第二章 獣化病
Episode 16 Other Side -広太-
【獣化病の始まり】と呼ばれる現象から一週間以上が経過した。
でも、とてもじゃないけど実感がわかなかった。
なぜならば【獣化病】が大きく広がっているのは都心の方であり、都心から離れたそれほど大きな影響が出ていないからだ。
テレビでは『都心の方は大規模な停電が起きていて、その中で人々が【獣化病】によって動物に姿を変えている』というニュースが毎日のように放送されている。
だが、俺たちの住んでいる地域では電気は止まってないし、水道もガスも問題ない。テレビでニュースだって放送されている。
最近では、胡散臭いお兄さんなのかおじさんなのかわからない【獣化病】研究の第一人者を名乗る人が出突っ張りな印象がある。
ゆっくりとした口調で、語尾をよく伸ばす研究してる人って感じだった。
そんな俺は学校の夏服である半袖のワイシャツ、黒の長ズボンを履いて水平線を一望できるコンクリートで出来た桟橋のちょうど真ん中あたりに立っている。
直線距離で徒競走ができそうなコンクリートの塊、波がザバザバと音を立てている。
海は穏やかで、空はこれから夕日に染まっていくような気配がする青色だ。
高校生の俺――海原 広太(うなばら こうた)は学校帰りにこの桟橋で海の様子を眺めるのが日課だ。
【獣化病】だろうがなんだろうが、大きく影響が出ていない以上、学校は休みにならない。
確かに何日も来ていないやつがいるし、動物の姿で登校しているやつもいないことはない。
東京では大きな騒ぎになっているが、このへんではもっととんでもない影響が出ない限りはそのままの生活が続くだけらしい。
海が近く都心からは遠い街に住む俺には、【獣化病】なんて関係のない話だった。
【獣化病】というものは、テレビの向こう側の遠い話なのかさえ思うほどに。
「おーい!」
そう考えを巡らせながら海を眺めていると、後ろから女子の声が耳に届く。
この声を俺は毎日のように聞いている。誰の声なのか、すぐに分かる。
俺は振り返ってその声の主の姿を確認する。
桟橋の根元から伸びる階段の上、その部分は道路になっている。
彼女が立っているのは歩道の部分で、その彼女の後ろには様々な車がそれなりの速度で行き交っている。この桟橋は大きな道路に接している。
肩より少し短い髪を揺らして、セーラー服を身にまとっている彼女。セーラー服は白色ベースで襟の色は紺、赤いスカーフが風で揺れている。スカートも紺色で、裾は膝より下だ。彼女にしては珍しい。
いつもの彼女は短めのスカートで丈の長いスパッツを見せているのだが、今日に限ってはずいぶんと長い。
そんな彼女は恐る恐るといった様子で階段をゆっくりと降りて、歩く速さもずいぶんとゆっくりで俺に近づいてくる。
彼女は毎日のように顔を合わせる幼馴染で名前は、
「ウミ」
金田 海子(かねだ うみこ)だ。
「ん?」
幼稚園の頃から一緒で、小学校、中学校とずっと同じ学校に通っている。
高校もたまたま同じ学校を志望し、二人とも受かったため、同じ学校に通っている。
部活は中学の頃から陸上をやっていて、足は早いはずだしいつも機敏に動いていたはずだ。
だからこそ、制服のスカートは短くスパッツを見せているのだが、今日に限っては優等生もびっくりなほどスカートが長い。
そもそも、陸上部なのでこの時間に彼女がここにいることがおかしい。
陸上部は今日の放課後も活動を行っていたはずだ。
「ウミ、部活は?」
「今日は休み。ちょっと体調が良くなくて、ね」
ゆっくりとした歩みで俺の横に並んで立つ。
桟橋は十分な幅があるので、二人が並んだところで狭くなることない。
だけど、ウミはピタッと俺の横にいるものだから圧迫感があるし、気温も少し高いので暑い。
この距離感は幼稚園の頃から一緒だったので、別にどうも思わない。けど、俺だって男子だ。ウミではない女子がこんな距離にいたらむず痒く感じてしまうだろう。
