Episode 15 『ファーストインパクト』



「さあ、戻ろうか」


 わたしはデパートの外、ドアの前にいる。

 あまり長くいたつもりはないけど、太陽の光が眩しくて目を細める。

 身体をデパートの方に向けると、ドアを挟んで中にいる女性と目が合った。

 デパートに到着してから色々教えてくれた人だ。

 軽く会釈すると、女性は手を降って返してくれた。

 それを確認してからわたしはデパートから離れる。

 手には洋服屋さんの紙袋が一つ。

 中にはお母さんとお父さんの服が入っている。

 デパートで二人の服を見つけてどうしようかと困ってしばらくそこにいたら、ボランティアの人が声をかけてくれた。そして、その部屋にあった紙袋に詰めてくれた。

 きっと、元々ここで営業していた店舗のものだろう。

 その袋に詰めたのは、少しだけサカナのにおいがする服。

 持ち帰ってどうするかは決めていないけど、お母さんとお父さんがのこした物だ。いつまでも渋谷に置いておくわけにもいかないんだ。

 わたしはスクランブル交差点を斜めに横断して、明久さんのいる――一晩過ごした場所へと戻るのだ。

 スクランブル交差点では人がちらほらと見えるがそれぞれどこへ向かおうとしているのかはわからない。

 それでも渋谷という街にはまだこれだけの人がいるのだ。

 それぞれの人にそれぞれの人生があり、これから【獣化病】で姿が変わってしまう恐怖を恐れているかも知れない。

 家族に、知人に、大切な人にもう姿を変えてしまった人がいるかもしれない。

 【獣化病】は【獣化病の始まり】から人々にとって、忘れたくても忘れられないものとなってしまっているのだ。

 そしてわたしもそうだ。

 お母さんもお父さんもお兄ちゃんも【獣化病】で姿を変えてしまった。

 わたしはこれからどう生きていけばいいのだろうか。

 お母さんとお父さんがどこにいるのかわかった今、わたしはわたしが進むべき場所を探さないといけないだろう。

 渋谷から横浜に戻ったら、みんなはどうなっているのかな。

 マコもタマちゃんもサエ先生も元気だろうか。

 そのためにはまずは渋谷から横浜へと戻らないといけないのだ。

 明久さんのところまで戻って、お兄ちゃんを迎えに行かないと。

 お兄ちゃんと明久さんは仲良くできているのだろうか。

 正直に言えば、あまり仲良くできるとは思えなかった。

 明久さんはお兄ちゃんを嫌っているみたいだし、お兄ちゃんもあまり友好的には見えなかった。

 今になっては、二人だけで残してしまったのは失敗だったようにも感じられた。

 喧嘩をしていたら良くないだろうし、早く戻った方がいいかもしれない。

 自然と足早になって、渋谷の駅前から遠ざかっていく。



 何分もしない内に、周辺の建物に背の高いビルは見なくなった。その代わりに、人が住むのに適している低い建物が並ぶ。

 住宅街に入りつつある。

 行きに見た景色と何ら変わりはない。

 人をほとんど見かけず、人が住んでいる気配がしない静かな住宅街。

 ところどころ家が崩れていて、血痕も少なくはない。

 たまにすれ違う人は、動物の姿になった【獣化病】の人と一緒に歩いている人もいる。

 クマだったりライオンだったり猛獣の姿をした人もいないわけではない。

 でも、そんな姿をして避難所に行こうものなら歓迎はされないだろう。

 だから皆が避難所で集団生活をしている中、静かで治安が悪くなった住宅街に住み続ける人もいる。

 それでも住んでいた場所を選ぶ人たちもいるのだ。

 それぞれが自分自身を守る方法を考えているだろう。

 わたしには明久さんから貰った銃がある。

 これさえあれば、きっとわたしの身を守ることくらいはできる。

 だからといって、今歩いている人気のない路地でゆっくりしているのは居心地が悪い。

 足早に来た道を戻る。

 少し遠くからは足音が聞こえるので、近くに誰かがいるのだろう。

 一人ではなく何人か。

 その足音がゆっくりと近づいてくる?

