第2話
「グル……ァ……?」
眼の前で宙に浮いたまま、巨大な狼――キラーウルフが困惑の唸り声を上げた。
手足はピクリとも動かない。
まるで、そこだけ時間が止まっているかのようだ。
俺は震える手で、自分の口元を触った。
『止まれ』
たった一言。
それだけで、物理法則も重力も、魔物の筋力も、すべてが無視された。
俺の言葉が、世界への命令になったのだ。
恐怖は急速に引いていき、代わりに冷たい興奮が背筋を駆け上がってくる。
俺はゆっくりと、空中の狼を見上げた。
さっきまで俺を餌として見ていた捕食者。
だが今は、俺の言葉一つで生死が決まる、ただの肉塊だ。
「……死ね」
言いかけて、やめた。
ただ殺すだけじゃ足りない。
俺を殺そうとした恐怖、そして俺をここに追放した連中への怒り。
そのすべてをぶつけるように、俺はより強い「拒絶」を口にした。
「――塵(ちり)になれ」
刹那。
ギャンッ!?
狼が悲鳴を上げる暇もなかった。
ドシュッ、という風を切る音と共に、巨大な体躯が瞬時に分解された。
血飛沫は飛ばない。
肉片も残らない。
まるで最初からそこには砂で作られた彫像しかなかったかのように、魔物はサラサラと灰色の粒子になって崩れ落ち、風に溶けて消えた。
「……は、はは」
乾いた笑いが漏れる。
魔法じゃない。
火の玉をぶつけたわけでも、剣で斬ったわけでもない。
「塵になる」という結果だけが、強制的に書き込まれたんだ。
俺は震える指先で、再びステータスウインドウを開いた。
先ほどまで文字化けしていたり、ぼやけていた部分が、今ははっきりと読めるようになっている。
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名前:相馬 蓮
種族:人間(超越者)
レベル:測定不能
スキル:『神言(コード・オーバーライト)』
(旧名:翻訳)
説明:
対象を理解(翻訳)し、その概念を上書き(改変)する神域の権能。
使用者の発する言葉は、世界の法則に優先して実行される。
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「神言……コード・オーバーライト……」
翻訳スキルだと思っていたものは、世界というプログラムを読み解き、書き換えるための管理者権限だったということか。
ステータス数値の欄には、すべて『∞(インフィニティ)』の記号が並んでいる。
「ククッ……あいつら、とんでもないものを捨てやがったな」
王城での光景を思い出す。
俺をゴミ扱いした王様。
鼻で笑った王女。
不純物だと罵った騎士たち。
彼らは気づかなかったのだ。
聖女の光魔法などという可愛いオモチャに目を奪われて、その横にいた俺が、世界そのものを支配できる力を秘めていたことに。
「いい気味だ」
腹の底から、暗く熱い力が湧いてくる。
もう、誰も怖くない。
この森も、魔物も、そしてあの王国も。
俺は一歩、踏み出した。
◇
奈落の森は、魔境だった。
少し歩けば、すぐに異形の生物が襲ってくる。
「グルアアアアッ!」
木々をなぎ倒し、全長5メートルはある巨大な熊が現れた。
鋼鉄のような皮膚を持つ、アーマードベアだ。
通常なら、精鋭騎士団が総出で挑むような化け物らしい。
俺は歩みを止めず、ポケットに手を突っ込んだまま呟く。
「邪魔だ。燃えろ」
カッ!!
熊の足元から、青白い炎が噴き上がった。
熱さを感じる間もなく、熊の巨体は一瞬で炭化し、黒い灰となって崩れ落ちる。
上空から、怪鳥の鋭い爪が迫る。
「落ちろ」
ドォォォォン!
