Episode 13 渋谷


「ただいま戻りました」


 結局、銃を使用することもなく、明久さんの待つアパートまで戻ることができた。

 アパートの二階、とある一室。

 そのアパートのドアを開けて、わたしは帰ってきたことを告げる。

 ところで、ドアに貼ってあった表札代わりのシールに『田中』と書いてあったのはどういうことなのだろうか。

 まあ、別に今尋ねるべきことではないだろう。

 わたしの声に最初に反応したのは、真っ白なハトさんだった。

 パタパタと羽ばたいてわたしの肩に止まる。


「うん、ただいま」


 きっと言葉が通じるだろうから、そう声をかける。

 わたしの声を聞いてから、ハトは少し飛んでそのままお兄ちゃんの頭に着地する。

 お兄ちゃんは嫌がる様子も見せずにそのまま受け入れた。

 部屋の奥にいるだろう部屋の主からの返事はなく、わたしは靴を脱いで玄関を上がる。


「おっと」


 わたしは配給のビニール袋を床に置いて、もらっておいたバスタオルを取り出す。


「足を拭かないとね」

「ワン」


 お兄ちゃんは素足で外を歩いていのだから、汚れを拭いてからでないと部屋が汚れてしまう。

 丁寧に足の汚れを拭き取ってから、わたしとお兄ちゃんは部屋の奥へと進む。

 一晩過ごした畳の部屋。その部屋にある大きな窓が開けられていて、心地よい風がわたしの髪を撫でる。

 部屋の真ん中にはちゃぶ台が置かれていて、その横に明久さんはどっかりと座っていた。


「ただいま帰りました。明久さん」


 畳がところどころ湿っているような気がするが、何かあったのだろうか。

 ただ、こういうことは聞いても教えてくれないのが明久さんだ。


「結構、時間がかかってたみたいだな」

「そうですね、道が入り組んでいたので……もしかして、待たせちゃいました?」


 ちゃぶ台に配給でもらった袋を乗せる。


「いや、そんなことはなかった」

「それならいいんですが……」


 なら、やっぱりその間に何かしていたのだろうか。


「流司さんという方と会って、話してたら遅くなっちゃいました」

「ああ、アイツか……まだ、生きてたんだな」


 まるでもう死んでても間違ってないみたいな言い方だ。

 そんなにこのあたりは危ないということだろう。

 でも、武器も持たずに流司さんたちはどうやって身を守ってたんだろう。


「【獣化病】でヘビになった錦さんと一緒にいて、すごい仲が良さそうでした」

「……」


 わたしのその言葉に、言葉をつまらせた明久さん。

 眉間に少しだけシワを寄せて、表情が曇った。

 お兄ちゃんの話をした時と同じ表情だ。


「明久さん……?」

「なんだ?」

「もしかして、なんですが。【獣化病】に何か――」

「あるわけないだろう! あるわけが……」

「あ、の……ごめんなさい」


 急に声を荒げた明久さんに、わたしは身体をすくめてしまった。

 人に怒鳴られるなんてことは慣れていないし、あのおじさんの記憶がよみがえる。


「……怒鳴ってすまない。だが、もう二度と聞くな」

「はい」

「お前が貰ってきた配給で飯にするぞ」

「はいッ!」


 慌ててわたしは袋をひっくり返して、中身を出す。

 缶詰やペットボトルがゴロゴロと飛び出して、それを並べる。

 お兄ちゃんは何か言いたげではあったけど、こちらの様子を伺うだけだった。

 缶詰を並べて、割り箸を明久さんに手渡す。

 向かい合って座って、静かに手を合わせて食事ができることに感謝をする。

 このお昼ごはんを食べたら今度こそお別れだ。

 【獣化病の始まり】のその場所まで行って、お母さんとお父さんがどうなったのかを見に行くんだ。

 そうしたら、わたしの旅は終わる。

 終わったら……どうしようか。

 来た道を戻って、横浜に戻ろうか。

 黙って出てきちゃったから、マコもタマちゃんも心配しているはずだ。

 心配どころか怒られちゃうかもな。


「あの、明久さん」