 後ろを向かずに歩みを早める。

 明久さんのいるアパートまではまだまだ距離はある。

 自然と早足という速度から、小走りへと変わる。

 それでも後ろからの足音が遠くなることもなく、その音も加速している。

 誰だ、誰がいるんだ。

 走りながら顔を後ろに向ける。

 そこにいたのは、黒いスーツを来た二人の男の人だった。


「ひッ……」


 そのスーツははち切れんばかりにパツパツしていて動きにくそうだ。

 あまりに場違いで着こなせていないが、全身鍛えているような男の人達だ。

 無表情でこちらに接近しているではないか。

 わたしが見たのを確認した男の人達は急に走ってくる。

 まるで、テレビ番組で追いかけてくるような黒服の人だが、これはそんな甘いものではない。

 あ、マズイ……と、わたしも駆け出そうとしたが、すでに遅かった。


「がッ……!?」


 あっという間に距離を詰められて、わたしに腕を伸ばしてくる。そのまま慣れた手付きで、わたしの腕を身体の後ろに回すように押さえつけられる。

 あまりに強い衝撃で、声が漏れ出した。

 ガッチリと腕を固定したまま拘束されて、跪かされる。

 あまりに見事に捕まってしまった。

 身体に力を入れようとしても、見た目通りの力でガッチリと掴まれてしまっていて動かすことができない。

 それに掴まれている場所が痛い。少しずつ感覚もなくなっていくようだった。

 もう一人はこちらに向けている武器がある。黒くて先が長くて先端には穴が空いている――銃だ。

 二人一組でずいぶんと手慣れている。だけど、何故かガタガタと二人とも震えている。

 よく顔を見てみれば額には汗が浮かんでいて、表情も固い。

 無表情だったのではなく、表情が出せていないようにも見える。

 首にはずいぶんと似つかわしくない黒いチョーカーをつけている。

 別におしゃれというわけでもなさそうだし、趣味でつけているようにも見えない。


「すまないが、拘束させてもらった」


 わたしに銃を向けている人が口を開いた。

 威圧感のある低い声だ。わたしをすくみあがらせるには十分すぎる。


「何が……目的なんですか……?」


 声を絞り出す。震えて大きな声は出せないが、なんとか言葉にする。


「それは言えない。だが、ついてきてもらうことになる」

「どこに、ですか?」

「……」


 必要最低限の事以外しゃべるつもりはないようだ。

 わたしを狙っていたのか、それともたまたまこの場所にいたからなのか……どちらにせよ、この状況はあまりに悪すぎる。

 明久さん……は呼んで来てくれる距離にはいない。

 他に人通りはなく、助けてくれる人はいないだろう。通りがかっても、こんな男の人二人がいたら、逃げ出してしまうだろう。


「さ、来てもらおうか!」

「ぐッ」


 腕を掴まれたまま、持ち上げられる。自然と立ち上がらざるを得ない。

 この人達の目的が全然わからない。

 でも、どうにかしないと、どこかに連れ去られてしまう。

 一人じゃ、どうすることもできない。

 そう、諦めかけた時、



 ――そこまでだ!

 


 唐突に叫ぶ声が人のいない住宅街に響く。

 はっきりと大きな叫び声だけど、どこか頼りないような男の人の声だ。

 声の方向はわたしが歩いてきた方向で、渋谷の駅がある方角だった。

 そんな方向から誰だろうか。

 わたしを拘束していた人の力が少し緩んだ。だけど、わたしの力ではやっぱりどうすることもできない。

 声の主の方を見ると声の通り、男性が立っていた。

 でも、その格好がどこか違和感のあるものだった。

 夏なのに白くて丈の長い上着――白衣を身にまとっている。

 白衣は中央で留められていないため、風でなびいている。その下はよく見るような私服だった。

 その白衣も真っ白ではなく、どこか黄ばんでいて年季を漂わせている。

 それに男性の髪もボサボサであまり身だしなみには気を使ってなさそうに取れる。だからといって、ヒゲは目立って伸びているようには見えない。

 目は笑っているのか元々そういう顔なのだろうか……?

