Episode 14 Other Side -春斗-
何故オレだけが残るように言われたのだろうか。
オレは畳の床のあまり広くない部屋で突っ伏していた。
風香が世話になり、一晩過ごした部屋だ。
空気はあまり良くないが、部屋にある大きな窓と玄関を開けていれば心地よい風が入ってくる部屋だ。
ずっとコポコポと水のような音が響いているのが気になっている。
イヌの姿になり、大したことができないオレは、ただただ寝そべって時間を潰すしかなかった。
真っ白いトリがオレの頭に乗ったり、机の上に移動したりしている。
随分と人間臭い動きをしているような気がする。風香がトリに人間だったのか尋ねていたが、間違いで無いような気がする。
だが、オレに分かる言葉で尋ねられるかといえば、不可能だ。それに、トリの伝えたいことがオレにわかる音で伝わってくることもない。
人間っぽいといえば、シャンプーのような香りが僅かにオレの鼻に届く。
ちなみに、イヌの姿になったからといって、鼻が利くようになったかといえばそんなことはまったくない。確かに、少し鼻が良くなったような気がするが、本物のイヌのそれではない。
イヌといえば、視力が悪いと言われているが、別に視力も落ちてはいないし、色の見え方も人間のそれだ。
いわばイヌの姿かたちをした人間そのものだ。
少しは自由に動けるだけ、オレはマシなのかもしれない。
サカナやヘビと言った姿になってしまっていたらと思うと、恐ろしい。
手や足を失うなんて想像したこともない。
ただ、手が足になり四足歩行を強いられるというのも不便極まりないのは確かだ。
十何年も二足歩行の人間だっただけ、まだまだ慣れるには時間がかかりそうだ。
にしても、何故本田明久はオレだけここに残るように言ったのだろうか。その言葉を飲んだ風香もわからない。
オレと風香が一緒にいても問題無いはずだ。
【獣化病】ということで、渋谷の駅前で白い目で見られることはあるかもしれないが。
オレは本田明久を気に入ってはいない。アイツもオレを良くは思っていないだろう。
オレを名前で呼ぶことはなく「イヌ」呼ばわりだし、オレを視界に入れないようにしているところもあった。
何が気に入らないのか知らないが、遠ざけたいという意志を感じた。
なのにも関わらず、本田明久はオレだけ残るように言ったのだ。
何をしたいのだろうか、少なくとも少しばかりは信用するにあたる人間ではあるとは思うが。
そんな本田明久は風香が出ていってから、玄関先にいた。
風香がいなくなるのを確認するかのようだ。
……ただ、本田明久は本田明久で不思議なやつだと思う。
オレや風香のことを冷たく接してはいるが、やたら面倒見はいい。
そうでなければ、あの暴漢から救うなんてことはしないだろうし、ここから配給を行っている場所を教えるなんてことをする必要は無いのだ。
なのになんだかんだと親切にしているので、態度と行動が噛み合っていない。
ただ、ここに一晩いたおかげで、風香の中で何かが変わったように思えた。
見知らぬ、特に男性とはほとんど会話ができずに黙ってしまう風香がここまで話せるようになったのだ。
それに藪中流司との出会いもまたそうだ。
【獣化病】によって変わってしまったものは大きい、それでいて変わらないものがある。そして、【獣化病】があったからこそ、変わることができたものもきっとある。
まあ、オレがイヌになってしまったので、あまりに変わったものが大きすぎるのではあるが。
「アイツは行ったようだな」
そうつぶやきつつ、本田明久が部屋に戻ってきた。
玄関は開けたままで、心地よい風が部屋を通り抜けていく。
鼻先に風をよく感じる。
本田明久からは僅かではあるが、タバコのにおいがする。イヌになったから、敏感になっているだけなのかもしれない。
コイツはタバコを持っていたので、吸う人間であることは確かだが、一晩の間に吸う素振りは見せていない。
部屋から出て吸ったなんてこともないだろう。吸ったなら、風香でもわかると思う。
なら何故吸わないのだろうか。
鼻が敏感になっているだろうオレに気を使って? ……いや、まさかないだろう。
それとも、別の理由があるのだろうか。
「おい、イヌ」
やっぱりオレのことはイヌ呼ばわりか。
「ワン」
不機嫌に返す。
