顔が真っ青じゃないか」


 そう、スガルの顔に血の気はなく、真っ白だった。

 それでもなお微笑んだ表情を浮かべているのは、意地なのだろうか。


「そんなに青い? 確かに、寒気はあるんだけど……」


 と、自分の身体を抱くように擦っている。

 どれどれと、ワタシはスガルの額に手を当てる。

 が、触れた瞬間に手を引っ込めてしまった。


「ソラ……?」


 あまりにも冷たすぎる。

 まるで体温が無いかのように。

 そして、人とは思えないほどにその肌が乾燥しきっていた。

 見た目だけではわからないが、普通ではない。

 ……普通では、ない……?

 気がついてしまい、ワタシの鼓動が加速する。

 普通ではない変化……【獣化病】……。

 ワタシはスカートのポケットから携帯電話を取り出して、メールを打つ。

 宛先は副部長で『今日は帰る幼馴染み体調不良』と手早く送る。

 その間、スガルは黙って待っていてくれているが、フラフラと身体の揺れが大きい。


「スガル、一緒に帰るぞ」

「え、ソラは部活が……」

「休む連絡を今入れた。スガルの体調の方が心配だからな」

「ごめん、ソラ」

「謝ってないで、行くぞ」

「あ、うん」


 スガルの手を握って一緒に教室を出る。

 その手もまた冷たくて、ただならぬ異変を感じるのである。

 足早に学校から離れ、帰り道を二人で歩く。

 車の多い通りの歩道を歩く。

 車道とは逆側は海が広がっている。

 海に近い街なので、少し歩けばこんな景色が広がる。

 等間隔で下り階段があり、そこを下れば砂浜に出ることができる。

 今の時間帯は、そこまで人は多くない。

 ここから見る限り、サーファーが一人や二人。

 砂浜で潮干狩りやらをしているものは誰もいない。

 もっとも、海水浴場というわけではないので人が少ないのも当たり前か。

 そのワタシの横をゆくスガルは冬であるかのように身体をさすって、寒そうに歩いている。


「スガル、平気か?」

「いやぁ、寒気が強くなってる気がするよ」

「うむ……早く帰らないとな」


 ちょうど長袖のジャージを持っているので、スガルに貸してやってもいいが、そういう寒気ではなさそうだ。


「やっぱり、昼休みか?」

「ん?」

「昼休みに一緒に連れて行ってしまったから」

「そんなことないさ」


 原因はワタシにあるのではと、恐る恐る尋ねてみた。

 が、スガルはきっぱりと否定した。


「ついていったのは僕だし……それに、寒気は実は朝からなんだ」

「それは気が付かなかった」


 スガルの手に触れた時の冷たさの正体はそれだったのか。


「朝はそこまでじゃなかったからね。確かにこの寒気が強くなったのは昼休みに教室まで戻ってからだけど」

「なら、教室で休んでいれば――」

「そういうわけにはいかなかったんだ」


 スガルにしては珍しく声を荒げ、低く発する。

 ワタシの言葉を遮るように。


「【獣化病】が残される人に与える影響を知りたかったんだ」

「……スガル?」


 それはまるでスガルが――


「ごめん、ちょっと砂浜に寄っていってもいいかな?」

「あ、ああ……」


 嫌な予感だ。

 だけど、止めることができない。

 どうして急に砂浜に行きたがる。

 影響を知りたいってなんだ。

 なぜスガルが……。

 言われるがままに砂浜へと続く階段を降り、塀を横に二人で進む。

 車の通りが頭上から響くが、それ以外の人の気配はやっぱりない。

 少し進んで、スガルがゆっくりと腰を下ろした。

 ワタシは制服のまま、砂浜に座ることはためらわれて、スガルを見下ろす。