「そっか……ウミにしては珍しいな」
小さい頃から一緒だったウミは元気そのものの女の子だった。
風邪なんて引いたところなんてほとんど見ていないし、高校入ってからは一度たりとも学校を休んだところは見ていないし、部活だって休んでいた記憶もない。
「そりゃ私だって、そういう時もあるよ、女の子だし」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ」
海からの風はそれなりに強い。
ウミの短い髪の毛も風でふわりと揺れて、シャンプーの香りが俺の鼻まで届いてくる。
「その……いつもは何段も飛ばして降りている階段を一段ずつゆっくりと降りていることと関係あるのか?」
「……」
顔色が曇った。
ずっと運動部で、どこかガサツな女子だった。
そんなウミが急に女の子らしく振る舞うだなんて思えなかった。
けど、ウミの返答は、
「ううん、気にしないで……そのうち、言うから」
だった。
ウミは首を振りながら答えた。でも表情はやはり暗い。
「そうか……わかった」
無理に尋ねても答えてくれそうにない。
ウミはそのうち言ってくれると答えたのだ。ならば、それを信じるしかない。
俺が答えてから、二人の間に沈黙が続く。
その間も波は一定の間隔でザパンザパンと音を立てている。
いつも通りの波の音のはずなのだが、どこか寂しげに聞こえてしまう。
「ところでさ」
その沈黙を破ったのは俺ではなかった。
「ところで?」
ウミの言葉を俺もそのまま返す。
「【獣化病】って、広がってるみたいだね」
「ああ、そうだな……まあ、正直、俺は実感ないけどさ」
「そう、だよね。東京では大変なことになってるけど、この辺りってそうでもないんだよね」
「確かに【獣化病】の影響は出てるけど、東京のソレとは比べ物にならないくらいなんだよなぁ。学校でも一日に一人、【獣化病】で動物になったヤツがいるって話が出るかでないかくらい」
「でも、確かに動物の姿になってまでも学校に来てる子はいるよね」
「ああ、いるいる。そのクラスでは休み時間になるたびに可愛がられてるとかどうとか」
「本人はどう思ってるんだろうね」
「さあ、人の言葉を話せない以上どう思ってるかなんてわからない……そもそも、人間でなくなったんなら、学校に来なくても良いんじゃないかって俺は思うけどな」
「……だよね」
「?」
急に彼女が静かになってしまった。
俺は慌てて別の話を続けようとするけど、どうしても【獣化病】の話になってしまいそうだ。
「そういえば、【獣化病】って若いヤツに多いらしいな。不思議と老人で【獣化病】になる人数はとても少ないって学校で聞いた」
「うん、私もそれ聞いた。確かに近所のおじいちゃんやおばあちゃんよりも、中学生の子とかそのお母さんやお父さんくらいの歳の人が【獣化病】になりやすいみたい」
「不思議だよな……原因はわかっていないってテレビで言ってたけど、そう偏ってるなんてな」
そう言っていたのも【獣化病】に詳しいらしい専門家の胡散臭い男だったなぁ。
すると、ウミは何かを思い出したかのような顔をして口を開く。
「それで思い出したんだけど、銭井のおばあちゃんが【獣化病】になったらしいね」
「ああ、それ俺も聞いた。アライグマになったんだっけ……クラスのヤツが見に行ったら、ずっと小銭を手で洗ってたらしいぜ」
「へぇ、動物になってもお金に執着してるのが、銭井のおばあちゃんらしいね」
銭井のばーさんといえば、この地域でわりと有名な人間だった。
海から少しだけ離れた高い丘に建ってるデッカイ屋敷に住んでいるばーさんで、俺達が小さい頃にはじーさんもいたんだが、いつの間にか死んでいたらしく姿を見ていない。
とにかく金持ちなばーさんだった。しかも、じーさんと競い合うように金を稼いでいたと言うんだから驚きだ。
どうやってこんな地域で金を稼いでいたのかはわからないが、ただただデッカイ屋敷に住んでいる性格の悪いばーさんだった。
