Episode 12 Other Side -流司-


「僕は爬虫類が嫌いだ」

「いや、そんなこと私知ってるから」


 少し狭い一室、彼女にツッコミを入れられてしまった。

 【獣化病の始まり】から一週間ほどが経つ。

 渋谷の駅から少し離れたマンションの二階。僕――藪中 流司は友人である羽生 錦の部屋に居候することとなっていた。

 【獣化病】と呼ばれる、人間が突然、別の動物の姿になる現象が発生した。最初に発生したのが、渋谷の駅前のスクランブル交差点だった。

 規模があまりに大きく【獣化病の始まり】と称されることとなっているが、確かにスクランブル交差点が封鎖される程に犠牲は大きかったと聞いている。大きかったとかそんな程度ではなく、全滅だったとも話があるほどだ。

 僕も錦も渋谷駅の近辺にある同じ大学に通っていた。

 【獣化病】という現象は止まる様子はなく、徐々に広がりを見せている。それに、この辺りのライフラインは止まり、電車やバスと言った交通機関も動いていない。

 そんな状態で大学も授業を行うことはできず、休校状態になってしまっている。

 僕の家は、電車でここから一時間ほどの場所にあるが、電車が止まってしまっているため、【獣化病の始まり】の日からずっと錦の部屋にお世話になってしまっている。

 救いとしては、錦の部屋に世話になれたことと、【獣化病の始まり】の日に渋谷駅近くにいたのに巻き込まれずに済んだというところだ。

 あの日は授業が終わり、学校から渋谷の駅に向かうまさにその時だった。

 ただ、錦のお陰で学校を出るのが数分遅れ、その間に【獣化病の始まり】が発生していた。

 なので、錦がいたから僕は人間の姿でここで生きていられていれたのだ。

 錦との出会いもまた以前の話になるが、爬虫類から始まっている。


「……ただ、僕はその爬虫類に救われているんだから、嫌ってばかりもいられないよね」

「そうだよ。こんなに可愛いのに」


 フローリングの床の上に、白いカーペットが一面敷かれている部屋。中央に白い丸いテーブルかあって、僕らはそれを挟むように座っている。

 そして、錦の背中側の壁には、たくさんの蓋をされた水槽が所狭しと並び、積まれている。

 その水槽にはそれぞれ生き物がうごめいている。ヘビにワニにトカゲに、どれも爬虫類なのだ。

 彼女は誰もが引いてしまうくらいに爬虫類が好きで、大学に行くときも買い物に行くときも、常にそのペットの爬虫類をどれか連れていると彼女は語っていた。

 【獣化病の始まり】の当日も僕の命を救った。

 錦と出会った日も、【獣化病の始まり】の日も、彼女がうっかり連れていた爬虫類を逃してしまったのが始まりだ。出会った日は小さいワニで、【獣化病の始まり】の日がヘビだった。

 ペットを連れているのにうっかりし過ぎだとは思うが、彼女に改善する意識は見られなかった。

 そんな僕が爬虫類を嫌いになってしまったのは幼少期のことだ。

 動物園で動物に触れるコーナーがあったのだが、その時触っていたヘビに噛まれてしまい、それ以来、苦手意識が強い。錦に出会った時は見るのも嫌だったが、今では見るまではなんとか我慢できるようにはなった。

