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(日常のこと)最果ての闘い

 私は「詩の読書会」に参加しています。
 大阪で、三カ月に一回くらいで開催される、現代詩人を中心に取り上げて、みんなで「共読」する読書会です。二時間くらい、休憩なしで読んでいくのですが、読み終わるころには、意味不明だった現代詩が、親しみある、手に取るようにわかる詩に変貌していて、たいへん面白い読書経験を毎回できます。

 もう三〇回以上になるのですが、一番印象深かったのは、最果タヒの「グッドモーニング」が取り上げられた回です。

 最果タヒは、謎の詩人です。顔は見たことありません。京都大学かどっか出ていて、インテリで、ネットで活躍していたそうです。若い人の支持をたくさん得ていて、作品が映画化したり、言葉を取り扱う雑誌の特集などには必ず登場する、現代を代表する詩人のひとりと言っていいでしょう。

 私の参加している「詩の読書会」は団塊世代が多く、なかなか骨のある男女が中心です。運動をされている人もいて、実践と詩を両立している、超元気な人々によって構成されています。

 「グッドモーニング」は予想通り、激論となりました。
 賛否両論。肯定的意見としては、「この人はどこまでも優しい人だ」つまり「寄り添う優しさがある」ということがあげられました。否定的意見としては「いったいこの詩が書かれる意味がわからない」という、根本的なものでした。

 最果タヒ擁護として立ち上がったのは私でした。
 相手は完全否定側で、一人の中年女性でした。四〇代後半か五〇代でしょう。

 論点は、最果タヒは「薄い」、この一点にあったと思います。薄いか、薄くないか。最果タヒの詩を取り上げて、「若者に多く支持を得ていること」「わからないということはなく、読めばわかること。読まないようにすれば、わからない。読もうとして、理解しないといけない」と反論しましたが、「良い詩は、こちらが読もうとしなくてもわかる」といったようなことを言い返された気がします。でも、これ以上書くと、まるで私が善で、相手が悪のようになってしまうので、とにかく記憶に残っているものを述べれば、
「わからない」
 が、マウンティングになっていた、ということです。

 「わからない」ことが「私をわからせないことが、落ち度である」に結びついていた。ゆえに、最果タヒの詩は私はわからない=私がわからない最果タヒは詩として問題がある。
 そこに、「どういうことだろうか」と分かろうとする動きはありません。

 主催者が見守る中、私はただただ、懸命に最果タヒの詩を取り上げて、解説をし続けていたように思います。社会的メッセージがない。人間性が見えない。なんのためにこの人が詩を書いているかわからない。そういった批判に、「読んだらわかる。読もうとする意志が重要」といった言葉を返していたように思います。

 詩と対話することはもちろん難しいことです。自分の読みたいようにしかでてきません。でも果たして、自分の読みたいようにしか出てこないほど、自己というものは強いものなのでしょうか。
 ほとんどの人々は(私を含め)、情報に流されっぱなしな人生を送っています。

 私は、詩は、「詩人が表したもの」と「自己が読み取ろうとする世界」を包摂していく「動き」のようなものだと思います。

 もし、私が、「わからない」をマウンティングに使うようになったら、誰かに殴って欲しいと思っています。

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