 顔をうつむかせ、吐く息はゆっくりで、ぐったりとしたスガルの様子を見ているだけ、胸が痛む。


「スガル、大丈夫か……?」

「う……ん、ちょっと無理そうかな」


 顔をようやく上げたスガルは微笑んでいた。

 青白い顔で、笑っていた。

 だが、すぐに変化が起きる。


「ぐッ……」


 スガルが右腕を抑えると、バキバキと人間から出てはいけない音がスガルから発せられる。


「スガル!?」


 痛いのか、苦しいのかわからない。

 だが、スガルの表情は険しいものとなった。

 その右腕急激に、それでもゆっくりと膨らんでいく。

 まるで筋肉がそこに集まっていくかのようだった。

 皮膚の色が肌色からくすんだネズミ色に変わり、表面に光沢が現れ、太陽の光を反射する。

 腕の太さが倍になろうというところで、他の部分にも変化が訪れる。

 スガルの頭部、両耳の上のあたりから角のような突起物が生え、後頭部に向かって伸び始める。

 開く目の瞳はアーモンドの用に細くなり、白目が徐々に黄色みがかる。

 歯は犬歯が鋭くなり、口が大きく大きくなっている。

 この世のものとは思えない生物へと変化を遂げようとしているのではないかとさえ思うほどだった。

 【獣化病】で間違いない。

 だが、なんの生物に変化を遂げようとしているのか。

 ワタシにはわからない。


「スガ……」


 なんて声をかければいいのか。それさえわからなかった。

 スガルは何かを訴えるかのような目でワタシを見据えている。

 まだ人間のままの左腕をワタシに差し伸べる。

 それを当然、握り返す。


「僕は、僕だ」


 そっと呟くかのようにスガルは言った。


「ウミが大切で、一緒にいたくてさ」

「それは……ワタシもだって!」

「ガッ、ハッ……!?」


 直後、左手が払われ、それさえも別の生物へと変化を始めてしまった。

 スガルが突如立ち上がり、身体を震わせる。

 身体全体が膨張し、スガルの着ていた制服がメリメリと悲鳴を上げながら裂けていく。

 ワタシと同じくらいの身長だったはずのスガルがみるみる大きくなっていく。

 ワタシの首が徐々に上を向く。

 スガルの背中からは空が飛べそうな一対の翼のようなものが現れ、身体全てが右腕と同じようなネズミ色へと変化していた。

 何もできなかった。

 何も言えなかった。

 気がつけは変化が止まり、目の前の見たこともないような生物をしたスガルが、荒い息を吐いていた。

 その呼吸は獰猛な動物そのもので、唸るような音がワタシの心臓を跳ねさせる。

 徐々にその呼吸が整い、その双眸がワタシの顔を捉える。

 近づいてくるでもなく、遠のくのではなく、じっとワタシを眺めて動かない。


「スガル……?」


 恐る恐る、尋ねてみる。

 その目の前の大きなトカゲのような動物は、長い首を起用に縦に動かした。

 それは肯定の証だった。

 少しずつ気持ちが落ち着いてきた。

 だが、なんて声をかけたものか……わからない。


「……でかくなったな」


 ワタシがどんな顔をしているのかわからない。

 でも、目の前にいるのは確実にスガルなのだ。

 腕を伸ばすとそこはちょうどスネのあたりか。

 湿り気のないザラザラとした灰色の感触。


「グ……」


 スガルが何かを言おうとして止めた。

 喉が鳴るような声で、その声が出た途端にスガルは声を止めた。

 その変化にワタシは【獣化病】を実感し始めた。

 遠い街の現象で、陸上部の面々にも影響が出始めていたが、身近であると感じることはできていなかった。


「スガル……」


 何度目だろうか、スガルの名前を呼び、それ以上の言葉が出せないでいると、



 ――でっかい竜!?