 苦手意識なんてモノは些細な出来事でできてしまうものだ。

 そこまで嫌いなのに、その嫌いなモノで本来出会うことがなかった錦と出会うことができたのだから、また不思議なものだ。

 錦は僕よりも二つ学年も年齢も下だ。

 関わることのなかった二人がなんだかんだとウマがあってしまい、【獣化病】が発生した今、僕は彼女の部屋にお世話になっている。

 人生、何が起こるかわかったものではない。そう感じさせる。


「ねぇ、流司」

「なんだい……って、うわぁ!?」


 僕は跳ねるように後ろに飛んで、壁に激突する。

 錦に呼ばれて顔を向けたと思ったら、そこにトカゲがいたのだ。

 錦は僕の知らない内にトカゲを両手で抱えていて、僕を呼んだのだ。


「あはは、流司面白い。そんな驚くことないじゃんよ」

「いや、だってさ」


 嫌いだって公言してるし、錦だって知ってるじゃないか。

 ただでさえ、高く積まれた爬虫類の存在する水槽があるためこの部屋には少々居にくい。

 それが彼女の趣味であり、コレクションなのだから仕方ない。

 彼女いわく、わざわざペットを飼うことができるマンションを探したと言っていたっけ。

 僕は盛大にぶつけた背中を擦りながら錦の方を見る。

 彼女は大事そうに、両手に収まるサイズのトカゲをなでている。


「こんなに可愛いのに、ねぇ?」


 僕に意地悪そうな笑みをトカゲに向かって浮かべている。

 当然ながらトカゲから答えが返ってくることはない。

 この部屋には、【獣化病】によって姿を変えたものは居ない。普通の動物が人間の問いかけに合わせて返答することなんてそうそうあるものではない。


「頼むから、そのトカゲをしまってくれるかな」

「はいはい」


 彼女はトカゲを抱えたまま立ち上がり、空っぽの水槽の中にトカゲを戻した。

 「また後でね」と声をかけてから、蓋を閉じる。

 一通り水槽の様子を見てから、元の場所に座る。


「はい、これでいいでしょ?」

「助かるよ」


 僕も元の場所に座りなおす。

 彼女の部屋は手入れが行き届いていて、ホコリのかぶっている場所がない。

 テーブルの他には、彼女の机があり大学の授業で使う参考書やノートがきれいに並んでいる。写真立てには、錦と小学生くらいの女の子が映った写真が収められている。

 確か、錦の妹だって言ってたっけ。事情があるみたいだけど、歳が離れているそうで、近所の小学校に通ってるらしい。

 それ以外は女の子っぽい物が少ないという印象はあるが、それが彼女の特徴なんだ。


「で、錦は避難所まで避難しないのかい?」


 僕は提案する。 

 周辺の建物は【獣化病】で大型の生き物に変わってしまった人によって、倒壊している場所が多い。

 治安も悪化して、銃声が聞こえることもしばしばあったし、行方不明事件も多いと聞く。

 ライフラインは【獣化病】を恐れて維持する人が居なくなった噂があるし、現に止まっている。電気やガス、水道も止まっている。

 だからこそ、不便な中でも助け合えるように学校を始めとする施設が避難所として開放されている。開放された施設は避難する人を受け入れるために、本来の機能は停止する。

 今頃、大学も避難所として開放されているだろうけど、そこまで確認はしに行ってはいない。いつになったら、元に戻れるかはわかったもんじゃない。

 それに、危険を冒して避難所まで配給を取りに行く必要がなくなる。

 当然、ここにお世話になってから何度も提案はしている。

 でも、彼女の答えはいつも同じだ。


「この子たちのお世話をする人が居なくなっちゃうから……」

「だよねぇ」


 それだけの理由がある。