文句の一つでも言ってやりたいのだが、言葉を話すことができないのだから仕方ない。
「ちょっと来い。サシで話したいと思っていた」
「……?」
オレの返事を待つこと無く、本田明久は玄関へと向かっていってしまった。
ドアが開けられて、再び心地よい風が部屋を通る。
ドア全開で本田明久の姿は無くなった。
サシ? 一対一ということか。オレをイヌ呼ばわりして何を話したいというのだ。 疑問に思っていると、頭の上にいたトリがちゃぶ台に乗り移っていた。
トリに視線を向けると、行けと言わんばかりに玄関の方をじっと見つめている。
どうやらオレに選択肢は残されていないようだった。
わかったよ。
と、返事をしたいところだが、声を出したところでイヌの鳴き声しか出ない。
人間にわかる言語では返せないので行動で示す。
玄関に向かって、外に出る。
アパートなので外に出ると一本道だ。
地上に出る階段はその片方の端っこにしかないが、本田明久はその逆方向に向かっていた。
「来い」
本田明久は振り向いて、オレの姿を確認するとぶっきらぼうに命令する。
そうかい。
テクテクと後ろからついていくと、本田明久がコーナーで消えた。そっち側に何があるか知らない。
手すりは格子状に設置されているため、ここから地上が見渡せる。
と言っても、二階なので向かいの建物と道路が見える程度ではあるが。
風香は今頃、渋谷の駅前――【獣化病の始まり】の場所までたどり着いているだろうか。
「おいイヌ、上がるぞ」
あまりにゆっくりだったのか、しびれを切らしたのか本田明久が戻ってきた。
上がる……? ということはそっち側には上り階段があるということか。
通路の端まで行き、コーナーを曲がると、確かに上り階段があった。
二階建てのアパートのはずなのに、上り階段があるのは不思議だ。
カツンカツンと、本田明久の階段を上がる音が響く。
オレもその後に続いて階段に前足になった手を乗せる。
イヌの姿になって慣れるまで大変いえど、最低限の動きはいい加減に慣れた。
階段を上るのはもうそんなに苦労はしない。だが、下りはまだ少し怖い。
オレはイヌの骨格をした人間でしかないのだ。
下りは当然下の階を見ながら降りることになり、どうしても落ちる想像が頭をよぎる。
「ハッハッハッ……」
リズミカルにオレは階段を上がっていく。
口からは階段の段差を踏みしめる脚に合わせて息が漏れる。
本田明久はさっさと階段の上りきってしまって姿が見えない。
後を追うオレも数秒もせずに階段を登りきる。
「ワゥ……」
上りきったオレは思わず声を漏らす。
一瞬だけ吹き抜けた風でまばたきをして、上の階を一望する。
二階の部屋の上は屋上になっていた。
広い空間にコンクリートの床、四辺を囲む柵。
そして、その広い屋上の真ん中にいくつもの太陽光パネルが設置されていた。
配線はむき出しで、どこか雑に置かれているように見えるそれ。
まるで後から乱暴に設置されたかのような。
何部屋の電力が賄えるのかは分からないが、少なくともすべての部屋の電力を作れるようにはとても見えなかった。
一部屋、本田明久がいる部屋だけであれば十分だった。
しかし、この辺りが停電しているとは言え、これだけの電力を用意する必要が本田明久にはあるのだろうか。オレには疑問に思えた。
快適に暮らすのであれば十分すぎるが、他にも目的があるのだろうか。
「おい、早く来い」
なんて考えを巡らせていると、屋上のちょうど真ん中あたりの柵に身体を預けている本田明久がこちらに顔を向けて、相も変わらない不機嫌そうな声でオレを呼ぶ。
もっと人間らしく扱え……なんて贅沢は言わない。それでも、もっと物腰柔らかく接することはできないのだろうかこの男は。
風香にも同じような口調だが、風香やオレを泊めるような親切をしたり、考えていることも全くわからない。
だからこそ、信用しきる事はできないし、今のままでは信用しようという気にもならない。
風香はどう思っているのかわからないが、あの性格だ。信じ切っていると言ってもいいだろう。
さて、早く行かないとなんて言われるかわかったものではない。急かされるのも嫌なので、本田明久の近くに寄る。
本田明久の足元でイヌとして座る姿勢を取る。
サシで話したいと言っていたが、どんな嫌味が飛んで来るんだか。