屋敷に近づけば飛んでくるように屋敷から出てきて追っ払われた。口は悪かった。
そんな思い出ばかりが思い出される。
ただ、そんなばーさんも動物の姿になってしまえば使う先の金もないだろうに。できることは洗うことだけってか。
そんなばーさんにも娘がいたはずだ。
「確か、ばーさんに娘がいたはずだよな」
「そういえば、いるって聞いたことあるなぁ。それでも、もう私たちより年上だし、もうあの屋敷にはいないみたいだけど」
思い出すかのようにウミは空を見上げる。
「【獣化病】で大変だっていうのに、娘は何をしてるんだろうな」
「うーん、連絡する人がいないんじゃない? それに、仲が良かったなんて聞いたことはないし、連絡があってもわざわざ戻ってこないんじゃない」
「そんなもんかぁ。その娘って、どこにいるんだろうな」
「どこにいるんだろうね……きっと、東京の方なんじゃない?」
「きっと、そうだよな」
この辺りに住んでいる人間で独立するとしたら、ほとんどの人間は都会の方へと行くはずだ。そうなると、その娘も東京の方にいると考えるのが自然である。
連絡は一切取っていないのだろうか、取った上で戻らないのか、そもそもどういった関係なのかも知らないので俺たちがどうこう言う問題でもないんだろうけど。
東京……。
「そういえば、ウミ」
「ん?」
「前に、渋谷におじさんがいるって言ってなかったっけ」
「確かにおじさん、渋谷にいるみたいだけど……」
ウミは歯切れが悪そうに答える。
「お父さんは嫌ってるし、私もあまり好きじゃないから、詳しいことはわからないんだ。でも、確かにいる」
「そっか、それは聞いて悪かった」
確かにおじさんの話は頻繁にしてなかった。うかつだった。
「ただ、流石にお父さんも連絡を取ったみたいで、『儲け話が舞い込んできた』って喜んでたみたい……【獣化病】もあるのにどんな儲け話なんだろうって」
「それで、その後は」
「まったく連絡取れないって。携帯に連絡入れておけば返事くらいはしたおじさんが、もう何日も音信不通だって」
「そうか……多分、元気なんじゃない?」
「そうだといいけど……どちらにせよ、私にはあまり関係なからね」
と、ウミは苦笑いを浮かべていた。
そんな表情をしながら、ウミは言葉を続ける。
「それよりも、陸上やってて東京の方にいる知り合いが心配かな」
「そいつらとの連絡は?」
「【獣化病の始まり】の日から数日はちゃんと取り合えてたんだけど、急に返信がなくなっちゃって……良く一緒にいた写真部の子も初日から連絡が取れないんだ」
「そうなのか。それは心配だな……直接、東京に行くわけにもいかないしなぁ」
「そうだね。わざわざ行こうと思う人もいないんじゃないかな……私は行ければ行きたいんだけど、学校もあるしね」
「そうだな……にしても、良く遠くのヤツと知り合いになれたな」
「東京で陸上の大きな大会があった時にたまたまね。それからずっと連絡取り合う仲になるとは思わなかったけど……久々に顔を見たくなってきちゃった」
俺は思わず「人間の顔をしていればいいけどな」と言いそうになったところをグッと我慢する。
心配しているのにそんなことを言ってはいられない。
「また、元気に会えると良いな」
「うん」
彼女は静かに答える。
「どんな姿であっても、私は私だから」
相手がどんな姿でも……ではないんだ。俺はふとそう思った。
ウミは一歩前に出て、クルッと回って俺の顔をジッと見つめた。
制服のスカートがフワッと舞うが、裾が長いのでその下が見えることはない。
髪も一緒に踊って、そのシャンプーの香りが再び俺の鼻をくすぐった。
「あのさ、コータ」
「どうした?」
改まって。
「もし、もしだよ? 私が【獣化病】で人間じゃなくなっても、一緒にいてくれる?」
その質問に俺の心臓が強く波打った気がした。
やっぱり、ウミに何かあったのだろう。
でも、ウミはそのうち打ち明けてくれるって言ったんだ。それを信じるしかあるまい。