 僕たちさえ助かればいいという考えは彼女にはない。彼らも彼女の家族なのだから。

 僕だって、無責任にこの生き物たちを放置するなんてことはしたくない。

 それに温度管理も必要と錦は言っていた。その設備はここにある。

 太陽光パネルが屋上に設置してあって、電気の供給が止まった今でも、この建物ないは電気を使用できるのだ。

 少し前にわからない業者が太陽光パネルを半分くらい持っていってしまったけど、僕らの部屋以外の住人はみんな避難所へ行ってしまったようだし、発電量は十分だ。

 そのパネルはどこに行ってしまったんだろうか……まあ、僕らの気にすることではない。


「あのさ、流司」

「なんだい?」


 そっと錦は彼女の手を僕の手に乗せて話を続ける。

 その手はずいぶんと、どこか冷たかった。部屋は暑すぎないけど、寒くはない。


「どうして、私の部屋にいるの?」

「やっぱり、迷惑かな」

「そうじゃなくて、流司こそ、一人でも避難所か、歩いて帰ることもできるんじゃないのって」

「ああ」


 そういうことか。


「そんなこの部屋を離れられないのに、治安が悪くなったこの場所に一人でおいて置けるわけが無いじゃないか」

「……そっか、ありがと、流司」


 彼女の柔らかい微笑みは、どこか僕も元気になれそうな表情だった。


「僕だって、ここにおいてもらって助かってるよ。歩いて帰るのも大変だし、避難所で知らない人との共同生活も僕には辛い」

「そっか、ありがと……じゃあさ、流司」

「なんだい?」


 彼女はふと部屋の時計の方を向いた。僕もつられてその方向を見る。

 お昼時であることに気が付き、お腹が空いた感覚が生まれる。


「配給、一緒に取りに行こっか」

「ありがとうとじゃあって、関係あるのかい?」

「あるよ。一緒にいて、守ってくれてありがとうって」

「そっか」


 僕も彼女もそれ以上何も言わずに立ち上がる。


「ねえ、流司」

「どうしたんだい?」


 今日の錦はやたら僕の名前を読んでいるような気がする。


「もし、もしもね」


 錦は玄関の方に身体を向けたまま、声だけを僕に届ける。

 声は少し震えていて、どこか消えてしまいそうな声色だ。


「私が【獣化病】で姿が変わったら、流司はどうする?」

「急にどうしたんだい?」


 【獣化病】で姿が変わったら。

 それは誰もが一度は考えることだ。でも急に、尋ねてくるとはどうしたんだろうか。

 確かに人間ではない別の姿になるのは恐ろしいことだ。

 怖くない人間は果たしているのだろうか……いや、いないことはないか。

 少なくとも、僕は怖い。


「わからない。でも、錦が錦なら、今まで通り接していけるように努力をしたい」

「そっか……」


 ため息の混じったその答え。

 嫌な予感がすると言うのは、こういうことなのだろうか。


「まさか、錦」

「行こうか、流司」


 僕の言葉を遮って、錦は僕に笑顔を見せて振り返った。

 僕の手を取って、玄関へと向かう。


「あ……うん」


 僕はそう答えることしかできず、太陽の降り注ぐ外へと二人で出かけるのである。



 配給は近所にある中学校で行われている。

 瓦礫で通れない道が多く、迂回しないといけない場所を覚えてさえしまえば、大変な道のりではない。

 僕らが二人分の量を受け取って、それらが入ったビニール袋を僕が手に持つ。

 これで、一日か二日は保たせることができる。

 配給は国が行っているわけではなく、ボランティアが行っていると聞いている。その出どころはわからない。知る必要も無いのだが、この量の配給を無償で提供し続けているのは不思議な話ではある。

