第七章 それが報いと王は答えた

1 追憶の肆


 私は守らなければならなかった。


 なのに、“何を守ろうとしていたのか”はどうしても思い出せなかった。


 ただ何かを守りたいという想いが私の中にあって、その気持ちのままに私は動いた。


 私の守ろうとするモノを脅かすモノは消した。

 私の守ろうとするモノを滅ぼそうとするモノは消した。

 私の守ろうとするモノを奪おうとするモノは消した。

 私の守ろうとするモノに近づくモノは消した。


 結局私に“何を守ろうとしていたのか”を思い出させてくれたのは、苦悶と嘆きと屍山血河を乗り越えて会いに来てくれた、かつて私が守りたかったモノの一つだった。


「……ライゴウ?」


 目の前で剣を構える青年の名を呼ぶ。記憶にある姿より、ずいぶん逞しくなっていた。


 彼の顔に驚愕が浮かぶ。それでも、戦意と私への敵意は揺るがない。

 彼があんなに恐ろしい眼差しを向けてくる理由が分からなくて、私はひどく困惑した。


「無事だったのか。生きていたのなら、なぜ連絡しなかった。どれだけ心配したと……」

「近寄るな!」


 大声を浴びせられて衝撃を受ける。まるで親の仇にでも向けるような激しくも痛々しい声。なぜ私が彼からそんな言葉を突き付けられなければならないのだろう。


「あの人の顔で……あの人の声で……! 俺をこれ以上惑わせるなっ!」

「何を言っているんだ? 私だ、ライゴウ。ユキナ=エウクレイデスだ! まさかお前、私のことが分からないなどと――」


 そこでようやく、私は自分に起きた異変に気が付いた。

 体の内側から発せられる尋常ならざる力が光となって全身から溢れ、頭には山羊のそれを思わせるねじれた角が生えていた。何より恐ろしかったのは、己の体から薫る血の匂い――何千何万という人の鮮血を浴びなければ決して漂わないような、そんな匂い。