見えない巨大な手が叩きつけたかのように、怪鳥は地面に激突し、ひしゃげた。
羽虫を叩き落とすのと変わらない。
「鑑定」
俺は死骸に向かって呟く。
本来なら『鑑定』というスキルが必要なはずだが、俺が「知りたい」と願い、言葉にすれば、世界は情報を開示せざるを得ない。
『ワイバーン。竜種の下位種。討伐推奨レベル80』
「レベル80が、一言でこれかよ」
最初は感じていた恐怖も、今は完全に麻痺していた。
あるのは全能感。
まるでゲームの制作側(GM)になって、フィールドを歩いているような気分だ。
食料が必要なら「出ろ」と言えば、目の前に果実が現れる。
道がなければ「開け」と言えば、木々が勝手に動いて道を作る。
なんてことはない。
この地獄のような森で、俺は王様のように振る舞える。
「……ん?」
森をしばらく彷徨っていると、不自然なほど静かなエリアに出た。
魔物の気配が一切ない。
代わりに、肌を刺すような濃密な魔力が漂っている。
木々が途切れ、開けた場所に出た。
そこには、苔むした石畳と、崩れかけた古代の祭壇があった。
そして、祭壇の中央には。
「……なんだ、あれ」
巨大な水晶の塊が鎮座していた。
高さは3メートルほど。
透明度の高いその結晶の中に――人が、いた。
「女の子……?」
俺は吸い寄せられるように近づいた。
閉じ込められていたのは、一人の少女だった。
年齢は俺と同じくらいだろうか。
月光を紡いだような、美しい銀色の長髪。
透き通るような白い肌は、陶器のように滑らかだ。
ボロボロの黒いドレスのようなものを着ているが、所々が破け、肢体のラインが露わになっている。
その美しさは、人間離れしていた。
学校のアイドルだった沙耶も美少女だったが、この少女の美しさは次元が違う。
妖艶で、どこか不吉で、それでいて目が離せない魔性の美。
だが、異様なのはその姿だけではない。
彼女の手足には、禍々しい黒色の鎖が幾重にも巻き付き、拘束されていた。
さらに水晶の表面には、びっしりと呪文のような文字が刻まれている。
「封印、されてるのか?」
俺は祭壇に上がり、水晶に手を触れた。
冷たい。
だが、微かに鼓動のような振動が伝わってくる。
生きている。
「……鑑定」
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名前:イヴ
種族:吸血鬼(真祖)/魔神
状態:封印(絶対不可侵領域)
説明:
かつて世界を恐怖に陥れた『厄災の魔女』の娘。
その力は神に仇なすとされ、三百年前に当時の勇者と聖女によって封印された。
この封印は、如何なる物理干渉、魔法干渉も受け付けない。
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「魔神……?」
とんでもないものを見つけてしまったらしい。
かつての勇者と聖女が封印した、世界の敵。
普通なら、関わらずに逃げるべきだ。
封印を解けば、俺が殺されるかもしれない。
世界が滅ぶかもしれない。
だが。
俺は、鎖に繋がれた彼女の姿から目を離せなかった。
『聖女召喚の余波で喚ばれたゴミ』
『異物』
『不要なノイズ』
王城で浴びせられた罵倒が蘇る。
理不尽に自由を奪われ、世界から拒絶され、ここに捨てられた俺。
そして、この冷たい水晶の中で、三百年もの間、世界から隔絶されてきた彼女。
「……俺と同じだな」
勝手にシンパシーを感じただけかもしれない。
でも、今の俺には「世界のために」なんて正義感は欠片もない。
世界が彼女を恐れて封印したというなら。
その世界に復讐を誓った俺が、彼女を解放するのは必然じゃないか?
それに、俺の『神言』なら。
勇者や聖女がかけた「絶対不可侵」の封印すらも、紙屑のように破れるはずだ。
「おい、聞こえるか」
俺は水晶の向こうの、眠れる美女に語りかけた。
「お前も、この世界が憎いか?」
返事はない。
だが、閉ざされた瞼がわずかに震えた気がした。
俺は深く息を吸い込み、世界に命令を下す。
「――砕けろ」
パリンッ。
小さな音が響いた。
直後、水晶の表面にピキピキと無数の亀裂が走る。
『絶対不可侵』の強固な結界が、俺の一言であっけなく崩壊していく。
ガシャアアアアンッ!!
砕け散った水晶の破片が、ダイヤモンドダストのように舞い散る。
拘束していた黒い鎖も、砂のように崩れ去った。
支えを失った少女の体が、重力に従って傾く。
俺はとっさに手を伸ばし、その華奢な体を受け止めた。
軽い。
そして、氷のように冷たい。
「……ん……」
腕の中で、少女が小さく身じろぎをした。
長い睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がる。
そこにあったのは、鮮血のように赤く、宝石のように輝く瞳だった。
三百年ぶりの目覚め。
魔神の娘と、世界を書き換える男。
二人の視線が交差する。
「……貴方が、私の新しい飼い主様?」
鈴を転がすような、甘く危険な声が、俺の耳元で囁かれた。
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