 確かに備蓄はあるだろうけど、その量を超えているように僕の目には映った。

 缶詰や水といった食料品は店で売っているそれだ。それに水を使う必要のないシャンプー、着替え、下着。どこかの工場から在庫を降ろしてもらっているかと思うほどだ。

 まあ、やはり僕が気にすることではない。

 それよりも、錦の様子が心配だ。

 これから夏が本格的に始まる時期だというのに、どこか寒そうにしている。身体を震わせて、手で二の腕を擦っている。

 だからといって熱っぽいかというと、逆に冷たい。

 風邪となど、そういった症状じゃなさそうである。

 そんな錦の様子を見て、僕は中学校の校庭の隅の方にあるベンチに彼女と一緒に座った。

 端の方にあるため、あまり人はやってこない。だからといって、人がいないということもない。万が一、何かがおきても、手遅れになることは無いだろう。


「大丈夫かい? 体調が悪いなら僕一人で取りに来たのに」


 僕は自分の額を錦の額に当てる。やっぱり、僕の方が温かい。


「平気……風邪じゃないから」


 なら、寒そうにしている理由はなんだ。

 僕は錦に近づいて、身体を抱く。

 半袖のシャツを着ている錦の肌はとても冷たく、僕が凍えてしまいそうなほどだ。

 それにどこか肌が乾燥しているようにも感じた。

 この暑さで僕は汗ばんでいるのに、錦だけ冬にいるみたいに何処か異変があった。


「もしかして、錦――」

「おい」


 僕の言葉を遮ったのは錦ではなかった。

 聞きなれぬ声に、僕と錦は少し距離を開ける。

 声の主に目を向けると、一人の男性がそこに立っていた。

 短い髪で細身、眼光はどこか鋭く、それでいて疲れが見えていた。年齢は僕と同じくらいで、どこかで――学校で見かけたことがあるようなないような気がする人物だった。


「え、あの、あなたは……?」


 はっきりとした言葉が出せなかった。

 男性は手に小さい青い紙製の箱を持っていたが、舌打ちをしてその箱を握ってポケットに戻した。

 その箱はタバコか。よくよく見れば、吸い殻がそれなりに落ちている。喫煙所代わりに使われていた場所だったのかもしれない。

 この人もタバコを吸いに来た人なのだろうか。


「邪魔、でした?」

「いや、別にいい……俺は、タバコは……」


 どこか歯切れが悪かった。

 僕らは慌てて、席を立とうとするが、男性が、


「別に平気だ」


 と、制止する。

 そして、男性は僕が手に持っているビニール袋を指差す。


「お前たちも避難所の世話にはなってないみたいだな」

「そうですね――」

「いや、敬語はいらない。お前たちは大学でよく見ていたからな……よくも悪くも目立ってた」

「あ……だよね」


 あんな爬虫類を連れている学生なんてそうそう見かけるもんじゃない。

 やっぱり大学で会った気がしてたのは気のせいではなかったようだ。


「僕たちは錦――彼女のマンションで過ごしてる」

「そうか。住宅街は人が少なくなっている今、治安が悪化している。気をつけることだ」


 冷たそうな口調ではあるが、僕たちを心配してくれているのだろうか。


「それは噂に聞いているし、注意は払ってるよ……どうして、気にかけてくれるんだい?」

「いや……たまたま気になっただけだ」


 どこか寂しそうな目で、僕と錦を交互に見る男性は、そう言って僕たちに背を向けた。


「俺も避難所の外で暮らしている……まあ、生きていたならばまた会うこともあるだろう」


 男性がそのまま去っていってしまいそうに足を進めたので、僕は慌てて引き止める。


「せめて名前を教えてもらえないかな」

「本田 明久だ」

「明久くん、か。僕は藪中 流司、彼女は羽生 錦さ」