 悟った。自分が何をしたのかを。

 思い出した。私の身に何が起きたのかを。


 私は逃げた。悲鳴を上げて逃げ出した。

 こんな醜い姿を、化け物になってしまった私を、彼にだけは見られたくなかった。


 泣いた。叫んだ。助けを求めた。父上に、メイドたちや大臣に、知っている全ての人々に。それを自分が一人残らず殺してしまったことを思い出しながら。


 城で一番のお気に入りだった温室に隠れ、歯の根も合わぬまま神への祈りを口にした。誰に対してかも定かではない謝罪の言葉を、呪詛のように繰り返した。

 どれくらいそうしていたのか、温室の扉が開いた。誰かが私に近づいてくる。


「……ユキナ、なのか」


 振り返った先に、抜き身の剣を提げた……だが構えは取っていない彼がいた。


 私は答えなかった。答えられなかった。今の自分がかつてのユキナ=エウクレイデスと同じ存在だと、自信を持って言えなかった。


 何故なら、私は変わってしまった。こんな気味の悪い化け物に。

 何故なら、私は殺してしまった。ユキナ=エウクレイデスが守ろうとしていた人々を。


 なのに、彼は剣を捨てた。化け物になってしまった私を、力の限り抱き締めてくれた。


 彼の胸の中で、私は泣いた。泣き叫んだ。泣きじゃくった。泣き伏した。

 そんな私を抱きしめながら、彼は今までに何が起きていたのかを教えてくれた。


 隣国との戦争で、もはや勝ち目無しと見た彼が、敵将の首を獲ろうと単騎で敵陣に突撃したこと(無茶な男だ)。

 一太刀浴びせたものの深手を負い、酔狂な魔物に助けられて長らく療養していたこと。


 私――白の魔王と呼ばれる化け物が、世界の三分の二を滅ぼしたこと。


 それを倒すため国境どころか種族の壁さえ越えて世界は団結、今の彼がその一員としてここにいるということ。


「……つまり、お前は私を斬りに来たのか」


 彼は何も言わない。この男には以前から、答えたくないことには答えないという悪癖があるのだ。私がそれを知らないとでも思っているのだろうか。

 彼になら、構わない。彼の剣なら受け入れられる。彼に斬られるのなら……本望だ。


「……もしも……もしお前が、こんな化け物になってしまった私を、ほんの少しでもまだ愛してくれるなら、僅かでも憐れんでくれるなら、最後にもう一度だけキスをしてくれ」


 私の最後の願いを、彼は叶えてくれた。角も血の匂いも恐れずに、あの日のように私の唇を奪った。大罪を犯してしまったけれど、永遠に許されることはないだろうけど、それでも私は幸せだったと、そう思えた。


「何をやっておる」


 温室の入り口から響く声。見れば、そこにあの剣術大会で出会った獣人の姿があった。


 生命力の高い獣人であることを差し引いても、今生きているのが不思議に思えるほどの深手を負っている。それでも眼光だけは震え上がるほどに鋭かった。


「ゼフィー……」

「答えよ、ライゴウ。何をやっておるのかと聞いておる」


 憤怒と憎悪を煮詰めて鉄にしたような声。それを聞くだけで、私は自分が世界からどう認識される存在になっていたのか、まざまざと思い知らされた。


「その女は白の魔王。我らの、ラトリウムの敵だ! なぜ殺さぬ、なぜ斬らぬ、なぜ抱き合っている! 我らはそのために、そのためだけにここへ乗り込んだのだぞ!?」


 ライゴウは答えない。ただ顔を歪め、獣人を無言で見据え、私を抱き締めている。


「……せめて姫を己の手で葬りたいという、お主の言葉を信じた某が愚かだったわ!」


 足を引きずり、傷口から血を滴らせ、目に異様な光を宿した獣人がこちらに迫る。


「最後の情けだ。何も言わず去るか、姫と共に斬られて死ぬか、好きな方を選ぶがいい」


 彼女が本気だと悟って慌てる。このままでは私と共に彼まで斬られてしまう。

 しかしそんな私の動揺をよそに、彼はまったく予想外の行動を取った。


「ぎゃんっ!?」


 獣人が悲鳴を上げる。左の肩口からヘソにかけて、その上半身が縦に裂けていた。


「……ライゴウ!?」

「き、さ……ま……っ!」


 さらに剣を持つ獣人の右手を切り落とし、トドメとばかりに頭蓋を叩き割る。血と脳漿を撒き散らし、哀れな肉塊と成り果てた獣人が地に倒れた。


「ラ、ライゴウ……お前、どうして! 仲間だったのではないのか!?」


 彼は俯いたまま答えなかった。何か深く、深く、深く――考えているようだった。


「無理だ」


 予備の剣を手に下げたまま、長い長い沈黙の末、彼はようやくそんな言葉を口にした。


「……俺にはユキナを斬ることも、見殺しにすることもできない。君がいなくなったら、俺にはもう生きる意味が無い。生きている資格も無い……!」


 まるで叫ぶような、凍えるような、泣いているような、血を吐くような物言い。それは愛の言葉だったのか、それとも奈落への道標だったのか。


「……これで最後なら、俺にも一つ我がままを言わせてくれ。どんなことでもいい、もう一度願いを言ってくれ。それがどんな望みであろうと、必ず叶えてみせる……必ずだ!」


 気高く、雄々しく、彼は言った。化け物になってしまった私を、それでもあの時と同じ熱を帯びた視線で見詰め、鉄のような強さで抱き締めて。


 直感的に悟る。私が死んだら、彼も死ぬ。

 私が彼を追い詰めたのだ。未練がましく、彼に愛されることを望んだから。今彼の前にいるのが白の魔王ではなく、ユキナ=エウクレイデスだから。


 彼には死んでほしくなかった。生きていてほしかった。


 そして浅ましくも――彼と共に在る喜びをもう少しだけ享受したいと思ってしまった。


「わ……私を、連れて……逃げてくれ。誰もいない、どこか遠くへ……二人だけで幸せになれる場所に!」






 その決断を、後に私は永遠に呪う。

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