 缶詰の焼き鳥を口に運ぶ手を止める明久さん。


「なんだ」

「今までありがとうございました」

「……急にどうした」

「これを食べたら、ここから発とうと思ったので、今のうちに」


 感謝しきれない気持ちを伝えたくて。


「おじさんから助けてもらっただけじゃなくて、銃をいただいて使い方を教えてもらって、本当に助かりました」

「……」


 明久さんはこれといって言葉を返さず、小さく息を吐いた。まるでため息にも聞こえる呼吸だった。


「荷物をここに置いていってもいいから、駅前までお前一人で行け」

「え……?」


 一人って、明久さんのいう一人って……?

 お兄ちゃんもドッグフードを嫌々口にしようということで、顔を上げた。


「お兄ちゃんもここにおいてけってことですか?」

「そうだ。それ以外、何がある。そのイヌもおいてけ」


 イヌって、お兄ちゃんには春斗という名前があるのに。きっと、何かが。


「どうせ、駅前行っても横浜帰るのにここに戻ってくるには変わりがないだろ」

「そう、ですけど」

「それに俺はそのイヌに用がある」

「……」


 明久さんがお兄ちゃんの事を指差し、お兄ちゃんはなんとも言い難そうに顔を背けた。

 でも、ここで引き下がる明久さんではないだろうし、明久さんなら大丈夫だ。


「…………わかりました。駅前まではわたし一人でいきます」

「ワ、ワウ!?」

「大丈夫。わたし一人でも、見てこれるから」


 だから、


「お兄ちゃんをよろしくお願いします」


 きっと一人でも大丈夫。

 どうなったのか、この目で見て、受け入れるんだ。

 それに、今のわたしには身を守る物だってある。だから、大丈夫。

 わたしは自分を納得させるように、大丈夫と何度も反芻して、配給のお昼ごはんをかきこんだ。



 歩いて三十分の距離。

 アパートに荷物とお兄ちゃんをおいて、渋谷の駅前までわたしはようやくたどり着いたのだ。

 アパートからそのくらいの時間しかかかっていないので、もう目前だったと言えば目前であったのだ。


「やっと、ここまで……」


 ここが【獣化病の始まり】の発生した場所。

 駅前のスクランブル交差点は、よく見知った光景ではもうなかった。

 ビルが立ち並び、人も車も行き交っていたこの交差点。

 しかし、今は人も車もほとんど姿がない。停電の影響か、信号機は黒一色で明かりがともっていない。それどころか、電光掲示板もスピーカーからの音声も無く、気味が悪いほどの静けさだった。

 ただ、人が全くいないというほどではない。何人か、パラパラと交差点や、そこから続く道へと歩みを進める人がいる。

 それでも、それだけの人数に対して、この交差点はあまりにも広すぎる。

 交差点を囲むようにまたげる程度に低いバリケードが並んでいて、足元には「Keep out」と書かれた黄色と黒の縞模様になっているテープが落ちている。テープも交差点を囲むように張られていたようだが、もうすでに意味を成していない。

 交差点を突っ切ってる人はこの通行禁止を示すテープやバリケードを越えているということになる。

 だからといって、警官がいることもなくその通行人を止める人もいない。

 交差点はどこか赤く染まっているように見える部分があるが、著しく汚れているようには見えないし、何か残ってるということもない。

 どのように回収されて、何が残っているのか、ここではわからない。

 人の流れは、交差点から少し街中に入った、デパートに続いている。

 きっと、そこに行けば何かがわかるかもしれない。


「……」


 改めて、グッと拳を握って気持ちを引き締める。

 わたしも交差点を歩いている人に倣って、バリケードを越える。

 ゆっくりと縞模様を進んで、交差点の中央へと歩いていく。

 二本の縞模様が交わる部分でわたしは一度、足を止める。両手を広げて空を見上げて、目を閉じる。少しだけ経ってから顔を正面に向けて目を開ける。そして、周囲を見回すように身体をゆっくりと回転させる。