 体格はかなり――明久さん以上に――細く、強い風が吹いたら倒れてしまいそうだ。

 申し訳ないけど第一印象、変な人、だ。

 そんな男性はゆっくりとこちらに近づきつつ、白衣の内側から何か物体を取り出す。


「なッ……」


 わたしを押さえつける男の人の一人がそんな声を漏らした。

 まるでそれの正体を知っているかのように。

 男性が取り出したもの、それは、


「……え?」


 男の人がそんな反応するのも無理もなかった。

 だってそれは、まるでおもちゃの光線銃のようだったからだ。

 銃のような形をしているが、銃口なんてものはなく人を傷つける形をしていない。

 全体的にポップな色使いのそれ。本体そのものは白色で、引き金や飛び出ているパーツは黄緑色。銃口についてはドーム状で光りそうな形をしていてオレンジ色をしている。

 大の大人が持っているにはあまりにも違和感がありすぎる。

 でも、男性が近づく度に男の人の震えが大きくなっているように感じる。

 それにしても男に人たちが急に動揺し始めている。

 おもちゃを向けられた反応ではない。


「こ、これ以上近づくな!」


 わたしに銃を向けていた人が、代わりに近づいてくる男性にその銃口を向ける。

 その銃は、腕はプルプルと震えていたし、引き金から指を外している。


「へぇ、この僕にぃ銃を向けるというのかい?」


 銃を向けられている男性は笑っているのかわからない表情のまま、平然とそんな疑問で返すだけだった。男性もおもちゃの銃をこちらに向けたまま近づき続ける。

 わたしにかかっている力が明らかに弱くなっている。

 男の人がまるで急に現れた男性から逃れたいかのように。


「は、話が違うじゃないか……!」


 腕だけでなく、声も震えている。話……?


「さぁ? 僕はぁ、なぁんにも知らないんだけどなぁ」


 その次の瞬間、男の人がおもちゃの銃の引き金を引いた。



 ――パォ!!

 


 まるで情けない、ヘタクソなラッパのような音が銃から響いた。

 直後、わたしにかかっていた力がふいになくなりバランスを崩した。それとともに、身体の内側からゾワゾワするような感覚が一瞬だけ全身を巡った。

 なんとか踏ん張って踏みとどまると、バサリと二人分の服が地面に落ちたことに気がつく。

 その服は間違いなくわたしを拘束していた男性のもので、バランスを崩したのはその男性の姿が消えたからだ。

 人間が蒸発した? いや、まさか……!

 地面に落ちた服がもぞもぞと動き、その服に中からそれぞれ一匹ずつ灰色の小さな動物が飛び出してきた。

 その動物はネズミだ。実物を見たことはないけれど。そして、このネズミはどこから現れたか……いや、【獣化病】か!


「ほおぉ……」


 反して男の人はネズミには一切の興味を示してない。まるでその結果が当然であったかのように。

 それだところか、わたしの事をジッと見てどこか不思議そうで興味がありそうな表情を浮かべていた。

 身体を舐め回すような視線で背中がゾワッと冷たくなる。


「ああ、この銃かい?」


 わたしの視線に気が付いたのか男の人がわたしに向けて銃を見せつける。その間も男性はゆっくりと近づいてくる。

 一匹のネズミが男の人に抗議するかのように近づき、ズボンの裾を引っ張っている。


「まったく、邪魔だなぁ」

「――!?」


 男の人は鬱陶しそうに、ただ鬱陶しそうに足を振り上げて躊躇なくそのネズミを踏み潰した。

 その足元から赤い液体が広がる。

 わたしは何も言い返す事ができない。

 もう一匹のネズミに視線を向けると、逃げるかのようにササッと住宅街に消え去ってしまった。

 わたしの中の直感が「この人は関わっちゃいけない人だ」と訴えている。

 だからといって、わたしを助けてくれたのにも代わりはない。

 ただただ逃げるということもできなかった。


「で、君、この銃に興味を示したよねぇ……これねぇ【獣化銃】って言うんだぁ」

「え、【獣化銃】……?」


 ということは男性の【獣化病】は意図して発生したということなのだろうか。


「そうさ、引き金一つで、銃一つで自由に【獣化病】を引き起こすことができるんだぁ」


 男の人はすでに人ひとり分挟んで目の前にいる。

 ねっとりとした喋り方が、何を考えているのかわからない瞳が、どこか怖い。


「ただぁ、まだ完成してなくて選べないんだよねぇ。あ、なんの動物に変えるかなんだけどねぇ」

「えら……べる?」


 この人は本当に何者なんだろう。

 【獣化病】を自由に発生させて、さらには変化する姿を決められると言っているんだ。


「あなたは何をしている人なんですか?」

「へぇ、僕の事知らないのかぁ……いやぁ、まぁ無理もないかぁ……ただの科学者さぁ」


 科学者。ということは【獣化病】についてを研究を?