「一緒にって、朝から晩まで?」
「ううん、こうして会ってる時みたいに、どうしようもない話するの」
「そりゃもちろん!」
俺は即答する。
ウミを拒絶する理由なんてありはしない。
「安心した。じゃ、また明日学校で!」
「って、え、ちょっと、ウミ!」
俺の答えを聞くや否や俺の横をすれ違って、そのまま道路の方へと向かっていってしまった。
歩みはやはりゆっくりだったし、すぐに追いかけられた。
でも、俺の足は動かず、残されたのは俺と、海の波の音だけだった。
どうしてわざわざそんなことを尋ねてきたのだろうか。
***
そして翌日。
ウミは車椅子で登校してきた。
理由は【獣化病】。
その日、俺は学校での出来事を覚えていない。
***
「――ータ、コータ!」
ウミの声で、俺は意識を取り戻した。
「な、なんだ?」
「あー、やっと喋った! 今まで生気を失った人みたいになってたんだから」
実際、記憶が半日分ほど抜けている。
今は昨日、彼女と一緒にいた桟橋にいる。
ザバンザバンと波の音は変わらず、空も澄んでいる。
昨日と違うのは俺の手には車椅子のグリップがあること。
車椅子にはウミが座っていて、二人で海を見渡す方向を向いている。
「まったく……私が車椅子で教室に入ってから、ずーっと死んだサカナのような目をしてさ、ずっと車椅子押してくれてたのいいけど、女子トイレまで入ろうとしちゃうなんて」
「俺、そんなことしてた?」
全然記憶になかった。
その時はどうしたんだっけ。
「先輩が引き止めてくれなかったら、大変なことになるところだったんだよ!」
ウミは頭を真上に上げて、俺の顔をジッと見ている。
頬を膨らませているのが少し可愛い。
「まったく覚えてない」
「もう!」
彼女が腕を上げて、俺の顎にアッパーを加える。
それが原因かどうかはわからないが、少しずつ記憶が蘇ってきたような気がする。
そうだ、ウミは【獣化病】によって歩くのが困難になってしまっていた。
ウミの身体や顔、制服のスカートから伸びる足は人間のままだ。
でも、その下に異変が発生していたのだ。
ラジコンのように俺はウミの乗る車椅子を一日中押していた。
クラスの奴らにからかわれたけど、不思議と悪い気分ではなかったと思う。
そんな記憶が蘇った。
「足は、大丈夫なのか?」
「え、急にどうしたの……?」
「だって、歩けないんだろ?」
「いやいや、まだ歩ける……でも、普通に歩こうとしたら時間がかかっちゃうから」
そう言って、彼女はスカートの裾をめくる。
太ももが半分見えた辺りで彼女は手を止める。
白くてきれいだけど、陸上をやっているだけあって引き締まっている足。
膝から下は問題ない。
でも膝の上、太ももの半分辺りからピタリとくっついていて、一本になってしまっている。足と足の間は凹みがあるけど、皮がくっついて離そうにも離せなくなっている。
「……コータなら、もうちょっと見せてもいいかな」
恥ずかしそうに更にスカートの裾をめくるウミ。
「なッ」
その俺の目に飛び込む光景によって、驚き以外の感情が吹き飛んでしまう。
光っていた。
丸い模様が何重にも重なって、それらが輝いている。
肌が灰色の……まさに鱗になっているではないか。
「そんなことになっていたのか」
「うん……もう、走れないね」
「……」
俺はなんて答えれば良いのか。
足がサカナのソレに変わろうとしてる。
そして、将来的に全身がサカナになって、人間でなくなってしまう……それが【獣化病】なのだ。
やっと、その恐ろしさに気がついた。現実味を帯びて、【獣化病】という存在の実感が徐々に湧いてくる。
まだ、ウミの場合は良い方だろう。
だいたいのパターンが、変化が起きたらすぐ動物の姿に変わっているんだ。
最後の一言を口にすることすらできず、言葉を発することができない、人間として自由が利かない身体へと作り変えられてしまうその現象を。
俺は車椅子の横に回って、彼女の顔を見る。