 機能していない信号機、真っ黒な電光掲示板、静かなスピーカー、閉まっているお店、静かな橋の上の線路。

 あの日、この場所の時間が、全く止まってしまったかのようで。


「すべての始まりの場所、か」


 【獣化病の始まり】……【獣化病】が始まった場所なのだ。

 あの日、あの時間、誰ともわからない誰かが、この場所にいて、何を思いながら歩いていたのだろうか。

 どれだけの人数がここにいて、どれだけの姿が奪われて、どれだけの人数の命が奪われたのだろう。

 その時、何を思っていたのだろか。

 想像なんてできるわけがなかった。

 わたしにはわからなかった。

 いつまでもそんな想いを巡らせてしまう。

 わたしは顔を横に何度も振って、両手で自分の頬を音が響くほどの強さで叩いた。

 パチンという音は交差点の外へと広がって、どこかへと消えていく。

 こんなところで止まってる場合じゃないんだ。人が出入りするデパートへと、わたしは向かうんだ。そこに行かないと行けないんだ。

 ただの交差点でしか無いので、歩みを進めるとすぐにデパートの前までたどり着く。

 デパートの入り口の目の前までやってきたわたしは建物の上部を見上げて、ロゴを確認する。

 テレビでもよく映るデパートのロゴだ。

 顔の向きを戻して見渡す。

 入り口の横にはホワイトボードに紙が貼り付けてあって、手書きで『遺留品置き場 案内所』と書いてあった。きっとここだ。

 人通りが少ないこともないので、危険であることも無いはず。

 まずは入ってみようではないか。

 恐る恐るガラスのドアを開けて、中を覗く。

 電気は通って無いようで、光源がドアから入る太陽の光だけで建物の中は少し暗い。そして、外と同じく静かだ。

 入り口の側には総合受付として使われていたであろうカウンターを見つけ、そのそばに立っていた女の人と目が合った。

 私服姿だけど腕に「STAFF」と書かれた黄色い腕章を付けているのでスタッフなのだろう。

 薄暗い建物だけど、人の気配はある。ここからでも何人かいるようなので、この女の人と二人きりになってしまうなんて事はない。


「あの……」


 それに、わからなければ聞けばいいのだ。いざという時には切り抜ける手段もあるんだ。


「どうしました?」


 わたしは腕章を付けた女の人に声をかけた。

 女の人に化粧っ気はなく、髪も肩にかかっているが切りそろえられているという訳ではなさそうだった。

 それでも優しそうな表情を崩さずに、わたしにそう声を返す。

 その声は慣れきっているような口調だったので、たくさんの人がここを訪れているということがなんとなく感じられた。


「遺留品置き場って書いてあるのを見たのですが、本当にここにあるんでしょうか?」

「ええ、【獣化病の始まり】に巻き込まれて犠牲になった方々の遺留品がここに集められて並べられています。ご遺族の方であれば、持ち帰ることもできます」

「ここにあるんですね」

「この建物以外にも、周辺の施設に分散させてますがね。それだけ犠牲になった人や残ったものが多かったみたいで……」


 ここだけじゃないんだ。

 この建物も階層が多くてそう言った物を置くには十分なスペースがあるのではとも思ったんだけど、それだけじゃ足りないのか。


「みたいって、お姉さんは遺留品を集める作業はしなかったんですか?」

「してないんですよ。直接は私も見てないのですが、最初は警察や消防の人たちが検証や調査をしていたみたいで。ただ【獣化病】なんて検証してもわかるもんじゃないですし、すぐに打ち切られたと聞いてます」