「それよりもぉ、僕は君に興味があるんだよねぇ」

 顔を近づける男の人にわたしは思わず一歩下がる。


「なんでさぁ」



 ――君は人間なんだい?



 質問の意図が全くわからなかった。

 わたしは人間だ間違いない。

 では男の人の求める結果とは……?


「まぁ、いいやぁ。そのうち分かることだしぃ」


 そうつぶやいて、男の人は踵を返した。

 このまま立ち去るつもりなのだろうか。


「あ、あの……とにかく、助けてもらってありがとうございました」

「君はぁ、純粋だねぇ、日向 風香ちゃん」

「えっ……?」


 わたしに背中を向けたまま、男の人は手を上げた。

 名乗ることもできず、名前を聞くこともできず、助けてもらったけど、どこか違和感が残ったままわたしはしばらく立ち尽くすしかできなかった。

 銃を持っていても、わたしは結局何もできなかったのだ。



「ただいま帰りました」


 その後、程なくしてお世話になったアパートの一室まで戻ってきた。

 誰かとすれ違うこともなく、無事に帰ってこれた。

 部屋のドアを開けて中に入る。

 部屋の向こう側から心地の良い風がドアの外へと吹き抜けていく。

 わたしの声に返事をするものはなく、お兄ちゃんがやってくる気配もなかった。

 不思議に思い靴を脱いで部屋に入る。部屋の真ん中に存在するちゃぶ台の上にはハトが大人しく待っていた。

 わたしの顔を見て頷いたように見えたけど、実際はわからない。


「お兄ちゃんと明久さんは?」


 と、尋ねるとハトは上を向いて翼を広げた。


「……上?」


 そう言えば屋上があるって言ってたっけ。

 二人が揃って上に?

 なら、しばらく待っていれば戻ってくるだろう。


「ありがとう、ハトさん」

「クルー」


 ちゃんと言葉が通じているようだ。やっぱり、【獣化病】の元人間なのだろう。



 ――ポコポコポコ。



 おや?

 部屋が静かになると聞こえてくる水の音。まるで、水の中から空気が出ているような音。

 気のせいかと思ったけどそんな事はないみたいだ。

 わたしは手に持っていた紙袋を床に置いて、そっと目を閉じる。

 この音はどこから聞こえてきているのだろうか。

 外からではない、台所ではなく、床の下でもなく、天井の上でもない。

 壁から聞こえる。

 それも押し入れがある方向だ。

 わたしは目を開けてその方向へと進む。

 押し入れの中には弾薬がたくさん収納されていた。でも、もう片方のふすまは一度たりとも明久さんは開けようとしなかった。

 ならば、きっと、そこに……!