 明久くんは僕の自己紹介に返事はせず、手を軽く振ってから去ってしまった。

 結局何者かはわからなかったけど、ここで不審者を撃退している男の人の話を思い出した。

 その特徴が、明久くんそのものだった。

 なんだかんだと、いろんな人を気に留めてくれている。そんな気がした。

 明久くんの姿が見えなくなってから、僕は彼女に、


「じゃあ帰ろうか」


 提案する。

 でも、錦は顔をうつむかせたままに履きのない声で答える。


「……もう少しここにいたい」


 錦は手を僕の手に乗せる。

 さっきよりも青白くなっていて、冷たくなっている。

 そのまま錦はゆっくり僕により掛かるように密着させる。


「流司、温かい」

「君が冷たすぎるだけだよ……あのさ、錦」


 言葉を続けようとする僕の口に、錦は人差し指を当ててそうさてくれない。

 僕は言葉の代わりに錦の頭を撫でる。僕が錦にここまでしていいのか、分からない。


「流司は私の事、どう思ってる?」

「友達……でもないし、何なんだろう」

「私は、好きだよ。少なくとも、私は」

「そっか」


 薄々は理解していた。

 僕も、そうだ。

 でも、それを僕が口にすることが、どこかが変化してしまいそうで怖かった。

 わかっていたのは、彼女とずっと一緒にいても自然にいられたこと。

 一緒にいれたのが嬉しかった。


「……続きの話は部屋に戻ってからにしよう? 僕は恥ずかしい」

「でも、私には……」


 覇気がない声で、時折身震いしている彼女の様子はやっぱり普通じゃなかった。

 そして、彼女が胸に手を当てて「ウッ」と苦しそうな声を上げて、立ち上がった。


「ごめん、先に戻ってる」

「え、ちょ、錦!?」


 僕が止めるのも間に合わず、彼女は今まで見ない速度で走り去ってしまった。

 全身から血の気が引いたかのように青白くなった彼女、僕の足では追いつけない。

 でも、僕の中の嫌な予感は強くなる一方で、早く彼女の元まで行かないと行けない気がした。

 そうでないと、もう彼女に会えないような気がしたから。

 僕も立ち上がり、配給の袋を持つのも忘れ、追いかけるかのように駆け始めた。



 彼女は先に戻っていると言った以上、部屋に戻っているのは間違いないと踏んで彼女のマンションへと急いだ。

 そのマンションの階段で、何匹もの爬虫類とすれ違った。

 周辺に人が住んでいないにしても、大きなトカゲや小さなワニが徘徊するようなことがあってはならない。

 僕のことを覚えていてくれていたのか、懐いていたのかはわからないけどついてきてくれたので、一階の施錠されていない部屋まで誘導して、集めておいた。

 これで勝手に逃げ出すことはないだろう。

 この爬虫類たちは【獣化病】ではなく、錦のペットだろう。

 そんなことをしながら、開けっ放しになっていた錦の部屋のドアを入ると、お僕は思わず足を止める。


「これは……」


 ひどい光景だった。

 カーテンは締め切られて、部屋が暗い。でも、隙間から入る夕日によって床でキラキラと光っている。水槽の破片が散らばっているのだ。

 部屋の中はそれくらいしか視認できず、家具や錦らしき人影の輪郭しかわからない。電気をつければ明るくなるのに電気をつけていない。もっとも、カーテンを開ければ夕日が入ってくるというのに。


「錦!!」


 玄関からリビングまで急ぐ。

 彼女の名前を呼ぶが、返事はない。

 思わず靴のまま入り込んでしまい、ジャリジャリと水槽の破片を砕いていく。素足だったら大変なことになっていたかもしれない。

 水槽は一つ残らず破壊されており、中には一匹たりとも生物がいなくなっていた。

 何が起きたんだ。空き巣が、強盗か……錦は大丈夫なのか?