 じゃあ、女の人は【獣化病の始まり】の後、何か作業に携わってたわけではないんだ。


「少し奥の方まで一緒に行きましょうか」

「あ、はい!」


 女の人は入り口の奥の方を指した。

 その指の先は一階に入っていたお店を向いている。

 わたしが返事をすると「行きましょうか」と、女の人が先に進んでいく。

 歩数にして十数歩、同じフロアなので距離はほとんど無い。

 明かりの灯っていない服屋さんの看板をくぐって、店の中に入る。

 あまり広くないお店に、商品を並べていたであろう机が整列している。

 その上には、渋谷で取り扱うには似合わなさそうな服やカバンが置かれていた。

 それはそうだ。これは売り物なんかではないからだ。

 本来置かれるべき洋服は店の端っこ、壁の側に積まれているダンボールの中に入っているだろう。


「本当ならご遺体も一緒に並べて置くべきだったんでしょうけど、すでに腐敗が始まっていたようで処分されてしまったようなんです」

「仕方、ないですよね。【獣化病の始まり】の時なんて、人間がサカナになってしまうだなんて思わないでしょうし」


 それが元々人間だったなんて思うわけがないし、夏に近い時期なので腐敗も早いはずだ。

 放置することも保管しておくことも難しく、そうしたなら処分をせざるを得ない。


「ですね……。ただ、残された衣服や荷物は簡単に処分するわけには行かず、だからといって大量のそれらを移動するのも大変だということで、駅周辺のこういった建物を利用して、遺留品置き場として利用するようになったんです」

「それで、お店は困らないんですか?」


 お店の入り口のすぐ側で、わたしたちは足を止めて女の人の話を聞く。


「お店としても、こうなってしまっては続けられないと判断したようですね。店員の方もボランティアと一緒に、遺留品を並べるのを手伝ってもらいました。その後は、ボランティアが管理や監視をしていますが、店員の方でボランティアをしている人も少なくないです」