まっすぐと、海原を見据えるウミの顔は、どこか昨日と違って大人びてさえ見えた。どこか潮風を感じさせる香りは、どちらの"うみ"からやってきているのだろか。
じっくりと変化していくだけ、人間として最後の時間を過ごすことができて、幸せなのだろうか。
「ねえ、コータ」
「どうした?」
「なんで私、【獣化病】になっちゃったんだろう」
その声は、今にも消えてしまいそうで、震えていた。
「もっと走っていたかった、もっと人間でいたかった。コータとももっと喋っていたかった」
彼女は立ち上がった。
「お、おい!」
「平気、足がくっついてゆっくりと歩くことはできるから」
確かに歩幅はゆっくりで、両足をするような移動だ。
だが、確実に前に進んでいる。
コンクリートでできた桟橋をゆっくり進んでいく。
俺もその後をついていく。
「みんな動物になっちゃうのかな」
「……そうかもしれない。でも、俺にはわからない」
日が傾いて、景色をオレンジ色に染めていく。
「私、【獣化病】って全然わかってなかった」
「俺も、実感がなかった」
「【獣化病】って怖いね」
「俺も、怖い」
「東京の人たちって、この何倍も怖い思いをしてたんだね」
「ああ、しかもそのまま一緒に暮らしてる人もいるってテレビでやってたな」
「この辺も、そうなるのかな」
「そうかもな……都会より、遅いだろうけど」
「うん」
桟橋の端までたどり着いた。
先端は、右も左も正面ももう海だ。
ザバザバと波がぶつかっている。
ウミはその先端を背に、回転した。
彼女の顔はいつもより、可愛く見えた。
「私、コータのこと、好きだよ」
「な、え……」
「それと、今までありがとう」
そう言って、彼女は海を背に、そのまま身を投げた。
「ウミ!」
瞬間に身体が動かず、俺の手は空を掴んだ。
ボチャンと彼女が海に落ちる音が耳に届き、俺は駆け出して端で一瞬足が止まる。
俺は泳げない。海がすぐ近くの街に住んでいるのに、だ。
だが、彼女がいるんだ。
ぷかりと浮かんできたのは、彼女が身につけていたプリーツスカートだった。
それを見て一瞬止まった足を奮い立たせて、俺も海へと身投げした。
――あ、無理だわ。
海は深く、浮かび上がる術を知らない俺は沈んでいくだけだ。
息を止めているがどれだけ保つかわからない。
目も開けられないので、どこまで沈んでいるのかもわからない。
考えもなく飛び込むんじゃなかった。
俺はすぐさま後悔することになった。
どれだけもがいても浮かぶような感覚もなく、永遠と水面へと沈んでいくようで、俺はこのまま死んでしまうのだろうか。
ウミ……すまない。
俺が諦めていたその時だった。
何者かが俺の身体を抱えて、急浮上するではないか。
「がはぁ……!」
すぐに酸素のある海上に顔が出た。
俺は我慢していた呼吸を再開して、溜まった空気を肺から出して、新鮮な空気を補給する。
何が起きたんだ?
俺の背中と膝の裏の二点で支えられていて、沈んでしまう気配もない。
深い呼吸を数度繰り返して、ゆっくり目を開ける。
「――ッ!?」
すぐに声が出なかった。
俺の身体を支えてる正体、それは
「ウミ……なのか?」
声をひねり出す。
なんと、海に飛び込んだ彼女の顔が俺の目の前にあった。
俺を支えているのかウミの腕、ということになる。
海の中で俺はお姫様抱っこをされているのか。
「うん、海子だよ」
声もちゃんと彼女だった。
海に飛び込んだため、髪が顔に張り付いて、制服もびしょびしょだけど、確かに彼女、ウミなのだ。
「なんで、飛び込んだりなんかしたんだ! 心配して俺まで飛び込んじゃったんだぞ!」
「ゴメンね……急に身体が熱くなって……【獣化病】で身体の変化が急に始まりそうで、恥ずかしかったから……」
そんなことを言う。
ウミの頬は少し赤く、俺から目線をそらす。
耳もちょっとだけ染まっている。
「でも、人間のままじゃないか」
どこか変なところはない。
「上半身だけはね」
上半身だけ?