 辺りを見渡して他に異変がないことを確認して、部屋の灯りをつけるため壁のスイッチに手をかけた時、


「やめて!」

「錦か!?」


 彼女の声が僕の耳に届く。

 心地よい、彼女の声。意識をすればそうだったことに気がつく。

 暗さに目が慣れてきたので、部屋がどうなっているのかもわかってきた。

 水槽が破壊されただけで、他に何かされた場所はなさそうだった。

 探していると、テーブルの横でうごめく物を見つけた。僕はすぐに寄って、抱きしめるように触れる。タオルケットに身を包み、中がどうなっているのかまではわからない。

 あまりに細くて異質にも感じる。冷たくて、震えていて、あまりにも小さい。


「錦、この部屋はどうしたんだい?」

「私が、やったの。ここまで戻ってきて、全部壊して、逃したの、彼らを」

「どうしてそんなことを……」


 声にハリがなく、どこか苦しそうだった。そして、触れる吐息から人間味をあまり感じられない……ような気がした。


「だって、流司は爬虫類が嫌いでしょ? お世話なんてできないでしょ?」

「それは否定出来ないけど……これからも錦がすればいいじゃないか。それに、逃しても彼らには環境が厳しすぎる。すぐに死んでしまう」


 錦はガタガタと小刻みに震えている。少しずつ細くなっていて、全体的に小さくもなっているようにも感じる。息も荒く、弱々しい。


「やっぱり、体調が悪かったんだね」

「……」


 僕は精一杯の言葉をかける。

 体調が悪いから。そんな一言で済ませられるような状況では無いことだってわかっている。

 錦はタオルケットの中でもぞりと動いて、顔と思われる部分が縦に動く。


「気が付いてあげられなくてごめん……」

「違うの、流司は、悪くない」

「それでも……」


 それでも、今日一日に行き方が変わったかもしれない。

 錦と一緒に過ごせた一日が。


「錦」

「……」

「僕は、君の顔を見たい」

「ダメッ! 今は……恥ずかしい」

「いやだ。錦の人としての顔を、もう見れないから、どうしても見たいんだ。僕は、逃げないから」


 錦をそっと、離して僕は立ち上がる。

 錦が動いたが、そこから腕が伸びてくることはなかった。

 僕は夕日の漏れているカーテンまで進み、手を伸ばした。

 見たら後悔するかもしれない。でも、見なかったら一生後悔すると思う。

 だから僕は、酷だと言われても、このカーテンを開けて部屋中に光を入れるんだ。

 そして、部屋の荒れ具合が鮮明になる。

 水槽は思った以上に粉々に割れていて、中の砂利も壁の近くに散乱していた。

 水槽の破片は部屋いっぱいに散らばっていて、足の踏み場がなかった。

 ぶつかったのか、テレビは凹んで壁に向かって倒れていた。

 そして錦だ。

 彼女のベッドにあったタオルケットを頭までかぶって巻いていた。

 今はもう、タオルケットの方が大きいようで、錦の姿はタオルケットの中だ。

 僕に背を向けるように座っている。


「錦……君も怖いのかもしれない。それでも、顔を見たいんだ」

「……」


 タオルケットのおばけみたいになっている錦に近づいて、ゆっくり腰を下ろす。

 どんな姿になっていても、僕は錦から離れない。

 どんな姿になっていても、だ。

 僕は恐る恐る、錦の顔の近くにあるタオルケットを持ち上げる。


「――ッ!?」


 錦はビクッと身体を震わせ、僕は一瞬声にならない声を上げてしまった。

 錦のその顔は――



 ――まるでヘビのようだった。



 肌の色はまだ人間の色をしているが、肌のいたる所が荒れ地のように裂け目やひび割れが目立っている。その部分が、鱗のように硬化してしまっている。


「流司……」


 不安そうに僕の名前を呼ぶ錦。


「これでも私と一緒に居てくれるの?」


 ブカブカになってしまっているシャツの袖から、錦の手が伸びる。

 腕も鱗のように変化していて、手に至っては指がなくなっている。手首から先が少ししか無い。

 拳はもう作れない形になっていて、徐々に身体に吸収されるかのように短くなっているように見えた。


「僕は……」


 言葉が続かない。

 錦がこんな姿になってしまっていること、これは止まること無く最終的に動物の姿――ヘビの姿になってしまうこと。

 僕が爬虫類を苦手なこと。