「そうなんですね」


 様々な人がこうしてのこされた物を見守っていて、のこされた人によって回収されるのを待っているのだろうか。

 もしかしたら、もう誰も取りに来ないという物もあるだろう。

 このお店に並べられている物だけでも、それぞれの過去、それと未来が待っている。

 そして、このお店人だけでは済まない。この建物、周辺の建物を使って、それだけの物が並べられている。

 その中から、わたしはお母さんとお父さんののこした物を見つける……ことになるのか。


「ところで……」


 わたしが考え込んでいると、女の人がそっと声をかけてきた。


「はい?」

「私の興味なんですが、どこから来たか聞いてもいいですか?」


 なんで遠くから来たということがわかったんだろう。

 それっぽいことは話していないつもりだったんだけど。


「どこから?」

「あ、いや、答えたくなかったらいいんですが……避難所で過ごしていれば、聞いている事なので、それを知らないという事は遠くから来た人ってなるので」

「そういうことですか。大丈夫ですよ」


 そっか、避難所にいたら知っていることだったんだ。

 そりゃそうか。駅からちょっと離れた避難所にいたら、そんな話は耳にするだろうし、ボランティアの人もそこでお世話になっていることもあるだろう。


「わたしは横浜から歩いてきたんです」

「え、横浜から!? 電車もバスも動いてないのに……?」


 女の人は驚きを隠せないと言った様子で、声を上げていた。

 彼女自身も思った以上に声が出てしまったようで、すぐに手で口を抑えていた。


「交通機関は使わずに、【獣化病】でイヌになった兄と一緒にここまで来ました」

「大変だったでしょう。あ、でも、お兄さんは?」

「駅から少し離れた場所で、お世話になった人がいて、そこにいてもらってます」

「そうですか。確かにあの辺りはそういう手助けしてくれる人がいるって聞いてたけど」


 明久さんの噂はどうやらここまで広まっているようだ。


「お陰で無事に、ここまでたどり着けました……その人は感謝してもしきれないくらいです」


 苦笑を浮かべてわたしは話す。

 ここまで話し込んでも、他に人がやってくる気配がないので、あまり多くの人が訪れるような場所ではないのか知れない。


「お世話になってる人がいるってなら、ここでの用事が終わっても安心ですね」

「はい……」


 ただこの後は、どうしようか決まっていない

 明久さんのところにずっといるわけにもいかないし。


「本当なら、その人のところまで私が付いていたい気持ちはあるけど、ここから離れなれないから」

「いえいえ、それは大丈夫です。一人でも、大丈夫なので」

「なら心強い。下から上まで、この店みたいになってるから、また何かあったらそのフロアに居る人間に聞いてください」

「はい、ありがとうございます」


 ちょうど入り口に誰かがやってきていた。

 中年のラフな格好をした男性だった。

 いつまでも女の人が持ち場を離れるわけにも行かない。その男性の姿を見て、女性はわたしから離れていく。

 ここからはわたし一人でここを見ていくことになる。

 ある程度、人目はあるだろうから危険な場所でも無いはずだ。

 他の店を覗いてみると、確かに人がいた。服や荷物が並べられているけど、綺麗に並べられているということでもない。

 『とりあえず並べた』という言葉が正しいだろう。並んでいる机も真っ直ぐではなく、机の上の服も畳まれてなく、そのまま置かれているようにも見える。

 店にいた人は女性で、多分社会人だろうか。二十から三十代に見える女性は、それらをゆっくり歩きながら見ていて、ある場所で足を止めた。

 机の上の服を持ち上げて、女性は涙を流して、その服を抱いていた。

 声を漏らさぬようにと静かに泣いているのだが、嗚咽ははっきりと聞こえてくる。

 緑色のシャツで、男性の服だった。

 きっと、この女性は【獣化病の始まり】から、会えていない人の遺留品を見つけたのだろう。すなわち、【獣化病】によって命を落とした。ということになる。

 わたしはこの場にどうしてもいていられず、側にあった階段を上がり始めてしまった。

 階段を上がりきった先にいたボランティアの男性に会釈をして、足早に遺留品が並んでいる店に入る。

 どこか少しだけサカナのにおいを感じながら、服やカバンを一つ一つ丁寧に眺めていく。

 【獣化病の始まり】の日、お母さんもお父さん確かに渋谷に出かけていった。

 テレビのニュースで【獣化病】のことが放送されてから、何度も何度も携帯電話で連絡を取ろうとした。でも、出なかった。

 渋谷は今、電気が通っていないが【獣化病の始まり】の直後は通っていたはずだ。ニュースで映っていた渋谷の駅前はまだ街灯が付いていたし。

 もし【獣化病の始まり】を免れて避難所にいたのだとしたら、連絡はできたはずなのだ。それなのに、連絡が取れなかった。

 ということは、行き着く結論は一つだった。

 だから、見つかるはずなのだ。見つかってしまうはずなのだ。

 それをわたしは受け入れないといけないんだ。お兄ちゃんがイヌになってしまったのと同じように、受け入れないと、いけないんだ。

 遺留品は所持していた人らしき名前の書かれた紙切れが上に置かれている。

 だからといって、名前順になっているわけではないので探すにしても、一つ一つなので骨が折れそうだ。