確かに足は【獣化病】が始まって変化はしていたけど。
「とりあえず、まずは陸に上がろうか」
「あ、ああ、頼む」
そうは言っても俺は泳げない。
俺をお姫様抱っこしたまま、器用に桟橋の横にある砂浜まで移動する。
俺の顔が沈まないように丁寧すぎるほどに運んでくれた。
「ここなら立てるかな」
「おう」
俺の腰の高さくらいに波がある場所で、ウミは俺を降ろした。
二人並んで浜へと移動するのだが、どんどんウミの頭の位置が下がっていく。
「ウミ……?」
心配になって、立ち止まって視線を下ろす。
ウミはちゃんとウミだった。
ただ、違っているのはやっぱり下半身だった。
人間の足二本分の太さがあるサカナの尾になっていた。
腰を境にまるで人魚のように。鱗が太陽の光を反射してキラキラと輝いてる。とてもきれいだった。
「手伝うか?」
「大丈夫、まずは腰を降ろそ?」
「ああ」
心配であるが、彼女がそう言うのだから大丈夫だろう。
俺は波がかからない場所に腰を下ろして座る。
制服が海でびしょびしょになってしまったが、もう今からどうしようもない。
その後、彼女は両手で這うようにこちらに向かってくる。
流石に見るに堪えずに、彼女の両手を持って引っ張った。
ズルズルとウミを砂浜の上で引きずる。
「ありがと」
「おう」
それで良かったのかは甚だ疑問ではあるけど。
俺が改めて座ると、その横に彼女も座る。
サカナの尾を器用に折って、体操座りをするように膝であったであろう部分を両手で抱いている。
「なんか、思ってた【獣化病】と違ったね」
こちらを向く彼女は苦笑いを浮かべていた。
確かに【獣化病】といえば、全身が動物に変化する現象のことを言うはずだ。
だけど、ウミの変化は下半身だけで止まってしまっている。
上半身は、人間のままだ。
夏服のセーラー服で、濡れてしまい下着が透けてしまっている。俺は慌てて視線をそらす。
「そうだな……でも、これから上半身まで変化するってことはないのか?」
「ううん、わからない。でも、今までと違って、もうこれ以上の変化はない気がする」
「そんなものか」
「そんなものみたいだね」
腑に落ちない部分はあるが、彼女が半分でも人の姿を保っていることが嬉しかった。
「どこか、諦めがあったからかもしれない」
「諦め?」
「【獣化病】の症状が出る前、すごく怖いと思ったんだ。身体が動物になってしまったらどうしようって。そうしたら、太ももの辺りが割れて、鱗になってた」
「ああ」
俺は相槌をうって、続きを促す。
「でも、ちょっとずつ変化して、コータが受け入れてくれて、なんかどうでも良くなっちゃんだ。変化しても、私たちは私たちなんだって……」
ウミはヒレになった、尾の先端を撫でる。
きれいに広がっていて、やっぱり人魚そのものだ。
「そうしたら、ここまで変化して止まっちゃった」
「そっか」
「それと、ちょっと楽しみだった。どんな動物になるんだろうって……まあ、鱗ができちゃってからは、魚類に限定されちゃったけど」
「俺は……何になるんだろうな」
「どうだろうね」
「でも、どんな姿になろうとも、ウミと一緒にいたい気持ちは変わらない……その、俺もウミを――」
「うん、ありがとう」
俺が言い切る前に彼女はお礼の言葉を口にした。きっと伝わってるんだろう。
夕日が綺麗だ。
俺は彼女の顔を見れないでいた。
「あと、どこかほかに異変はないか?」
「うーん、ちょっと胸が大きくなったかも……ブラが苦しい。人魚だけに、体型が良くなったかも」
「えぇ……」
異変は異変だけど、そういうことじゃなくて……。
と、風が吹いて俺は少し寒気を覚えた。
濡れたままでは、体調を崩してしまいそうだ。
「俺、このままだと風邪ひきそう……」
「それは大変! 私は、なんか寒く感じなくなったかも。でも、コータが風邪を引いたら大変だよ」
そう言って、彼女が立ち上がろうした、が。
「きゃ」
「危ない!」
もう立つことができないウミはバランスを崩し、俺の身体に飛び込んできた。
「怪我はないか?」
「うん、平気。でも、移動はどうしよう……ずっと海にいるわけにも行かないし……」
「じゃあ、今度は俺がお姫様抱っこしてやるよ……まあ、力はないから、車椅子までだけど」
「やった!」
嬉しそうだ。
「じゃあ、持ち上げるぞ」
俺は立ち上がって、ウミの背中と尾の曲がる部分に腕を差し込む。
全身に力を入れて立ち上がると、彼女と一緒に視線が上る。
なんとか、お姫様抱っこができたみたいだ。
「じゃあ、行きますか」
「待って!」
プルプルと震える俺の腕の中にいる彼女が、びっくりした表情で砂浜の向こう側を指さした。
俺はなんだろうと、そちらに目を向けると。
「でっかい竜……!?」
「ちょっと、行ってみようよ」
「あ、ああ」
この世界にいるはずのない、二足歩行の爬虫類のような身体をした生物と、もう一人、ウチの学校の制服を身にまとった女子が一人、俺の目に写った。
あれは何者なのか、車椅子とは逆方向に俺たちは向かっていく。
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