 錦がヘビになってしまって、僕は今まで通りに接することができるのか。触ることができるのか。

 【獣化病】を身近に感じて、様々な思いが頭の中を巡る。

 人が動物の姿に変化するという現象は、目の前で感じてしまうととても恐ろしいものだった。

 身近な人間が別の存在に変わるのだ。だからといって、記憶や知性を失うものではない。わかってる。

 それでも、僕は何を返せばいい。

 意識を玄関の方にふと向けても、誰かいるわけではない。どこか青色の光が見えたような気がしたが、気のせいだ。

 でも僕が絶望しているわけにはいかないんだ。

 だって、一番怖いのは【獣化病】が起きている本人、錦なのだ。

 僕は一度目を閉じて、深呼吸をする。

 錦は錦なんだ。

 僕が苦手なのは爬虫類なのではなく、僕に危害を加える生き物なんだ。自分に言い聞かせて、目を開ける。

 錦の顔を見ると、徐々に人間のそれではなくなってきている。

 歯が鋭くなって、一部が見えなくなっている。舌は細くなって先が二股に分かれている。


「私は、流司が、嫌いになるのが、怖い」


 もう言葉を話すのは辛いだろう。でも、精一杯言葉を紡いでいる錦。


「でも、私は、私……」

「錦は錦、かあ」


 錦がもう人間である時間が短いということを告げているようだった。


「そうだよ……私は、流司の、ことが、好き、だから……」

「うん……」


 知ってた。

 僕に錦が好意を抱いていたことなんてずっと。

 それは僕もそうだ。

 その好意に甘えて、ずっと隠してた。


「わかってた。それに、僕もきっと錦のことが好きなんだと思う」

「ふふ、流司っぽい」

「だから、錦は錦。僕は嫌いになんてなるもんか」

「うん」


 僕は錦を抱く力を込める。

 もうほとんどタオルケットの感触しか残っていない。それでも一層力を込める。

 もう二度と、錦のぬくもりを逃さないように。

 錦が小さくなる。見えていた腕も短くなり、足はわからない。


「あのね、流司」

「なんだい?」

「結婚式、挙げたかった」

「うん」

「子どもも、欲しかった」

「うん」


 それはもう叶わないだろう。

 結婚式は……無理ではないかもしれないけど。子どもは難しいだろうなぁ。


「でもね、今は、君と一緒にいきたい」

「ああ、そうだね」


 錦の顔はタオルケットに吸い込まれるかのように消えていった。

 【獣化病】、一見すれば恐ろしい現象だ。

 でも、人間の見えなかった部分に気が付かせてくれる。そんな一面がある気がした。

 一人の人間の姿を犠牲に、きっと何かが変わっていくんだ。僕はそう信じたい。その気付きのための犠牲はあまりにも大きすぎるが。

 僕は錦のタオルケットを抱き続けてどれだけ経っただろうか。

 外は暗くなり始めて、空が紫色になっている。ゴソゴソとタオルケットの中が動き出す気配に、我に返った。


「錦……?」


 タオルケットの中で小さく、別の姿に変わってしまった彼女の名前を呼ぶ。すると。


「わッ」


 ニョロリと細い体をくねらせてタオルケットから顔を出すヘビの姿が僕の目に映る。

 どう見てもヘビだった。

 思わず逃げ出しそうになったが、こらえる。

 これはただのヘビではない、錦なんだ。


「驚いて、ごめん」


 逃げちゃだめだ。錦は錦だ。

 恐る恐る僕は指を錦に近づける、と



 ――ペロリ。



「うわああああああ!! こら、錦!!」


 まだもう少し時間がかかりそうだ。

 でも、大きな一歩を踏み出せたような気がする。

 ずっと一緒に、錦といたい。これは変わらない想いだ。

 錦がヘビの姿に変わろうとも、いつか僕の姿が変わろうとも。

 ただただそう思う。

 でも――


「あ、待って、まだ慣れてないから……やめ、錦!!」


 顔を僕の頬に押し付ける錦。

 背筋がゾワゾワする。

 きっと錦はわかってやってる。

 イタズラが好きなのは変わらない。

 本当に困ってしまうが、早く慣れて欲しいんだろう。

 だから僕は変わっていこう。

 錦にちゃんと触れるように、まずはそこから。

 ただ、慣れるにはもう少しかかりそうだ。

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