 幸いなのは、ただの私服ではなく少しだけわかりやすい服を二人とも着ていたし、なんとなく覚えていることだ。

 二階、三階、四階……。

 足音が静かに響き、時折すすり泣く声や叫ぶような声が届く。

 夜の学校ならホラーだが、今は昼間でデパートの中なのだ。

 薄暗いし物音が少ないので、雰囲気は少しそれに近い。

 五階、六階……。

 少しずつ不安になってくる。

 果たしてここに目的の物が、お母さんやお父さんが渋谷の駅前にいた形跡があるのか。

 それとも、別の建物なのか。見逃してしまったのか。

 この服も、あの服も違う。

 上の階層になればなるほど、わたしと同じ気持ちなのだろうか。わたしの様に、残された物を探している人の表情からも焦りのそれを感じ取ることができる。

 そして、人間の姿をした人しかいないことに気がつく。

 【獣化病】で別の姿になった人は、わざわざここに来ないんだろうか……そもそも、階段を上がるのが難しいか。

 そんな考えをしながら、眺めていると、


「……あ」


 見覚えのある物が目に写り、足を止める。

 嘘だ。気のせいだ。似ているだけだ。

 そんな考えが頭いっぱいに浮かぶ。

 わたしはその思考を振り払うように頭を振る。

 通り過ぎてしまったので、身体の向きを変えないまま下がる。

 目を閉じて、動けない。怖い。怖い。

 足が震える。

 でも、ここで立ち止まっているわけにはいかないんだ。

 お兄ちゃんだって待ってる。


「……」


 ゆっくりと目を開けて、机の上の服をしっかりと認める。

 黒に近いグレーの男性用のスーツ、革の靴。

 同じく黒に近いスーツに見えるドレス。それにハイヒール。


「あ……あ……」


 足が後ろに退る。

 言葉が出ない。

 服と一緒に置かれているのは、よれよれだけど家でよく見るカバン。

 そして、決定的な物が目に入る。


「日向……」


 名字も名前も一致した紙切れが、確かにそこにあった。

 見間違えるわけもなく、お母さんとお父さんの服が、そこにあった。


「いた、いたんだね……」


 当然、遺体はない。

 でも、服があるんだから裸で生き延びているなんてことはない。

 遺体は、どこに運ばれて、どのようになったのか。きっと、ロクな最後ではなかっただろう。

 改めて考えると、そんな残酷な最後があってはいけない。

 突然自らの姿がサカナの姿になる。渋谷の駅前に水なんて、あるわけがなく、呼吸もできずに息絶える。

 それだけでもどれだけの苦痛だっただろうか。

 なのに、遺体すらちゃんとした最後を迎えられることができなかったことを考えると、胸が痛む。

 人間が人間でない姿になるなんて、どれだけの恐怖なのか、わたしにはわからない。


「……」


 ゆっくりとため息を吐く。

 感情をここで出してはいけない。お兄ちゃんが待っているから、お母さんとお父さんは確かにここにいたと伝えてから、それでいい。

 入り口の女の人は持って帰れると言っていた。なら、わたしはこの二人分の服を持ち帰る権利があるのだ。

 わたしは服を持ち上げる、と。


「おや……?」


 紙切れが床に落ちた。二人の名前が書いてある紙は机の上にある。

 なら、何が落ちた?

 乱暴に破けて半分に折れたメモ用紙、だけど何か書いてあるみたいだ。

 ポケットから落ちたものだろうか。お父さんのスーツのポケットに手を突っ込むと、湿り気を感じてすぐに手を引く。

 手を見てみると、指先が真っ黒になった。


「え?」


 改めて、ポケットに手を入れて、その黒い正体を確かめる。

 硬い触感があり、それを手に取るとボールペンの半分だった。真ん中で折れていて、インクを触ってしまったようだった。

 ってことは、メモ紙はお父さんの?

 折れたペンにメモ紙……ということは【獣化病の始まり】で書き残したもの、だったりするのだろうか。

 服を一旦、机の上においてメモ紙を拾う。

 そして、恐る恐るそれを開く。何が書いてあるのか、覚悟を決めて。

 そこに書いてあった物は、



 ――春斗 風香 いきろ



 たったそれだけだった。

 それでも、頭の中が揺れるような衝撃があった。

 身体から力から抜けて、感情が内側から溢れ出そうだった。

 膝が床についてそのまま座り込んでしまう。


「あぁ……うッ……」


 どれだけ辛かったのかわからない。

 それでも、さいごまでわたし達の心配をしてくれたのだ。

 死にゆく恐怖よりも、わたしとお兄ちゃんを心配してくれたんだ。


「お父さん……お母さん……」


 目から溢れ出るものは抑えきれず、喉から出る声は止まらない。

 やっぱり、我慢ができなかった。

 誰かが来てもいい。恥ずかしくったっていい。

 だから今はもうちょっとだけこうしていたい。

 持ち帰るのは服や靴だけじゃない。

 これからもわたし達はいきていかないといけないんだ。

 【獣化病】になんて負けないように。

 前に、前に進んでいくように。

 わたしは大丈夫。

 気がつけば、二人の服が机から落ちそうになっていた。だから、それらを抱きしめる。ぎゅっと抱きしめる。



 ――少しだけサカナのにおいがした。

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