本田明久は顔をオレに向ける。身長差があるため、上から思いっきり見下される。癪に障る。
風が通り抜け、数瞬の沈黙の後、本田明久が口を開く。
「……お前は、本当に人間なのか?」
「……」
本田明久はオレから顔を背け、空を見上げながらそうつぶやいた。
空はまだら模様で、青色が遠い。
本田明久の一声はそれだった。
……オレは、人間なのか。バカを言え、オレは……。
「聞き方が悪かったな。すでにお前は人間ではないからな。そうではなく、元々人間だったのか、そして理性の部分はすべて人間なのか聞きたい」
「ウウゥ……ワンッ!」
そうだ。オレは確かにもう人間ではない。
でも、元々人間だったし、こうして人間だった時を同じく考えることだってできる。理性の部分だって、当然人間だ。
「……」
オレは睨むように本田明久を見る。
しかし、本田明久はオレに目を向けようとはせず、空から視線を下げてオレとは反対側に顔を向けた。
「俺にはわからない。【獣化病の始まり】の日から【獣化病】によって姿を変えたと言われている者とはいくらでも出会ってきた。会話だって、試みた。でも、俺にわかる言語で答えが返ってくることはなかった」
そりゃそうだ。
身体の構造も、声帯も変わってしまったんだから、その動物が発する音、鳴き声でしか返せない。
「ジャスチャーや、声色でなんとなくはわかるが、はっきりとは伝わらない。それに、俺はその者たちが人間だったという過去を知らないんだ。証拠だってない」
本田明久は柵の外側に身体を向けて、地上を見下ろし始める。
「もしかしたら、本当は心まで動物になっているのかもしれない――それどころか、元々動物だったのかもしれない。人間のままだとヤツらは錯覚しているだけかもしれない。人間であったと騙しているのかもしれない。俺にはそれを確かめる術はないんだ」
淡々と語り、その口調には刺々しさは感じられなかった。
「俺は怖かった……だが、そう安々と語れたものではなかった。特に、部屋の中では、な」
では、どうしてオレにそんな弱音を吐くのだろうか。
本田明久に理解できる言語で返せないというのに。
それに部屋の中でこの話はできないとはどういうことだろうか。
風香がいたからか、それともまた別の理由があるのだろうか。
「だからといって、壁に話しかけたり、信用できない人間に話すほど俺はバカではないしな」
信用できないって……例えば、藪中流司か?
オレは藪中流司を信用していいとは思ったが、違うのだろうか。
出会ってすぐみたいだったし信用できないのか、それとも【獣化病】の羽生錦がいるから遠慮していたのか。
ならばオレは? いや、本田明久の中で、オレは人間に入っていない気がする。
「お前はイヌだしな……いや、本当のイヌでいてくれた方が、よっぽど気が楽かもな。いくらでも弱音が吐ける」
どういうことか。
結局、オレは人間扱いなのかイヌ扱いなのかどっちなのだろうか。
「……で、だ」
ゆっくりと座り込んで、オレの顔をようやく見た。
本田明久の鋭い視線が、オレに刺さる。
片膝を立てて、その膝に両腕を乗せている。
「お前は、人間なのか?」
もう一度、何かを確かめるかのようにゆっくりと尋ねてきた。
オレはそれに答える。声は出さずに、首を縦に二回振る。
「……」
本田明久は表情を変えずに、ただゆっくり目を閉じて、目を開ける。
「そうか」
本田明久から返ってきた答えは短かった。
直後、胸ポケットから水色の小さい箱を取り出した。
箱を一度降ると、白くて細い筒が一本飛び出した。器用なものだ。
その筒を本田明久は咥えて取り出す。
更にズボンのポケットから安そうなライターを取り出して、ライターの火を付ける。
火の付いたライターを口に咥えたタバコに近づけようとしたが、途中でピタリと動きが止まった。
「チッ」
本田明久はタバコを口に咥えたまま、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、タバコの箱とライターを乱暴に投げ捨てる。
屋上にプラスチックが転がる音が響いて、そして止まる。
昨日もあったよな。タバコを吸おうとして止めたことが。
その理由とは、
「お前がイヌで鼻が良すぎると思って我慢してるだけだ」
「グゥゥ……」
なんだとこの野郎!