 という声とともに、にぎやかな声が耳に届いてワタシは振り返る。

 スガルもそれに気がついたようで、首をその方向へと動かした。

 ワタシたちの元に近づいてくるのは、


「ウミ……!」

「ソラ先輩!?」


 それと昼頃生気を失っていた少年ではないか。

 ウミはセーラー服を着ていたが、下半身はサカナのようになっていて何もはいていなかった。

 まるでそれは人魚のようで、少年にお姫様抱っこをされている。

 少年はどこか重そうに両手でウミを抱えている。

 そして、二人とも、


「なんでびしょびしょなんだ?」


 海に飛び込んだかのように全身が濡れていた。


「そ、それはちょっと……」


 と、ウミが目をそらした。


「にしても、ウミ、その足――いや、ヒレは?」

「【獣化病】が一気に進行したんですが、ここで止まってしまって……なんとなく、これで終わったような気がします」


 ただ、もう陸は歩けなさそうですが。と寂しそうなウミ。


「でも、コータが一緒なので」

「お、おう」


 話を振られた少年は、話を聞いていたのかいないのかといった返事をする。

 ついでにその少年は今にもウミを落としそうである。


「どうも、初めまして」

「……」

「……」


 海原少年のその一言に、ワタシもウミも後ろのスガルも揃ってため息をつく。


「え、え、俺、なんか変なこと言った?」

「少年、本当に覚えていないのか?」

「え、ああ……昼に何か……? その記憶が本当になくて……」


 それなら、それ以上追求しても無駄そうだ。

「ワタシは陸上部の部長をやってる南那 蒼空だ。そして、後ろにいるのが幼馴染みの西野 栖軽だ。ちょうど、今【獣化病】でこんな姿になった」

「グゥ……」


 海原少年もウミも、スガルの姿を見て絶句している。

 絶句と言うより、何の動物になったのかを考えているかのようだ。


「やっぱり、竜ですよね……?」


 ウミが恐る恐るといった様子で尋ねる。


「多分、そうだろう」

「【獣化病】って、そんなこともあるんですね……下半身の変化だけで止まった私が言うのも変ですけど」

「いや、きっと【獣化病】はそういうものなんだ。理由はわからないが」


 【獣化病】という現象はやはり謎が多い。

 人間が動物の姿になるという時点で理解の追いつくものではないが。

 理解のできない法則というものが存在するのだろう。


「あ、あの……」


 少年が真っ青な顔して腕を震わせている。


「ウミの車椅子取ってきてイイスカ? 腕が限界っす」


 情けないと思いつつ、人間一人をずっと抱えているのは大変だろう。


「わかった。ウミを預かろう」


 そのまま、ウミをワタシがお姫様抱っこをする。なんだ、軽いじゃないか。


「すんません、ちょっと行ってきます」


 と言って、少年は足早に来た方向へと消えていく。


「……ウミ」

「はい?」


 ウミは少し顔を赤らめさせて返事をする。


「みんなで東京、行ってみないか?」

「はい……?」


 急な提案かもしれない、でも、


「スガルがいるんだ。翼があるんだ。東京の【獣化病】の中心地まで見に行ってみようと思ってな」

「ッ……!?」


 スガルは肩をビクつかせて反応する。


「飛べるよな? スガル」

「グ、グゥ……」


 そういいつつ、翼を羽ばたかせるスガル。

 一度羽ばたいただけでとてつもない風圧を感じて、吹き飛ばされそうになる。

 行けそうだ。


「どうだ? ウミ。無理にとは言わない、少年と一緒に行ってみないか?」


 遠くから、少年が車椅子を引いて帰ってくるところだ。

 スガルの大きさなら三人は余裕で行けるはずだ。

 まあ、車椅子は置いていかないといけないだろうが。


「どうせ、ここも【獣化病】で平常ではなくなる。一足先に【獣化病】の世界を満喫したいと思わないか? ワタシは今、この状態で旅をしたい」


 ワタシも少年も、きっといずれは人間ではなくなる。

 それなら、今やれることをやってもいいのではないか。

 スガルの姿を見ていたらそう思えてきた。

 家には……携帯電話で連絡すればいいさ。


「先輩……行きましょう。東京の知り合いがどうなったのか、見てみたいです」

「なら、決まりだな」


 ワタシはウミを抱えたまま、スガルの背中を上る。

 尻尾も生えていて、ちょうど上りやすい。


「お、おい……?」


 少年は一人状況がつかめず、車椅子を放り出す。


「コータも一緒に旅に行こう?」


 ワタシからスガルの背中に移ったウミが海原少年へと手を伸ばす。


「わからんが、ウミと一緒ならどこにでも!」


 その手を握り返すのは少年。

 三人を乗せたスガルが翼を羽ばたかせて浮き上がる。

 正直本当に浮き上がるとは思わなかった。


「じゃあ、行こうか、東京の【獣化病】の中心地へと!」


 ワタシは指差して、スガルに方向を告げる。


「先輩、そっちは東北です!」


 そして、ウミがいてよかった。


「こんなんで東京に行けるのか?」

「行ける、行ってみせる!」


 こんな四人だが、退屈はしなさそうだ。

 【獣化病】とは、ただただ悪いものではないのかもしれないな。

 小さくなっていく自身の住んでいた街を眺めながら、心地の良い海風を感じて見知らぬ土地へと向かっていく。 

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