 ゆっくりとそのふすまへと手を伸ばす。震える手が「やめろ」と訴えているが、ここで止めたら二度とわからない気がした。

 ちゃぶ台のハトはそこにいたまま、わたしを見つめている。

 お兄ちゃんと明久さんはまだ戻ってくる様子はない。

 一度、ツバを飲み込んでふすまに手をかける。そして、意を決してだけどゆっくりと開ける。

 すると、


「――ッ!?」


 確かにその音の正体はあった。


「え、なんで……?」


 わたしはそのまま一歩身体を引かせる。ふくらはぎにちゃぶ台が当たって身体が揺らめいたが倒れることはなく踏ん張れた。

 だけど、なんで、そんなモノが。

 明久さんが――きっと――必死に隠そうとしていたモノだ。

 そう、わたしが驚愕して、そこにあったモノ、



 ――一匹のサカナの入った水槽だった。



 ただそれだけと言ってしまえばそれだけだ。

 でも、この水槽が意味をするものはそれだけでないは明らかだ。

 明久さんが何故ここに住んでいて、太陽光発電を使ってまでも電気が必要であったのか。

 それはこのサカナを守るためだった。

 流司さんが言っていた「決意をしているような雰囲気」はここにあったのかもしれない。

 サカナの種類はわからない。わたしの手のひらよりも大きく手から肘まではない程度の大きさ。

 水槽はその身体がぴったりと収まるほどの大きさしかない。

 けれど水はきれいでちゃんと手入れをされていて、酸素もちゃんと供給されている。電源コードはよく見れば押し入れから近くの壁にあるコンセントまで伸びていた。

 避難所で配給を取りに行って戻った時に、畳が湿っていた気がしたのはこの水槽を掃除していたからなのかな。

 そして、水槽の横には黒い首輪のような輪っかが置いてあった。その首輪はさっきわたしを襲った男性もつけていた気がするけど、流行っているのだろうか。

 それよりも、中で泳いでいるサカナは窮屈そうだけど、ゆらゆらと水中に浮いていて、時折口をパクパクと開閉している。


「こんにちは」


 わたしは声をかけてみる。

 思うに、このサカナは【獣化病】で姿を変えた人間だ。しかも、【獣化病の始まり】の日に変化した、いわば初めての【獣化病】による被害者なのではないだろうか。

 そうでなければ、ここで住んでいる意味はないのだから。

 【獣化病の始まり】の日よりも後なら、もっと安全な所に居れるはずなんだ。


「……」


 でも、サカナからはわたしに理解できる返事がない。

 水の中では音が聞こえないのだろうか、それよりも聞こえたとしてどういった返事があるだろうか、何ができるだろうか。

 明久さんはずっとそれを試していたのかな?

 だとしたら、お互いにコミュニケーションが取れないもどかしさを思っているよりも長く感じていたのだろうか。

 もしもお兄ちゃんがイヌではなくもっと動きの取れない動物に姿を変えていたら。想像したくなかった。【獣化病】とはそういうものなんだ。


「ワンッ」


 お兄ちゃんの声だ。

 反射的に顔を向けたけど――しまった。

 そこにいたのは当然お兄ちゃんだけではない。

 明久さんもそこにいた。

 わたしは今、どんな表情をしている? お兄ちゃんは心配そうにこちらを見上げている。

 明久さんは特に表情を変えていないけど、


「見つかったか……」


 ただ、そうとだけ言葉を発した。


「あ、あの……明久、さん」


 なんて言い訳すればいい?

 明久さんが隠そうとしていたモノを勝手に見てしまったのだ。

 今になってとんでもないことをしてしまったことに気がつく。


「まあ、この部屋にいた以上、見られないという保証はなかったんだから仕方ない……」


 ふぅ……と、明久さんは一度ため息をつく。

 お兄ちゃんは何も言わずにわたしの足元まで歩き、明久さんの方に向く。


「それは俺の守れなかった女、魚見 玲だ。別に隠すつもりはなかった」


 それ……?

 守れなかったって?

 お兄ちゃんに視線を向けるけど、驚いたような反応をしていない。

 わたしがいない間にお兄ちゃんに話したのだろうか。


「そのイヌには話した。玲は……いや、俺と玲はまさに【獣化病の始まり】が発生した時間、ちょうど渋谷のスクランブル交差点にいた」

「えッ!?」


 【獣化病の始まり】で生存者はいなかったとニュースでは言っていた。

 なのに、明久さんはその場にいて生き残ったというのか。人の姿で。


「玲が俺を救ってくれたんだ。タイミングを図ったかのように俺の耳にヘッドホンを被せ、目の前を覆った。それだけで俺はこの姿のままスクランブル交差点に立っていた」


 わたしが目覚めた時にあったヘッドホンはその時のモノなのか!