吸わない理由をオレに押し付けやがって。
ま、まあ、確かに鼻が良くなっているのは否定しないし、タバコの煙は嫌いだ。
吸わないでもらった方がありがたい。
「それだけではないがな……」
そっと呟くように、言葉を付け加えた。
火の付いていないタバコを口にしたまま、本田明久は再び空を見上げた。
やっぱり本田明久には何かあるのだろう。
きっと【獣化病】、もしくは【獣化病の始まり】で。
そうでなければ【獣化病】で姿を変えた者に強く当たるような事はないはずだ。
「【獣化病の始まり】、生存者はいないと言われているのは知っているよな?」
「……」
確かにここに来るまでの間、そんなことが言われていたっけ。
渋谷の駅前にいた者は全てサカナに姿を変えて死に絶えたと。
「でもな、知ってるか?」
――俺はその場に居合わせて、この姿のままいき残った。
「ッ!?」
喉の奥から声にならない変な音が出た。
そんなバカな。
あの場で人間の姿のまま生き残っただと……!?
【獣化病の始まり】の当日、テレビで放送されていた映像ではそんな姿は確認できなかったし、アナウンサーもそんなことは言っていなかった。
そんな場所で本田明久は生き残ったのか。
「そして、いき残ったのは俺一人ではない」
「……ッ!」
本田明久だけではなく、まだいるのか……!?
「しかし、もう一人は俺をかばってサカナの姿になった……タバコの一本がどんな影響を与えるかわかったもんじゃない」
人間の姿のままではないのか。
だが、初めて【獣化病】が発生した生き残りがいるとなれば、話題になるのではないのか?
「だからタバコを吸うのを止めたんだ……好いた女一人も守れないだなんて、おかしいだろ? 偉そうなことを言っておいて、俺はこんなやつなんだ」
オレはそんなことないと、首を左右に振る。
どれだけ伝わるかなんてわからないが。
「彼女はサカナになって、いきている。言葉も交わせず、身振りで意志を伝えることもできずに。彼女は本当に人間のままの意識を持っているのかわからなかった……もしかしたら、【獣化病】で変化した者は人間っぽく振る舞っているだけなのかもしれないさえ思ってしまった。だから、あまり近づきたくはなかったんだ」
だからこそ、オレをイヌ呼ばわりしたり、【獣化病】の話をするたびにいい顔をしなかったのか。
「それとは別に……考えていることがある。【獣化病】は自然に発生したものではないと」
自然に発生したものではない?
人間の姿が別の生き物の姿に変えるこの現象が、か?
「電光掲示板を別の映像に変え、大音量でノイズのようなものを流した。そんなものが自然に起きてたまるか……きっと、これは何者かが仕組んだことだ。どういったカラクリで、【獣化病】なんてものが発生しているかなんてのは分からないが」
【獣化病】についてわからないことは多い。
だが、そう言われれば自然に生まれた現象だとは考えにくい。
「まあ、誰が起こしたかなんてわからないし、調べる方法もないがな。だが、俺は絶対に【獣化病の始まり】を発生させたヤツに復讐する」
本田明久は邪悪な笑みを浮かべている……待てよ、これが藪中流司の言っていた「危うさ」なのではないのか?
それにこの場所に長居している理由も復習にあるのだとしたら。
しかし、オレにできることはない……もしも、間違いを起こしそうになったら止める。それくらいしかできないだろう。
復讐して、本田明久の言う彼女は救われるのだろうか。いや、救われない。
「……【獣化病】が人の姿をしていたら、どんなに楽だっただろうか」
「?」
どういうことだ?
「まあ、今はもう少しこうしているか……ほら、話は終わりだ。どっか行っていいぞ」
膝を立てて座り込んだままの本田明久はオレを追い払うかのような仕草をする。
だが、本田明久の危うさを見て、オレはすぐに離れようとは思えなかった。
【獣化病】が人の姿をしていたら、か。
もしかしたら、そういう世界もあったのだろうか。
オレの視界の端、青い人影が見えたような気がした。
いや、気のせいだ。
ただわかったのは、本田明久という人間は振る舞いの割には意外とオレたちみたいに脆い人間なのかもしれない。
少しは信用してもいいだろう。
顔を上げると雲の混じった青い空が、変わらない姿でそこにはあった。
風香が戻ってくるにはもう少し時間がかかりそうだ。
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