 でも、それだけで、たったそれだけのことで【獣化病】は回避できたのだろうか。いや、それを証明する人が目の前にいるんだ。

 では、【獣化病】とはなんなのだ。


「地獄絵図だった。俺を除いて――玲を含めてすべての人間がサカナになっている光景を、サカナへと変わっていく光景しか目の前にしかなかった」


 自分の身が変化するのも恐ろしいが、その光景をまじまじと見せつけられたらと思うと、わたしは言葉にできない。


「玲も例外ではなく、俺の目の前でサカナへと変化していった。かろうじて水を持っていたから死にはしなかった……だが、人間として死んでしまった」

「そ、それは……」


 違う、とは言えなかった。

 わたしは改めて玲さんだと言われたサカナへと視線を向ける。

 見た目の通り――


「見ての通り、見た目は完全にサカナだ。感情なんて読めやしない。狭い水槽で身体を必死に動かして浮いている……だが、何を言いたいのか、何を思っているのか全然わからない!」


 わたしが思ったことを、明久さんはすべて代弁してくれた。


「それどころか、本当にこれが玲なのかもわからない! 玲としての意識、記憶があるのかすらも……なのに、他のヤツらは、お前たちも【獣化病】で動物へと成り果てたヤツと平然と接して、言葉を交わして、意思の疎通をしている。本当にその人間の記憶や理性を持っているのかすらわからないのに!」

「そんな事ないです!」


 わたしは反論する。


「確かに姿は変わってしまったかも知れない。伝えたいことは一方通行かも知れない。でも、その人は間違いなくその人なんです……証明はできない。でも、目の前で姿を変えてしまったのなら、その人はその人のままなんです。ただの動物なんかじゃないはずです」


 わたしは明久さんの顔を見上げながら、更に続ける。


「玲さんだって、きっと明久さんに何かを伝えたいはず――その方法がまだわからないだけで、やりかたはあるはずです!」

「お前は……お前はなんなんだ!」


 わたしの言葉を遮って、明久さんが叫ぶ。

 昨日まで見せなかった感情を高ぶらせている姿。

 わたしはちょっと怖くて一歩下がってしまったけど、でも逃げてはいけないと思う。


「春風兄妹! お前たちが目の前に現れなければこんな気持ちにならないで済んだはずなのに……どうして、俺を……俺の心を乱すんだ」


 今まで隠したかったのは明久さんの気持ちなのではないだろうか。

 それをわたしが、わたしたちが揺さぶってしまったのだろうか。


「日向春斗、日向風香……お前たちは何者なんだ?」

「わたしは……?」


 何者なのだろうか。


「臆病者ですぐに引っ込んでイヌになった兄に守られているくせに、ズケズケと踏み込んでくるところは踏み込んできやがる」

 そんなわたしは偉くない。

 すぐに答えることができない。

 

「わたしは……わたしは……」


 ざわり……この感覚、まただ。

 自分の身体の内側が燃えるようで、何かが這いずり回るような嫌な感覚。

 わたしは本当に何者なんだろう。

 必死に答えようと思考を巡らせる。

 そしてようやく、震える口を開こうとした瞬間、



 ――ドアが破壊される音が部屋に響いた。



「――ッ!?」


 この場にいた全員がその玄関の方を向く。

 玄関ドアは綺麗に部屋の内側に倒れ込んでいて、向こう側が見えてしまっている。

 そこに立っていたのは三人。

 真っ黒なスーツとサングラスを身にまとった男性が二人、それと、


「あ!」


 わたしは思わず声を上げる。

 なぜなら、そこに立っていたのは、


「あーきひぃさくぅーん」


 さっき、わたしを助けてくれた白衣の男の人だったからだ。

 髪型も着ている服も先程から変わっていない。

 ボサボサの髪型でヨレヨレの白衣を上に纏っている。

 ボディガードみたいな人が立っているところから、やはり只者なのではないだろう。


「迎えに来たよぉ、明久くーん。当然、ノーとは言えないよねぇ」

「チッ」


 明久さんは舌打ちをして、表情は眉間にシワを寄せて明らかに嫌そうだ。

 明久さんと男の人の間に何があったのだろうか。

 迎えに来たとはどういうことだろうか。

 明久さんこそ何者なのだろうか、疑問に思う点は多い。ただ、わたしは確信する。

 ここで「はいさようなら」というわけにはいかなくなったこと。

 わたしの物語はここでおしまいというわけにはいかないようだ。

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